2016年9月1日木曜日

前世人格と憑依人格の識別の問題


         SAM催眠学序説 その96


この問題は、未知への探究の魅力に富んでいます。

なぜなら、生まれ変わり研究の泰斗イアン・スティーヴンソンすら、催眠中に意識現象として顕現化した人格が、被験者の前世人格なのか、第三者の憑依人格なのか、その識別の考察をしていない、まったく未開拓の研究分野であるからです。

ただし、スティーヴンソンは、被験者のアメリカ人女性が、ドイツ語の応答型真性異言を語った「グレートヒェンの事例」の中で、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンに対して「トランス人格」という呼び方をしており、前世人格の顕現化だと認めているらしいと判断できます。

私は、セッション中の「意識現象の事実」として確認してきた諸事実から、他者の憑依人格と前世人格の識別は、「里沙さんに限定」して判断する限り、他者の憑依人格だとは判断できません。
ラタラジューもタエも、里沙さんの前世人格であると判断しています。
その理由を述べてみたいと思います。

なお、この試論は、霊能者と呼ばれる人たちが、自らの「霊感」やら「直感」を根拠に、ラタラジュー人格を里沙さんの前世人格ではなく、他者の憑依人格だと主張されることに対する、私のセッションから得た諸事実に基づく反論でもあります。

憑依人格か前世人格かを見分ける最後のよりどころは、結局、自我を形成する魂は、おのれであるか他者であるかは、魂自身が根源であるがゆえに、見誤ることはあり得ないだろう、という一種の信念に立ち返ることになってきます。

私が里沙さんにセッションから間を置かないで、セッション中の意識状態を内観して記録するようにお願いしたのは、最後は里沙さん自身の「魂」を信頼するほかないと思っていたからです。

①SAM催眠学の作業仮説に基づき、ラタラジューは「魂の表層」から呼び出している。魂がおのれの一部である前世人格と「異物」である憑依人格と見誤ることはありえない。
ゆえに、魂の表層のものたちが作り出しているはずの「意識」の内観記録を信頼することは道理に適っている。

②SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジューが最初から憑依しているとしたら、魂状態の自覚に至ることを妨害する。
したがって、里沙さんは魂状態の自覚に至ることができない。
しかし、事実はすんなり魂状態の自覚に至っている。
つまり、憑依霊はいないということになり、ラタラジューが最初から憑依していた可能性はまず考えられない。

③魂の自覚状態に至ると、霊的存在の憑依が起こりやすくなる。低級霊も高級霊も憑依することはセッションに現れる意識現象の事実である。
したがって、魂状態をねらってラタラジュー霊が憑依した可能性を完全に排除できない。
しかし、4年前のセッションで、タエの次の前世としてすでにラタラジューは顕現化している。
今回も、ラタラジューという前世人格を「呼び出して」顕現化させた。
憑依が、呼び出しによって起こった可能性は考え難い。
もし、魂表層への呼び出しによって低級霊の憑依が起こるとすれば、SAM前世療法で現れた人格はすべて他者の憑依霊ということになりかねない。

④SAM前世療法は、呼び出した前世人格との対話によって、その人格が癒され、連動してモニターしている現世の意識も癒しを得るという治療仮説を持っている。
前世人格ではなく、異物である憑依人格を癒して、これと関係の全くない現世の意識が連動して癒されるとは考えにくい。
里沙さんはラタラジューについて同一性の自覚を持っている。
そして、第一にモニター意識が、憑依人格を異物として感知しないはずがない。
第二に憑依が起きたとすれば、人格を占有されるわけで、その間の記憶(モニター意識)は欠落する。
これはシャーマニズム研究の報告とも一致する。
シャーマンは憑依状態の記憶が欠落することが多いとされている。
里沙さんも守護霊憑依中の記憶は完全に欠落することが、過去3回の守護霊の憑依実験から明らかになっている。
しかし、ラタラジュー顕現化中の記憶は明瞭にあると報告している。
それは、ラタラジューが憑依霊ではない状況証拠である。
憑依ならば、里沙さんの場合、その間の記憶は完全に欠落しているはずである。
しかも、ラタラジューには、真性異言会話実験後、魂の表層に戻るように指示し、戻ったことを確認して催眠から覚醒してもらった。
憑依霊が、私の指示に素直にしたがって憑依を解くとは考えられない。
ラタラジューが憑依霊であれば、高級霊とは考えにくく、低級霊であろう。
とすれば、憑依を解くための浄霊の作業なしに憑依が解消するとは考えられない。

⑤被験者の潜在意識は原則嘘をつかない。
魂状態に戻ったときに憑依した霊は、セラピストの問いかけに未浄化霊であれば、救いを求める憑依であることを告げる。
沈黙をしているときは、「悪いようにはしないから正体を現しなさい」と諭すとたいていは未浄化霊であることを認める。
手強い沈黙に対しては脳天に手をかざし霊体に向かって不動明王の真言を唱えると正体を現す。
クライアントは痙攣、咳き込み、のけぞりなどの身体反応を示す。

