SAM催眠学序説 その162
タイトルに掲げている「霊感」とは、「肉体を持たない霊的存在とのコンタクト能力や霊的存在への感受性」の意味で用いています。
こうした意味で、SAM前世療法によって「前世人格の顕現化現象」を体験されたクライアントはその程度の差はあれ、何らかの「霊感」の持ち主と言って差し支えないでしょう。
なぜなら、言ってみれば前世人格とは、魂表層を構成している肉体のない霊的存在(死者) に他ならないからです。
現時点で、「前世人格の顕現化現象」を体験されたクライアントは91%ですから、わたしのセッションを体験したクライアントのほぼ9割には霊感があると言えるでしょう。
ここには、とりわけ特殊な霊感の持ち主であるクライアント2名のセッション事例を紹介します。
【 事例その1】
下記に掲載するのは、ある宗教団体の要職についておいでの男性(60代)Fさんのセッション体験報告です。
大変理知的で誠実な求道者といった印象を与えたクライアントでした。
主訴は、「魂の実在」と「親神さま」(天地創造と人間創造のすべての創造神)の実在を実感したいということでした。
自分の催眠状態をモニターしている冷静な顕在意識のありようがよく分かる貴重な体験報告です。
下記の点線内に紹介します。
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平成24年12月3日、午後3時からセッション開始、稲垣勝巳先生65歳。
私も65才。
1・壁を通して聞こえてくる戸外の雑音(特にトラックの通過する爆音)が気になった。
2・左側頭部で圧迫痛がした(左耳朶が特に痛い)。セッションを終えて数分で痛みはなくなった。
3.浄霊後の催眠での、守護霊の応答について。
(特に左手人差し指の動きについて。)
あの時、私の意思を離れて、勝手に指が動きましたが、あの時の指は単なる指ではなくて、指に宿った“無意識さん”の“顔ないしは頭部”になっていたのではないでしょうか?
指の動きは「上下」だけではなくて、「左右」にも動いていた記憶があります。私は自分の指の動きを感知できました。誘導の最初の頃は、指は単なる「イエス、ノー」の意味で「上下」運動をしていましたが、守護霊が現れてからは、指が霊体の頭となって「首から上」の動作をしていたように感じました。
守護霊は前世の誰かと交代することを「受諾した」のではなく、「ためらいがちに、首を左右に振った」という感じを受けました。
指は質問に応じて色々な反応をしました。単なる上下運動だけじゃなくて、一見あい
まいな動きもしましたが、それは、指が「首から上」の動きを表していたからのよう
に感じました。
守護霊の意思表示は「それはしてやりたいが、することを許されていないんだ」ということを指という「全身」で「いやいやと首を左右に振って」表現しているように感じました。
指が勝手に動くだけで、指の「意思」は私には伝わっておりません。
ただ、「親神様の降臨」の時は、それ以外の時とは全く違いました。
降臨の直前に私の意識が一瞬消えて、気が付いたら指が化身となって「昂然と屹立している」と言う感じでした。
しかも指が立つ、というより、何かの力に引っ張られて指が直立して上を指している、という感じでした。
しかも指自体は完全に脱力していました。 帰宅してから、同じ直立動作を試みましたが、自力では90度近くのあのような直立はどうしてもできませんでした。
4、セッションの最後に呼び戻される過程で、魂状態では、下半身が霊体化しているのを感じました。
現実には椅子に深くかけて、腰も膝も曲がっているはずなのに、下半身をまっすぐ伸
ばして頭と同じ高さで水平に宙に浮かんでいる感じがしました。
そして霊体の足は、現実の足よりはるかに力に満ちていました。
5、未浄化霊については心当たりがあります。
結婚後一年程で男児を出産しましたが、生後五日目に赤ん坊が死にました。
医師によれば、生まれつき複数の代謝異常があって生きられなかったそうです。
本人もその数カ月後に腎臓病で死亡しました。
その後、○○教では、神道に倣って、死後に一年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、
十年ごとに慰霊の年祭をしますが、婚家がしましたので、たぶん形式的で、真の慰霊
にはなっていなかったのでしょう。
