2017年10月7日土曜日

魂の実在は証明できるか

  SAM催眠学序説 その106

SAM催眠学の用いる「魂」という用語の概念は、諸宗教の信仰や宗教的価値観とは無縁な概念です。

「生前の個性や記憶などの心的要素を来世へ運搬する媒体 」という概念で用います。
こうした概念をスティーヴンソンは、科学としての生まれ変わり研究を強調し、宗教色を排除するため、soulではなく、「サイコフォー」という新たな用語を用いたらどうかと提唱しています。
超心理学者笠原敏雄氏は、これを「心搬体」と訳しています。

私は、「魂」というなじみの一般用的語がすでにあり、そこにあらたな概念づけ(創造的定義)を特にするわけでもないので、心搬体ではなく魂という用語をそのまま用いています。

さて、標題の「魂の実在の証明」はどのようにして可能でしょうか。

おそらく、魂は、物質には還元できないでしょうから、現行科学では映像化も計量化も不可能です。
魂の世界(次元)にも法則があるかもしれませんが、この世の物理的世界ものとは違うと考えられます。
時間の流れも異なるでしょうし、空間も異質であろうと思われます。

したがって、魂を想定しないと説明が成功しないような現象を累積し、状況証拠として間接的証明するしかないと思います。
私は、魂の間接的証明をするために以下の3点を考えています。

①生まれ変わりの実在を証明する。それによって、魂の実在が間接的に証明できる。

私は、この仕事を「ラタラジューの事例」でほぼ成功できたと判断しています。
なぜなら、ネパール人タマン族のラタラジューという前世人格は、SAM前世療法の魂遡行催眠によって、魂の表層から呼び出すという手続きによって顕現化した前世人格であるからです。
ラタラジューは応答型真性異言現象をあらわし、死後も魂表層で意識体として存続している前世人格であることを証明しているととらえています。

応答型真性異言は「技能」です。
「技能」は超ESP(万能の透視能力)を駆使しても獲得できないことが、百数十年にわたる心霊研究、超心理学研究によって明らかになっています。
したがって、今後、学んでいない技能を超能力で獲得したという超能力者が発見がされないかぎり、「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの科学的証拠として超心理学史上に残っていくはずです。

②臨死体験による偶発的体外離脱現象の報告の中で、当該臨死体験者の知り得ない事実を体外離脱中に見聞したという実証をする。

こうした臨死体験事例は、研究者による報告が数多くされています。
しかし、いまだに報告される体外離脱体験が「脳内の意識現象」であるのか、「現実体験」であるのかの決着はついていません。
そして、「現実体験」である実証のためには、単なる脳幹死状態ではなく、脳の血流停止状態の確認が必要です。

つまり、脳が血流停止状態になり脳細胞の死滅が明らかである状態での体外離脱現象であれば、体外離脱した意識体(魂)は脳細胞内現象ではないことが確認されることになるからです。
しかし、臨死体験とは生き返ってこそ報告される体験ですから、脳細胞が死滅すれば生き返ることは不可能となり、臨死体験報告から魂の実在を証明することはきわめて困難でしょう。
また、実際に事例を集める臨死体験研究は私の守備範囲外です。

③意図的、実験的体外離脱(幽体離脱)現象を起こさせ、その体験報告を検証する。

意図的に体外離脱を起こすことができる、と広言する人はいないわけではありません。
こうした被験者に実験室で体外離脱現象を観察する試みは、超心理学分野でおこなわれています。
しかし、確実に体外離脱現象を実証したという成功例はいまだ報告されていません。
ヘミシンクや隔離タンク実験でもそれらしき報告はあります。
しかし、そもそも、体外離脱して見聞したことが、現実体験であるのか、超ESPによる透視(脳内現象)であるのかの判断がきわめて困難です。
体外離脱をできると広言する人には、超ESP仮説のあることすら知らない人がいるようです。

④SAM前世療法によって、偶発的に顕現化する、憑依していた未浄化霊の語りによって身元を探り、その実在を検証する。

未浄化霊が口頭で語ることができた事例は、被験者が霊媒体質である場合に限られるようです。
しかも、語られた生前の身元が検証できるほど詳細であることはきわめて稀です。
この未浄化霊の身元検証も現在のところ成功していません。
ただし、浄霊という作業によって、憑依のために起こっていると思われる心理的、肉体的症状の改善が起こることを確認しています。
こうした浄霊作業による症状改善も、魂の間接的証明の一つに加えることができると思われます。

