SAM催眠学序説 その37
ここから先は2006・10月のアンビリでは一切放映されていません。
私に言わせれば、生まれ変わりの真実を探究するとすれば、この先こそ重要なのです。
ここからはタエが魂として肉体を離脱したあとの、霊界(中間世)に在ったときの記憶を探るという形をとっています。
また、ここで初めての、催眠中における守護的存在の意図的憑依実験を試みています。
催眠を用いて、意図的に霊的存在を憑依させる、という試みを私はこれまで本で読んだことはありません。
ただし、ブライアン・ワイス 『前世療法』PHP、の中に「マスター」とワイスが呼んでいる高級霊が偶発的に被験者キャサリンに憑依するという現象が記述されています。
私はこの事例を知っていましたから、偶発的な憑依が起こるならば、意図的に憑依が起こせないか、と思ったのです。
注:THはセラピスト稲垣、CLは被験者里沙さんの略です。
TH:身体から抜けましたか? 抜けましたか? あなたはどこにいますか?
CL:・・・暗い。
注:この「暗い」所とは、臨死体験者が、体外離脱後、魂として霊界に向かう過程で共通して報告する「トンネル体験」だと思われる。里沙さんは、臨死体験関係の著作を読んだことは一切ない。
TH:じゃあ、その先へ行きましょう。・・・穏やかな気持ちで、今いますか?
CL:はい。
TH:もう暗くはありませんか?
CL:はい。
TH:どんなふうですか? 言葉にしにくいかもしれませんが、できるだけたとえてみたら、どんなふうですか?
CL:・・・うーん、明るい・・・光の、世界。
注:いわゆる「トンネル体験」を経て霊界(中間世)に至った記憶だと思われる。
TH:あなたには肉体はあるのですか?
CL:ありません。
TH:意識だけがあるのですか? 意識って分かりますか? 心。
CL:「わたし」です。
TH:「わたし」がいるだけ? 身体はないのですか? じゃ、あなたが男か女か分かりますか?
CL:分かりません
TH:ほかにも、あなたのように「わたし」だけという存在を感じますか?
CL:はい。
TH:その世界で何をしているのですか?
CL:・・・浮かんでいます。
TH:ずーっと永遠に浮かんでいるのですか?
CL:上へ上へと、行く。どんどん、光の中を。
TH:で、「わたし」という存在のことを、魂と呼んでいいのですか?
CL:はい。
TH:魂のあなたは、そこにずーっと居続けるわけですか?
CL:・・・入れ替わります。
TH:「わたし」が入れ替わるとは、また誰かに生まれ変わるということですか?
CL:はい。
注:この返答は後になると「分かりません」になっている。生まれ変わることについて、魂のタエは知っているのか、知らないのか判然としない。
TH:それまでその世界にいるわけですか。で、その世界の居心地はどうですか?
CL:気持ちいいー。
TH:また生まれ変わりたいと思わないくらい気持ちがいいのですか?
CL:・・・分かりません。・・・生まれ変わる?
注:あとで守護霊が語ったところによれば、里沙さんの魂は、タエが最初の人生である、したがって、タエのまえに前世はないということで、生まれ変わりの体験がないので、生まれ変わるという意味が分からないと答えていると解釈できる。
TH:次に生まれ変わるのが、もう嫌というぐらい居心地がいいのですか?
CL:・・・分かりません。
TH:実は、その時間も空間も超越した世界のことを中間世って呼びます。そこには、あなたの次の人生を、どう生きたらいいのかを導いてくれる、偉大な存 在者がいると言われています。でも、その存在者がどんなふうかは私には分かりません。あなたには分かるはずです。その存在者とコンタクトはできますか?
CL:はい。
TH:その姿が見えますか?見えたらどんなふうか、お話してください。
CL:大きい人。髪と髭が白くて巻き毛で長い。眉も長い。鼻は大きい。目も大きい。 唇は厚い。
TH:異国の人ですか? そうではない?
CL:そうです。
TH:肌の色は?
CL:赤黒い。
注:セッション後の里沙さんの記憶では、この「偉大な存在者」が赤黒い肌に見えたのは、後光が差しており、逆光の中で顔の色が赤黒く見えたということであった。したがって、異国の人のような感じがしたということであった。
TH:どんな衣装を着けてみえますか?
CL:白い・・・マント? ・・・。
TH:ローブみたいなものですか?
CL:(頷く)
TH:その方はあなたのそばにみえますか? じゃ、コンタクトはとれますか?
CL:はい。
TH:じゃあ、私がいくつか尋ねるので、あなたからその方に尋ねて、答えをもらってください。そこでは言葉がいりますか?
