2015年2月9日月曜日

「タエの事例」セッション逐語録5

    SAM催眠学序説 その39

ここの逐語録は、被験者里沙さんに憑依したとおぼしき彼女の守護霊(偉大な存在者) と私との対話です。

興味深いことに、催眠覚醒後の里沙さんには、守護霊の語った内容が、すっぽり記憶から抜け落ちており、まったく思い出すことができませんでした。
催眠中の記憶が、ところどころ抜け落ちて思い出せないことは、「催眠性健忘」という現象として知られていますが、里沙さんの場合は、25分間の守護霊の語りのすべてが完全に記憶から抜け落ちて思い出せませんでした。この里沙さんの場合は「催眠性健忘」では説明ができないように思われます。
文化人類学のシャーマニズム研究によれば、シャーマンがフル・トランス状態で、精霊などの憑依現象を起こしている場合には、その間の記憶について、完全な記憶喪失が生じると報告されています。

注:CL(憑依した守護霊)は被験者里沙さん、THはセラピスト稲垣の略

TH:さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。
今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだと いう証拠を、私はつかみたいと思っています。
その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人た ちに勇気を与えることができると思っています。
このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。
そういう人のため にも、おタエさんしか知り得ないことで、でも、われわれが後で調べたら何とか分かるような、そういう証拠の話か物がないでしょうか? 
そんなことを聞くの は傲慢(ごうまん)でしょうか? 
もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。

CL:傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。
注:タエは、人柱になるに当たって、自分の左腕をなくしたことを一切語っていない。このような重大事をなぜ語らないのか大きな謎であった。この謎は7年後(2012年5月)の再セッションで明らかになった。このことは(その6)で記述する。

TH:それはおタエさんの左腕ですか?

CL:そうです。

TH:であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。

CL:そうです。

TH:その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?

CL:そうです。

TH:下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?

CL:お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。

TH:それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?

CL:そうです。

TH:馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?

CL:馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。

TH:それは現在でもありますか?

CL:あります。
注:現渋川市上郷地区で、「小さなお御堂」と言えるような石の馬頭観音は一基だけある。山手にある良珊寺参道脇の道を少し入った山林に囲まれた場所であることを現地で確認した。 石の馬と並んで石灯籠状に祀られた馬頭観音であった。この石灯籠状のお御堂の銘文には「享保一五年(1730年)」と刻んである。天明三年は1783年な ので50年余前に建立されている。これが偉大な存在者の告げた馬頭観音だと特定して間違いないであろう。渋川市上郷地区の馬頭観音は、ネット検索してもヒットしない。もちろん里沙さんは、渋川市という地名すら知らなかった。

TH:おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?

CL:土、下。
注:石灯籠状の馬頭観音お御堂であるので、当然床はない。石のお御堂は直接土の上に灯籠のように建ててある。したがって、床下ではなく「土、下」と告げるしかない。「土、下」の意味が分かったのは、セッション後に現地の馬頭観音堂を実際に確認してからのことである。

TH:どのくらい掘ったらいいのでしょうね?

CL:土石流で埋まっているので・・・。
注:上郷馬頭観音お御堂付近の現地調査では、土石流の痕跡が確認できなかった。守護霊は、私がタエの実在証拠を求めて掘り起こすことを予想して、土石流によって骨を見つけることができない、といった予防線を張り、はぐらかしたのではないかと疑った。しかし、2012年になって、私の読者がネット検索によって渋川市 のハザードマップを見つけ出した。ハザードマップによれば、上郷馬頭観音お御堂付近には、過去に実際土石流被害のあったことが確認できた。守護霊の告げ た「土石流に埋まっているので」という語りは本当であった。

TH:ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?

CL:はい。
注:もし、発掘した結果、200年程度昔の10代女性の左腕の人骨が発見されたとすれば、タエの実在証明に大きな成果となるであろう。同時に、守護霊の実在の間接的証明にもなると考えられる。

TH:分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?

CL:何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。
注:守護霊の告げている「村」は、渋川村を指していない。「田畑少々水入る 人壱人流」が渋川村の被害報告である。壊滅状態にはほど遠い被害である。 渋川村より上流の村々の洪水被害を指している。ちなみに、すぐ上流にある川島村(現渋川市川島地区)では「家百一三間(軒)、人七六人、馬三六疋」の被害 報告があり、まさに壊滅状態であった。なお、この各村ごとの被害状況を一般人が知るための資料は、『渋川市史巻五』の資料編に掲載されている「浅閒焼泥押流失人馬家屋書上帳」しかない。里沙さんが、この資料にアクセスした痕跡はない。これはポリグラフ検査でも裏付けられている。

TH:おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?
注:「浅間焼泥押」被害に限らず、渋川市に伝わる人柱伝説の文書等の有無を、渋川市史編集委員である郷土史家に調査していただいたが、人柱伝説の類は発見でき なかったという回答を得ている。どうやら、タエの人柱については「何も残してはおりません」という守護霊の語りはそのまま受け取るしかないようである。村人が何も残していない理由を、このあとで「女は道具です」という語り方で、守護霊は冷徹に言い放っている。

CL:たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。


(その6に続く)

36 件のコメント:

稲垣 勝巳 さんのコメント...

里沙さんに憑依したとおぼしき守護霊の解釈について

「その37」そして、この「その38」の逐語録は、里沙さんの守護霊と呼ばれる高級霊との対話ということになっています。

果たして、そのような霊的存在は実在するのでしょうか。

ここでの守護霊の語りを唯物論で解釈できるでしょうか?

この解釈の前提条件は

①里沙さんのセッション前の情報には守護霊の語った情報がまったく無いことを、彼女への聞き取り調査、その裏付けのポリグラフ検査で確認している。

②にもかかわらず、「浅閒焼泥押」が浅間山噴火で生じた土石流(火砕流)が吾妻川を堰き止められたことによるものであること、吾妻川が利根川の上流にあること、浅間山が龍神信仰の山であること、噴火による火山雷の起きたこと、渋川市上郷に石灯籠状の馬頭観音が存在していること、その場所に土石流が生じていること、など里沙さんの知っているはずのない史実・事実を正しく語っている。

こうした①②の前提条件に立って、守護霊という霊的存在を唯物論で解釈できるとすると、どのような解釈が成り立つのでしょうか?

忌憚のないご意見、ご感想をどうぞお寄せください。

坊 さんのコメント...

目を覚ましてください。

死後の霊魂だの生まれ変わりなの存在しません。死んだらそれまでです。

だから命は尊く生きているうちが大切なのです。

稲垣氏の生まれ変わりを肯定する道徳心はまるで新興宗教の宗教屋の言い訳に見えますね。

死ぬのはなぜ怖いか、他人の死はなぜ悲しいのか。それは自分の意識や存在が無くなるのと大切な人の存在が亡くなり思い出も何もかも消えてしまうからです。それがもう分っているからです。

そうでしょ?オカルト番組やスピリチュアル系の番組で信じている芸能人でも真面目な震災や家族の死の話では死後の世界や霊魂等持ち込まない。寧ろスピリチュアルを持ち込む江原さんは非難されていましたね。

伊藤栄樹さんの考えに近いです。
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%81%AD%E3%81%B0%E3%82%B4%E3%83%9F%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BC%8A%E8%97%A4-%E6%A0%84%E6%A8%B9/dp/4094022716

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/00d5d0a65923e636e2c3d49b6903e8ac

UROノート さんのコメント...

相変らず坊さんは、客観論的事実と規範論と感情論すべてが綯い交ぜになった支離滅裂型文章をお書きですね。
坊さんの世界には価値中立な概念というものが存在しないのでしょうか?
どうでしょう、坊さんの文章の中で、事実はどれで、感情論はどれで、規範(べき論)はどれでなどと、分類してみませんか?

公的な場で議論する場合、可能な限り価値中立な事実のみを根拠として議論し、正当な評価を導き出すのが合理的です。
そうしないと事実を誤認してトンチンカンな議論になっちゃいますし、それらを元にして価値観を醸成しても、結論がヘンテコなものになってしまいます。


先の文章に一つ一つ注を付けてみましょう。


>死後の霊魂だの生まれ変わりなの存在しません。死んだらそれまでです。(1)

これは、現在のところは多数派であろう一般的意見の単なるゴリ押しですね。
このブログ内で、繰り返し説明されている生まれ変わりとして説明するのが最も合理的な「タエとラタラジューの事例」についての膨大な言及を一切無視した、視野狭窄的な発言と言えます。
反対意見を表明したければ、ちゃんとその根拠を提示しましょう。
トートロジーとマンネリズムが売り?の大槻義彦先生のプラズマティズム(プラズマ万能主義?プラグマティズムではありません!)にも似た坊さんの芸のようなものでしょうか?


>だから命は尊く生きているうちが大切なのです。(2)

残念ですね坊さん。(1)と(2)は繋がりませんよ。
その理由としては、(2)は単なる価値観の表明であり、生まれ変わりを認めたところで、今生の環境は一回性のものであることは間違いなさそうですから、生きているうちが大切だと考える人は大勢いるでしょうし、死んだらそれまでと考える人の中にも、他者の権利を踏み躙って、快楽主義や刹那主義に生きる人も居るでしょう。

そもそも、稲垣先生が(2)の価値観を否定するような書き込みをしていましたか?そうではないなら、一般的価値観の(2)を論点にするのはナンセンスですね。


>稲垣氏の生まれ変わりを肯定する道徳心はまるで新興宗教の宗教屋の言い訳 に見えますね。

これは根拠無き中傷というべきものであり、ネット上でも不用意にこうした発言をすると法的な問題が発生する恐れがあります。匿名で書き込んでいるつもりでも、プロバイダは公的機関からのIPアドレスの開示請求などは拒みません。坊さんが本当にそう考えるならば、最低限その根拠となる発言箇所 を提示する必要があります。
ご自身の書き込みや発言には責任を持ちましょう!