私は、SAM前世療法によって、最深度の催眠状態に誘導すれば、魂状態への遡行が、意識現象の事実として可能であることを確認してきてました。
しかも、「ラタラジューの事例」によって、魂の表層から真性だと検証された前世人格の顕現化を証明できたと判断しています。
SAM前世療法という道具によって誘導した魂状態の自覚が、はたしてほんとうに肉体と魂の分離状態であるなら、これを完全な肉体との分離状態にまでもっていくことが可能ではないか、というのが私の探究課題です。
催眠を道具として扱える私の守備範囲内の探究です。

こうした探究をすることによって、SAM催眠学の新たな展開が生まれるかもしれません。

さて、厳密な生まれ変わり研究の先達者イアン・スティーヴンソンは、前世療法によって語られる前世の記憶については、厳しい批判をしていることを、これまでにも紹介していますが、彼は後に、次のようにいくぶん修正をしています。
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 催眠を通じて表面化した事例の存在にもここでふれておかねばなるままい。私は、自らの手で調べた応答型真性異言(実在の言語を学ぶことなく知っており、その言語の話者と多少なりとも会話ができる能力)の二例(注:イェンセンの事例、グレートフェンの事例)が催眠中に起こったという事実を忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究を決して非難することができなくなった。とはいえ、、催眠によって誘発された前世の記憶というものは、ごく一部を除けば意味がないということも、ここで述べておく必要がある。
(『前世を語る子供たち』日本教文社、P.106)
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催眠による生まれ変わりや魂の実在の科学的探究は、こうした先達者イアン・スティーヴンソンのことばに勇気づけを得ています。


魂の実在を宗教的信仰レベルや個人的体験の直感レベルで信じている方には、私の態度・考え方は、厳密すぎ理屈っぽすぎ、つきあい切れないと感じられるでしょう。
しかし、超心理学の立場で、生まれ変わりの実在や魂の実在を科学的に証明するためには、避けて通れない手続きです。
超心理学は、他の諸科学以上に厳密性が要求されるのです。

なぜなら、生まれ変わりと魂の実在が、「科学的事実」であると証明された場合、唯物論に染め抜かれた個人の人生観、世界観の根本的変革はもちろん、人間科学や政治・経済など広汎な領域にまで根本的変革が際限なく波及せざるをえなくなり、現行唯物論を基盤とする人間社会の大きな混乱は避けられないからです。

だからこそ、唯物論陣営に甚大な認知的不協和が生じ、反証をともなわない感情的観念論や反証をあげられないと分かると無視という手段によって攻撃されることになります。

たとえば、拙著『生まれ変わりが科学的に証明された』ナチュラルスピリット社、のアマゾン書評にある酷評が典型です。
この書評者は、提起された科学的事実に正当な反論をするためには、同様に科学的事実で反論する立証責任がある、というルールを知らないか、無視して、いたずらな感情的反発に終始しています。
そもそも拙著をきちんと読んでいないか、ふつうレベルの読解力が欠如していると思われのです。

さて、死後、霊にもどった魂は、次の生まれ変わりまで、どこに存在するのでしょうか。
当然のことながら、死後の世界について、現世の人間は体験することはできません。
したがって、イアン・スティーヴンソンは次のように推測しています。
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肉体のない世界にも法則があるかもしれないが、この世のものとは違うであろう。時間の流れも異なるであろうし、空間も異質であるかもしれない。誰かのことを思うだけで、あたかも「今」が「ここ」と同義であるかのように、次の瞬間にはその人の目の前にいることになるかもしれないのである。

こうした肉体のない世界はどこにあるか、と問われれば私は、私たちが肉体と結びついている現世で、誰もが持っている心理的空間の中に存在すると答える。
ここでまとめると、宇宙には、物理的世界と心理的(ないし心霊的)世界の二つがあるのではないか、と私は言おうとしているのである。(とは言え、その指摘は私が最初だなどと主張する気は毛頭ない。)この二つの世界は相互に影響を及ぼし合う。私たちが現世にいる間は、肉体と結びついているため、肉体なしには不可能な体験をさせてはくれるであろうが、心の働きは制約を受ける。死んだ後には、肉体の制約から解き放たれるので、心理的世界のみで暮らすことになるであろう。そして、その世界でしばらく生活した後、その人たちの一部、あるいはもしかすると全員が、新しい肉体と結びつくのかもしれない。それを指して私たちは、生まれ変わったと称するのである。
 (『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP.352-353)
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上記引用の死後の世界についての推測は、SAM催眠学の見解もほぼ同様です。
「心理的(ないし心霊的)世界」は、「霊界」と同義と考えてよいでしょう。
ただし、「その人たちの一部、あるいはもしかすると全員が、新しい肉体と結びつくのかもしれない」という推測は、SAM催眠学では採りません。
「その人たち(注:前世の者たち)の一部」ではなく、「全員」が魂表層に存在し、新しい肉体に結びつく、という意識現象の事実が、SAM前世療法の実践で確認されているからです。 

6 件のコメント:

猪狩守 さんのコメント...

