2016年6月12日日曜日

生まれ変わり仮説を阻む最強の否定仮説

   SAM催眠学序説 その92

生まれ変わり仮説を否定する最強の仮説ー「超ESP仮説」


「タエの事例」の検証の考察で取り上げた「透視などの超常能力(超ESP)仮説」は、生まれ変わり(死後存続)を否定するための十分な裏付けのないまま強引に作り上げられた空論だ、と私は考えています。

徹底的な裏付け調査によって、私の心証として里沙さんの証言には嘘はあり得ないという確信があり、タエの実在証明ができなかったにせよ、生まれ変わりの科学的証明に迫り得たという強い思いがありました。

ポリグラフ検査によっても、タエに関する諸情報を里沙さんが事前に入手していた記憶の痕跡は全くない、という鑑定結果が得られているからです。

しかし、ここに「超ESP仮説」を登場させると、生まれ変わりの証明はきわめて困難になってきます。
人間の透視能力が、かなり離れた場所や時間の事実を、認知できるということは、テレビの「超能力捜査官」などをご覧になって、ご存じの方も多いと思います。

この透視能力(ESP)の限界が現在も明らかではないので、万能の透視能力を持つ人間が存在する可能性があるはずだ、と主張する仮説が「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
超ESP仮説を初めて唱えたのはホーネル・ハートとされていますが、その趣旨は、ESPの限界が分かっていないので、霊との交信とされるような複雑な現象も、生者のESPによって起こりうると考えるべきで、霊魂仮説は不要であり、思考節減の原理に反するというものでした。


超ESPを発揮すれば、情報である限り、ありとあらゆる情報を、透視やテレパシーによって入手できるわけで、そうした諸情報を編集し、組み合わせて、もっともらしい前世の物語を作話することが可能になるわけです。

これを里沙さんに適用すれば、彼女は、普段は透視能力がないのに、突然無意識的に、「万能の透視能力」を発揮し、しかるべきところにあるタエに関する「記 録」や、人々の心の中にある「記憶」をことごく読み取って、それらの情報を瞬時に組み合わせて物語にまとめ上げ、タエの「前世記憶」として語ったのだ、と いう途方もない仮説が、少なくとも理論的には可能になるのです。

もちろん、普段の里沙さんに透視能力がないことは確認してありますが、催眠中に里沙さんが絶対に超ESPを発揮してはいない、という証明は事実上不可能です。

そのうえ、海外の事例には、催眠中に突如透視能力が発現したという現象が確かに存在するので、ますますやっかいです。

また、万能に近いと思われる透視能力者が過去に実在していることも事実です。

たとえば、グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出てい るか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
この透視実験について、ケンブリッジ大学トリニティの道徳哲学教授ヘンリー・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)


こうなると、前世記憶とは、透視によって獲得した情報を前世記憶のように装ったフィクションに過ぎず、したがって、生まれ変わりなどを考えることは不要であり、生きている人間の超能力(心の力)によってすべてが説明可能だというわけです。

ところで、この超ESP仮説自体を証明することは、現在のところESPの限界が分かっていない以上不可能なことなのです。

しかし、この仮説を完全に反証しなければ、生まれ変わりの証明ができないとすれば、生まれ変わりは完全な反証もされない代わりに、永久に証明もできないという袋小路に追い詰められることになってしまいます。

一方、前述の「超能力捜査官」などの例でテレパシーや透視の存在は知られていますが、人間の死後存続の証拠は直接には知られていません。

したがって、生まれ変わりという考え方自体のほうが奇怪で空想的であるとして、これを認めるくらいなら他の仮説を認めるほうがまだましだ、とする立場を採る研究者たちによって超ESP仮説は支持されてきたという事情があるのです。

こうして、心霊研究と超心理学の百数十年に及ぶ「生まれ変わり」の証明努力の前に、最後に立ちはだかった最強の壁が、この超ESP仮説でした。

多くの心霊研究者や超心理学者は、超ESP仮説さえなければ、死後存続はとっくに証明されていたはずだと考えています。

それを何としても阻むがために、この「超ESP仮説」は、考え出され支持されてきた仮説だと言ってよいでしょう。
そして、超ESP仮説を持ち出せば、どのよ うに裏付けが十分な前世記憶であろうと、すべて超能力で入手した情報によるフィクションだとしてなぎ倒すことが少なくとも理論的には成り立ち、生まれ変わりの完全な証明など永久にできるはずがないということになります。