CL:いりません。
TH:心で思ったことが、ストレートに相手に伝わるわけですか。(CL頷く)じゃ、尋ねます。あなたがわずか16歳で、みなし子として貧しい生活の中で 生きてきて、そして、みんなのための犠牲になって死ぬわけだけど、その短い人生で、あなたが学ばなければならなかったことは何でしょう?私から見る と、ただ悲しいだけの人生 に思えるんだけど。その方に聞いてみてください。なぜ、あなたはそんな人生を歩まなければならないのでしょう? 答えが返って きたら教えてください。
注:ここからは、魂となっているタエの霊界の「記憶」の想起ではない。「偉大な存在者」とタエの魂との現在進行形の対話に移行している。セラピーをおこなっ ている私は、「里沙さんがタエであったときの前世の記憶」とし扱っていたはずなのに、知らぬ間に、「タエが魂状態に在る現在」として扱っているという時制 の混乱を起こしている。
この奇妙な時制の混乱は、里沙さんが前世の記憶にあるタエを語っているのではなく、タエという存在は、里沙さんとは別に、今、ここに、顕現化している前世人格だ、という扱いを無意識的に私がしていることから生じている。
こうした分析がきっかけとなって、「前世の記憶」として扱うことから、「前世人格の顕現化」として扱うことへと考え方を大きく転回するSAM前世療法の理論的基盤が生まれることとなった。そして、このセッションから1 年半後、私あて霊信(2007,1,11~2,14)の告げた魂の二層構造によって、SAM前世療法の明確な作業仮説の骨格が与えられることになる。
CL:・・・みなのために、村を救う、みなを、幸せにするために、生きる人生だった。
TH:あなたは、今、満足していますか? 自分のタエという人生を振り返って。
CL:はい。
TH:もう一つ聞いてもいいですか。今度は、できればあなたの口を借りて、その偉大な存在者とお話することはできないでしょうか? 要するに、あなたに乗 り移るということですよ。直接にその方の言葉で、伝えてもらえないでしょうか? できなければ無理は言いません。できたら、それをやっ:てみたい。できます か?
注:この試みは、守護的存在との現在進行形の対話を企てたということになる。
この試みを提案した私は、明らかな自覚として、今、ここに、里沙さんに乗り移っ た(憑依した)守護的存在と、対面することを望んだのである。
もはや、里沙さんの前世記憶という扱いを放棄している。そして、里沙さんに霊媒としての役割 を担ってもらい、守護的存在と交霊しようと試みたということになる。
CL:・・・はい。
(その4に続く)
26 件のコメント:
ショウタさん
あなたの投稿は、これまでと同じく論点が飛躍し、「投稿の留意点」に挙げてあるガイドラインに抵触しており、かつ読者からあなたの知性が疑われるおそれがある、と判断しましたので掲載を削除しました。
また、あなたの質問してきた「偶然の一致」説について私の見解を述べましたが、それについての返礼を一切せず、ここのテーマと無関係な人工知能の質問をしてくるという了見はいただけませんね。
念のため「コメント投稿の留意点」を貼り付けておきます。
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ブログ「稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究」 管理人 稲垣勝巳
ショウタさん
前コメントで「コメント投稿の留意点」を貼り付けました。
無視しておいでのようですね。
ここで話題にしているのは、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に関わる生まれ変わりの真偽です。
このブログは、「意識と脳の関係」について議論する場ではありません。またその話題についてはすでに「その34」で議論されています。
よく読んでください。
したがって、「各記事ごとのテーマから飛躍・逸脱しているコメント」に相当し、コメント投稿のガイドラインに抵触しますから掲載を削除しました。今後も、同様に、ガイドラインに抵触するコメントは、掲載しませんのでよろしく。
このブログではなく、他のサイトで議論を持ちかけてみてはどうでしょうか。反証可能性に閉じた抽象論でも取り上げてもらえるかもしれません。このブログでははっきりお断りです。
お久しぶりです。
私はやはり死後の世界や生まれ変わりなど死後存続は信じられません。
ラタラジューの事例は自己暗示や催眠誘導などで古い記憶の再合成だと思います。
脳の見る夢は不思議で夢で見たり聞いたりした曲を再現したり新しい開発のヒントになる事例も存在します。
正夢現象なのではないでしょうか?