>死ぬのはなぜ怖いか、他人の死はなぜ悲しいのか。それは自分の意識や存在が無くなるのと大切な人の存在が亡くなり思い出も何もかも消えてしまうからです。それがもう分っているからです。

死後存続を否定する価値観に基づいた坊さんの個人的でポエティックな感情論ですね。結構なことだと思います。ただしこれは御自身のブログや日記などに記されるべきで、こうした場所で提示されましても論点とはなりえません。


>そうでしょ?オカルト番組やスピリチュアル系の番組で信じている芸能人で>も真面目な震災や家族の死の話では死後の世界や霊魂等持ち込まない。寧ろスピリチュアルを持ち込む江原さんは非難されていましたね。

>伊藤栄樹さんの考えに近いです。

これらに関しては意味不明です。ただ、坊さんは、世間から批判される事は悪と考えており、それを極端に恐れていることは伝わってきますね。
私が個人的に重要だと思う江原さんを巡る論点は、その下手くそなコールドリーディングや霊視の能力不足?などであり、価値多様性を認める自由主義社会ではどのような価値観を表明しようと圧殺されないことこそが、豊かさの証左だと思いますよ。


ということで冒頭の

>目を覚ましてください。

は、坊さん自身の姿の投影で、ご自身が事実から目を背けている事の表明であると考えるのが合理的でしょうね。

ということで、逃避願望の表明、意見のゴリ押し、価値観の表明、いわれなき中傷、日記やポエム、意味不明な妄言
坊さんのコメントは、どうやらこの様に構成されているようです。
ご自身ではこうした内容が議論に向いていると思われますか?

世間の批判を恐れる心の裡にある多数決万能主義的な坊さんの傾向について、戦前の世論や翼賛体制と石橋湛山吉田久などの論点で語ろうかとも思いましたが、長文になりすぎるので可能ならば、後日書き込みしますね。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん
観念論・抽象論を持ち出して、論点をずらしてはいけません。
ここで提示してある、具体的な守護霊の語りをもとに論じてください。
私は、観念論・抽象論には興味がありません。

そして、私は、宗教心やら道徳心から生まれ変わりを肯定しよう、などとは毛頭思っていないのです。
「観念ではなく事実、理屈ではなく実証」によって、肯定せざるをえないのではありませんか、と具体的根拠を挙げて主張してきました。
それが、私の信条であり、宗教者や霊能者と呼ばれる人たちとは、一線を画している所以です。

ここで問題にしている「守護霊」の顕現化という「意識現象の事実」を、どう解釈することがもっとも合理的であるかを問うているのです。

あなたのコメントは、この問いの回答にはまったくなっていません。
証拠のある「事実」は、夢ではありませんから、目を覚ませ、と言われても、覚ましようがありません。
あなたの唯脳論的信念(信仰)を、それに同調する他者の信念を貼り付けただけのコメントでは、「事実」を否定する一切の説得力がないとは思いませんか?

実証に基づかない生まれ変わりの信念
も、実証に基づかない生まれ変わり否定の信念も、それこそ掃いて捨てるほどあるのです。
私は、そうした信念、信仰の類いを論じるつもりはありません。
それは「価値観」の問題であって、「事実」の問題ではないからです。

ここで提示している「守護霊との対話」という「事実」を、あなたの信仰する「唯脳論」によって、納得できる「事実の説明」が成り立つ論証をしていただけたなら、私は霊魂仮説を棄却するでしょう。目を覚ますとしましょう。

あなたの言い分は、持ち出されたリンゴから目を背けて、自分はリンゴが嫌いだから、そんなものはナイノダ、それでイイノダ、とうそぶくバカボンのパパと同じではありませんか?

「科学的事実」は、好悪の感情とも、宗教心とも、道徳心とも関わりのない、価値から中立のものです。
事実を認めた結果、宗教心や道徳心や信念が育まれたとしても、それはそれを認めた当事者の自由意志であり、私の関与できない問題です。
そのように思いませんか?

あなたは、「事実の解釈の問題」と、「事実解釈の結果生まれる価値観の問題」を混同していると思います。
あるいは、生まれ変わりについて「示された事例」の解釈を、「極端な一般化」をしているのだ、と誤解しています。

私は、これまであなたが「事実」から目を背けて、あるいは、誤った珍仮説によって事実の解釈を曲げていることを、つまり、あなたの認知の歪みを、指摘してきたまでで、それ以上ではありません。

あなたの、生まれ変わり否定の「信念」を否定するつもりも、まったくありません。
あなたの、生まれ変わり否定の「信念」を揺るがす「事実」があるのですよ、と提示しているだけです。

信念によって事実を否定することは、狂信者と同様のおこないです。

私の提示している証拠にきちんと反証できず、相も変わらず、それはナイノダ、を繰り返すことは、空しい遠吠えだということが自覚できませんか。

バカボンのパパにも笑われると思いますよ。

唯脳論絶対の信仰から目を覚ますのはあなたのほうではありませんか。

UROノート さんのコメント...

相変らず坊さんは、客観論的事実と規範論と感情論すべてが綯い交ぜになった文章をお書きですね〜_φ(・_・。
坊さんの世界には価値中立な概念というものが存在しないのでしょうか?
文章の中で、事実はどれで、感情論はどれで、規範(べき論)はどれでなどと、分類してみませんか?

公的な場で意見を表明する場合、可能な限り価値中立な事実のみを根拠として議論し、正当な評価を導き出すことが期待されます。
そうしないと事実を誤認してトンチンカンな議論になっちゃいますし、それらを元に価値観を醸成しても、結論がヘンテコで危険なものになってしまいます。


せっかくなので、坊さんの先の文章に一つ一つ注を付けてみましょう。


>死後の霊魂だの生まれ変わりなの存在しません。死んだらそれまでです。(1)

これは、現在のところは多数派であろう一般的意見の単なるゴリ押しですね。
このブログ内で、繰り返し説明されている生まれ変わりとして説明するのが最も合理的な「タエとラタラジューの事例」についての膨大な言及を一切無視した、視野狭窄的な発言と言えます。
反対意見を表明したければ、ちゃんとその根拠を提示しましょう。
トートロジーとマンネリズムが売り?の大槻義彦先生のプラズマティズム(プラズマ万能主義?プラグマティズムではありません!)にも似た坊さんの芸のようなものでしょうか?


>だから命は尊く生きているうちが大切なのです。(2)

残念ですね坊さん。接続詞「だから」で繋いでも(1)と(2)は繋がりませんよ。
その理由としては、(2)は単なる価値観の表明であり、生まれ変わりを認めたところで、今生の環境やご縁は一回性のものであることは間違いなさそうですから、生きているうちが大切だと考える人は大勢いるでしょうし(一期一会です。私もそう考えています)、死後存続は無いと考える人の中にも、だからこそ命を尊重せず他者の権利を踏み躙って、快楽主義や刹那主義に生きる人も居るでしょう。

そもそも、稲垣先生が(2)の価値観を否定するような書き込みをしていましたか?そうではないなら、一般的価値観の(2)を論点にするのはナンセンスですね。


>稲垣氏の生まれ変わりを肯定する道徳心はまるで新興宗教の宗教屋の言い訳 に見えますね。

これは根拠無き中傷というべきものであり、ネット上でも不用意にこうした発言をすると法的な問題が発生する恐れがあります。匿名で書き込んでいるつもりでも、プロバイダは公的機関からのIPアドレスの開示請求などは拒みません。坊さんが本当にそう考えるならば、最低限その根拠となる発言箇所 を提示する必要があります。
ご自身の書き込みや発言には責任を持ちましょう!


>死ぬのはなぜ怖いか、他人の死はなぜ悲しいのか。それは自分の意識や存在が無くなるのと大切な人の存在が亡くなり思い出も何もかも消えてしまうからです。それがもう分っているからです。

死後存続を否定する価値観に基づいた坊さんの個人的でポエティックな感情論ですね。結構なことだと思います。ただしこれは御自身のブログや日記などに記されるべきで、こうした場所で提示されましても論点とはなりえません。


>そうでしょ?オカルト番組やスピリチュアル系の番組で信じている芸能人でも真面目な震災や家族の死の話では死後の世界や霊魂等持ち込まない。寧ろスピリチュアルを持ち込む江原さんは非難されていましたね。

>伊藤栄樹さんの考えに近いです。

これらに関しては意味不明です。ただ、坊さんは、世間から批判される事は悪と考えており、それを極端に恐れていることは伝わってきます。
私が個人的に重要だと思う江原さんを巡る論点は、その下手くそなコールドリーディングや霊視の能力不足?などであり、価値多様性を認める自由主義社会ではどのような価値観を表明しようと圧殺されないことこそが、豊かさの証明だと思いますよ。


ということで冒頭の

>目を覚ましてください。

は、坊さん自身の姿の投影であり、ご自身が事実から目を背けている事の表明であると考えるのが合理的でしょうね。

ということで、坊さんのコメントは、逃避願望の表明、意見のゴリ押し、論点からズレた価値観の表明、いわれなき中傷、日記やポエム、意味不明な感傷といった内容から成り立っており、客観性に乏しく、根拠となる事実や証明が一切ありません。
ご自身ではこうした内容が議論に向いていると思われますか?
何一つ稲垣先生や私たちが期待する論点に触れてすらいないことは理解できますか?

世間の批判を恐れる心の裡にある多数決万能主義的な坊さんの傾向について、戦前の世論や翼賛体制と石橋湛山吉田久などの論点で語ろうかとも思いましたが、長文になりすぎるので可能ならば、後日書き込みしますね。

ショウタ さんのコメント...

そもそも現在の主流派のメディアは左翼思想で唯物思考の人が多いと思います。

それは偏見的に少しスピリュアルに肯定的になった医師や学者に対して「オカルト」と否定する人が多いと思います。そしてあたかも唯物論が正解と決め付けておるような気がします。

唯物思考はメディア以外にも一部の宗教学者、義務教育の教師、知識人なども感じられます。

私も物質のみで考えれば死後は無に思えてもきますが臨死体験や前世の記憶などの色んな事例を追及すると生まれ変わりや死後の意識が重利の宗教で言われたような物とはわかりませんが死後は完全な無ではなく何かしらのエネルギーが存在するのではと思えるようになりました。

そのエネルギーは現在の唯物論の枠組みで考えるのは難しいのかなと思います。

Unknown さんのコメント...