夫はすぐに再婚しました。
浮かばれない気持ちは分かりますが、何故血族の家内に憑依せずに私に憑依した
のかが分かりません。
私は○○教の中で、指導的な立場を与えていただいております。
○○教には定年制はありませんが、今、私が教会長をつとめている教会の会長職を
倅に譲ろうと準備を進めているところです。
来年11月3日に正式に譲る予定です。
これまで何十年と霊的真理については研究を重ねてきて、その過程で、どうしても実証的な体験をしなければ、人に確信をもって言うことができない、と思うようになりまして、今年に入った頃から、私に前世体験をさせてくれそうな人を探しておりました。
飯田史彦先生のことは、『生きがいの創造』を出版なさる前からネットで知っており、先生にメールでお願いして、あの本のもとになった論文も頂きました。
そのご縁から、門真市の奥山輝実先生も知りまして、色々下調べをしてみましたが、お二人とも施術者としては優秀ですが、死後の霊魂の存続については、個人的には信じておられるようですが、公式には態度保留というお立場にみえます。
前世があるかないか分からないが、一定の治療効果があるから、たとえ見えたものが無意識の作り出したビジョンでもいいではないか、という見解のようです。
私の求めているのは、治療ではなくて「霊的真理」のみですから、 と申しますのは、○○教では、一定の信仰信念に達しますと『おさづけの理』という、いわば「ヒーリング能力」を付与される制度があります。
私には「身上助けの効能の理としてのおさづけの理」という宗教的なヒーリング能
力がすでにありますから、治療には興味も必要もないのです。
どこかにどなたかいらっしゃらないかなあ、とネットサーフィンしていて、偶然稲垣先生のことを知りました。
あらゆるサイトを探して、先生のことはあらかた分かりました。
教師をなさっておられた頃のことや、近年のタエの事例やラタラジューの事例のその後の経過も逐一調べました。
この先生に会いに行かなければならない!と心に決めて先生にセッションの事前予約を承諾して頂いた後、その旨を家族に相談しました。
が、猛烈な反対にあいました。
家内は一定の理解を示してくれましたが、二人の息子が強硬に反対するのです。
長男は教会長後継者ですので、「今、おやじがオカルト的な行動をすると、教団に知れたらどんな処分を受けるかわからん。どうしてもやるのなら、完全に退職してからやってくれ」というのが彼の意見です。
次男は少壮の物理学者ですが、「行くのはいいが、いきなりセッションを受けるのは やめて、まずはその方と会ってみてはどうか?
世間には色々いかがわしい輩もいて前世体験などと言って金品を巻き上げる事例も多いから。おやじなら、一度会えばその人物が本物かどうか見分けがつくだろうから」という意見です。
私は悩みました。
倅たちの意見は至極尤もです。
私が強行する理由はありません。
ところが、心はどうしてもすぐにでもセッションを受けたいとはやるのです。
色々考えた挙句、長男の意見に従うことにしました。
先生にも申し上げたように私はPCのエキスパートです。
ちょうどその頃(11月19日)に、長女が自宅のPCの無線LANを組んでほしいと言ってきまして、そのために普段私が使っているノートPCを持って行きました。
無線LANはすぐに構築できまして、時間がありましたから、そうだ、稲垣先生に延期をお願いしようと、上記の理由を詳細に書いて来年の11月3日のあとにセッショ ンを受けたい旨のメールを送信しました。
ところが、受信サーバは反応するのですが、送信サーバが反応しません。
何度やっても同じです。
他人からPCのメンテナンスを依頼された場合は、設定を色々いじってなんとか直し ます。
そのときも送信できるようにする自信はあったのですが、無理はやめようと思いました。
これは、何かのメッセージに違いない。
延期をお願いするメールが送信できないのは、早急に行けという意味ではなかろうか。
よし、直観に従おうと決めました。
但し、倅が心配するだろうから、家内には本当のことを打ち明けて、倅には内緒でいくことにしました。
もちろん、どんなことを経験しようが、来るべき時がくるまでは倅には内緒にしておくつもりでした。(今でもそう思っています)