⑥そして、里沙さんは、四年前の「タエの事例」後、他者に憑いた霊や自分に憑こうとしている霊を感知し、それは悪寒という身体反応によって分かると言っている。
ある種の霊能らしきものが覚醒したらしい。
その霊能は、彼女の知人の二名の評価の高い霊能者から認められている。
ちなみに、この二名の霊能者は、ラタラジューが憑依であることをきっぱり否定している。
このような里沙さんが、ラタラジュー霊の憑依を感知できないとは考えにくい。
憑依であるなら、彼女が自ら感知し、違和感を訴えるはずである。  

以上はSAM前世療法によって、これまでに現れている「意識現象の事実」に基づく考察です。
こうした諸事実からも、「里沙さんに限定すれば」、ラタラジューが憑依霊であるとは考えられないというのが私の判断です。
まとめてみると、憑依人格と前世人格を識別する一応の指標として
① 被験者に現れた人格の会話中の記憶の有無
② 被験者に現れた人格とおのれとの同一性の自覚の有無
を区別するための仮説として設定しています。

私の判断の根拠になっている、里沙さんのセッション中の内観記録を下記に再掲します。
あくまでラタラジュー霊の憑依を主張される人は、この内観記録が憑依をされている人物の書くことのできるものと考えられるでしょうか。

ちなみに、応答型真性異言発話中の意識内容の内観記録は世界的にも一切公開された例がなく、里沙さんの手記はきわめて貴重なものです。

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セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。

こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。

思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

対話相手のカルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただ、このときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッ ション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してとい うのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 

ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。

セッション後、覚醒した途端に、セッション中のことをどんどん忘れていき、家に帰るまで思い出すことはありませんでした。
家に帰っての夜、ひどい頭痛がして、頭の中でパシッ、パシッとフラッシュがたかれたかのように、ラタラジューの記憶が、再び私の中によみがえってきました。

セッション中に感じた、私がラタラジューと一体となって、一瞬にして彼の意識や経験を体感したという感覚です。
ただ全部というのではなく、部分部分に切り取られた記憶のようでした。
カルパナさんの質問を理解し、答えた部分の意識と経験だと思います。
とりわけ、ラタラジューが、カルパナさんに「あなたはネパール人か?」と尋ねたらしく、それが確かめられると、彼の喜びと懐かしさがどっとあふれてきたときの感覚はストレートによみがえってきました。 

一つは、優しく美しい母に甘えている感覚、そのときにネパール語で「アマ」「ラムロ」の言葉を理解しました。
母という意味と、ラタラジューの母の名でした。

二つ目は、戦いで人を殺している感覚です。
ラタラジューは殺されるというすさまじい恐怖と、生き延びたいと願う気持ちで敵に斬りつけ殺しています。肉を斬る感覚、血のにおいがするような感覚、そして目の前の敵が死ぬと、殺されることから解放された安堵で何とも言えない喜びを感じます。
何人とまでは分かりませんが、敵を殺すたびに恐怖と喜びが繰り返されたように感じました。

現世の私は、それを受け入れることができず、しばらくの間は包丁を持てず、肉料理をすることが出来ないほどの衝撃を受けました。
前世と現世は別のことと、セッション中にも充分過ぎるほどに分かっていても、切り離すのに辛く苦しい思いをしました。

三つ目は、ネパール語が、ある程度わかったような感覚です。
時間が経つにつれて(正確には夜、しっかり思い出してから三日間ほどですが)忘れていってしまうので、覚えているうちにネパール語を書き留めてみました。
アマ・ラムロもそうですが、他にコド・ラナー・ダルマ・タパイン・ネパリ・シャハ・ナル・ガウン・カトマンズ・ブジナ・メロ・ナムなどです。
 
四 つ目は、カルパナさんにもう一度会いたいという気持ちが強く残り、一つ目のことと合わせてみると、カルパナさんの声はラタラジューの母親の声と似ていたの か、またはセッション中に額の汗をぬぐってくれた感覚が母親と重なったのか(現世の私の額をカルパナさんが触ったのに、ラタラジューが直接反応したのか、 現世の私がラタラジューに伝えたのか分かりませんが、一体化とはこのことでしょうか)。
母を慕う気持ちが、カルパナさんに会いたいという感情になって残ったのだろうと思います。

セッション一週間後に、カルパナさんに来てもらい、ネパール語が覚醒状態で理解できるかどうか実験してみましたが、もう全然覚えてはいませんでした。

また、カルパナさんに再会できたことで、それ以後会いたいという気持ちは落ち着きました。

以上が今回のセッションの感想です。

このことから、私が言えることは、

①生まれる前から前世のことは知っていたこと、それを何かのきっかけで(私の場合はSAM前世療法で)思い出したこと。

②生まれ変わりは、信じる信じないの問題ではなく、事実として間違いなく確かにあること。

③前世にとらわれることなく現世を生きなければならないこと、です。
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里沙さんの以上のようなセッション中の意識状態を内観した記録を検討すれば、ラタラジューを他者の憑依人格だと考える判断の根拠は、ほとんど考えられないと思います。