 何の回答にもなっておりませんよね。ただの坊さんの独断的信条を語っているだけにすぎません。

 私も以前にこちらに投稿した際に、唯物論側において、次にあげる要素を抜きに語られたものなどないということを強調しておきました。

1.偶然に違いない。

2.まだ未解明の脳の領域があるに違いない(最近では脳の神秘だの潜在能力だのと言葉を巧みに変えてはおりますがね)。

3.どこかでそれらの情報を知らないうちに把握していたに違いない(せいぜいこう言い続けるしかないだけです)。

4.生まれ変わりなどの調査方法が間違っているに違いない(苦し紛れですが、ではどのような調査をすればいいのか具体的な提示はありません。ただやり方が悪いと文句をつけているだけのように思えます)。

5.きっと遺伝子レベル、細胞レベルで記憶しているに違いない(しかし、これでは胎内記憶や臨死体験に対してはある程度の段階まで強弁できても、体験者が語る「中間世」に関する説明にはなりえない)。

 まあ他にもいろいろあるようですが、どれも決定打に欠けるものばかりで、私は否定派に対して、いつもこれらの1~5の要素を抜きに説明してみろと言っても、まず満足な返事が返ってきたためしがありません。たいていごまかされます。

 結局これらの概念を持ち込んでしまえば、自動的に唯物論が正しいことになってしまいます(なんでも都合よく説明できてしまえる)ので、ほかの可能性を検討できなくなります。科学というのはあらゆる可能性の中から最も合理的とされるものを探求していく営みなので、普通は当然様々な可能性を検討するはず。ですが、最初から「唯物論正しい」という結論ありきでは、当然のことながらほかの可能性を検討することすら満足にできないでしょう。

 それにしても、2を唯物側がしゃべるようになってきたというのは大きな変化かもしれませんね。15年くらい昔、「脳の潜在能力(神秘)」だの「まだ人間は脳の20%程度しか使っていないから、それを開花させる」だの「右脳革命」だの「「潜在意識」だの「無意識論」だの、これらはむしろスピリチュアル派の前身ともいうべきニューエイジや、それに便乗した「疑似科学」「ニセ科学」が説明に用いていたのですよ。唯物サイドも、ついにこういうものを持ち込まないと説明できなくなってきたのでしょうかね(苦笑)。これらの中にはかなりいい加減なものが多かったと思いますが(苦笑)。まあ、要するに「無意識」や「潜在意識」というものは、それがまだほとんどわかっていないものだけに、唯物側二元論側どちらの陣営でも都合よく使えるというだけの話です。

Unknown さんのコメント...

 結局これら「水戸黄門の印籠」じみたものを説明のどこかに盛り込まなければならない時点で、唯物論がいかに盤石ではないかわかるというものです。
 
 1の偶然についても、おそらく本来偶然なんてものはなくすべての出来事は必然だと思います。ただ、その必然性を現段階では説明する手段がないわけだから、仕方なく偶然と呼んでいるのでしょう。

 それにしても、よく唯物論と道徳性、社会規範とごっちゃにして議論を進めたがる人がいるのですが、彼らのいっていることと周囲の状況を見れば、かなり乖離していることも多いですよ。

 まあ坊さんがその例なのですが、そういうのを議論に持ち出していいというならば、極端な事例かもしれませんが、たとえば20年くらい前に神戸で児童2人を殺害した14歳の犯人も、

「僕の作った死体であり、僕の作品(被害者男児を指して、明らかに人をモノとしかとらえていないということは、超心理学に鞍替えした中村雅彦氏がかつて指摘されておられた)」

「なぜ人を殺してはいけないのですか。人間もアリやゴキブリと変わらないじゃないですか(どうせ何をやっても死ねば終わりなんだから別にいいだろという理屈を合理化・正当化、そもそも相手の命だけではなく、自分自身の人生や生命すら大切なものだという視点が欠如している)」

 彼は、14歳にしてニーチェの虚無主義に影響を受けたらしいですが、彼の発言の中に垣間見えるのは「刹那的な快楽の追求」と「どうせ結果は同じなんだから(死ねば無になる)何をやっても一緒だろ」という「虚無主義」です。そして、これら「快楽主義」「虚無主義」は、むしろ唯物論の中で培われてきた歴史があります。さらに言えば、「未来を思考しない刹那的思想」ともいえます。過去の歴史から推測すれば、その国・文明の文化の爛熟期から停滞期突入時期にかけて、非常に席巻しやすい思想のようです。

 たとえば、古代インドではアジタが「快楽主義」、プーラナが「道徳否定論」を唱えております。古代ギリシャではエピクロスも「快楽主義」を唱えておりました。

 そして、彼らに共通している点は、「現世主義」すなわち「死後の世界などないのだ」という唯物論(当時は多分そういう言い方はしていなかったかと思いますが、今生きている時代こそがすべてという価値観というならばまさにこれが該当するでしょう)に根差しているということです。

 実際、プーラナの道徳否定論では、

「人は死ねば無になる。人の首をナイフで切ったとしても、それは物質の状態が変わっただけにすぎず、そこに罪はない(まさしく酒鬼薔薇の思想と酷似している。人を殺しても、それは「生きている状態」から「死んでいる状態」に変化しただけだという意味、そして酒鬼薔薇は、生物の生から死への「落差」に性的な欲求を覚えるという変態的性欲者でもあった)」

Unknown さんのコメント...

 アジタの思想は、

「人生は一度きりだから精一杯楽しもう」

という単純なものですが、この思想の問題点は自分の現世利益追求には役立てても、他人の尊重や社会貢献などといったものには結び付きにくいということです。

 自分の欲求を追求することが結果的には相手との競争で切磋琢磨し、お互いを磨くことになるのだという考えは、高度経済成長期やバブル期には非常に有効でしたが、成長が止まり停滞時期に入るとだんだんこの思想の負の部分が出てきます。今の「共食い状態」がまさにそれではないしょうか?これは過去の歴史においてもそうでした。いずれ機会があれば例を挙げて説明します。

 さらに、社会主義、共産主義は唯物論を唱えていますが、あれは社会の構造を「無理やり変化させる」のに、唯物論や無神論が非常に都合がよかったからです。大きな社会変化が必要な時、または大規模な経済成長が必要な時代というのは、その一番の妨げとなる要因は、「伝統的価値観」なんです。だから伝統を否定するのには、「神は要らない」「あの世もない」としておいた方が都合がいいのです。社会主義でためらいなく人民を弾圧し、粛清できるのも、そこには「伝統的規範」もなく、人民を単なる社会の歯車(モノ)として扱えるからです。理想の社会に合わぬ人民など部品同様取り替えてしまえばよい。これが社会主義、共産主義の基本的姿勢です。そこには人間個人に対する尊厳などありません。ただあるのは、「人間は進歩しており、よって社会を改造することにより合理的に運営できるようになる」という「人間理性信仰」と「極端な進歩主義」のみです。

 考えてみれば、これらの思想を持ち出すまでもなく、たとえば原発で事故を起こして経営の一線から退いた東電の旧経営陣なんて、将来原発事故の影響がどのくらいになろうが知ったことじゃないというのが本音でしょ。そのうちの数名は家族ともども海外で悠々自適に暮らしているとか聞いたことがありますし、自分が生きている間にこれ以上面倒事が起こらなければあとはどうなってもいいとしか思っていないでしょうね。何せ

「一度きりの人生」

ですから、自分たちが死んだあとのことなど、せいぜい自分の子供や孫のことくらいは考えていたとしても、ほかの国民がどうなろうが知ったことじゃないというくらいの感じでしょうね。面倒事から逃げて「はいそれまで」といったところでしょうか。来世があれば、原発事故が終息しなければいずれはその危機にさらされるのではないかと思いますが(笑)。

 別に東電ばかりでもない。私の周りにだって自分が役職にいる間は面倒事が起きませんようにとお祈りしている人なんてたくさんいますよ。自分の立場さえ守れれば、後の世代に問題が発生しても、その前に定年迎えてあとは悠々自適の人生とか考えている人って結構います。

 結局、唯物論には、確かに坊さんが言うような側面もあるのかもしれないが、実際の複雑化し、過酷な人間環境の社会においては、むしろ「現実からの逃亡」としての唯物論というのもあるのも事実なんです。今の社会情勢を見るに、むしろこちらの側面の方が強いんじゃないかとは思いますよ。

 さらに言えば、「一度きりの人生」というのは実は非常に「楽」な死生観なんですよ。なんせ来世のことを考えると、一瞬一瞬の生き方ひとつで次の人生の影響を及ぼしかねないわけですから、実は輪廻転生というのは、「死後の虚無」以上に大変な苦労を王ということでもあるのです。現世だけでも世知辛くて大変なのに、何度も人生やっていられるかというわけですね。なぜなら「逃げられない」からです。

 唯物論は「死ねば終わり」という「救い(笑)」がある。要するに、都合が悪くなれば、現実からの逃避も可能なんです。だから、仏教の輪廻転生論では、むしろ生きることを「苦痛を伴うこと」ととらえていて、「人生とはこんなに苦しいのだから、さっさとカルマを解消して、苦痛を味わうことのない涅槃に行きなさい」と諭しているわけです。したがって、よく否定論者が持ち出す「死の恐怖から逃れるために生まれ変わりの思想が生まれた」というのは、本来は当てはまらないものです。むしろ、逃避が許されるのは、唯物論の方なのです。

Unknown さんのコメント...