坊さん
現時点の唯物論による仮説では「ラタラジューの事例」の説明・解釈は不可能です。その理由を以下に述べますが、これまでに何度も繰り返していることです。
あなたの提出している「自己暗示や催眠誘導などで説明できる古い記憶の再合成」仮説は、いわゆる「潜在記憶仮説」と呼ばれる仮説です。あなたが、「その34」で持ち出している「無意識のうちにネパール語を獲得した」という仮説も同じです。
こうした仮説が成立するためには、現世のどこかで、被験者里沙さんが、ネパール語を無意識的に、あるいは潜在記憶として獲得していたはずだと仮定することが前提になります。
しかし、里沙さんにはネパール語との接触がこれまで一切ないことが、綿密な生育歴調査とポリグラフ検査で検証されています。この検証に疑義があるというのであれば、誰にでも再検証できるように反証可能性が開かれています。再検証してみますか?
ネパール語を無意識的に潜在記憶として蓄えようにも、一切のネパール語の入手先がないところで、どのようにして記憶として蓄えられると思いますか? 蓄えられてもいないのに「古い記憶の再合成」などが到底できるはすがありません。
無から有が生じるはずがないでしょう。
このことの合理的説明ができないかぎり、潜在記憶仮説はすでに破綻しています。
そこで、生まれ変わり研究者が、最後に持ち出した仮説が「超ESP仮説」です。
つまり、透視・テレパシーなど超能力によってネパール語を入手した、という仮説です。
しかし、ネパール語の単語やナル村の
生活などの「情報」までは超能力で入手できたとしても、ネパール語の会話「技能」は、超能力でも入手不可能とされています。「技能」を超能力で入手できたとする能力者は、研究史上発見されていないからです。
「ラタラジュー」は、被験者里沙さんの学んではいないはずのネパール語会話をしています。
あなたは、ラタラジューのネパール語会話を、本気で、里沙さんの催眠中の「正夢」現象で説明できると思っているのですか? 夢の中で、対話者カルパナさんと、一部にせよ、現在進行形のネパール語会話ができたと思うわけですか? 夢の中で、眠っていない対話相手と、応答的に真性異言で対話できたなどという事例は、これまで一切ありません。
そもそも夢をみるということは、催眠ではなく睡眠に移行しているということです。睡眠中には、対話相手のカルパナさんの問いかけに一切反応しません。それとも、寝言で意味の通じるネパール語対話ができたと本気で思うのですか?
そうした根本的矛盾に気づきませんか?
あなたは、この超常現象の謎を、唯物論による仮説でどう説明しますか? できるものなら、反証可能性に開かれた仮説で説明をお願いします。
私は真面目に意見を出します。
唯物論とスピリチュアル派の中間立場です。
意識は脳の随伴現象で肉体に限られたもので死んだら消滅すると思いますが記憶は脳とは別に存在して死ぬとチリ見たく舞ってその記憶が生きている人の肉体に結び付きその記憶が残るのが前世の記憶だと思います。
ラタラジューの記憶も何らかの形で理沙さんに結び付いたのだと思います。
ショウタさん
生まれ変わりを真面目に考えたなら、あいまいな「中間派」などありえません。
生まれ変わりが、あるか無いかのいずれかしかありません。
「記憶は、脳とは別に存在し、死ぬとチリ見たいに舞って、その記憶が生きている人の肉体に結び付き、その記憶が残るのが前世の記憶である」というあなたの考えは一切の実証がともないません。整合性がないうえに、反証可能性に開かれていませんから、仮説でもありません。根拠のない「憶説」といいます。
この憶説によると、脳の海馬の役割はどうなるのでしょう?