催眠下で顕現化した人格が、前世人格であるのか憑依人格であるのかという疑問は、「前世の記憶の想起」を前提にしたワイス式前世療法にはまったく問われることのない問題です。

「前世記憶の想起」ではなく、「前世人格の顕現化」を作業仮説とするSAM前世療法であるからこそ、必然的につきまとう特有の根本的かつ重大な問題です。

そして、この問題は、SAM催眠学とSAM前世療法の存立にかかわって、今後も継続して探究を必要とする問題であると認識しています。

13 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

稲垣先生のブログを読ませてもらっていますが、少々気になる点がありましたので、質問させてください。

ラタラジューの事例ですが、里沙さんはネパール語は全く話せない(ネパール語に接したことはない)のに、どうしてネパール語を話せたのでしょうか。

ネパール語の話者はあくまでも里沙さんです。普通、人が言葉を発する場合、脳細胞の言語をつかさどる中枢(言語中枢?)から声帯に命令がいって、発声が可能だと思われます。

里沙さんの場合、里沙さんの言語中枢には、ネパール語の語彙は皆無です。なんに、憑依(自己内憑依)したラタラジューはどのような方法で言語中枢を操り、ネパール語の発声を声帯に命令したのでしょうか。

言語中枢からの命令なんてそんな面倒くさいことはしなくて、ラタラジューは直接里沙さんの声帯を操って、発語させたのでしょうか。

スピリチュアリズムによれば、霊界人が霊媒に憑依して霊界通信をもたらす場合、霊媒の言語中枢を操作(利用)するとされています。シルバー・バーチも霊媒のバーバネルを自由に使いこなすにはずいぶん時間がかかったようですし、また霊媒の知識(言語)が不十分なため、意図した通信がなされなかったケースもあるようです。

つまり、霊界通信は、霊媒が習得した言語(言語中枢にある言語)を用いて行われているのが一般的だと思われます(霊媒が習得していない異言語で通信がなされたというのは、わたしは知りません)。

ラタラジューの事例も一種の霊界通信ではないでしょうか。ラタラジューは100年以上も前に死亡しているのですから、たとえ現在、魂の表層部で生存しているとしても、霊界人だろうと思われます。ということは、ラタラジューによる発信も他の霊界通信と同じく、霊媒(この場合里沙さん)の言語中枢を操作して行われていると考えるのが、自然だと思われます。

霊媒が習得した言語で霊界からの通信が行われるのは、霊媒が使い慣れた言語で喋れるわけですから、至極当然のことだと思われます。ところで応答型真性異言は極めて少なく、世界で数例しか見つかっていないそうですが、応答型真性異言も一種の霊界通信だと考えれば、納得できるのではないでしょうか。つまり、霊界人(前世人格も含む)にとって、霊媒(前世の記憶を語る人も含む)の言語中枢にない言語を霊媒に発語させる、そのような面倒なことは、通常、避けるのではないでしょうか。そのような理由で応答型真性異言も極めて少ないのではないでしょうか。

ところで、里沙さんの言語中枢にはネパール語は皆無にもかかわらず、どうしてネパール語を発語できたのか、それについては、こういうことは考えられないでしょうか。
 つまり、ラタラジューは、里沙さんの言語中枢にある日本語の単音(単語ではなく、あ・い・う・え・お のように、日本語の単発の発音による語。単音とでも呼ぶようなもの)を操作して、ネパール語を発語させていたのではないでしょうか。仮にそうであれば、里沙さんがネパール語の習得が皆無であってもネパール語を話すことは可能だと思われます。

しかしその場合、ネパール語を習得した人と習得していない人では、ネパール語の発音にある程度の違いがあると思われます。それぞれの言語にはその言語特有の発声方法(例えば英語の巻き舌のようなもの)がありますから、それを習得している人としていない人では、発音に違いが生じるのは当然のことだと思います。

里沙さんのネパール語発語のメカニズムは、言語中枢の単音の操作のよるものか、それとも声帯の直接操作なのか、あるいはその他の方法によるものなのか、それらには関係なく、発声方法については、自分が習得した発声方法によるものと思われます(先生も言語の習得は技能であるから、他の人間のものを簡単に身につけることはできないとおっしゃっています)。

そこで里沙さんのネパール語の発音はどうなんでしょう。
ネパール語を習得した人の発音なのでしょうか。それとも、習得していない人の発音なのでしょうか。この点、お教え願えないでしょうか。当然、里沙さんはネパール語を習得していない人の発音だと思うのですが、動画で里沙さんとカルパナさんの会話を聞いても、今までネパール語に接したことのないわたしには、全く判断がつきません。もし仮に、ネパール語を習得した人の発音だった場合、ネパール語に接したことにない里沙さんがどうしてネパール語を発音することができたのでしょうか、その理由も併せてお教えください。霊界人(前世人格)は、何でも自分の思いのままに憑依した人の身体器官を自由に操れるのでしょうか。もしそうであるなら、応答型真性異言の事例がもっとたくさん存在したのではないでしょうか。

生まれ変わりの実証において、応答型真性異言はキーポイントだと思われますが、その応答型真性異言はどのようなメカニズムで成立しているのでしょうか。もちろんそのようなことは、科学的には証明できないとしても、どのような推定(仮説)を立てれば、合理的な説明ができるのか、これも重要なことだと思われますので、お教え願えないでしょうか。

とりとめもないことを長々と書いてしまいました。要旨だけ書けばよかったのですが、わたしも生まれ変わりについては大変興味がありますので、ついつい思ったことを書いてしまいました。よろしくお願いします。

                            やまびこ

稲垣 勝巳 さんのコメント...