魂が存在しない可能性が高い!!

脳内の量子もつれは、いわゆるESPやサイコメトリーの働きと関係あることも紹介しました。臨死体験中に、超感覚的な能力を発揮する理由も、これで説明がつきます。つまり、臨死体験中に、脳内の量子もつれによって脳が機能していたために、さまざまな幻想と共に、それが客観的な事実と一致するという事象も生じるわけです。そのために、魂が浮遊して部屋の様子や遠く離れた場所の様子を目撃したり、その内容が事実と一致したりするわけです。また、まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです。

 そもそも、仮に、脳とは独立して思考作用を司っている魂なるものが存在した場合、なぜ脳に思考機能が備わっているのかという疑問が生じてきます。魂が思考できるのであれば、思考機能を司る前頭葉は必要ないことになります。
 また、魂の状態で体験したことを記憶しているということになりますから、記憶を司る扁桃体も必要がないはずです。体験したことを、魂が記憶すればいいからです。
 なのになぜ、脳などというものがあるのでしょうか?
 自然というものは、必要がないものは生み出さないはずです。脳がなくても思考したり記憶できたりするのであれば、脳という器官は生物に備わっていないと考えた方が合理的です。むしろ、邪魔になるだけでしょう。
 このように考えても、脳とは別に、思考する魂のようなものが存在するとは考えにくくなるのです

http://lasttimer.blog130.fc2.com/blog-entry-345.html

稲垣 勝巳 さんのコメント...

猪狩守 さんと、まったく同じ内容のコメントが、別のハンドルネームの方から届いています。
猪狩守さんが別のハンドルネームで体裁を変えて再度同じ投稿をしていることが疑われます。
あるいは、別人で猪狩守さんのコメントをまったく読んでいないのかもしれません。
いずれにせよ、ご自分のお考えはまったく記述していない安直で怠惰な投稿だと判断しました。
本サイトの投稿コメントの掲載については、下記のように制約が設けてあります。
したがって、ガイドラインの①②に抵触すると判断できましたので、掲載を削除しました。
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        コメント掲載のガイドラインについて

本ブログが、「生まれ変わり仮説」についての実証性のない観念論や一般論ではなく、事実に基づいた「実証的探究」を求める読者への奉仕を心がけた内容となるように、また、本ブログの節度と品位を保つために、下記に掲げた①から⑥の投稿コメント掲載上の諾否の制約が設けてあります。

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本ブログの求めるコメントは、「観念より事実、理屈より実証」に重きをおく内容です。

本ブログの意見交換は、「前提と限界」の共通理解のもとに、稔りある展開がされることを求めています。

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ブログ「稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究」 管理人 稲垣勝巳
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本ブログは、毎日200以上のアクセス数があります。
米国をはじめロシア・スウェーデン・スペイン・イギリスなど欧米諸国からのアクセスもかなりあります。
累計アクセス数は11万を超えています。

長文で読みずらい記事にもかかわらずお読みくださった、生まれ変わりの科学的探究についての真摯な読者のみなさまに、この場を借りて管理人としてあつくお礼申し上げます。  

稲垣 勝巳 さんのコメント...

猪狩守さん
「まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです」という論は、実証のまったくともなわない可能性としての単なる「説明」にすぎないでしょう。
量子もつれで超常現象すべてが説明可能だとする考え方は、「量子もつれ」を「拡大視」し、それをもって「恣意的推論」をおこない「極端な一般化」しようとする試みのように思われます。
応答型真性異言が、「量子もつれ」をもって「可能となるはずです」などの安直な推論は、超心理学への造詣のない、短絡的かつ粗雑な恣意的推論というべきです。
こうした恣意的推論は、応答型真性異言を生きている人間の心の力で説明できるとし、したがって前世を否定でき、ひいては魂を否定できる、という一見科学的な主張であるように誤解されます。

応答型真性異言は、単なる「言語情報」ではありません。
応答型真性異言は、応答的に会話する「技能」です。
「言語情報」(単語や定型文) にアクセスできたところで、応答的にやりとりできる「会話技能」が可能になるはずがないのです。
「情報」は、ESP(透視・サイコメトリー・テレパシーなどの超常能力)によって獲得できても、「技能」は、獲得できないとされているのは100年以上にわたる生まれ変わり研究の定説です。
100年以上にわたる研究史をひもといても、ESP(透視・サイコメトリー・テレパシーなどの超常能力)によって「技能」を獲得した事例が皆無だからです。
つまり、人間の特殊な心の力(ESPなど超常能力)でも、練習したことがない「技能」は獲得できません。