 人間の死生観は大きく分けて3つらしいです。

1.死ねば無になる

2.最後の審判を受けて天国か地獄に行く

3.生まれ変わる

 このうち、1と2はどちらも「一度きりの人生」なのです。1は言うまでもないが、2に至っては最後の審判という一度きりの判定があるわけで、これに合格すれば天国だめなら地獄というわけですから、少なくとも人生そのものは1回だけという解釈です。

 それらに対して3は魂の循環を謳っているため、むしろ経済成長期や文化の爛熟期よりも定常型社会の死生観に相当します。すなわち、これから訪れるであろう(広井良典氏が推測している)人口減少社会・循環型社会型の死生観ともいえるわけです。

 果たして、人類はこれからどの死生観をもっとも合理的と考えるようになるのでしょうか。多分私の推測では3ではないかと思いますが(いずれ、社会と死生観について、私なりに考えをまとめて投稿したいと考えておりますが、それがブログの趣旨に合致するかどうかは自信がないので、稲垣先生のご判断に委ねます)。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
オカルティズムのオカルトとはラテン語の occulo (隠す)の派生語 occultus (隠れたる)に由来する「隠されたもの」を意味する言葉であり、生まれ変わりの科学的研究とは一切関係がありません。主に占星術など科学的根拠のない神秘的な占いの類いを指す用語です。
坊さんなどは、オカルトと生まれ変わり研究を混同しているようで、科学的事実に基づく生まれ変わり研究をオカルト、あるいは、スピリチュアル系などと一緒くたにするのは用語に対する粗雑な知的怠慢だと思います。

坊さんの認知の歪みについてコメントしましたが、これは私自身への認知の歪みに対する自己点検の自戒でもあります。

人は、それほどまでに、自ら認知の歪みに陥りやすく、他から認知の歪みに誘導されやすい愚かしい存在です。

そして、世の中には、意図的に認知の歪みに誘導しようとする者が確かにいるのです。
根拠のない中傷、不都合な事実の隠匿、事実の歪曲など枚挙にいとまがありません。

小は、友人・知人との仲違いから、大は、原発事故に対する東電・政府の情報公開の隠匿、アベノミクスに対する過大評価、イスラム国人質事件に対する政府の対応評価などに視野を広げると、当事者や報道機関によって、私たちは認知の歪みに誘導されているのかもしれません。
また、名だたる冤罪事件などは、警察・検察・裁判官の認知の歪みが引き起こした事実誤認に外なりません。

そうした愚かさから免れる方法は、「批判的思考」に徹することです。
「それは本当にそうか?」と問うことです。

「恣意的推論」、「選択的抽出」、「極端な一般化」、「拡大視・縮小視」、「情緒的理由付け」など認知の歪みの要因でもって判断をしている、判断させれられているのではないか、という点検を怠らないことです。

現行唯物論に真っ向から対立する生まれ変わり仮説への批判勢力は、こうした認知の歪みによる偏見・誤解でもって攻撃してくるのが常です。
坊さんなどがその典型でしょう。
ちなみに坊さんは、苫米地氏が生まれ変わりの否定論者である、という認知の歪みを、UROノートさんから指摘されても認めようとしない事実誤認の愚かさを、さらけ出しています。

唯物論全盛の中で、生まれ変わりを主張すると、その反論の中で認知の歪みが先鋭化し、あらわになるというこです。

反論が不可能だと知ると、唯物論に反する生まれ変わりの事実を、なかったことにしよう、と無視します。

そうはさせないために、証拠映像を公開し、証拠DVDを超心理学分野の研究者4名に送付し、二つの学会で公表し、2冊の著作を出版し、アンビリに2度出演し、本ブログでも取り上げているということです。

こうして、私の生まれ変わりの事実の主張は、反証可能性に堂々と開かれています。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さんの認知の歪みを分析してみましょうか。

「死後の霊魂だの生まれ変わりなの存在しません。死んだらそれまでです」

こうした断言を「恣意的推論」と言います。確かな証拠もないのに信じ込み、独断的に思い込みでものごとを推測し判断する認知の歪みです。
また、自分に不都合な事実を拒否し、なにごとも曖昧な状態に耐えられず、常に白黒を決着させておかないと不安で気が済まないといった認知の歪みを誘発する「二分割思考」の傾向が濃厚です。


「稲垣氏の生まれ変わりを肯定する道徳心はまるで新興宗教の宗教屋の言い訳に見えますね」

こうした物言いは、その時の自分の感情状態から現実を判断する「情緒的理由付け」という認知の歪みです。


「死ぬのはなぜ怖いか、他人の死はなぜ悲しいのか。それは自分の意識や存在が無くなるのと大切な人の存在が亡くなり思い出も何もかも消えてしまうからです。それがもう分っているからです」

これは「恣意的推論」であるとともに、自分の都合のいい事実のみを取り上げて、なにごとも同様に決めつけてしまう「極端な一般化」という認知の歪みの状態です。


「そうでしょ?オカルト番組やスピリチュアル系の番組で信じている芸能人でも真面目な震災や家族の死の話では死後の世界や霊魂等持ち込まない」

こうした物言いは、自分が関心のある事柄のみに目を向け、抽象的に結論づける「選択的抽出」という認知の歪みの状態、あるいは自分の関心のあることは大きくとらえ、自分の反対の考えや予測に合わないことは、ことさら小さく見るという「拡大視・縮小視」と呼ばれる認知の歪みの状態です。

私は、坊さんの「認知の歪み」を正そうと思いません。
しかし、これまでのあなたのバカボンのパパ的偏見と誤解の諸コメントが、明らかな「認知の歪み」から生じていることを指摘しておきます。

そしてまた、毎度のことですが「①②の前提条件に立って、守護霊という霊的存在を唯物論で解釈できるとすると、どのような解釈が成り立つのでしょうか?」という私の限定条件を無視し、提案から逃避した、不真面目な独善的コメントになっていることは言うまでもないでしょう。

あなたは、認知の歪みから「目を覚まし」、私の提示している「事実」に目を逸らさず、正対する必要がまずあると思います。

坊 さんのコメント...

昨日の脳科学の特集の番組で心脳一元論(唯物論)が証明されましたね。

こっくりさんなどの超常現象はもっての他でしたね。

結局心とは脳の化学電気信号にすぎず死んだら電気信号が消えて無くなるのです。

悲しいですがいい加減現実を見てください。

しかし盲信者には馬の耳に念仏ですね。

医者が永久歯は抜けたらもう生えないと発表しているのに生えると妄信しているのと同じですね。

失礼ですがこれじゃ神を信じているアレの人と同類ですね。

http://ameblo.jp/kikouhealing/entry-11457991987.html

http://ameblo.jp/kikouhealing/entry-11677823859.html

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん
あなたが得意げに紹介している唯物論者のブログ管理者(気功師)に、次のような読者の質問がありましたが、回答がありません。

「臨死体験も大抵は脳内現象で説明できるが前世の記憶についてはどうしても苫米地さんのいう虚偽記憶では説明できない『真性異言』」がありますのでそれはどうしても唯物論では説明つかないみたいですよ。どう思いますか?」

私が最も興味のあるこの質問の回答は、どうなっているのでしょう?
質問日は、1年以上前の2014年1月26日になっています。
ブログ管理人も、あなたと同じく、唯物論で説明不能な不都合な事例には、ダンマリを決め込むようですね。
それとも、あなたはこの無回答を承知で、自分も同じなんだよ、という意味で紹介しているのでしょうか?

あなたの認知の歪みではなく、ほんとうに「心・脳一元論が証明された」のなら、この重要な質問に対しても、唯物論で、とっくに、明快に、回答できてもいいように思いませんか?

加えて、「心・脳の一元論」が証明されたら、応答型真性異言現象は、なおさら説明不可能な事態になることに気づきませんか? 応答的異言会話を学んだはずがない脳が、にもかかわらず、どうして応答的異言会話を可能にするのでしょう?
学ばずして外国語会話ができるとしたら、誰も苦労して外国語を学ばないはずです。この理屈は分かりますね。

回答できずに1年以上ダンマリを決め込んでいる管理人さんは、この決定的矛盾に気づいているから無回答なのだとは思いませんか?

それを、「心・脳の一元論が証明され
ましたね」などと、したり顔で書いたとしたら、浅知恵丸出し、能天気丸出し加減を、読者のみなさんの前にさらけだしているわけですよ。

あなたの尊敬する管理人さんの、応答型真性異言に対する無回答について、あなたの意見に同調する他人の意見の貼り付けではなく、あなた自身のご意見をきちんとお寄せください。

ちなみにコックリさんは、すでに催眠現象として催眠学的に説明されています。ここでの論点とはまったく関係ありません。あなたの常套である論点ずらしはやめましょうね。

私が求めている意見はただ一つ、あなたの主張する「結局心とは脳の化学電気信号にすぎず死んだら電気信号が消えて無くなる」という唯物論によって、応答型真性異言「ラタラジューの事例」をどう合理的に説明できるか、の一点です。

これまで、あなたは、一度も説明できず、再反論に対して黙り込むか、逃げの論点ずらしをし、これまで回答を誤魔化し続けています。

これまでの同じ繰り返しの議論によって、坊の論理では、この事例を唯物論では説明できない、唯物論は万能ではない、まず、それを認めることです。

そのような議論の礼儀をわきまえないあなたから、
「失礼ですがこれじゃ神を信じているアレの人と同類です」
などと、「失礼」どころか、追い詰められた無礼者の負け惜しみ、謂われのない誹謗を受ける筋合いは、毛ほどもありません。

あなたのくだらない比喩を援用して、あなたの認知の歪みを例えるなら、
歯医者が、乳歯が抜けても永久歯が生えますよ、と言っているにもかかわらず、「一度抜けたら歯はもう絶対生えてこないのだ」と盲信しているのが坊さん、あなたです、とでもお返しをしておきましょうか。
カエルの面に水、糠に釘、暖簾に腕押し、でしょうけど。

さて、前回と今回で、坊さんのコメントは、いよいよ「コメント投稿の留意点」に抵触することになってきていますよ。コメント削除の最終警告だと受け取ってください。

Unknown さんのコメント...

