SAM催眠学序説 その73
これまで1年半にわたって述べてきた「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、確認されてきた「諸意識現象の事実」を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとしたものです。
つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです。
この試みは、これまでの催眠学の体系とはまったく異なる様相を示すことになるはずであり、またこれまでの催眠学と大差のない説明体系であるなら、わざわざ新たに「SAM催眠学」を名乗る必要はありません。
当然のことながら「SAM催眠学」は、これまでの催眠学への批判と反論にならざるをえません。
さて、「SAM催眠学」として理論化ないし体系化することは、次のような作業をおこなうことを意味しています。
「SAM催眠学」の諸対象(意識現象の事実)は、そのままそれ自体として実在するもの、あるいは実在するものの全体としてあるがままの把握とその表現ではなく、SAM前世療法の探究途上の特殊・固有の観点に基づいて構成されたものです。
つまり、理論化するという作業は、一定・特殊な固有の観点・立場に立って、それと関係のある一定の事象の、さらにまた一定・特殊な側面(性質・機能・要素など)のみを、選択的に注目し、抽象・加工・精錬して、所定の定義された用語でもって記述・表現するという作業です。
理論化作業は、他方において、諸々の「意識現象の事実」ないし「データ」を、可能な限り合理的なしかたで関係づけ、説明し、解釈するような問題的状況の構図を想像上、構成してみることによって果たされていきます。
さて、SAM催眠学の大前提である作業仮説は、「心・脳の二元論」です。
作業仮説とは、「その仮説が検証事実によって否定されないかぎり、ひとまず真理であるとみなしておく仮説」だと定義しておきます。
なぜ、作業仮説が必要か。
それは、ある事象・現象のメカニズムの探究を進めるための有用な道具として設定しなければ、探究にとりかかれないからです。
心理療法では、精神分析学を創始したフロイトの「汎性欲論」や、ユングの「元型論」も作業仮説です。
そして、SAM前世療法の「心・脳二元論」も作業仮説です。
私の思いとしては、フロイトやユングの提示した「汎性欲論」や、「元型論」が作業仮説として認められるのであれば、それが霊的存在が告げたこと(私あて霊信)に基づいているからといって、「心・脳二元論」が認められないという理由にはならないと考えています。
SAM催眠学の主張する生まれ変わりを認める立場では、一般的に流布されている「心・脳一元論」仮説は、論理的帰結として 認めることができません。
脳内の電気信号と神経伝達物質の化学変化のシステムの統合体である脳という臓器(物質)が、心(意識・潜在意識)をつくり出しているという「心・脳の一元論」に立てば、脳の消滅とともに、心も消滅することになり、生前の心のすべては無に帰することになります。
したがって、前世の記憶などがあるはずがない妄想・フィクションだということになります。
しかし、私は「ラタラジューの事例」によって、この事例が応答型真性異言であることを証明し、この応答型真性異言現象が妄想・フィクションであるはずがなく、現時点では、生まれ変わり以外に説明できない、と確信を持つに至っています。
とすれば、脳とは別個に、生前の人格・個性・記憶などを保持し、死後も存続している何らかの意識体を想定しないかぎり、ラタラジューという前世人格が顕現化し、ネパール語で会話した超常現象が説明できません。
そして、SAM催眠学では、死後存続するこの意識体を、とりあえず「魂」と呼んできました。
SAM催眠学で用いる「魂」という用語は、宗教的な意味はまったくありません。
「前世から来世へと人格の心的要素を運搬する媒体(意識体)」というほどの意味で用います。
この媒体(意識体)を、生まれ変わり研究の第一人者イアン・スティーヴンソンは、「心搬体(サイコフォー)」と呼んだらどうかと提案しています。
人間は、「脳」とは別個の「魂」と呼ぶ意識体を蔵しており、「魂」は「脳」の消滅後も存続する、これが生まれ変わりを認めるSAM催眠学が主張する大前提としての作業仮説です。
そして、現行催眠学をはじめ現行唯物論科学の知識体系に真っ向から対立する作業仮説です。
しかしながら、「心・脳二元論」は、W.ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞を受賞した少数の優れた脳科学者が、自らの実験結果の果てに表明しており、けっして真新しい仮説ではありません。
日本の催眠学者では、臨床動作法(催眠を母体にして生まれた心理療法)を創始した世界的催眠学者、成瀬悟策医学博士も、講演のなかで「脳は心の家来です」という表現で、自らの催眠実験研究の末、「心・脳二元論」に至り、それを表明しています。
唯物論科学の知識体系に染まりきっている現代人は、「魂」と聞くだけで非科学的だと腰が引け、そうしたことばを回避し、唯物論知識の枠内の説明原理を無理矢理ひねり出したり、それができないとなると、無視することが常態になっていると思われます。
こうした常態が生じているのは、「科学的だ」という用語法について、「唯物論の知識体系の枠内で説明できること」と「科学の方法論に従っていること」の二つの意味の混同があるからだと思われます。
この混同が、唯物論科学の知識体系から外れた諸現象・諸事実、あるいはそれらを対象とする研究すべてを「非科学的だ」と決めつけてしまう偏向を生み出していると思われます。
前者の意味によれば、現行科学の知の体系では説明不可能な応答型真性異言をはじめとする生まれ変わりの研究は「非科学的」だということになるでしょう。
しかし、後者の意味によれば、すなわち科学の方法論によって研究をするという意味で、生まれ変わりの「科学的研究」は成り立つはずだと考えます。
SAM催眠学は、科学の方法論を用いて、魂と呼ぶ意識体とその生まれ変わりを、催眠を道具に探究しようと試みたものです。