とすれば、仮に、苦労を重ねて「タエ」の実在を文書等の「記録」によって発見できたとしても、万能の超ESP仮説がある限り、里沙さんがその情報を超ESPによって収集したのだという説明が可能であり、「タエの事 例」は前世存在の完全な証明とは認められず、検証のための努力は徒労であったということになってしまいます。

やはり、生まれ変わりの証明などということは、宗教者や霊能者と呼ばれる人々の観念的言説に留めておくべきことで、誰もが納得できるレベルでの生まれ変わりの科学的実証などは、ないものねだりとして断念すべきことなのでしょうか。

この難題に真っ向から挑んだ研究者が、『前世を記憶する子どもたち』などの一連の著作で知られる、バージニア大学のイアン・スティーヴンソン教授でした。


超ESP仮説では説明できない「応答型真性異言」

スティーヴンソンが着目したのは、もし、ESPによって取得不可能なものであれば、それは超ESPであろうとも取得が不可能である、という事実でした。
少し長くなりますが、彼の着目点以下にを引用してみます。
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デュカス(注 カート・ジョン・デュカス、哲学者)は、本来、霊媒は他人の持つあらゆる認知的情報をESPを介して入手する力を持っているかもしれないことを原則として認めているが、その情報を本来の所有者と同じように使うことはできないと考える。

デュカスによれば、霊媒は、テレパシーを用いてラテン語学者からラテン語の知識をすべて引き出すこともあるかもしれないが、その知識をその学者の好みとか癖に合わせて使うことはできないのではないかという。

以上のことからデュカスは次のように考える。

もし霊媒が、本来持っているとされる以外の変わった技能を示したとすれば、それは何者かが死後生存を続けている証拠になるであろう。
もしその技能が、ある特定の人物以外持つ者がない特殊なものであれば、その人物が死後も生存を続けている証拠となろう。
技能は訓練を通じて初めて身につくものである。

たとえば、ダンスの踊り方とか外国語の話し方とか自転車の乗り方とかについて教えられても、そういう技能を素早く身につける役には立つかもしれないが、技能を身につけるうえで不可欠な練習は、依然として必要不可欠である。

ポランニー(注 マイケル・ポランニー、科学哲学者)によれば、技能は本来、言葉によっては伝えられないものであり、そのため知ってはいるが言語化できない、言わば暗黙知の範疇(はんちゅう)に入るという。

もし技能が、普通には言葉で伝えられないものであるとすれば、なおさらと言えないまでも、すくなくとも同程度には、ESPによっても伝えられないことになる。
(スティーヴンソン「人間の死後生存の証拠に関する研究ー最近の研究を踏まえた歴史的展望」笠原敏雄編『死後生存の科学』PP41-43)
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ESPである透視・テレパシーなどによって、取得可能なのは、あくまで「情報」です。
そしていくら情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、「技能」の取得はできません。

自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、たとえば言語も情報による伝達だけでは「応答的会話」まではできないはずです。

つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話技能」までは獲得することができないわけです。
実際、超能力によって、本人の学んでいない外国語で会話した事例は発見されていません。

したがって、ある人物が、前世の記憶を、その前世での言語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、「生まれ変わり」が最も有力な説明仮説となる、とスティーヴンソンは考えたのです。

そして、前世記憶を語る中には、ESPによる「情報取得」では説明できない、学んだはずのない外国語での応答的会話を実際に示す事例が、きわめて稀ですが、これまで世界で4例報告されています。
これを「応答型真性異言」responsive xenoglossyと呼びます。

4例のうち、2例は覚醒中に起き、2例は催眠中に起きています。

応答型真性異言は超ESP仮説を打破した

 「真性異言」(xenoglossy ゼノグロッシー)とは、フランスの生理学者で心霊研究協会の会長も務めたシャルル・リシェの造語で、本人が学んだことのない外国語を話す現象のことを言います。