12月3日朝、不思議と心は穏やかでした。生まれて初めての経験、それも唯物論ではありえないことに遭遇しつつあるのですから、極度の期待と緊張があるはずなのに、まるで日常のルーティン・ワークをこなしているような平静な自分に驚きました。
自分は行くべくして行っているなあ、となかば可笑しいように自分を観察していました。
駅を降りて、お会いする前に、ご自宅周辺を30分ほど散策しました。
デジャブは感じませんでしたが、とても懐かしい気がしました。
それから、呼び鈴を押しました。
お会いして、私より先生の方が少し緊張なさっている印象を受けました。
あとは先生御承知の通りです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(終わり)
とりわけ、水平に置いた手のひらの人差し指がほぼ垂直に直立した現象には驚きました。
わたしもやってみましたが、とても真似のできることではありませんでした。
解剖学的にも、人指し指の間接が単独で直立状態に立つことは不可能です。
「指が立つ、というより、何かの力に引っ張られて指が直立して上を指している、という感じでした」という述懐がありますが、これは降臨されたと思しき「親神さま」が、指を立てた 主体であると考えれば筋が通る現象です。
なお、「指自体は完全に脱力していました」ということですから、指を直立させた主体はクライアント自身の顕在意識ではないと考えられるからです。
また、「私の求めているのは、治療ではなくて『霊的真理』のみ」、「どうしても実証的な体験をしなければ、人に確信をもって言うことができない」と述べるほどの真摯な求道精神の持ち主であるクライアントですから、その求めに応じて「親神さま」と呼ばれる存在が顕現化している証として知らしめた指の直立現象だととらえてよいように思われました。
こうした霊的超常的現象に遭遇できることも、SAM前世療法ならではの醍醐味の一つです。
次に紹介するのは、P子さんという33歳のタイ国女性のセッション事例です。
セッション期日は令和5年5月4・5日の2日間です。
事例1のFさんのセッションから10年後になります。
彼女には過去に日本に留学した経験があり、その後タイ国の商社勤務をしながら、日本に出張する度に、過去3回ほどわたしのセッションを受けてきました。
今回は、アメリカの大学でMBAの資格を取得するため、2日後に渡米するということで 、その前に2日連続してセッションをどうしても受けたいという依頼でした。
第1日
この日の主訴は、現在交際しているタイ国人男性について、どうしても交際がうまく進まない、悲観的な感情に支配されてしまう、その理由が前世にあるのかどうかを突き止めたいということでした。
そこで、魂の自覚状態にまで催眠深度を遡行し、魂状態の自覚に至ったところで、当該男性の前世での関わりを持つ彼女の前世人格を呼び出そうと試みました。
顕現化した彼女の前世人格は、エルサルバドルの霊能力の優れた女性シャーマンでした。
現在交際中の当該男性は、この女性シャーマンの夫でした。
この夫はキリスト教徒であり、キリスト教の教義に背くという理由によって、妻であるシャーマンを魔女だとして教会に密告し、そのため女性シャーマンは拷問にかけられた末に死亡したということでした。 このことを語ったときの、前世の女性シャーマンの悲しみの号泣はすさまじいものでした。
しかも、エルサルバドルの前世で裏切り行為をした夫の生まれ変わりこそ、現世で交際中のタイ国人の男性でした。
こうして、魂表層にいる前世の女性シャーマンが、潜在意識下で、現世のP子さんにこの男性との交際に対して警告を発していたということです。
こうしたセッション結果を、クライアントのP子さんがどのように理解し、今後の当該タイ国人男性との交際に、どう生かしていくかは興味深い問題ですが、セラピストのわたしの関与できることではありませんし、関与することを一切してはならないと思います。
印象深いことは、前世を過ごしたエルサルバドルという中南米の小国について、P子さんはそのような国名をどこかで聞いたことがあるが、どのあたりにある国なのか興味・関心を持ったことは一切ないし調べたこともない、なんでエルサルバドルなどという国名を前世人格が語ったか不思議だ、と感想を漏らしたことでした。