匿名さん
たしかにあなたのご質問はハイレベルで、回答に窮することばかりです。

したがって、私あて霊信とそれに基づくSAM催眠学の作業仮説による考察という前提および、これまでに確認出来ていること以外は判断留保という限界、の枠内でしかお答えできません。

①ラタラジューの応答型真性異言現象は「霊界通信」とは考えてはおりません。ラタラジューは現世の里沙さんの「魂表層を居場所とする前世人格」であり、霊界を居場所とする住人ではないからです。したがって、ラタラジューは「霊界人」ではありません。彼は魂表層に存在する「肉体を持たない意識体」であるという意味において「霊的存在」ではあるでしょう。
その前世人格(トランス人格)が、霊界から「通信」したのではなく、里沙さんの体を用いて顕現化し「会話」したのだと考えています。

②ラタラジューの父親タマリはタマン族であり、彼の生育したナル村の97%は現在でもタマン族が占めています。したがって、ラタラジューの母語は、タマン語であるとほぼ断定できます。ラタラジューのネパール語の発音にタマン語訛りがあることは、複数のナル村住人が証言しています。また、ラタラジューのネパール語を分析した中部大学のネパール人客員研究員カナル・キソル・チャンドラ博士によれば、ラタラジューが日本語の単音(単語ではなく、あ・い・う・え・お のように、日本語の単発の発音による語。単音とでも呼ぶようなもの)を操作して、ネパール語を不自然に発語していた、というような指摘はありません。むしろ、ラタラジュー程度のネパール語会話ができるにはネパールに3年程度滞在する必要がある、という指摘がありました。また、ラタラジュー人格と対話したネパール人女性カルパナさんも「本当のネパール人のようだった」と感想を述べています。ラタラジューのネパール語の発音は、不自然ではない程度にネパール語を修得している者という判断が、ネイティブなネパール語使用者によって証明されたということでしょう。

③なぜネパール語のまったくできない里沙さんに、ネパール語会話ができたのか、それは、里沙さんの魂表層から顕現化した(自己内憑依した)ラタラジューという前世人格が、里沙さんの発声器官を借り受けて彼自身が会話したのだ、というごく自然で、ありのままに、現象学的理解をしておくより現時点での回答はできません。そのような理解をした場合、ラタラジュー人格の発話意志が、里沙さんの脳内の言語中枢にどのように関わり、どのようなメカニズムで発話に至るのか、これはまったく不明です。脳科学者にも回答できないでしょう。はっきりしているのは、発話意志の主体はラタラジューであり、里沙さん自身が発話意志を持ったわけではないということです。

④私が実証したのは、「ラタラジューの事例」が間違いなく「応答型真性異言」という科学的事実です。これを認めるならば、少なくとも里沙さんという一人の人間においては、生まれ変わりが科学的に実証できたと主張できるということです。そこまでが私のできた仕事です。
そして、「ラタラジューの事例」は、SAM催眠学のうえで、生まれ変わりの科学的研究のうえで、生まれ変わり実証の金字塔を打ち立てることができたと自負しています。

⑤応答型真性異言という現象を起こすことができるのは、極めてすぐれた霊媒資質を持つ者に限られる、という回答を里沙さんの守護霊は告げています。また、ラタラジューの顕現化現象は憑依だととらえなさい、とも告げています。

もうこれくらいの回答までで勘弁してよ、と言うのが私の本音です。
読者のみなさんのなかで、すぐれた回答のできる方の心当たりがあるので、それを期待してください。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

追伸
匿名さんのおっしゃる、応答型真性異言のメカニズムの「科学的説明」、「合理的説明」の意味は現行の唯物論科学の知見を用いてそうした説明をすることでしょう。
しかし、スティーヴンソンの公にしている応答型真性異言「グレートヒェンの事例」、「シャラーダの事例」は、発表以来20年以上経過している現在でも、唯物論による「科学的・合理的説明」を成功させた研究者はいません。
私見を言えば、物質現象世界を説明する唯物論の原理・原則とは別に、非物質現象である意識現象(心理的空間で生起する現象)においては、唯物論とは別体系の原理・原則が存在しているのではないかと考えざるを得ないということです。

たとえば、未浄化霊や生き霊の憑依現象、前世人格の顕現化、解離性同一性障害(多重人格)の副人格、解離し取り残された人格であるインナーチャイルド現象、霊姿(いわゆる幽霊)現象、もっと言えば霊信現象や遠隔ヒーリング、体外離脱なども含めていいでしょう。
これらの諸現象は、現行唯物論とは真っ向から対立するもので、唯物論者は頭から否定します
が、「意識現象の事実」として確認することのできる私の体験的・臨床的事実です。