 ラタラジューの件に限らず、ほかにも異言を話す実例はありますよね。たとえば、以前ニュースにもなったオーストラリア人が、事故後一週間くらい英語がしゃべれなくなり(一時的とはいえ言語そのものが全く話せなくなるということは、健忘症では説明がつかない)、代わりにネイティブと見分けがつかないほど同じくらいに中国語が話せるようになったこととか。

 これに対して、科学者たちは「脳のスイッチが切り替わった」との、なんとも貧弱な見解を示し、「いくつかの説がある」とは言ったものの、具体的な言及は避けているのが現状です。

 そんな都合のいい「脳のスイッチ」とやらが本当にあるのかはともかく、仮にその説が正しいと仮定すると、さらに多くの説明されなければならない事項が出てくるはずです。

 確かに人間は、潜在的にはあらゆる言語を話すことができます。たとえば生まれが日本でも、生後間もなくアメリカにわたって暮らした帰国子女なんかは、英語の会話はネイティブそのものですから、別に人種、国籍問わずその育った場所の言語を成長の過程で習得していくというのは事実です。具体例を持ち出すまでもなく、当たり前の話です。

 ただし、ここで問題なのが、「その環境において、反復的な学習・訓練は欠かせない」ということです。たとえ、知識や文法では多国語を理解できたとしても、「発音の仕方」やニュアンスなどといったものは、やはりネイティブと外国人とは異なります。たとえば、生まれはイギリスで、10代になってから日本に留学してきた学生など、確かにそこで暮らせば、日本語を「話すこと自体」はできるようになりますが、発音の仕方など、やはりネイティブと比べてどこか違和感が残ります。これをほとんどネイティブと違いなく話せるようになるのは、さらなる年月と訓練(反復的学習)が必要となるわけで、しかも、それを積み重ねてもやはりネイティブにまでは及ばないという人たちも大勢いるのです。

 日本人は、たとえばアルファベットのRとLの発音の区別が下手(もしくはその違いが認識しにくい)といわれております。そのほか、確かロシア系だと思いましたが、日本語の「ワ」にあたる発音がうまくできないそうで、これもやはり、日本に長年滞在して、ようやくまあ何とかネイティブに近づいたかなというレベルくらいになるらしいです。

 発音をするのに、やはり声帯や、たとえば顎の筋肉なども関与してくるはずなので、単純に「脳のスイッチを切り替えた」ところで、果たしてネイティブと区別がつかないレベルの発音・発生ができるようになるのかどうか?極めて疑問です。知識や文法はそういった「肉体的な変化」まではそれほど必要としないはずですが、発声の仕方などが絡んでくると、これはやはり身体的変化なども伴う可能性もあるので、

「脳のスイッチを切り替えた」=「それに都合がよく身体的変化も(きわめて短時間で)起こった」

という話にさえなりかねません。

 果たして、脳のスイッチを変えれば身体的にそこまで顕著な変化が現れるものなのでしょうか?いや、さらに言えば、会話をする能力は前意識的行動ですが、より高度な運動能力を伴う無意識的行動も、脳のスイッチさえ切りかえれば可能になるのでしょうか?私にはとても信じられません。

 日がな一日中アニメばかり見ているオタクの脳のスイッチを切り替えて、突然外国語をしゃべりだし、果てはプロ野球並みの運動能力を獲得する。でも、仮にそうだとすると、まったくの野球の素人の筋肉と、毎日トレーニングで鍛えた本物のプロとはもともと筋肉の突き方が違いますから、いくら脳の方でプロ野球選手と同じ意識レベルになったとしても、実際にそれでプロ野球選手そのものになれるかと言ったら、それこそ「脳のスイッチを切り替えたと同時に身体的にも著しい変化があった」ことにならなければ無理ではないでしょうか。それとも、それもまた「無意識のなせる技」なんでしょうか?こういった「無意識万能論」は、むしろ15年くらい前ならエセ科学の専売特許だったような気がいたしますが。

 なので、それでも異言を脳のスイッチとやらがあると言い張るのなら、以下の条件をクリアして実証して見せなければなりません。

1.脳のスイッチを切り替えることにより、本人が本来持っている以上の能力を発揮できるのは、前意識的行動に限定される。もちろんなぜ前意識的行動にだけ限定されるのかの理由も必要。

2.あるいは、無意識的行動でもそれは可能だというならば、その場合、脳の変化とともに肉体にも著しい(しかもごく短期間で何ら訓練を伴わず)変化が起きることも示す。

3.もし肉体に著しい変化が及ぶとして、それはどのレベルまでなのかそれにより、1と2のどちらが正しいかが判断できる。たとえば、人間の発声・発音に使う程度の筋肉の変化程度であれば、脳に刺激を与えてやれば可能なのか、それすら無理なのか、逆に本人の見た目すら一目で見てわかるほど変化(痩せから筋肉隆々とか)しうるものなのか、など。

4.当然、その脳のスイッチとやらは普遍的に人々が持っていると仮定できる(特定の人間だけが都合よく持っているというのは考えにくい)ので、それは本当にそうなのか実証できるのか。

 果たしてこれを唯物サイドは説明できるのでしょうか?実証できるのでしょうか?多分脳神経学だけでは到底説明しきれないのではないかと思うのですが。

UROノート さんのコメント...

あのね……坊さん
他人様の書き込みは、ちゃんと読んでますか?
ここは、チラシの裏でもあなたのブログでもありませんよ。
公的な場所で書き込みをなさるのであれば、対話する姿勢は身に付けてくださいね。

テレビにお墨付きを貰えば……
苫米地さんにお墨付きを貰えば……
その信者と思しき気功師さんに……
そうした心理が透けて見えます。
結局先のコメントから解ることは、坊さんの自己の知性に対する自信の無さだけです。

勝手な思い込みで権威であると盲信したテレビ番組や苫米地さんに脳を丸ごとアウトソーシングに出すのはもう止めませんか?
諦めてはいけません!自らの知性にもう少し自信を持ちましょう。
そうした思考停止状態が松本被告に帰依したオウム信者とどう違うのですか?
その違いについて坊さんには説明できますか?

私は(おそらく稲垣先生も)あなたの様なテレビウォッチャーでもありませんから、
>心脳一元論(唯物論)が証明されました
と言うのなら、テレビの内容の概略を説明することくらい出来ませんか?

気功師さんのブログの論理展開はちゃんと理解しましたか?
それも出来ていない様だから申し上げますと、彼は間違っています。
しかも、リンクのページは似非科学者の伝統芸とでも言うべき、「数学・物理学の定理を粗雑で無茶苦茶な論理や条件に当て嵌めるトンデモ理論」を鵜呑みにしました!と満天下に知らしめる黒歴史的ページですよ……カワイソウニ……。

疑似科学を批判する人達には、ゲーデル、チャイティン、ハイゼンベルグなどに関する苫米地さんの誤解や誤用・乱用は、一般的に良く知られたものだと思っていました。
気功師さんはゲーデルのwikiを読んでるはずなのに、理解できてないみたいですから、数学に造詣が深いと思しき
この方のページ
でも貼っておきましょう。しかもゲーデルについては、古くから誤用が尽きないため誤用ガイドなる本まで出ているというのに……。
坊さんはあのページの記述のどこが問題なのか理解できそうですか?
私も文学やら社会科学やらスピリチュアルな分野で量子論や相対性理論がテキトーに使われているのを残念に思っていましたが、気功師さんは自身のブログ内ではそうした似非科学やら疑似科学を批判しておきながら、坊さん同様自らも脳をそっくりそのままアウトソーシングしていることを露呈し、盲信者として黒歴史を刻んでおられるご様子なのです。

もし私が苫米地さんのシンパなら、その手のトンデモ理論には、触れないでおくのだけれど……。

どうしてここまで苫米地コンプレックス?苫米地教?が猛威を奮っているのか?
私は世代的な影響かMacでも「ことえり」は使ったことが無いので、ソフトウェア技術者としての苫米地さんの偉大さ?についてはピンとこないせいかもしれませんが……。
と思ってたら、これにも疑惑の目が……。

ネット工作員でも居るのかな?坊さんも知らず詐欺の片棒を担いでいるのかも……。

以前コメントで取り上げさせていただいた苫米地さんのトンデモ本大賞ノミネート作品「あなたは常識に洗脳されている」の中で明記しておられた「東京の酸素濃度が13%くらいしか無い」キリッについて苫米地先生に聞いてみたというtogetterがありますね。
この記事は冷静かつ豊富な情報量でツッコミを入れています。
現在最新版では丸ごと削除されているということですから、苫米地さんには自己反省能力は有るようです。坊さんはどうでしょうか?
初版は原発事故の半年前に書かれたということで、「日本の原発はどこよりも安全」という記述があったそうで、「東京スカイツリーは原発より危険」「物々交換の時代になったほうがいい」という文章はどうなってるのか知りたいかなぁ……。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elderさん UROノートさん
緻密な論理で、坊さんのためにではなく、本ブログ読者のために、読むに足る貴重なご意見を投稿していただけたことに感謝いたします。

私は、坊さんに論理的思考を求めることは、すでに無い物ねだりとしてあきらめていました。
そして、彼にどんな理由があるにせよ、唯脳論「信仰」によって、生まれ変わりを否定することで精神的安定を保つ必要があるのだとしたら、信仰に動揺を与えるような、事実と論理で、彼をたしなめることは徒労であり、罪なことではなかろうかと思うようになりました。

坊さん、本ブログコメント欄は、生まれ変わりの科学的事実に反する唯脳論信仰を表明する場ではありません。
生まれ変わりの具体的な「科学的事実」に基づいて、それに対する他者の意見にはきちんと目を通し、論理には論理を尽くして、意見交換をする場です。

したがって、あなたにとって本ブログは「場違い」なところです。そこへ迷い込でしまったという自覚を持つべきでしょう。そう自覚されたなら、唯脳論信仰によるあなたの精神的安定を維持するために、潔い撤退をお勧めします。 

あなたには「反証可能性に開かれた論理的意見」が出せるはずもなく、あげくの果てに「信仰宗教の宗教屋の言い訳」だの「神を信じているアレの人と同類」だのと口汚く罵るに至っては、私のもっとも忌避するところの危機的事態に陥ったと見做さざるをえません。
ハンドルネームの匿名性によるマイナス面の典型的末期症状を来していると判断せざるをえません。

礼儀とルールをわきまえた投稿ができないかぎり、2ちゃんねるなどへ、撤退されることを強くお勧めします。

ご両人には、坊さんにではなく、読者のみなさんへの奉仕の精神で、有意義な投稿いただいたことに管理人としてあらためて深謝いたします。

ショウタ さんのコメント...