SAM前世療法のセッションでは、当のクライアント本人が全く知らない土地の名前や人種・種族(アボリジニ、シャイアン族など)を、顕現化した前世人格が語ることが結構あります。
たとえば、「タエの事例」で顕現化した前世人格のタエは、被験者里沙さんの全く知らない吾妻川という川の名前を語っています。
どこかで聞いたことが潜在意識に残っていて、それが催眠中に顕現化したのだ、というもっともらしい説明ではどうしてもおさまり切らないような現象にわたしには思われます。
第2日
この日の主訴は、①稲垣とP子さんと、ともに暮らした前世があるならそれを知りたい、②P子さんは何回の生まれ変わりをしているか、何回の生まれ変わりで終わりなのかを知りたい、ということでした。
①について
セッション結果は、稲垣とともに過ごした3回の前世人格の顕現化がありました。
一つ目は、4世紀の中東で生きたアラブ人の遊牧民であり、仲のよい従兄弟どうしの前世であり、稲垣が年長で、P子さんとは兄弟のように羊を追って暮らしていた、ということでした。
二つ目は、10世紀のヨーロッパで白人として生きた父と娘の仲のよい親子の前世でした。稲垣が父であり、P子さんは娘であったということでした。
三つ目は20世紀始めのロンドンで生きた白人肉体労働者で兄弟同様の間柄であり、ともに助け合って働いていた前世でした。 稲垣がやはり年長で、P子さんが頼りにしていた兄貴分であったということでしたが、稲垣は重い病気になり、しかし、貧しかったため医者にかかるお金がなくて死んでいったということでした。 この労働者の前世人格が顕現化したときに、P子さんは激しく号泣しました。
②について
これまでのセッション経験では、クライアントの生まれ変わりの回数について、顕現化した前世人格に尋ねても、なかなか明確な回答を得ることができませんでした。
そこで今回は初めての試みとして、霊格の高い超高級霊に憑依してもらって、Pさんの依頼に応えてみることにしました。
魂状態にあるP子さんに、「神という存在者、あるいは神の使いである霊格の高い高級霊にお願いいたします。どうぞこの者に降りてきて、質問に答えてください」と呼びかけてみました。
エルサルバドルの前世で優れたシャーマンであったP子さんであれば、この呼びかけに応じて何らかの霊格の高い霊的存在が降りてきて顕現化するかもしれないという期待が持てたからです。
果たして顕現化した者は、神の使いを名乗る超高級霊でした。 そもそも、神を名乗る存在者自身がセッション中に降臨されることは極めて稀ですし、降臨されたとしても声を発することは、まずありません。
わたしは、この機会をとらえて、日頃から疑問に思っていることも質問してみました。
憑依してきた神の使いを名乗る霊的存在は、それまでのP子さんとは全く別人と思われる威厳に満ち、男性的な、ゆっくりした口調で、わたしの質問の回答に次のような内容を告げてきました。
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P子と稲垣が現世でこうして再会しているのは神の計画である。
稲垣は、P子を支え、助ける役目を負っている。
P子は現世が87回目の生まれ変わりである。
この後、神と守護霊の計画によって、120回までの生まれ変わりをするであろう。 ただし、P子の霊性の成長・進化の状況によって120回の回数には増減が生じる。
霊信の受信者であるM子は、すでにこちらの世界に来ており楽しく暮らしている。
稲垣の生まれ変わり回数369回に無駄のある人生はない。
多くの異なる時代、異なる人種、異なる仕事、異なる社会的地位、様々な異なる苦悩など多種多様な体験するための必要な回数として、神の計画された生まれ変わり回数である。
この生まれ変わり回数は、SAM前世療法の開発実践者として必要な資質を養うための神の計画による。
稲垣にはこの先、現世の最後の仕事が待っている。
その内容について、今明かすことは神から禁じられている。
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以上、特殊な霊感の持ち主であるクライアント2名の事例の紹介をしてきましたが、読者のみなさんはどのような感想を抱かれたでしょうか。
わたしの感想を述べてみます。
催眠学の先行研究の見地から検討すれば、中程度以上の催眠深度である「人格催眠」レベルに至ると、暗示によって指定した人物の役割演技をすることが分かっています。