非物質現象である意識現象(心理的空間で生起する現象)においては、唯物論とは別体系の原理・原則が存在している、したがって、唯物論科学による合理的説明はできないであろう、という私の言明は、「それを言ったらおしめえよ」と非難されるでしょうね。
しかし、非物質現象である意識現象は、唯物論科学の手法である計量化も映像化も不可能です。こうした限界があるなかで、どうしたら唯物論による科学的・合理的説明ができるでしょうか。 

今の私にできることは、観察できる霊的諸現象が、当事者の精神疾患による妄想やフィクションの産物ではないことを検証し、そうした霊的諸意識現象が確かに存在する事実であることを探究することです。

シュヴァル さんのコメント...

やまびこさんへ

私も言語学者ではないので自分の理解でしかコメントできませんが

>里沙さんの場合、里沙さんの言語中枢には、ネパール語の語彙は皆無です。なんに、憑依(自己内憑依)したラタラジューはどのような方法で言語中枢を操り、ネパール語の発声を声帯に命令したのでしょうか。

現時点ではこれを説明する理論ははないと思われます。
そもそも、応答型真性異言は、事例が少なく21世紀では理沙さんの事例だけのようです。
よって、複数の事例がないため、比較検証が不可能です。
ただ、いえることは実際に話したと言う事実であり、それは先生がYoutubeにあげておられます。
現実に起こっているのでそれがどのような理論であるかは今後検証する必要があっても
否定するものではないと思います。

ここで大事なことは繰り返しになりますが「起こったことは紛れもない事実」であり、それを説明する理論があるかどうかではないと思います。例えば青色LEDも中村氏が開発した時に非常に明るい青色LEDができましたが明るく光る理由は全くわかりませんでした。
やまびこさんは理論的な裏付けをお求めのようですが
先生がされていることは、実証研究であり、起こったことを多方面から検証することで実在可能性を
証明しようとされているので少し方向性が違うと思います。


また、日本語の発音かどうかは先生が苦労して検証されております。
先生の返答にあるように、この点はすでに棄却されていると考えていいと思います。

匿名 さんのコメント...

さっそくていねいにお答えいただきありがとうございました。

追伸の部分の部分について誤解があるようです。
わたしは、心身一元論よりもむしろ、心身二元論に興味を覚えています。
ですから、心(意識、魂、精神など)と身体は別物で、心が永続的なものであればいいな、と思っています(もちろん、その根底には死に対する言いようのない恐怖心があります)。

わたしは里沙さんのネパール語の発音は、ネパール語を習得していない、いわば、日本語的なネパール語の発音かな、と思っていました。そうであれば、ネパール語に接してしない人の発音として、矛盾なく説明できるからです。

でも実際は、3年程度ネパール語になじんだ人の発音でした。これはラタラジューの身になって考えれば、至極当然のことかもしれません。
未知の日本語の単音を操って、ネパール語を里沙さんに発声させるよりは、自分の使い慣れた言語を里沙さんに発声させるほうが、意思伝達においては遥かに都合がいいと思います。

もしそうなら、前世人格にとって異言語の使用のほうが便利であるなら、応答型真性異言の事例がもっと多くあっていいのではないかと思うのですが、これはまた、別の理由により少ないのかもしれません。

以上にように考える前提条件として、里沙さんがネパール語に接していないことに関して、里沙さんの経歴、うそ発見器などの調査によって、100%の担保、いや、200%くらいの担保が必要だと思います(もちろん、そのような調査は十二分になされたことは承知しておりますが)。なぜなら、里沙さんの言語機能に即して考えるなら、日本語的ネパール語の発音のほうが、無理なく説明できると思えるからです。

ところで、また、変な質問をしますが、タエはなぜラタラジューに生まれ変わったのでしょう。

タエは初めて地上に生を受けた人間ですから、カルマなどあるはずがありませんし、カルマよりも何も、タエは人のために自分の命を犠牲にしたのです。これほど尊い行いは戦争は別にして、普通、滅多にあるものではありません。なのに今度は、人を殺す人間に生まれ変わったのです。

シルバー・バーチが言うように、人は苦労してこそ成長する、より多くの苦労を地上生活で経験せよ、ということでしょうか。

シュヴァル さんのコメント...