先ほど唯物論のブログの人にラタラジューの事例と稲垣さんの仮説を紹介しましたがこんな反論回答を貰いました。

遺伝は記憶情報というものの例として挙げましたが、必ずしも遺伝として言語情報が伝達された事を主張している訳ではないのです。

また、潜在意識や無意識などという概念も、そもそも「顕在意識」という概念があって成り立つものですが、僕はそもそも「顕在意識」というものが無いと考えているので、潜在意識も無意識もありません。

あるのはただ「物質的な反応」です。

そして、記事にも述べた通り、何かしら入力元不明な部分的な情報をもって「前世」とするのは、根拠に乏しく甚だ論理に飛躍があり、
記憶が原子の上に記録された情報ならば、時間や空間を超えて存在、移動し続け、再生可能な事に不思議もありませんし、
それは必ずしも血縁である必要すら無いでしょう。

言語というものを特殊な技能として考えるから、それはあり得ないと考えるかもしれませんが、
例えば単純な技能だとどうでしょう?
実際には多数散見されている事象ながら、それは偶々であれ、勘やセンスの良さや才能として「瞬時に」理解可能だから~と、無視されているだけで、例えば初めてすぐに自転車に乗れる子供などは、実はネパール語の例と同じように本人以外からの感覚情報を共有しているのかもしれません。
本人が体験した情報以外からの記憶情報が、何かしらの形で再生され、乗った事の無い自転車にいきなり上手く乗れたとしても、ただ単に「凄い」と思われ、天才だの才能があると言われるぐらいで「不思議」と思われないだけでしょう。

遺伝の例を挙げた通り、元来記憶というものが個人体験由来に依存しない情報であれば、そもそもこの話には「何も不思議が無い」のです。

逆に言えば、あなたが「記憶」だと思っているものは、本当に全てあなたが体験したものだけだと証明出来ますか?
http://ameblo.jp/alchemizm/entry-11989310721.html#cbox

↑う~んつまり意識や記憶は実は個人のものではなくただの物理的反応に過ぎない。だから死んで体の物質が空気みたいに飛んで他の体に結び付いて記憶が引き継いでも不思議ではない?という事なのか?

トンデモ理論っぽいですね

自転車と言語とは同じではありませんしね

私のレベルでは難しいですがどう思いますか?

UROノート さんのコメント...

稲垣先生へ

>ご両人には、坊さんにではなく、読者のみなさんへの奉仕の精神で、有意義な投稿いただいたことに管理人としてあらためて深謝いたします。
先の私のコメントは、坊さんを対象にして、面白半分に書き殴ったもので、坊さん方式で「質問には質問返し」という方針での記述ですから、稲垣先生にそう言われてしまうと冷汗三斗の思いです。 (;^_^A アセアセ

ともあれ、苫米地さんが想定している神概念は、古典的世界観や神学観にもとづくものであり、「世界を一貫して支配する単純美麗な数式による一大統一理論(神の理論)が存在するはずだ」と考えられていた時代のモノです。
不完全性定理の証明というのは、「内部に矛盾のない数学理論ならば、万物の真偽がもれなく判定されるはず」とされたそれまでの期待が裏切られたというだけの話です。

もう少し言えば、苫米地さんの世界観では、「神の存否の問題は、シングルスレッドシングルプロセスのプログラムに無謬性の自己判定が可能か否かに帰結する」とするようなものだと言えるでしょう。
(その事に関してプログラマ向けの面白いエントリを見つけました。)

もしこうした苫米地理論を、日本が誇るスタープログラマーでRuby言語の生みの親でもある まつもとゆきひろさん(クリスチャン)が聞いたら、あきれるでしょうねぇ……。

今後は、バグでコケたプログラム(プロセス)をWindowsのタスクマネージャーなどを使ってkillする度に、「苫米地さんの神殺しだー!」(苫米地さんの神を除けば、歴史上どこにもそんなので殺されるようなショボイ神さま居ませんけどw)とか言って楽しむのも良いかもしれません(笑)。

今回苫米地さんについて色々調べて分かったことのポイントは……
自己の都合に合わせた定義やトンデモない飛躍を含んだハチャメチャ理論でも、一般の読み手に検証を放棄させるような衒学的要素を盛り込めば、科学的に見せる事ができるし、思考停止状態の盲信者すら生まれてくれるということですね。

これでは、彼の立場は反オウムなのかオウムの後継者なのか良く分からないなぁ……
と思ってたら、彼は傳法大阿闍梨という称号を得て、宗教団体の設立もお考えのご様子……現在、苫米地氏が宗教法人設立も考えているとする情報も、複数から寄せられています。(微エロ注意です!ほぼ日刊カルト新聞より)とのことです……。(ノ∀`)アチャー
私としては、坊さんの今後の書き込みの処遇については(当然のことですが)管理者たる稲垣先生にお任せしますが、こうした御縁があったのですから、坊さんにはぜひ、苫米地さんに明け渡した知性や理性を取り戻していただきたいものです。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
ご紹介のあった方のアメブロをちょっと覗いてみましたら以下の記事もありました。

「隔世遺伝なども含めた遺伝情報などが肉体を超えて別の個体へ移動できるのであるならば、『記憶情報が個人を表す』と言う前提が崩れます。その時点で、生まれ変わりじゃないと辻褄が合わない、と言う考えも無くなります」

要するに、この方は、「遺伝情報などが肉体を超えて別の個体へ移動できるのであるならば」という仮説(前提)に立って持論を展開しているわけです。要するにフィクションでしょう。
現行唯物論では、この仮説の実証は一切ありませんから。
しかも、反証可能性に開かれていませんから、反証ができず、科学的な仮説とは言えません。
きっと、原子レベル、遺伝子レベル、細胞レベルで記憶しているに違いない、と説明しているだけのことで、「説明の成功」が、科学的な事実の証明になるはずもありません。
肝心なことは、その説明が証明できるかどうかです。証明の可能性を無視した説明だけなら、誰にでもできます

強いて言えば、遺伝情報が肉体を越えて別の個体へ移動できる、ということについては、「超ESP仮説」のバリエイションになるのかなと思います。
しかし、「超ESP仮説」をもってしても、「情報」ではなく「技能」である応答的会話を、肉体を越えて別の個体へ移動できたという事例は一切ありません。
そもそも、ラタラジューのネパール語会話の実際は、この方の言っている自転車に乗るような「単純な技能」の発揮だとは、証拠映像を見れば、どうみても言えないのではありませんか?

この方の仮説がほんとうなら、学んではいない外国語でたやすく会話する人が続出してもいいのではありませんか? 
応答型真性異言は、「ラタラジューの事例」を含めて世界でこれまで5例しかないのです。
この矛盾はどう説明できるのでしょう?

仮説とは、その仮説が検証できることをもって、仮説と言いうるものです。
フィクションは、科学的仮説ではありません。

ショウタ さんのコメント...

回答ありがとうございます

確かに実証されていない唯物解釈であれば「生まれ変わりを否定できるだろ」と言っているだけで根拠は無しで反証にはなりませんね。

ところで稲垣さんのセッションは前世を知れる可能性はどのくらいあるのですか?

ブログのコメント者を見ると懐疑的だった人も確信できるみたいですがやはり最終的には経験しないとわからない世界なのでしょうか?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさんに釘を刺しておきます。

私の回答に、あなた自身が納得できたのなら、私の回答をこのアメブロ管理人さんに貼り付けて、稲垣がこう言ってる、などど煽って、無益・不毛な議論を演出することは禁止ですよ。

アメブロ管理人さんは、
「潜在意識や無意識などという概念も、そもそも『顕在意識』という概念があって成り立つものですが、僕はそもそも『顕在意識』というものが無いと考えているので、潜在意識も無意識もありません」
と書いているように、催眠学の先行研究の成果である定説を、無根拠に全否定しているうえに、「意識そのもの」の概念すら否定し、「あるのは物質的反応だけ」だと、意識現象まで物質的反応に還元できる、と実証もなく思い込む、途方もない超極端な唯物論思考に徹している人です。
こんな異次元論理の唯物論者との、実証の有無は無視、「意識概念」も無視、という前提に立った議論をすることは、私はまっぴらご免こうむります。

そしてショウタさん、
「トンデモ理論っぽいですね。自転車と言語とは同じではありませんしね」と気づく批判的思考を学ばれましたね。goodです。

自転車乗りの技能と会話技能を一緒くたにし、説明に都合のいい自転車乗りの技能を意図的に選んで議論を展開する、これを「選択的抽出」と言います。
そして、都合の悪い会話技能は意図的に省く、これを「縮小視」と言います。
「選択的抽出」によって、都合のいいものを「拡大視」して強調し、都合の悪いものを「縮小視」して省略する、この手口こそ、認知の歪みを誘いながら、持論の正当性を誇張するための常套手段です。

アメブロ管理人さんの持論は、「恣意的推論」による説明、つまり、証拠がないのに、独断的に、自分の都合のよいように、ものごとを推測し判断したものでしかありません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
SAM前世療法の成功率、つまり、「魂状態の自覚」への遡行と前世人格の顕現化、その前世人格との対話の成立度は、直近100事例で91%です。
この霊的とも言える意識現象の事実は、体験しないと納得できないでしょうね。そして、「タエ」も「ラタラジュー」もSAM前世療法の手続きで顕現化した人格です。

詳しくは、「稲垣勝巳メンタルヘルス研究室」https://sites.google.com/site/samzense/を覗いてください。

シュヴァル さんのコメント...

UROノートさんへ

私も何度かたしなめたのですがまったく反応がありませんね

今の状況というのは議論するというより
坊さんが稲垣さんの返答だけをもらうためにわざとやっていると思われても仕方ない状況で、私は断固たる措置をとる時期にきたと思います。

ショウタさんへ
わたしはこの分野の研究者ではなく
別の業界で調査研究をしています。

PDCAサイクルなど基礎的な合理的思考は
持ち合わせいます。

その立場からすると、現状の科学ではまだ明らかになっていない未科学にあたるものだと
セッションを受けて思いました。

何しろ指は勝手にうごきますし
ハイイイエに関しては稲垣さんの質問に的確に反応します。

仙台ですか?の質問に私はよくわりませんでしが別感情のようなものが違うと知覚したのはわかりました。

このあたりは言葉で説明してもわかりません。
催眠で命はとられませんし、洗脳のようなこともありません。

疑問に思うなら一度受けられることをお勧めします。ほんのちょっと一歩前に進むだけで文字でやり取りしてるのことの無意味さがわかると私は思いますよ

Unknown さんのコメント...