坊さんも、ショウタさんも残念ながら礼儀というものをご存じないようですね。
①真摯に答えても返礼しない
②一方的に意見を述べる
③質問に答えない。
個人的にはそろそろ断固たる処置も必要かと思います。
もっともそうすると、自分たちはちゃんとしたのにというのでしょうね。
「学問的禁欲」ということばがあります。「研究的禁欲」と言い換えてもいいでしょう。
要するに、天才でもない普通人は、自分の学問分野なり研究分野を自己限定し、その守備範囲内で、錐の先でグリグリ揉み込むように、徹底して探究を深めよ、きわめよ、という戒めのことばです。禁欲を忘れて、あれもこれもと手を出しても、ものにはならないぞ、という戒めです。そして、禁欲を守って、一つことを愚直にきわめることが、真理につながる道なのだ、という先人の知恵でもあるのです。
私は、一介の臨床催眠実践者であり、専門的研究者でもありません。
その私に、たまたま与えられた、きわめてまれな「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に限定して、生まれ変わりの可能性を徹底的に探究することが、私の研究的禁欲です。
そして、探究の指標は、「観念より事実、理屈より実証」を重んじることです。
したがって、催眠現象と前世療法に関わることを除いた守備範囲以外のことについては、自信をもって見解を述べるだけの知見はありません。
>私は、一介の臨床催眠実践者であり、専門的研究者でもありません。
その私に、たまたま与えられた、きわめてまれな「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に限定して、生まれ変わりの可能性を徹底的に探究することが、私の研究的禁欲です。
科学はありとあらゆる可能性やいろんな仮説や理論を調べ研究して追及するのが真理探しだと思います。
専門以外や禁欲は「社会経験がないから世間知らずで仕方がない」と正当化しているのと同じで生まれ変わりを本当に研究や実証するなら心理学、宇宙学、そして脳科学などの様々な分野で追及してその専門家に論文を出し検証協力を得たり研究するのが真理探しだと思います。
自分は一般人なので立場的には俄か知識で満足しても自由ですがやはり現実があるのでそれじゃ満足できないし真面目な会話や価値観には持ち込めなく家族や友達とならともかく職場の人や酒の場で話したら馬鹿にされたりするレベルでまだ世間的にはエンターティーメント。自分は理性で追及しています。だから常に研究を求めています。
宗教の幸福の科学や統一教会も世間では盲信と批判されていますが実際はジムタッカー博士やイアンスティーブンソンの事例や臨死体験の研究などを持ち出したり科学を無視しない内容を教義に取り上げています。しかし世間は主流派の学者には扱ってくれいないので疑似科学とかオカルト医師とレッテルをつけます。
稲垣さんの研究を見るとハッキリ言いますが幸福科学の資料みたな物しか扱ってくれなくジャンルは科学ではなく宗教ではないが精神世界だと思います。
精神世界の分野から科学の分野で取り上げられることを期待しています。
ちなみにボクはなぜ理性で求めているかは亡くなった祖父母に再会したいし将来亡くなってしまう親ともこれからもあの世で永遠と理性で確信したい点と統一教会の信仰を理性でも納得したい。
統一教会は基本的にメディアで言われているような偏った独断な思想は少なく死後の世界と聖書を扱いながら道徳の授業をするような感じで死後存続が存在して聖書を少しかじれば何でもありで死後存続が証明されれば非信仰者でも納得できるような内容です。(別に勧誘している訳ではありません)
上目線でしたがこれがボクの考えです。
ショウタさん
論理的整合性のないチャランポランのあなたのこれまでの珍説・奇説コメントを読んできて、「専門以外や禁欲は、社会経験がないから世間知らずで仕方がない、と正当化しているのと同じ」などと批判されるとは意外でした。唖然。呆然。
こうした減らず口は、きちんとした論文を書いたり、学会発表したり、著作をしたことのない人の、要するに研究することの本質を知らない人の、それこそ世間知らずの戯言ですよ。
守備範囲を掘り下げるためには、必然的にそれに関わる範囲外の諸知見を参考にせざるをえない、ということがあなたには、まったく理解できていないようです。私は、守備範囲外の知見を知ったかぶりの評論家面をして語ることが嫌いということです。
断っておきますが、私は一切の宗教とは関わりを持っていませんし、持とうとも思いませんし、したがって、新興宗教のPRにこのブログが利用されることは断固として拒否します。
今後、あなたの所属しているらしい宗教団体を話題にした時点で、即掲載は削除します。
私の探究していることは、観念ではなく事実としての、理屈ではなく実証としての、生まれ変わりです。
あなたが、観念として「生まれ変わりの信仰を築くこと」を求めておいでなら、そうしたことを取り上げている他のブログを探し、そこで投稿をどうぞしてください。
あるいは、あなたの所属している宗教団体の信者どうしの間で、信仰・教義について議論してください。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」によっても、生まれ変わりの事実を理解することが困難なショウタさんには、私がお役に立てることはすでにありません。
ようやく本音がでてきたようですね。
信教は自由ですが、その確信は自分で持つものであって、他人に与えられるものではないと思います。
宗教についてお話されたのであれば、宗教者とされるのがよいかと。
個人的な意見ですが信仰を口にされるかたが
礼儀を知らない行動をされるのは私には
不可解ですが、それを聞いてもお答えするきはないようですし、そろそろ断固たる手段を稲垣さんがされても、読者は支持するのではないかと思います。
ショウタさんと坊さんへ
唖然 呆然 ローゼン ハウゼン 安道全も大愕然!ですね〜!( ゚д゚)ポカーン
稲垣先生のおっしゃる「学問的禁欲」というのは一種のご謙遜だろうと推察します。
これまでのブログの内容などを見ていれば、先生が相当量の当該知識を学際的に有していらっしゃるのは容易に理解できると思いますよ。
ともあれ、ショウタさんと坊さんのコメントは、いつもながらメチャクチャですね。
ネットで見かけた著名人(?)による文章やマスメディアの浅薄な情報に踊らされ、自分で検証もしないで逐一脊髄反射的にコメントする様(以前シュヴァルさんも指摘していらっしゃいましたね)、反証可能性に閉じた珍説を臆面も無く次々と披露する様は、魚類か爬虫類を想像してしまいます。人間らしく脳幹だけでなく、もう少し大脳を使ってみませんか?
