2012年4月14日土曜日

ラタラジューの再顕現化とその懐疑

前ブログに紹介した実験セッションは、魂の実在と生まれ変わりの事実を検証するためのデモンストレーションとしておこなったものです。
被験者の里沙さんとは事前の打ち合わせを一切せず、SAM前世療法の定式にしたがって魂状態まで導くことだけを予告してありました。
セッションの見学者は8名です。
したがって、この実験セッションには8名の証人があります。
前ブログのラタラジューの生年・没年の特定以外にも興味深い意識現象が現れていますので、それを紹介します。
魂状態の自覚に至った里沙さんに最初におこなったことは彼女の守護的存在の憑依でした。霊界の住人にしか分からないであろう2点の質問と、ラタラジューの呼び出しを許可してもらえるかの確認でした。
①タエの事例、ラタラジューの事例は、偶然あらわれたものか、何か意図によるものか?
②なぜ応答型真性異言という現象がきわめて少ないのか、その理由は何か?
憑依したとおぼしき守護霊の回答は次のようなことでした。
質問①について
タエの事例もラタラジューの事例も、霊界で計画され贈られたものである。この二つの事例によって生まれ変わりが事実であることを地上の人間に知らしめ、その結果、地球の寿命を延ばすことに目的がある。現世の者たちが生まれ変わりを認識することにより、地球環境を守ることが子孫のためであるというより、来世の地球に生まれ変わる自分のためであると切実に考えることになる。その結果、地球の寿命を延ばすことができるのである。
質問②について
応答型真性異言を語れる者は、すぐれた霊媒体質をもっている者に限られる。
ラタラジューは、魂表層の前世人格であるが、その前世人格が現世の里沙に憑依した現象ととらえなさい。そうした前世人格の憑依現象を起こすためには、現世の者がすぐれた霊媒体質である必要があるのだ。
この2つの回答を得たあと、守護霊に、前世のラタラジュー人格を呼び出すことの許可をもらいました。
ラタラジューが顕現化した場合に確認することは2つでした。
①「ラナ」と「30歳」との関係を明らかにし、ラタラジューの生年・没年を特定すること。
②ラタラジューが腹の病気で死んだという語りの裏事情を探ること。
以上の対話は日本語でおこないました。
顕現化したラタラジューの①についての回答の詳細は、前ブログに紹介したとおりです。
②についての回答は大変に陰惨な事実をラタラジューは語りました。
ラタラジューの腹痛の原因は毒を飲まされたからだと言うのです。しかも、正妻ラメリ、正妻以外の8人の妻、息子アディス、娘クジャウスの全員が毒殺されたと語りました。ラタラジュー家は抹殺されたと言うのです。
毒殺によるラタラジュー家抹殺の理由は、支障があるので明かすことは控えます。
こうしたラタラジュー人格の顕現化については、次のような懐疑的解釈も可能です。
里沙さんは、筆者の『生まれ変わりが科学的に証明された!』を読んでいる。その中には、ラナ家に関わる権力闘争とラタラジュが傭兵として参加した推測が書いてある。里沙さんはそうした情報を潜在記憶に蓄えていたから、ラタラジューのふりを役割演技して回答したのだ、という解釈です。
前世人格ラタラジューの顕現化などという生まれ変わりなど想定しなくとも、現世の里沙さん自身の役割演技で説明できる、という解釈です。
もっともな唯脳論(唯物論)的解釈だと思います。そしてこの解釈は、原理的に棄却できません。
そして、こうした徹底的な懐疑をもつことによって、生まれ変わり研究の厳密な科学性が担保されると思います。
この懐疑的解釈に対する筆者の直感的反論を述べてみます。
①ラタラジューに対して、「私はネパール、ナル村の村長ラタラジューです」とネパール語で言ってみなさい、と要求したところ、「Ho Ma Nepali Nallu gaun mukhiya Rataraju (はい、私はネパール、ナル村村長ラタラジューです)」 とよどみなく正しいネパール語で答えた。このネパール語発話は、朗唱型真性異言ではなく応答型真性異言だと判断できる。
②ラタラジューが「毒を・・・」と話し出したと同時に、里沙さんは腹部の激しい痛みによる痙攣症状と嘔吐感で苦しみ出し、その真に迫った苦しみ方は演技による解釈を否定できると判断できた。
以上2点の事実から、役割演技仮説より顕現化仮説のほうが妥当性が高いと思われます。
ただし、Ho Ma Nepali Nallu gaun mukhiya Rataraju という発話も、すでに2009年5月にネパール語対話セッションをしているので、その記憶をもとに、この程度のネパール語なら現世の里沙さんがラタラジューのふりをして発話可能である、と言われればそれまででしょう。
最終的には、ラタラジューの再顕現化を信ずるか否か、ということになりそうです。
生まれ変わりを証明しようとすると、信ずる者には十分な証拠、しかし疑う者には疑う余地を残した証拠というレベルの証拠しか示すことができないというジレンマが絶えずつきまとうのです。

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