>タエは初めて地上に生を受けた人間ですから、カルマなどあるはずがありませんし、カルマよりも何も、タエは人のために自分の命を犠牲にしたのです。これほど尊い行いは戦争は別にして、普通、滅多にあるものではありません。なのに今度は、人を殺す人間に生まれ変わったのです。

この部分については
過去のブログを読まれることをお勧めします、カルマ自体はなく、我々の思いこみのような物であると
説明されています。

さらに理沙さんが苦難の人生を送っているのも魂の急激な成長を自ら願ったことによるもののようでバーチのはなしの通りということだと私は理解しています。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

匿名さん
「里沙さんがネパール語に接していないことに関して、里沙さんの経歴、うそ発見器などの調査によって、100%の担保、いや、200%くらいの担保が必要だと思います」というご意見については承服しかねます。
「ラタラジューの事例」を出版するに当たって、現時点の考えられる限りの調査を1年間にわたっておこなっているからです。この調査については、拙著でもこのブログでも書いていますが、家族・親戚をはじめ、小・中・高・大学の友人と学校事務局に調査を入れて、里沙さんの在学中にネパール国籍の生徒・学生の在籍者が皆無であること、大卒後から2009年の実験セッションまでの間に、ネパール語・ネパール人との接触が皆無であることを確認しています。そのうえで、ポリグラフの権威者である元大阪府警科捜研所長荒砂正名氏による2時間半におよぶポリグラフ検査鑑定を受けています。諸調査、ポリグラフ鑑定ともにネパール語を学んだ事実、学んだ記憶の痕跡はまったくない、という結論です。

あなたは拙著のこうした調査についての記述をきちんとお読みになったうえで、そのうえで200%の担保が必要だとおっしゃるのなら、あなたに里沙さんを直接紹介しますし、彼女についての私の知り得た生育歴の諸情報をすべて告知しますから、200%の担保だと判断できるまで、あなた自身が徹底的に再調査をすればよいのです。拙著の調査記述をきちんと読んでいないで、疑うに値する確かな裏付けやきちんとした反証がないにもかかわらず、200%の担保が必要などと、ブログ上で匿名性をいいことに気楽に公言されているとすれば、極めて心外です。私と里沙さんに対する侮辱であり名誉毀損ですらあります。あなたの懐疑精神は、軽薄かつ度が過ぎると思わざるをえません。

あなたには、私の調査のどこに具体的な瑕疵があると思われるのか、さらに具体的にどのような調査をすれば納得されるのか、お尋ねしたいと思います。
考えられる限りの裏付け調査をして、100%の自信がなくて公刊などできませんし、視聴率の高い(ラタラジューの事例放映では13%の視聴率)アンビリバボーの放映に同意するはずがないではありませんか。放映後里沙さんがネパール語会話を学んでいたことが暴露されて赤恥をかくのは私と里沙さんです。

拙著の調査記録、検証記録を読んで、反証をあげることなく、ラタラジュー程度のネパール語会話能力を身につけるために、完全な秘密裏に、ネパール人、ないしネパール語との接触ができた余地がどこかにある、と考えることは、難癖以外の何ものでもないと思われます。
ネパール語会話が獲得できるほど濃密なネパール人との親交、あるいは、数年間のネパール語の学習を、家族・友人にまったく知られないでおこなえる可能性があるはずだと、あなたは主張しているに等しいのです。あなたの文脈をたどるかぎり、里沙さんは秘密裏にネパール語会話を習得している、そうでなく、里沙さんがまったくネパール語を知らないのであれば、ラタラジューの発音は滑らかではない日本語的発音になるはずだという主張だと読み取れます。

私の調査結果とポリグラフ検査の鑑定から、里沙さんがネパール語をどこかで秘かに学んでいて、それを秘匿している可能性は断じてあり得ないと里沙さんの名誉をかけて断言します。私の断言を覆したいのであれば、私の調査を再検証するか、私の調査漏れをあなたが検証して、私の断言の誤りを証明してみせることです。

また、「里沙さんの言語機能に即して考えるなら、日本語的ネパール語の発音のほうが、無理なく説明できると思える」というのは、あなたの知る霊信現象との類推から生じる思い込み、恣意的推論の結果ではありませんか。私はスピリチュアリズム霊学の説く霊信の受信メカニズムを鵜呑みにすることはありませんし、それにとらわれることもありません。現れた現象の事実こそを第一義とする立場です。事実に基づかない議論は、根拠希薄な観念論の応酬になり、私のもっとも嫌うところです。

里沙さんがすぐれた霊媒資質を持ち、フル・トランス状態で前世人格ラタラジューが顕現化(自己内憑依)したと考えれば、つまり、ラタラジュー人格に、里沙さんが自分の肉体をすべて明け渡したと考えれば、ラタラジューが自分の獲得していたネパール語で会話して当然ではありませんか。なぜ、日本語的発音でなければ応答型真性異言が無理なく説明できないことになるのですか。そして、前コメントで説明したように、ラタラジューの発音は日本語的発音ではないことは明らかな事実です。事実がすべてを語っています。
シュヴァルさんのコメントにあるように、ここで大事なことは、起こったことは紛れもない事実であり、それを説明する理論があるかどうかではない、ということです。そして、繰り返しますが、応答型真性異言現象を説明する唯物論科学上の理論は一切ありません。唯物論では説明不可能です。だからこそ、この現象は、現時点で、生まれ変わり以外の説明ができないとされているわけです。

里沙さんの魂は現世が三度目の人生であることをセッションで確認しています。
彼女の魂は急速な成長・進化を望んで、負荷の大きい人生を自ら選んだと彼女の守護霊は告げています。
タエは人柱になって死亡、ラタラジューはナル村の独裁者であることを恨まれて村人により毒殺され、現世の里沙さんは脊柱側湾症を患い身体障害者です。
魂への負荷なくして成長は無し、ということでしょう。