 会話をする能力が前意識的行動なら、自転車を乗り回すのは無意識的行動になりますね。それをごっちゃに論じているからおかしなことになるという典型例です。

 私が先ほど挙げた1~4の条件を満たせるかが重要ですが、ただ「そういっているだけ」では何の証明にもなりませんね。結局は、

「とりあえず説明になっている」

から

「これでいいのだ」

の話です。

 そもそも隔世遺伝に関しても、まだよくわかっていないし、この方の言う、

>遺伝情報などが肉体を超えて別の個体へ移動できるのであるならば

という部分については、それすら現行の唯物論は認めていません。当然、現在出されている隔世遺伝についての研究も、「肉体を超えて別の個体に移動した結果である」ということを示唆するようなものは見たことがありません。私が単に探せないだけかもしれませんが。多分、隔世遺伝すら、そんな「肉体を超えて」とか「全く血縁関係でなくとも」といった概念を持ち込まずに、「もっと唯物的に遺伝的なつながり」を説明できるはずだと科学者は考えているはずです。結局、私が以前茶化して書いたとおり、

「意識は脳の産物だが、記憶だけは別物です」

のバリエーションの一つでしょう。しかも、稲垣先生が指摘されている通り、この方は、

「そもそも意識すらないのだ」

と言い切っておりますから、もはや反証することさえできません。意識そのものさえ存在しないことにしてしまいさえすれば、まだ未解明な無意識や潜在意識といった概念すら取り扱わなくてもいいという話になります(実際、この方はそんなものはないから顕在意識さえないのだと言い張っております)。

 主流派の科学者ですら、「意識そのものはないのだ」と語っている人は少数派でしょう。あの受動意識仮説でさえ、人間の意識活動を「意識」と「無意識」に分けて、このうち、「意識」の部分については「ほとんど受動的」としながらも、完全に否定する立場をとってはいないのです。それどころか、無意識こそが主であり、意識は無意識によって引き起こされた行動の結果をただ追認しているだけに過ぎないとしております。

 結局、自分の推測に都合よく解釈するために、扱いにくい面倒なものは全部否定するということを、堂々と宣言しているだけにすぎず、具体的な根拠もありません。

「初めからそんなものはないのだ」

ということにしてしまえば、余計なことは考えなくてもいいからです。はっきり言って「最強の言い訳」であり、反証可能性どころの騒ぎではないでしょう。

 繰り返しますが、意識をただ行動の結果を追認するだけと切って捨てている受動意識仮説でさえ、無意識や潜在意識こそが主であると結論付けているのです。唯物論から考えてみても極端な主張でしょう。

 さらに言えば、原子や分子に記憶情報が保存されて、肉体を超えての情報伝達が可能という割には、なぜこれらの現象の発見例は限られているのでしょうか。人類数十億の中の数千件程度、しかも異言はいまだ数例。これに関する説明は全くありません。もっとそういう報告例が多くてもおかしくはないでしょう。それとも、前世の記憶を話す人や異言を使いこなす人たちは「天才」であり、「特殊な才能がある」人たちばかりなのでしょうか?

 前世の記憶を話す子供たちの知的能力は、確かに普通の子供より若干高いという報告はありますが、かといって知能指数がアインシュタイン並ということもなく、天才どころか、秀才よりも劣ることもあります。せいぜい我々のような凡人よりも多少頭がいいかなくらいのレベルです。それ以外のことに関しては、一般の人々と大差ありません。ましてや、サヴァン症候群のような傾向を示したという話も全く聞きません。

 第一、天才といっても、学習や訓練は行っているですよ。

>本人が体験した情報以外からの記憶情報が、何かしらの形で再生され、乗った事の無い自転車にいきなり上手く乗れたとしても、ただ単に「凄い」と思われ、天才だの才能があると言われるぐらいで「不思議」と思われないだけでしょう。

 この理屈なら、もっとそういう人間がいたるところにいてもおかしくはないし、何も「前世の記憶」や「応答型真性異言」などといった、現代社会でオカルト扱いされている分野にだけとどまるはずがないでしょう。ほかの分野でも、「何かしら(何かしらという言葉自体が、それさえ持ち込めばなんでも正当化・説明できてしまえる概念なのですが)の形で記憶が再生され」、その能力が発揮されたと話題になるはずではありませんか。それこそほとんど訓練せずにオリンピック選手と互角の運動能力を持った人間とかね。いや、運動に限らず科学の分野でも、ほとんど学習しないで高度な数学を理解できるとか、そんなのもアリでしょうね。

 その能力を会得するのに、その訓練を終了する過程・時間が凡人よりも圧倒的に短いというだけの話であって、ほとんど経験がなくてもいきなりその能力を発揮したという天才は聞いたことがありません。運動選手の中でも天才とされている方々だって、やはり「いきなりその能力を発揮できた」という話は聞いたことがありません。それは、彼らの自伝なり、周りの人々の評価などを見ていればわかることです。俗に天才扱いされている人でも、驚くほど努力や積み重ね、場合によっては我々凡人以上に時間をかけて学習を重ねている場合もあります。いや、むしろそっちの話の方が多いくらいです。こういう部分は、あまり一般の人々は関心を持たず、ただ、その天才的な能力を発揮した結果のところだけをマスメディアなどで見るから、

「天才とは、いきなりその能力を発揮できる人種である」

という間違った認識になってしまうのでしょう。アインシュタインなんかメモ魔だといわれていて、夜も寝る間も惜しんでノートやメモ帳に書き込みを続けていたという証言や、彼の自伝はいくらでも残っているし、たとえば、プロ野球選手でも、一日のほとんどを練習に充てています。だからこそあれだけ天才的な能力を発揮できるのです。
  
 天才と呼ばれている人たちも、学習・訓練は継続的に続けているんです。場合によっては我々凡人以上にそれにのめりこんでいるわけで、もし何らかの形でどこか別な場所から記憶が再生され、能力を発揮できるというならば、こんな面倒な学習などせずともいきなりその能力を発揮できる人物などそこらにあふれていてもおかしなくはないんじゃないでしょうか?

 エジソンは99%の努力と1%の勘といいましたが、この言葉が如実に現実を物語っております。これが彼らが経験してきた世界です。天才も学習・反復的訓練は必要であり、むしろ場合によっては凡人以上に訓練・学習に時間をかけているのであり、仮にろくな下地もなくただどっかから記憶情報を得ていたとしても、そこに学習・訓練が伴わなければその能力は発揮できません。それは、何より天才と世に謳われてきた彼ら自身が、そう語っていることからも明らかでしょう。

 もしろくな下地もなく、さらに訓練もなく、いきなり自転車に乗りこなせる子供がいるのなら、ぜひそういう子どもを紹介していただきたいです。それは、もはや天才ですらありませんよ。天才だって(いや、天才だからこそ)訓練・学習を繰り返しているわけですから。まあ、多分どこかで周りの目の届かないところで訓練していたというのが事実だと思いますが(あ、「どこかで」というそれさえ持ち込めばなんでも説明できていしまえるものを使っちゃった(笑))。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elderさん シュヴァルさん
金曜深夜、1週間の疲れを癒やす時間に
もかかわず、私の意を汲んでくださり、お二方のそれぞれの視点から、実証的で貴重なコメントをお寄せくださったことに多謝しています。
ほんとうに、ありがとうございました。

ショウタ さんのコメント...

稲垣勝巳さん、シュヴァルさんへ


回答ありがとうございます。文字や言葉では説明しきれないリアルで未知の世界なのですね。いつかセッション受けてみようと思います。

                    
orphan elderさんへ

確かにスポーツ選手さえ普通の人より才能はあったとしてもまるっきりできるのではなく練習や努力をして技術を身につけますね。何もしないで無から有が生じるように完璧な技術があるのは普通ではありえないトンデモですね。                    

坊 さんのコメント...

お粗末です。


まったく科学的根拠はありませんね。

「学んだことないネパール語を喋っている」とか「言語は技術だから」というだけ生まれ変わりだの霊だの信じるのは所詮願望であって前世が存在する科学的根拠にはなりません。


こんなのはただ当てはめてるだけです。

科学的根拠がなくてはただの迷信であり疑似科学や宗教屋と変わりません。

苫米地博士について何もわかっていないですね。

もっと目を通すべきですね。

脳科学は万能か
http://shuchi.php.co.jp/article/744


神様・宗教に頼らなくてもいい幸福な生き方

http://forestpub.co.jp/kami/

坊 さんのコメント...

死後は永遠に無の世界です。

時間の概念もありません。時間は生きている人間の都合です。

生まれる前の世界が存在していたら、死後の世界(あの世)の存在も肯定します。「生まれる前のことを覚えている」という噂や他人の話ではなく、自分が生まれる前どうだったか考えてください。※生まれる前も「この世」ではないので「あの世」だと思います。

死後は脳(脳=魂)が死滅しますので、無の世界です。どういう世界かというと「生まれる前の世界」です。

よく「死ねば分かる」と説明する人がいますが、死んだら脳が働きませんのでなにも分かりません。死んだことって自分では分からないのです!無さえも分からない無の極致です。人生を振り返ることは不可能ですので、人生に悔いがあるかどうかも理解できません。

死後は生まれる前に戻るだけで、死後での恐怖はありません!勿論、再度生まれてくることは絶対ありません。脳は死後すぐに腐ります!

繰り返すようですが、生まれる前の状態(世界)、今考えるとなんとなく分かりますよね?それが、死後の世界です!


このような真実を否定したくなるのは私も同様です。だから死後の世界があることを想像するのです。想像し夢を見ることは人を幸せにしますので、どうぞ死後の世界の夢をみてください。しかし現実は異なります。全ての生物は平等に死が訪れ、全ての生命は「無の世界」に入るのです。1秒1時間1日を貴重に過ごさなくては損です。そして可能な限り長生きをすることが重要だと思います。

死について否定的な考えではなく、謙虚に!この世に80年ほど生きられた奇跡に感謝すべきだと私は思っています。

私の考えが今理解できなくても、頭の片隅に入れておいてください。必ず将来理解出来る日(生きている間です)が来ると思います。

私は皆さんを見下しているにではありません。限られた貴重な時間を無駄にして欲しくないからです。

orphan elder

貴方は潜在意識なんてものを信じているのですか?