花占いに一喜一憂する少女でも、花弁の数で結論を決めるのは恋愛シーンに限定するものですよ。
ロマンチックも良いかもしれませんが、ここでのあなた達に必要なものは、圧倒的にロジックです。
あいうえお作文的にまとめるならば、
ラショナリティ(合理性)
リテラシー(ここではこのブログの内容や先行研究について適切に理解し表現する力)
ルール(ここではコメント投稿の規則)
レトリック(文章表現の技術)
ロジック(論理性)
の「ラリルレロ」がどれひとつ出来ていませんね。
まずは、日本語の先生若しくは論理学の先生又は書籍などから、これらのスキルを学ばれることを、強くお勧めいたします。
シュヴァル さん UROノートさん
たびたびのコメントをありがとうございました。サイレント・マジョリティである多くの読者は、今回のシュヴァルさん、UROノートさんのコメントを支持してくださると思います。
ショウタさんは「自分は理性で追及しています」という主張ですが、彼の「理性」は、はなはだ怪しげだというほかないようです。
「ものごとを合理的に考え正しく判断する能力」を一般に「理性」と言い習わしていますが、ショウタさんの理性は、この意味ではないようです。理性で追求する人が、合理性も論理的整合性もない、チャランポランの珍説・奇説を、性懲りも無く何度も持ち出すとは考えられないからです。
私は、ショウタさんの「理性」を疑わざるをえません。あるいは、エンタテインメントとして、私をおちょくっているのかな、とも思います。
ボクにとっての理性は一般メディアや一般社会人の日常会話で持ち込める価値観です。
今の一般人の理性は唯物論ですからまだラタラジューの例はマイナーです。
自分はラタラジューを信じたいですがマイナーなので価値観では唯物にならざる負えません。でないと馬鹿にされます。
しかし感情では稲垣さん支持です。
以前から何回も指摘してきた問題点を、お二人とも繰り返しているにすぎませんね。
唯物サイドがよく使う「偶然説」「虚偽の記憶」「再合成記憶」「状況に応じて脳が一瞬にして都合のいい記憶を作り出す能力があるとする仮説」など、一見「それらしい仮説」はいくらでもあるんです。そして、そういう仮説を持ち出してきて、「説明」に充てているのが現在の状況ですが、重要なのは、「それらの説明・仮説が正しいか否か証明できるのか」ということなのであって、それは極めて困難であるということは、何回も申しあげたとおりです。
「一応説明ができる」
から
「自動的にその説明・仮説が正しい」
という現在の解釈が、果たして妥当な判断だと言えるのかということが問題なのです。
「説明できる」
から
「これでいいのだ」
では、バカボンのパパの世界と大して変わらんのですよ。
以前に転載した知恵袋での疑問にもあるように、たとえば臨死体験時の脳の状態を調べることで、唯物論が正しいことになると、すぐにその結論に直結してしまっている時点で、普通はなんかおかしいのではないかという議論になるはずなんですよ。これでは特殊な状況下における「脳の状態」までは判明しても、それがなぜ「臨死体験も脳が作っている」ことになるのか、論理が明らかに飛躍しているということは、サム・パ―ニアをはじめ様々な研究者が指摘していることなんですよ。
ついでに言うと、「意識は消滅するけど、記憶だけは脳とは別の「どこかに」都合よく残って、それが別の人間に影響を与え、それが前世の記憶になる」だとかいう珍説もまた、「どこか」というそれさえ持ち出せば何でも説明になってしまう(もっとも、これは説明にすらなっていない気がするのだが)要素を持ち込んでいる段階で、もはや仮説とも呼ぶのもおこがましい妄言です。
「意識は脳の産物だけど記憶だけは別物です」
という、非常に都合がいい、こじつけに近いような概念で、無理やりその現象を「説明」「解釈」しようとしているだけにすぎません。何が何でも死後意識が消滅してほしいという願望さえあるのではないかと邪推してしまいます。
特にショウタさんに一言申し上げたいのですが、あなたは言い訳みたいに、
「死後の世界や生まれ変わりがあるのを感情では信じたいのに、理性があるから懐疑的に見るんだ」
といいますが、そうじゃないでしょ。あなたは自分たちの宗教の教えに反する考え、意見が「気になって仕方がない」のでしょ?