そして、出来るだけ多彩な人生を経験して魂の智慧を磨くように計らいがされているのでしょう。
性別・国・職業・地位・死に方が多彩であることが、一人のクライアントに顕現化する諸前世人格の語りによって明らかになっています。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

追伸
里沙さんが、ひそかにネパール語を学んでいたと仮定した場合でも、まず学ぶ機会がほぼゼロであろう単語をラタラジューが用いている事実があります。

①死亡年齢を尋ねられて「78」というべきところを「8と70」と答えています。この数詞の表現は現代ネパール人には理解できません。だから、対話相手をしたカルパナさんは「70ですか?」と聞き直しています。カルパナさんには「8と70」の意味が理解できなかったからです。「8と70」という数え方は一昔前には実際に使われていたことが検証の結果証明されています。現在ではまったく使われていない数え方です。
現代ネパール人でも理解できない「8と70」という数え方を、里沙さんはいったい誰からどのようにして学んでいたのでしょうか?

②ラタラジューは現代ネパール語の妻の単語「シリマティ」を理解できません。しかし、一昔前に使われていた妻の単語「スワシニ」は理解できました。ただし、「スワシニ」という単語は方言として地方で使われている所もあるようです。里沙さんは現代ネパール語単語としてほとんど使用されていない「スワシニ」を誰からどのようにして学んでいたのでしょうか?

匿名さんが、里沙さんはひそかにネパール語を学んでいた可能性があると思っておいでなら、①②の質問に対して合理的な説明ができるでしょうか。

ただし、超ESP仮説を持ち出して、①②の単語知識のあるネパール人や書物からテレパシーや透視を用いて知ったのだ、という説明は無しとします。これまで、里沙さんが超ESPという能力を発揮した事実は一切確認されていないからです。

①②について合理的説明ができないとすれば、そして、ポリグラフ検査の鑑定からも、里沙さんがひそかにネパール語会話を学んでいたという可能性はあり得ないと結論できるのではないでしょうか。
それでも、われわれには分からない方法を使って、このような古いネパール語をきっと学んでいたに違いない、と主張されるのであれば、屁理屈、非論理的ごり押し主張のきわみと言うべきであり、議論は成り立ちませんし、議論する気にもなりません。

匿名 さんのコメント...

先生や里沙さんを侮辱する気は毛頭ありませんでしたが、軽はずみな気持ちで里沙さんに疑いを抱いているようなことを書いてしまい、申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

匿名さん
私の回答にかなりの反発がくることを想定しておりましたから、素直に詫びられるとは意外でした。
あなたの誠実な態度に接して、私も辛辣な物言いをしたことを反省しています。
どうぞご海容ください。

私は、特に、生まれ変わりや霊的現象のような重大な事象については、あなたのような執拗で健全な懐疑的精神は不可欠だと思っています。私自身が粘着質な懐疑的思考をせざるをえない心性がきわめて強いからです。

里沙さんがひそかにネパール語会話を身につけていたのではないか、という疑惑は「ラタラジューの事例」が出現した2009年5月時点で、真性異言現象の成否を決定する最重要問題だと自覚していました。そしてこの事例で真っ先に疑われることは、里沙さんがネパール語を習得していたかどうかの有無であることは当然予想できました。

ひそかにネパール語を習得できた疑いのあるすべての機会と手段を一つずつ丹念に執拗に検証し、容疑を晴らしていき、最後に残ったものこそ真理であるという方法論は、スティーヴンソンから学んだことです。

私の警察官をしていた友人は、私の実際の探究行動と拙著を読んで、真犯人特定をするために容疑者すべてに当たって執拗に追い詰めていく刑事の捜査活動そのものだと感想を漏らしています。稲垣さんはまさに刑事向きですよ、と評価してくれました。

こうした私の思考と探究心の原動力は、匿名さんが漏らしておいでになる「心(意識、魂、精神など)と身体は別物で、心が永続的なものであればいいな、と思っています。その根底には死に対する言いようのない恐怖心があります」という心性そのものです。深い共感を覚えました。
生まれ変わりが科学的事実であってほしい、「ラタラジューの事例」がその証拠であってほしい、という強烈な願望によって執拗な検証活動に駆り立てたのは、燃やされすべてが無に帰するという死への現実的恐怖に心底怯えることが、祖父の火葬の情景を目撃した小学6年生以来、私という存在の根底に、限りなく深く、重く、沈殿し続けていたからです。

そして、死の恐怖から少しでも免れたいという切実な願望によって、検証方法や検証結果にバイアスがかかり、都合のよいことのみを選択的に抽出したり、拡大視したり、恣意的推論に走ったりなど、認知の歪みに陥っていないかどうかを常に自省して最終的に得た結論が、里沙さんは絶対嘘をついてはいない、ネパール語を習得していた痕跡を一切見出す事は出来ない、ということでした。

私の生まれ変わりの科学的探究の原動力は、日に日に確実に死への距離を縮めており、その恐怖を、既存の宗教的言説や信仰では到底救われない己自身を救うための、切実な利己的動機がすべてと言ってよいと思います。
私には、世のため人のために、生まれ変わりを探究しよう、などという高尚な動機はありませんでした。
自分が救われたいということが第一義でした。

そして、私の利己的動機からはじまった探究結果を公開することで、結果として多くの人びとに資することができるとすれば、それこそまさに「望外の喜び」です。

匿名 さんのコメント...