「量子もつれ」で、ESPや、臨死体験や、あるいは前世の記憶など、「情報」の獲得は説明できる可能性はあるかもしれませんが(といっても実証は何もありませんが)、学んだはずのない「技能」は、量子もつれによるESPで獲得できない事実には変わりありません。

したがって、量子もつれで生じるESP(透視・サイコメトリー・テレパシーなどの超常能力)によって、技能を獲得できた事例が発見されない限り、いかに「量子もつれ」でESPが説明(超常能力による情報獲得の説明)できるからといって、その説明が応答型真性異言(技能の獲得)にも適用できると考えるのは、先行研究への無知による早計な恣意的推論という誤りです。

こうして「量子もつれ」で、「情報の獲得」ではない「技能の獲得」である応答型真性異言が「可能になるはずです」という主張はすでに破綻しています。

「情報の獲得」と「技能の獲得」の決定的相違が理解されていないからです。
「技能」は、練習を積んで体得できる「暗黙知」とよばれるもので、「情報」だけには還元できない性質のものです。
自転車についての情報をいくら集めても、練習抜きで自転車に乗る技能は獲得できません。

そうした無理解が「魂が浮遊して部屋の様子や遠く離れた場所の様子を目撃したり、その内容が事実と一致したりするわけです。また、まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです」という短絡・飛躍した主張に現れています。

「部屋の様子や遠く離れた場所の様子を目撃したり、その内容が事実と一致したり」するのは
「情報の獲得」です。
続いて、「また、まったく学んだ覚えがない言語を話す(技能の獲得)といった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです」と短絡してつなげてしまうのは、情報の獲得と技能の獲得の決定的違いが一緒くたに混同されている証拠です。

そもそも、臨死体験で報告される「情報獲得」と、応答型真性異言の「会話技能獲得」を同列で論じられると考えることは、「量子もつれ」を「極端に一般化」してしまうという認知の誤りです。

「量子もつれ」で応答型真性異言が可能になるはずだという主張は、私の提示している「ラタラジューの事例」や、イアン・スティーヴンソンの「グレートフェンの事例」などの応答型真性異言の具体事例を詳細に検討した結果の慎重な推論とは到底思えません。

詳細な検討の怠慢による結果が、「可能になるはずです」といった安直で短絡的な恣意的推論が述べられることになると思われます。
「量子もつれ」によって応答型真性異言が意図的(実験的)に「可能になった」検証を、たとえわずかでもともなってこそ、科学的説得力があると思いませんか?

たとえば、同一被験者に、一定の手続きを踏めば、いつも同様の「量子もつれ」が再現できるのでしょうか?

ラタラジュー人格も、グレートフェン人格も、同一被験者に、同様の深い催眠状態に誘導する手続きを踏めば、何度でも同一人格が再現化し、応答型真性異言が生じることが実証されています。
したがって、まずは、同一被験者に、一定の手続きを踏めば、いつも同様の「量子もつれ」が再現できるという実証が必要でしょう。

「まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです」などの誤った主張は、ESP(透視・サイコメトリー・テレパシーなどの超常能力)による「情報獲得」と、応答型真性異言の「会話技能獲得」についての先行研究に無知ゆえの憶測に過ぎません。

実証の欠片もない論議はこのサイトでは無意味だとみなします。
「可能性」は「事実」ではありません。
「可能性」は観念論です。
理屈より実証、観念より事実、を求めるのが、本サイトのモットーです。

なお、本サイト記事は「心・脳の二元論」を基盤としています。
脳についての猪狩さんの記事は、現行唯物論脳科学の枠組みによる常識的な「心・脳の一元論」の表明です。

応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、綿密な検証の結果、現行唯物論脳科学の「心・脳の一元論」の常識的枠組みでは到底説明不可能な超常現象だからこそ、「生まれ変わり」の概念は、説明として論理的整合性があり、説得力を持つと考えています。

「生まれ変わり」の概念は、必然的に、「心・脳の二元論」を前提とすることになります。
ちなみに「心・脳の二元論」を表明しているノーベル賞受賞者の大脳生理学者としてW・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリー、催眠研究者の成瀬悟策医学博士らがいます。
彼らは、脳や催眠の実験研究の結果、晩年になってから「心・脳の二元論」を表明したことで共通点を持っています。
もちろん、現時点の脳科学の動静からは、きわめて少数派であることも共通点でしょう。