今はネットがあるから、肯定派、否定派の意見なんてすぐに目に留まる。何とか、否定派に対して反論してやりたいが、あなたのご自身の能力では(失礼ながら)否定派に対して太刀打ちできない。だからたびたび稲垣先生のブログに
「こういう否定派の意見があります」
「否定派の人がこういっているからこうじゃないですか」
と、まるで小学生が先生にチクるみたいな感覚で、コピペや転載をしまくる。それでいちいち我々や稲垣先生に、それに対する反論を提示させることで、否定派に対抗したような気になっている。それで安心感を得ている。
自分では対抗・反論できないから、他人の頭を借りる、利用する。これがあなたが今までやってきたことの真相ですよ。
>意識は脳の随伴現象で肉体に限られたもので死んだら消滅すると思いますが記憶は脳とは別に存在して死ぬとチリ見たく舞ってその記憶が生きている人の肉体に結び付きその記憶が残るのが前世の記憶だと思います。
失礼ながら、これはあなたのオリジナルの考えではありませんよね?私も、以前にこういった見解をどこかのホームページで見たことがあります。特に専門家でもない方が書いておりましたがね。要するに、
「素人でもそれらしい仮説など考え付く」
というだけの話であり、それをもしほかに専門家が唱えているというならば、それは素人でも思いつくようなことを専門家がやっているということで、いかにこの分野の研究が進んでいないか白状しているようなもんですよ。
「意識は完全に脳の産物だが、記憶だけは別の媒体に「都合よく」残っていて、それが別の誰かに継承される可能性がある」
こんなのが、いかにご都合主義的な解釈かなんて一目瞭然でしょう。多分、胎内記憶や臓器移植手術後に提供者の記憶を思い出すことがあるといった実例から、多分こういうことなんだろうと推測した結果出てきた解釈でしょうね。「別のどこか」がなんなのかもさっぱりわからないし、そもそも本当にそういうものがあるのか、それを唯物論で証明できるのでしょうか(笑)。これなら「別のどこかにあるかもしれないあの世」があることを証明するのと大して変わらんような気がいたしますが(笑)。
確か、前に私のハンドルを勝手に利用したのも、あなたでしたよね。前のブログの時に。ずいぶんと非常識なことをされるようですが、それが「宗教に対する偏見」とやらを助長しているとはお考えになりませんかね。あなたみたいな行動をとる人ばかりが宗教関係者にいるとなると、私だって偏見を持ちますよ。
ここはあなたのいる宗教団体のように、みんながその教義を信じて一体感をもつといった場所ではないんですよ。そんなに自分たちの意見と異なる意見や立場の人たちが気になりますか?許容できませんか?いい加減、自分の精神の安息や充足のためにこちらのページを利用されるのは終わりにされてはいかがでしょうか?
ショウタさん
「一般メディアや一般社会人の日常会話で持ち込める価値観」を「理性」と呼ぶことはとんでもない錯誤です。
そのような価値観は、時代状況や流行によってくるくる変化することは、歴史を学べば一目瞭然でしょう。そのようなものは「理性」ではなく、「流行」あるいは「ファッション」と言うべきであり、強いて言うなら、流行やファッションに価値を感じるという意味で「価値感」です。「価値感」のような不安定で揺らぎやすい感情を「理性」だと思っているとしたら、きわめてヘンな混同ですよ。
「感情に左右されず、ものごとを合理的に考え正しく判断する能力」が「理性」です。流行やらファッションのあり方(価値感)について、合理的に考え正しく判断する安定した能力が理性です。
価値感と理性を同列にしてはならないことがお分かりになったでしょうか?