これまで1年半にわたって述べてきた「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、確認されてきた「諸意識現象の事実」を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとしたものです。
つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです。
この試みは、これまでの催眠学の体系とはまったく異なる様相を示すことになるはずであり、またこれまでの催眠学と大差のない説明体系であるなら、わざわざ新たに「SAM催眠学」を名乗る必要はありません。
当然のことながら「SAM催眠学」は、これまでの催眠学への批判と反論にならざるをえません。
さて、「SAM催眠学」として理論化ないし体系化することは、次のような作業をおこなうことを意味しています。
「SAM催眠学」の諸対象(意識現象の事実)は、そのままそれ自体として実在するもの、あるいは実在するものの全体としてあるがままの把握とその表現ではなく、SAM前世療法の探究途上の特殊・固有の観点に基づいて構成されたものです。
つまり、理論化するという作業は、一定・特殊な固有の観点・立場に立って、それと関係のある一定の事象の、さらにまた一定・特殊な側面(性質・機能・要素など)のみを、選択的に注目し、抽象・加工・精錬して、所定の定義された用語でもって記述・表現するという作業です。
理論化作業は、他方において、諸々の「意識現象の事実」ないし「データ」を、可能な限り合理的なしかたで関係づけ、説明し、解釈するような問題的状況の構図を想像上、構成してみることによって果たされていきます。
さて、SAM催眠学の大前提である作業仮説は、「心・脳の二元論」です。
作業仮説とは、「その仮説が検証事実によって否定されないかぎり、ひとまず真理であるとみなしておく仮説」だと定義しておきます。
なぜ、作業仮説が必要か。
それは、ある事象・現象のメカニズムの探究を進めるための有用な道具として設定しなければ、探究にとりかかれないからです。
心理療法では、精神分析学を創始したフロイトの「汎性欲論」や、ユングの「元型論」も作業仮説です。
そして、SAM前世療法の「心・脳二元論」も作業仮説です。
私の思いとしては、フロイトやユングの提示した「汎性欲論」や、「元型論」が作業仮説として認められるのであれば、それが霊的存在が告げたこと(私あて霊信)に基づいているからといって、「心・脳二元論」が認められないという理由にはならないと考えています。
SAM催眠学の主張する生まれ変わりを認める立場では、一般的に流布されている「心・脳一元論」仮説は、論理的帰結として 認めることができません。
脳内の電気信号と神経伝達物質の化学変化のシステムの統合体である脳という臓器(物質)が、心(意識・潜在意識)をつくり出しているという「心・脳の一元論」に立てば、脳の消滅とともに、心も消滅することになり、生前の心のすべては無に帰することになります。
したがって、前世の記憶などがあるはずがない妄想・フィクションだということになります。
しかし、私は「ラタラジューの事例」によって、この事例が応答型真性異言であることを証明し、この応答型真性異言現象が妄想・フィクションであるはずがなく、現時点では、生まれ変わり以外に説明できない、と確信を持つに至っています。
とすれば、脳とは別個に、生前の人格・個性・記憶などを保持し、死後も存続している何らかの意識体を想定しないかぎり、ラタラジューという前世人格が顕現化し、ネパール語で会話した超常現象が説明できません。
そして、SAM催眠学では、死後存続するこの意識体を、とりあえず「魂」と呼んできました。
SAM催眠学で用いる「魂」という用語は、宗教的な意味はまったくありません。
「前世から来世へと人格の心的要素を運搬する媒体(意識体)」というほどの意味で用います。
この媒体(意識体)を、生まれ変わり研究の第一人者イアン・スティーヴンソンは、「心搬体(サイコフォー)」と呼んだらどうかと提案しています。
人間は、「脳」とは別個の「魂」と呼ぶ意識体を蔵しており、「魂」は「脳」の消滅後も存続する、これが生まれ変わりを認めるSAM催眠学が主張する大前提としての作業仮説です。
そして、現行催眠学をはじめ現行唯物論科学の知識体系に真っ向から対立する作業仮説です。
しかしながら、「心・脳二元論」は、W.ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞を受賞した少数の優れた脳科学者が、自らの実験結果の果てに表明しており、けっして真新しい仮説ではありません。
日本の催眠学者では、臨床動作法(催眠を母体にして生まれた心理療法)を創始した世界的催眠学者、成瀬悟策医学博士も、講演のなかで「脳は心の家来です」という表現で、自らの催眠実験研究の末、「心・脳二元論」に至り、それを表明しています。
唯物論科学の知識体系に染まりきっている現代人は、「魂」と聞くだけで非科学的だと腰が引け、そうしたことばを回避し、唯物論知識の枠内の説明原理を無理矢理ひねり出したり、それができないとなると、無視することが常態になっていると思われます。
こうした常態が生じているのは、「科学的だ」という用語法について、「唯物論の知識体系の枠内で説明できること」と「科学の方法論に従っていること」の二つの意味の混同があるからだと思われます。
この混同が、唯物論科学の知識体系から外れた諸現象・諸事実、あるいはそれらを対象とする研究すべてを「非科学的だ」と決めつけてしまう偏向を生み出していると思われます。
前者の意味によれば、現行科学の知の体系では説明不可能な応答型真性異言をはじめとする生まれ変わりの研究は「非科学的」だということになるでしょう。
しかし、後者の意味によれば、すなわち科学の方法論によって研究をするという意味で、生まれ変わりの「科学的研究」は成り立つはずだと考えます。
SAM催眠学は、科学の方法論を用いて、魂と呼ぶ意識体とその生まれ変わりを、催眠を道具に探究しようと試みたものです。
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