先生の、死の恐怖に対する考えや思いを率直に話していただき、深く受け止めております。

わたしが死の恐怖を切実なものとして感じたのは、高校生のときでした。なぜ死後のことを考えるようになったのか、今となってははっきりしないのですが、とにかくその当時、自分が死んでもこの世の中は延々と続く、自分の知らない世界が延々と続く、自分は未来永劫、無に帰してしまってどこにもいない、そう思うと、泣きたいような、叫びたいような、何とも言えない気分(恐怖心)に包まれたことを覚えています。

社会人になってからは、仕事があり、家庭を持つようになると、当然日々の生活の細かいことに追われるようになり、いつしか死の恐怖のことは忘れるようになっていました。ときたま思い出しても、死なんてまだまだ先のできごとだ、当面気にしなくてもよい、そんな感じでした。

ところが、定年退職の身になってあまり趣味のないわたしに、これといって熱中するものがないこともあってか、頭をもたげてきたのが、死に対する恐怖心でした。今度は高校生のときと違って、具体的な死がそう遠くないところまで来ている、そう思うと、高校生のときに感じたあの嫌な雰囲気、気分をまたまた味わうようになりました。

そのようなとき、インターネットのサイトでスピリチュアリズムに出会いました。スピリチュアルなものは、一時期テレビ等ではやったこともありましたが、どうせタネも仕掛けもあるインチキなものだろうと思って、本気にはしていませんでした。ところがスピリチュアルリズムのサイトの中には、近代スピリチュアリズムの歴史、思想などを詳しく解説しているものがありました。わたしはそれまで近代スピリチュアリズムの知識は皆無でしたので、そこで述べられているスピリチュアルな現象に対する解釈、スピリチュアルリズムの意義などを知って、驚きました。

特に関心を抱いたのは、物理的心霊現象でした。近代スピリチュアリズムの勃興期において、当時の著名な科学者たちが物理的心霊現象を疑いながらも、その解明に挑んだ結果、物理法則では説明不可能な現象が事実として存在する、ということを多くの科学者が認めたということでした(物理的心霊現象の解明そのものはなされませんでしたが)。そいうことを知って、思いました、これはもしかしたら、霊魂というものが事実として存在するのかもしれない。

でもやはり、いくらスピリチュアルリズムの知識をネットや書物で得たとしても、知識は知識です、実感がありません。一番納得できるのは、物理的心霊現象を自分で経験することだと思いましたが、そんなことは普通の感性しか持ち合わせていないわたしには、起こるはずがありません。

そんな中で、あるスピリチュアルサイトで先生のことが紹介されており、先生のサイトに出会いました。先生のサイトを拝見してびっくりしました。生まれ変わりを、事実として、科学的に実証できるというのです。それなら何も、物理的心霊現象を経験する必要性はないのではないか。そう思い、少し元気をもらってほぼ毎日先生のサイトを訪れていました。それなのに、先日は軽はずみな、不用意な発言をしてしまい、改めてお詫びします。

これからも、もっと研究をされて、わたしたちに勇気と希望をもたらしてください。

シュヴァル さんのコメント...

先生の真摯な研究態度は、一般の読者の方には伝わっているのではないでしょうか?
私も、先生の研究の一助となればと思い、行動、投稿しております。

やまびこさんは、先生の研究に対して疑問を持たれたことを聞かれたのだと思います。
ただ、ここのブログのテーマは最終的に理論化することではあろうかと思いますが
応答型真性異言は、数が少なすぎて理論化が困難なものであるため期待にこたえられなかった故であると思います。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

匿名さん
真摯で誠実なコメントをいただきお礼申し上げます。

もうお読みになっているかもしれませんが、近代スピリチュアリズムについての正確かつ豊富な事例解説が充実しており、ネット上のスピリチュアリズム霊学についての最高峰のサイトは、「東京スピリチュアリズムラボラトリー」でしょう。
ここの管理人さんと私は浅からぬ知り合いですが、信頼に足る人柄であり、確信的スピリチュアリストを自負されている方です。もし、お読みになっていないならイチオシのサイトです。

私は確信的スピリチュアリストではありませんが、SAM前世療法で確認してきた事例は,スピリチュアリズムの説く霊学と高い親和性を持つと考えています。
ただし、SAM催眠学で仮説としている「魂の二層構造」と魂の生まれ変わりの仕組みについては少々懸隔が生じています。
私の臨床における事実確認ともっとも親和性の高い霊信は、生まれ変わりについて積極的に告げているアラン・カルディックの『霊の書』だと思っています。

そして、私の臨床で体験する霊的諸現象を考える拠り所の第一は、私あての霊信です。