あなたの1日の大半を占める職場の人たちが唯物論の「価値感」一辺倒であるとすれば、職場の人間関係から浮き上がらないために、アンビバレンツな葛藤に苦しんでおいでであろう事情は想像できます。また、そこからの救いを求めて宗教団体に引き寄せられたことも理解できました。
正しい意味での「理性」でもって、ご自分の所有する確かなものをつかんでほしいと願っています。
orphan elder さん
いつもながら、唯物論陣営に対するきわめて「理性的」なコメントをいただきありがとうございました。
ショウタさんも勉強になったことでしょう。
もっとも、これまでの通例からすれば、彼はコメントを読まないかもしれませんし、読んでも理解できないかもしれませんが。
そうであれば、縁なき衆生ということでしょう。
おはようございます。
UROノートさん、orphan elder さん
の指摘も、おそらく無視されるでしょう。
現状では単なる稲垣さんのレス欲しいといっているようにしかみえず
それも煽っているだけです。
第三者から見ると
①議論する気は無い
②一方的な主張するのみ
③自らは一切証拠、データ、実証は見せない。
④礼儀を知らない
これに失礼な言動が加わるとにちゃんねると変わらないわけです。③の時点で稲垣さんの主張が正しいと認めたことになるのですが
おそらく真偽などどうでもいいんでしょうか。
社会で、このようなことをすれば出入り禁止になっても当然です。
繰り返しますが、③の時点ですでにショウタさんも、坊さんも稲垣さんの言説を認めたことになっているのです。
そこをわかった上で投稿されることを期待します。
ショウタさんの投稿に進歩がないわけではありません。
私はそれを認めています。
彼は会社勤めの社会人のようですが、かつての「ボク的には」という自称が、「私は」という社会人として真っ当な自称になったことです。
また、珍妙な唯物論仮説、これは坊さんも同様ですが、そうした投稿によってレスが盛り上がったという貢献、話題提供という貢献は、確かにしていただけたとブログ管理人の立場として感謝しています。
今後は、「理性」を働かせて、検討に値する新たな仮説を投稿していただけることを楽しみにしています。
「生まれ変わりの実証」という鉄壁の砦に立て籠もる「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を揺るがすような理性的攻撃を仕掛けてみてください。
一つお聞きしますが私とショウタさんに対し稲垣氏のコメントを読んでいないと批判しますが稲垣さんは苫米地氏や石川幹人氏などスピリチュアル否定派の著書を読んで検証した事あるんですかね。
私はなぜ稲垣氏を否定するかと言いますと研究に熱心さは伝わりますが肯定派になり変な価値観にならないかです。
オウム真理教の信者も理系の優秀な大学生でしたが洗脳され興味を持ち誤った思想を持ってしまいましたしそれ以外の科学者もオカルトに嵌り思考停止して研究を台無しにした人も少なくありません。
感情論や偏見をもつな?綺麗事ですね。
再び言っておきますが人間も動物です。
死ねば体は機能しなくなり意識が消えて腐ったり焼かれて灰になり骨になるだけです。
機械だって壊れたら機能しなくなる。生物も機械の肉バージョンで壊れて死ねば機能しなくなりそれ以上でもそれ以下でもない。
坊さん
石川幹人氏の著作は読んでいます。彼は超心理学者ではあるが、生まれ変わりの研究者ではありません。検証しようにも彼には生まれ変わり研究に関する言及はありません。苫米地氏は生まれ変わりの研究者でもなく、超心理学者でもありません。あなたこそ、超心理学者笠原敏雄氏の著作やイアン・スティーヴンソンの著作を読んでいますか?
「死ねば体は機能しなくなり意識が消えて腐ったり焼かれて灰になり骨になるだけ」というあなたの見解は、唯物論信仰というべきであって、生まれ変わりを示す「ラタラジューの事例」はその唯物論信仰に穴を開けるどうにも目障りな事例だということでしょう。目障りであるけれども、あなたの微力では、この事例が生まれ変わりの証拠ではない、という反証が提出できず、論破ができないでいるからイライラする、ということなんでしょうね。
しかし、感情論として、唯物論が絶対正しいはずで、それに反する生まれ変わりの事実をどうしても認めたくないので、心理的不協和が生じるのでしょう。なぜ、生まれ変わりの事実を認めることが、そんなに不都合なんでしょう。それともこわいのですか?
生まれ変わりの科学的事実を私が示すことと、洗脳やらオカルトとを結びつけることは、ましてやオウムと結びつけることは、とんでもない偏見、論理の短絡・飛躍だとは思いませんか?