一般に信じられている言説、つまり、心は脳の随伴現象であり、脳の消滅とともに心も消滅してしまうはずであるから、生前に経験されたものはすべて無に帰する、という言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている「信念」や「主張」をそのまま表現したものであって、その言説自体が、科学的に確定された手続きによって、検証・証明された事実では決してありません。
いわば、「心・脳の一元論」は検証事実に基づかない憶説です。

したがって、脳が意識を作り出しているという科学的実証が、いまだにできていない現状では、脳は、基本的に、魂が、現世(物質的世界 )で諸体験をするため肉体という器を持ったがために、その肉体の維持・管理に必要な臓器として存在していることが第一義だと考えます。

また、脳は大雑把にいえば、意識の受信機であろうと推測しています。
受信機である脳は、加齢、病的変質、栄養状態、脳への強打、過度なストレス、薬物等によって受信機能に当然、劣化や、狂いや、機能停止状態などが生じるでしょう。

意識が脳と密接な対応関係があることは確かですが、どこまでも対応関係であって、脳が意識(思考)を作り出しているという因果関係を示しているわけではないと考えています。
したがって、脳以外に意識を作り出している主体があることを、決して否定できません。

SAM催眠学では、意識を生み出している主体は脳ではなく魂(の表層を構成している前世の者たち)である、という仮説を提唱しています。

蛇足ですが、あなたの記事は、あなたの紹介している斉藤啓一氏のブログ記事のコピペですね。そのまま読むと、猪狩守さん自身の記事だと誤解されます。
そういう場合には、誤解を防ぐために「http://lasttimer.blog130.fc2.com/blog-entry-345.htmlより引用」と明記するのが投稿上の作法です。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

前の私のコメントについて、「あなたは自分の主張が否定されるとすぐキレますね」という匿名のコメントをいただきました。
私の反論コメントは、勉強不足で誤ったことを書いている投稿者に対する「挑発」です。
キチンと生まれ変わりの先行研究を調べてから正しくものを言いなさい、魂を否定したければ、検証事実に基づいて否定しなさい、という挑発です。

「キレる」の意味はウィキペディアによれば、「キレる(切れる)とは、主に対人関係において昂ぶった怒りの感情が、我慢の限界を超えて一気に露わになる様子を表す、日本の俗語。 同義の言葉には激昂・激高などがある」ということになっています。

感情が激高して冷静さを欠く文章は、主張が無根拠になりがちで論理的整合性に矛盾が生じ、ろくなことになりません。

そして、誤りのあるコメントには倍返しで、その誤りをきちんと指摘するのが、過去の4年間の民事裁判の被告人として法廷で学んだ私の戦い方です。

私の指摘に誤りがあれば、批判された投稿者は、倍返しで根拠に基づいた反批判をすればよいのです。

現在のところ、反批判のコメントは届いておりません。

シュヴァル さんのコメント...

こんばんは
先日はありがとうございました。

キレとか言ってくる方はいらっしゃいますが、匿名掲示板で都合悪くなったときによくみられるレッテル貼りですね。

理詰めでかなわないという敗北宣言だと思います

稲垣 勝巳 さんのコメント...

本サイトにアクセスしている先週1週間の外国の読者は、USA・イギリス・ロシア・ウクライナ・フランス・スウェーデン・スペイン・ポルトガル・ドイツ・オランダ・韓国の各国となっています。
グーグルブログには翻訳機能があるので、世界各国の読者にその国のことばで翻訳され大意が伝わるのでしょう。
けっして多い読者数ではありませんが、こうした読者は、生まれ変わりの科学的事実を真面目に探究している人々だろうと思っています。
 
私が、生まれ変わりの科学的事実を主張している最大の根拠は「応答型真性異言」という現象一つにかかっています。
これを量子もつれによって、「まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです」などという誤った粗雑な言説(説明)で否定されたことを黙認することは到底できません。
放置することは、この誤った言説を私が認めたものと、日本はもちろん諸外国の読者も、誤解することになるからです。

科学的検証を経て公開されている応答型真性異言は、「ラタラジューの事例」を含めて世界にわずか5例でしかありありません。
宗教・無宗教、信仰に一切関わりなく、生まれ変わりの事実を示す科学的証拠が確実に存在することを多くの人々に発信し、知っていただくことが、インターネット社会に巡りあわせ、実際に「ラタラジューの事例」という応答型真性異言の検証に携わった私のライフワークだと思っています。