貴方の分を詠む限りマーフィーの法則とやら引き寄せの法則やらの迷信を信じちゃっていそうです。

ショウタ さんのコメント...

これまでの前世の記憶の研究を見ると脳科学だけでは説明つかないと思います。

orphan elderさんへ

紹介してくださった唯物論脳科学の受動意識仮説も唯物寄りで実体としての意識の存在には程遠い仮説だと思います。しかし私は受動意識仮説より去年立花の臨死体験で紹介されたもっと唯物論的な支持率の高いトノーニ教授の統合情報理論だと思います

脳の中には熱い・冷たいなどの感覚に関する情報や、楽しい・悲しいなどの感情、過去の出来事の記憶など膨大な情報がありこれらの情報は複雑につながりクモの巣のようになっている。このまとまりが意識だというのだ。トノーニ教授は、これを脳内に微弱な電流を流すことで実証実験している。

つまり意識は様々な喜怒哀楽や過去の記憶が統合的に一体となったのが意識であり実体としての意識そのものを否定していてそのため死ぬと意識は消えるという。

しかしこの理論が支持されているからと言ってこの理論でラタラジューの事例や前世の記憶を具体的に反証されていないため「統合情報理論=ラタラジューの事例と前世の記憶の反証」にはならないと思います。

潜在意識についても興味深いですね。

潜在意識は引き寄せなどのスピリチュアルの分野で扱われていることが多いですが単なる迷信やオカルトではなく未来科学なのかなと思います。

私の興味深い生まれ変わり肯定理論はNHKのBSプレミアムで紹介されたペンローズとハメロフの量子脳理論です。

量子脳理論は二元論の改良型で意識の存在を肯定する。

この理論は意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。

臨死体験と生まれ変わりのの関連性については「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」

ただし主流の科学者はこの理論に対しては、微小管は脳だけでなく体内の全ての細胞にある事や、微小管を破壊するが意識に何の影響も及ぼさない薬物が存在することが批判点となっている。その為地上放送の総集編や立花の番組ではこの理論は採用されなかったのかもしれなかったのかもしれません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん
本ブログから撤退されると思っていましたが、懲りない方ですねえ。

繰り返しますが、このブログは、反証も挙げないで(科学的根拠なしで)、一方的な信念や願望を執拗に表明する場ではありません。

深夜までかかって書かれたコメントを削除するに忍びず、掲載してあげましたが、これまでのあなたのコメントに対する読者との諸議論の経過をたどってみると、このコメントは、「お粗末」というほかありません。
なぜお粗末であるのか、分かりますか?

それが分からず、今後も、何ら反証を挙げないで(科学的根拠なしで)、一方的に信念や願望の同じ繰り返しを表明されている、と判断できた場合は、容赦なく削除しますからそのつもりで。

失礼ですが、あなたは、80歳のご高齢でいらっしゃる「苫米地教」の信者ですか?

そうであって、もし、このブログへのコメント投稿が、残りの人生の生きがいの一つになっておいでなら、あなたの信念(執念)をどうぞご投稿ください。あなたの生きがいを奪うことは罪なことだとも思っています。

撤退は、あなたの人生80年の信念の敗北を認めることだ、生きがいの喪失だ、とでもお考えでしょうから。
あなたの、信念表明がかくも執拗であったのか、その「執念」の謎解きがやっとできたような気がしました。

ただし、信念のご投稿は容認しますが、反論は期待しないでください。

なぜなら、このブログのコンセプトは、「科学的根拠に基づく具体的事実」を前提に、反証可能性に開かれた意見交換をすることにあり、その前提をはずした一般論を持ち出して論点を曖昧にしない、という限界を設定しているからです。

前提と限界を設定せず、とりとめのない信念やら信条やら一般論などの意見交換の繰り返しだけなら、確かな稔りが期待できないと管理人は判断しているからです。

したがって、これまでのあなたの「前提と限界」を無視した、信念表明のみの諸コメントは、勘違い、場違い、のとりとめのない夾雑物として無視してよいと思い続けていました。あなたのとりとめのない「帰無仮説」執念の押しつけは、「余計なお世話」でしかありません。

あなたの執念である「帰無仮説」を揺るがす「ラタラジューの事例」が、大層目障りであり、しかし、どんなにも反証を挙げて論破できない苛立ちが、あなたの残された人生の精神的安定を、ますます阻害していくと思われます。いっそ、「ラタラジューの事例」を知らなかったことにして忘れることが、あなたの精神的健康のための「80年の人生の知恵」かもしれません。それは決して恥じることではないのです。本ブログからの潔い撤退を、強くお勧めしている所以です。

「私は皆さんを見下しているのではありません。限られた貴重な時間を無駄にして欲しくないからです」、これこそ、唯脳論信者の高慢な繰り言、余計なお世話。読者の皆さんに代わって、そっくりあなたにお返ししておきましょう。
あなたに残された貴重な時間を、繰り言でこれ以上無駄にしないでくださいますか。痛々しいのです。

もう一つです、あなたの意に沿わないコメント投稿者を呼び捨てにされることは断じて許されません。

今回コメントにある「orphan elder」などと尊称抜きで呼び捨てることは、父親でもないかぎり、年長者の権利として認めることはできません。
管理人としての厳重注意です。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」

という量子脳理論によって、死者の「意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」とされているのが本当なら、100年前に死者となったラタラジューの「脳から拡散した意識情報」が、「宇宙に拡散して在り続けて」いたとして、100年後に、しかも、なぜ里沙さんの脳をわざわざ選んで戻ったのか、矛盾のない、整合性のある説明ができないのではありませんか?
里沙さんの脳に、たまたまラタラジューの意識情報が、100年を経て宇宙から宿り来たとするなら、「ラタラジューの事例」のような応答型真性異言現象が、もっと世界中で続出しているはずではありませんか?
量子脳理論が、この点についての無矛盾性の保障された説明仮説にならないかぎり、「生まれ変わり仮説を」採用することのほうが、はるかに思考節減の原理に適っていると私は判断しています。

「様々な喜怒哀楽や過去の記憶が統合的に一体となったのが意識であり実体としての意識そのものを否定していてそのため死ぬと意識は消える」
というトノーニ教授の帰無仮説理論では、死者として意識の消えてしまったはずなのに、なぜ、ラタラジューの応答型真性異言現象が起こったのか、説明のできない、起こってはならないはずのトンデモ現象になってしまいます。
トノーニ教授の理論は、「ラタラジューの事例」の説明仮説としては、すでに検討外です。

生まれ変わり仮説の「鉄壁の砦に立てこもるラタラジューの事例」は、最新の現行唯脳論といえども、相変わらず攻略は無理のようです。 

Unknown さんのコメント...

 坊さん

 いや、「潜在意識」を信じるとかいうよりも、むしろ現行の脳内現象では説明がつかないものに関して、むしろ最近では唯物論サイドが「脳の未解明領域」と絡めて「無意識」「潜在意識」という言葉を都合よく使用しだしているのですよ。
 
 そして、以前私は、「無意識」も「潜在意識」も、まだ未解明なものであるだけに、唯物側も二元論側もどちらの陣営でも都合よく使える代物となっていると記述しておりますが、そこらへんは読まれていないようですね。

 さらに言えば、意識活動を「意識」と「無意識」に分けて、そのうち「意識」は「無意識」の結果引き起こされたものを追認するのが働きであるという受動意識仮説があり、よって唯物側も、意識そのものや無意識・潜在意識そのものまでは完全には否定していないよと記述しているのですが。
 
 そしてこれは以前にも記述いたしましたが、15年くらい前であれば、むしろ「無意識」や「潜在意識」という言葉を自分たちの都合がいいように駆使していたのは、スピリチュアルの前身であるニューエイジや、それに便乗したニセ科学等であり、それが今や一部唯物側も、臨死体験や生まれ変わりに対抗するために、「脳の未解明領域仮説(神秘とか潜在能力とかいろいろといい方はあるようですが)」の中にそれを盛り込んで使うようになってきたと指摘しているのです。

 何でそれがマーフィーだのの話となるのでしょうか。

 潜在意識を信じる信じない以前に、どっちの陣営でも都合よく使っているという現実を指摘したまでで、そして、潜在意識や無意識は、まだ性質がほとんどよくわかっていないものだけに、「それさえ持ち込めばどんな説でも都合よく説明してしまえるのだよ」ということを再三申し上げているのですが。

 ショウタさん

 稲垣先生が適切な反論をしてくださいましたので、脳量子論に関してはここでは触れません。まあ、結局のところ、

「意識は脳の産物だが、記憶だけは特別なものです」

という理屈を並べているにすぎないが、なぜそれがある特定の人物でなければならないのかなど、この説では説明できる見通しがありません。なぜなら、

「記憶という情報だけは不滅である」

という、なんとも都合がいい前提のもと展開された理論だからです。特定の結論に都合がいい状況を保持するために、考え出されたり突くというものには必ず穴があります。おそらく、唯物論サイドですら、このような説は懐疑的に見ることでしょう。

 多分この博士は、思い出を何よりも大切にされていることでしょう(苦笑)。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elder さん UROノートさん

いやはや、日曜にもかかわらず、疲れを知らない子どものように(古いですねえ 苦笑)毎度の懇切丁寧な反論コメントを、すかさずいただけることに、うれしくもあり、それは管理人の誇りでもあり、ほんとうに頭が下がります。

読者の皆様に代わり、あつくお礼申しあげます。

読者の皆様には、このページにかぎらず、これまでの長々とした諸コメントの応酬は、生まれ変わり仮説か、唯脳論仮説か、いずれが諸事実との照合に矛盾せず「説明の成功」が成り立つのかを検討しているわけで、一つの知的ゲームとして楽しみながら読んでくださることを願っています。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

すみません、こちらはタエの事例の再検証に関する意見が大分まとまってまいりました。昨今はコメント欄が大変盛り上がっていたようですので、議論が煩雑化することを避けるためにしばらくその投稿を差し控えていたのですが、ようやくコメント欄も落ち着いてきたようですので、そろそろ投稿を始めさせていただいてもよろしいでしょうか。(笑)

稲垣 勝巳 さんのコメント...

VITAさん

「その40」に移ってから投稿願います。