生まれ変わりの科学的事実自体は、よい、悪いという価値判断とは無関係であり、中立であるものです。
なぜ科学的事実を示すことが、洗脳になりオカルトになるのか理解に苦しみます。洗脳・オカルトの定義ををきちんと調べてからものを言いなさい。
こうした論拠のない主張を言いがかり、あるいはイチャモンと言うのです。
聞き捨てならないことは、「感情論や偏見をもつな?綺麗事ですね」という捨て台詞は、あなたの品性を疑われます。感情論でものを言うな、偏見をもつな、ということのどこが「綺麗事」でしょうか。これを綺麗事だというあなたは、感情のおもむくまま、偏見をもったままで投稿していることを認めていることになります。そして確かに今回のあなたの投稿は、感情的反発と偏見の臭いが濃厚ではあります。
今後、理性を欠く感情論、偏見による捨て台詞等の認められる投稿は削除しますのでご了解ください。
御両名ともだんだん本音がでてきたようですね。
疑問に対して疑問で反論するのは詭弁だと思います。
「私とショウタさんに対し稲垣氏のコメントを読んでいないと批判しますが稲垣さんは苫米地氏や石川幹人氏などスピリチュアル否定派の著書を読んで検証した事あるんですかね。」
ということは自分は稲垣氏の分を読んでいないということでよろしいんですよね。
よんでいないのに批判をされたということですか?それ以上でもそれ以下でもないということであればもうここで書かれることはなにもないように思います。
質問には答えない。返礼もしない
なのに被害者というのは二チャンネルでもよく見られる言動ですが
ここでは読んでるひとはそううけとらないように思いますよ。
確かに私は私は自分の考えというより他者の意見に左右されている事は事実です。
これまでの稲垣さんのコメントやブログを読むと稲垣さんはあくまで感情論や偏見を抜いて事実のみの研究ということがわかります。
最終的には「まだ未解明だが生まれ変わり説を支持」という立場ですね。
ラタラジューの事例は唯物論の明確な理論をできていなく脳の神秘説や未解明領域説も現在ははっきりと証明できていないのだから唯物論者の批判も感情論や全て幽霊のせいにする思考停止と変わらないという事ですね。
確かにこう見ると肯定派の意見も説得力あると思います。
私は公の場で持ち込めないから信じないと言ったのも結局は無難なところに逃げていたのかなとおも思えるようになりました。
シュバルさんのご指摘のように
「機械だって壊れたら機能しなくなる。生物も機械の肉バージョンで壊れて死ねば機能しなくなりそれ以上でもそれ以下でもない」
という、坊さんの負け惜しみ? 捨て台詞? 唯物論信仰? によって、彼の頑な偏見が露わになったと私も思います。
坊さんのような柔軟性に欠ける固いレベルの感性の持ち主にとっては、疑問の余地のない完璧な生まれ変わりの事実を示されることは、生きることの根本に深甚な衝撃を与えることになることが容易に想像できます。
2005年に「タエの事例」に出会い、生まれ変わりの検証を突き詰めていったときの私の衝撃の心境がそうでしたから。そして、2009年の「ラタラジューの事例」の徹底的検証によって、ようやく、生まれ変わりを認めるしかない、という結論に至りました。
そして、かつての私のように、現在の坊さんのように、生まれ変わりの事実を、虚心坦懐に受け入れることを頑なに拒否する人が、現世の人間のおそらく過半数を越えているのではないかと思います。
そこで、疑問の余地のない完璧な生まれ変わりの事実を、現時点で、一気に示すことは、世に無用な混乱をもらたらすことになり、いまだ時期尚早なのだ、濃厚な状況証拠を示すことに留めておこう、と計らっている人間を超えた存在が、どこかにいるのではないか、そういう想像をしてもよいのではないか、と私は思うようになっています。
ショウタさん
「私は公の場で持ち込めないから信じないと言ったのも結局は無難なところに逃げていたのかなと思えるようになりました」というあなたの述懐は、評価します。自己反省能力は、成長を確かなものにするからです。
誰かさんのもっともらしく言うことを「ほんとうにそうか?」と問い直す懐疑精神を大切にしてください。懐疑精神は私の主張している内容についても適用して、「ラタラジューの事例」を検討してみてください。
坊さん
あなたの高く評価している苫米地氏の二枚舌が、UROノートさんのコメントで暴露されています。あなたも、懐疑精神を発揮してUROノートさんの暴露記事の検証をしてみることです。ついでに、ご自分の固く信奉する唯物論も「ほんとうにそうか」と再検証してみることです。すくなくとも「ラタラジューの事例」が、現行唯物論では、けっして満足な説明が成り立たないことが見えてくるはずです。
と言っても、私はあなたを説得するつもりは毛頭ありません。
厳然たる事実に対して謙虚に思考できない人には説得はできませんから。
はい
私は元「聖パウロ」という名でコメントさせてもらった者ですがやはりスピリチュアルに科学は固定概念や固定常識では解決しなくあらゆる新しい視点でそして思考停止もしなく理性を保ちながら追及するのが大切だと思いました。
あと周りの意見に流されてはいけないことも学びました。
このブログは生まれ変わり科学だけでなく自分の未熟な点についても学べました。
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