したがって、【事例1】では、クライアントFさんが「親神様」の降臨の役割演技をしたのだ、という解釈を完全に排除することはできないでしょう。
しかしながら、「親神様」の降臨の証として、役割演技によって人差し指を直角近くまで直立させることは、まず不可能です。 明らかに、Fさん以外の外部からの相当な強い力の強制によって起こった現象と見るしかありません。 だからといって、「親神様の降臨」が起きたと断言することは軽信のそしりを受けることになると思われます。
結局、 「親神様の降臨」の真偽については、判断留保としておくことが科学的に公正な態度だろうと思います。
【事例2】のP子さんに降りてきた超高級霊の憑依についても、同様な結論になると思います。 判断留保です。
超高級霊が告げた、わたしの369回もの生まれ変わり回数の意味についての合理的な説明は説得力があり、わたしなりに納得できました。
わたしあて霊信の受信者M子さんの2008年以後の消息が完全に途絶えたことについて、あるいはと推測していたことが、ズバリ「こちらの世界に来ている」と告げられて、少々悲しい思いをしましたが。
また、「稲垣にはこの先、現世の最後の仕事が待っている。その内容について、今明かすことは神から禁じられている」という語りは、これまで数年間にわたってセッション中に憑依してきた高級霊を名乗る存在からのメッセージと完全に一致しています。
こうした事実を考慮すると、P子さんに降りてきた超高級霊は、わたしの守護霊団とつながっているのではないか、さらに言えば、守護霊団の一員ではなかろうかと推測しています。
なぜなら、第16霊信(2007.1.27.17:29着信)で、「あなた方に伝えるべきことは、あなた方がこれより先へと進むたびに行うであろう霊信の口頭による伝達に対してのものである」「わたしたちは必要に応じてあなた方に語りかけるであろう。そして、あなたが求める時も、必要に応じて与えるであろう」と告げているからです。
「本ブログのコンセプトは、生まれ変わりや霊魂の実在について、いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず、です」とHP冒頭の「コメント投稿の留意点」で謳ってあります。
この初志を忘れることなく、この先も慎重かつ地道に探究を続けたいと思います。
2 件のコメント:
SAM催眠塾にて学ばせていただきありがとうございました(o^―^o)ニコ
今回も、穏やかで雰囲気も良く楽しい仲間と共に学んだ8か月でした。
色々な方との一期一会の出会いに感謝しています。
SAM催眠塾にて256時間学び、やっとSAM催眠塾に慣れてきた私がいます。
「今さら、なれたというのか?」
と思われたかもしれません。
それは、いつも心のどこかで「私は、催眠について本当にわかっているのだろうか?」との思いがあり、自信がなかったからです。
「催眠について、アカデミックなことを教える場所は他にないですよ。」
と先生はおっしゃいました。
催眠手法だけのセミナーとは違い、催眠について理論をしっかりと教えていただいています。けれども、私と言えば何回通っても「催眠について理解できているのか。いないのか。」雲を掴むような感覚に
「私は、通っている回数だけが増えているのではないか・・・。」
「実践で発揮できない私は、理解できていると言えるだろうか?」
と自己嫌悪に陥っていました。
それでも、わからないなりにSAM催眠塾への参加を重ね、セラピストの経験を積み重ねていく中で、打ちひしがれるような思いは次第に消えていきました。
なぜかというと、
「催眠学」と私の「セラピストとしての経験」が合致したとき
「なるほど!このことだったんだ!!」
と発見できる瞬間に出会えるようになってきたからです。
一つ一つの発見は、小さなものです。
けれども、この瞬間に出会えるようになってから塾での気持ちが変わっていきました。
そして、この感覚は20年近く通った書道で感じた感覚と似ていると思いました。
・同じ事を繰り返しながら、手が筆の運びを覚えていく。
・先生に指導してもらい、ただ実直に筆を運ぶ。
・頭ではわかっているのに、筆を思うように運べない。
・できないイラ立ちと自分への不甲斐なさに悩み苦しみながらも、心を正してただ筆を運ぶ。
長い年月の間に「書の楽しさ」「白と黒の空間の美しさ」を感じながら打ち込めるようになったのを覚えています。(立派な作品は書けませんが、自分なりの意識の変化があり書に対する見方が随分と変わりました。)
「知識と経験」が一つになって、はじめて自分のものになっていく感覚は、書道とSAM催眠塾での学びに通じるものがあるように感じます。
SAM催眠塾で学びはじめ、手順をこなすことしかできなかった頃とは違い、少しずつではありますが自分なりに成長している実感が出てきました。
7月からスタートするSAM催眠塾が楽しみです。
歩みの遅い塾生ですが、よろしくお願いします。
このコメントは、SAM催眠塾修了生の50代男性からのメールの紹介です。
拝啓
稲垣先生、
大変、ご無沙汰いたしまして、誠に申し訳ございません。
稲垣先生におかれましてはご活躍のことと存じます。
先生に学ばせて頂きました、魂に内在する実相の真実、宇宙空間に実在する思考と感情の質量、確固たる存在として記憶と想像を体感しております。
若い学生時代に愛読したフランスの哲学者ガストン・バシュラール著『空と夢』を読み返し、時空間を縦横無尽に行き来できる人間の魂に与えられた自由力とでも表現したい気持ちになります。
しかし一方、私自身が生を受けてから現在までの厳しい記憶に苦しめられる時、魂の持つ圧倒的な力を感じます。
先生に学び、実人生を生きるという実践過程で、苦しい記憶を励ましの記憶へと塗り替えることができないものか、と真剣に考えています。
稲垣先生、ここ1年~2年ほどで現職をRetireしようと思っています。
私なりに、この人生を走って参りました。時に傷つき、時に傷つけて、大病を重ねても尚、懸命に生きて来ました。
誰しもが懸命に努力を重ねている人生を前提にとらえれば、「懸命に生きて来た」などと殊更に胸を張るのは不躾に過ぎますね。
しかしRetireを決意して想像する人生の愉しさは、先生と川べりを歩きながら語らい、また先生の書斎でパイプを燻らせながら談笑している光景です。
稲垣先生、私はRealistであり、またpragmatistです。
この性格と人生観は、私の赤貧の生まれと熾烈な家庭環境による人間への不信感、長じてJournalistを職業に選んだ現実に起因していると思います。
それだけに、容易く人を信じることができません。
私は稲垣先生の神秘な実証を知り、直に先生からお話を伺い、この身で体験して、稲垣先生を信頼しています。
とお伝えしますより、私にとりましては、世にSpiritualな世界を語り、見せようとする他の方たちは大道芸人の見世物でしかありません。
学術的に、科学的に、実証的に全てを加算して否定し難く信頼致しますのは、稲垣勝巳氏をおいて存在しません。
ですから、誠に、甚だ失礼とは存じますが、稲垣先生の下へ頻繁に通い、先生からExerciseを重ねられた大切な生徒さんであっても、私が信頼する方ではありません。
何故なら、先ほど「学術的に、科学的に、実証的に全てを加算して」と申し上げましたが、さらに「人間的に、人格的に、知的に」を合わせて信頼に値するのは稲垣先生だけだからです。
かつて文芸評論家の碩学である小林秀雄氏が民俗学者の柳田國男博士を称して「お弟子さんたちは柳田さんの下で学んだであろうが、柳田先生の個性までは学べない」との洞察を私も真似たいと思います。
私の仕事が忙しかったのは事実ですし、経済的な束縛を解いて早くRetireするためにも、暫し仕事に没頭する必要がありました。
私が稲垣先生以外でお会いしたい方は、確か吉田さんと仰ったと記憶していますが、彼の繊細さと優しさを記憶しています。
お会いできる機会がございましたら幸甚です。
先生、私は人格未熟であり、不出来な人間です。
自分の至らなさを棚に上げて人を評価するなど傲慢と偏見の極致であると自戒しながら、残された短い時間は信頼できる方だけと過ごしたいと望んでおります。
日々、先生との会話、先生の笑顔を思い出しております。
Retireしましたら東京を離れて海辺、高原、また先生のお住まいのような風光明媚な地に小さな居を構えたいと思います。
猛暑の季節に向かいます。
先生におかれましては、呉々もご自愛下さいますようお願い致します。
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