『新約聖書』などにも「異言」(glossolaria グロッソラリア)という現象が記述されていますが、「真性異言」は、その言語が特定の言語であり、学んでいないことが確認されたものです。

このうち、特定の文章や語句だけをオウムのように繰り返すものを「朗唱型真性異言」、その言語の話者と意味のある会話ができるものを「応答型真性異言」と呼びます。

さて、真性異言のうち、「朗唱型真性異言」は、「情報」ですから超ESPによって取得が可能と言えます。
しかし、意味の通った会話ができる「応答型真性異言」は、そうではありません。

言語を自由に話せるというのは、「技能」であり、いくら単語や文型の情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、応答的会話は可能にはなりません。

自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、言語も情報による伝達だけでは技能である「会話」まではできないのです。

つまり、「超ESP」によっても、「学んでいない外国語の応答的会話技能」は取得できないことが明白です。
こうして、ある人物が、前世の記憶を、その前世での外国語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりを最も有力な説明仮説として採用せざるをえないということになります。

生まれ変わりの証拠である応答型真性異言は、スティーヴンソンが20年にわたって世界中から収集し精査した2000余りの生まれ変わり事例の中で、わずか3例にすぎません。

「イェンセンの事例」と、「グレートヒェンの事例」、および「シャラーダの事例」です。

イェンセンとグレートヒェンの事例は、催眠中に偶発的に前世人格が出現したもので、前者はスウェーデン語、後者はドイツ語で、短い会話によるやりとりが記録されています。

シャラーダの事例は、覚醒時に前世人格が出現し、きわめて長い会話で流暢に受け答えし、歌まで歌っています(『前世の言葉を話す人々』春秋社)。

スティーヴンソンの報告以外に信頼できる事例として、数名の科学者によって調査され、覚醒時にスペイン語で流暢な長い会話をした「ルシアの事例」の調査報告があります(心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)。

つまり、世界中で信頼にあたいする検証を経た応答型真性異言の事例は4例発見されており、そのうち2例が催眠下で起こった事例ということになります。

さて、こうしたスティーヴンソンの応答型真性異言研究(生まれ変わりの実証研究)は、きわめて綿密な調査と、公正で慎重な検証によって、他の領域の一流科学者たちにも説得力をもって認められつつあるようです。

た とえば、著名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかった はずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』P302)と述べています。

また、行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、 真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」 (Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記)と述べています。

そして、応答型真性異言こそが生まれ変わりの最有力な証拠だ、とするスティーヴンソンの主張を、科学的・実証的に反証し、論破した研究はいまだに提出されてはいないのです。

このこと、すなわち、応答型真性異言こそは、超ESP仮説を打破できたことが認められたということを意味します。
ひいては、現時点で、応答型真性異言は、生まれ変わりを証明する科学的証拠としてついに認められたことになります。

15 件のコメント:

ショウタ さんのコメント...

否定派は何言ってもダメですね

コピペ

新しい科学1073





 若い人々の選挙への姿勢

 最近18歳まで選挙権が拡大されました。昔で言えば、徴兵制が布かれても徴兵される人々には選挙権が無かったという時代がありました。これは、つまり、基本的人権が法律的に認められていなくて、上の権力者(単数、あるいは複数)が勝手に決めたことを下の者に押し付けて当然とされていた時代の在り方でした。
 ところが、数々の戦争体験や思想的進化を経て、今日の様に基本的人権が認められ、自分たちがやるべきことは自分たちで決められるという時代になりました。これが民主主義というものであることも広く認識されるようになりました。
 そして最近の若い人々の意識調査によると、こうしたことに対する姿勢も以前より進んでいるように見受けられます。
 ここでは、「新しい科学」の立場から、選挙に初めて向かう若い人々への期待を述べてみたいと思います。

 このシリーズの「新しい科学1068」では「通りすがり」さんへの簡単な課題を出しました。「通りすがり」さんは私の「死後の世界は有り得ない」という意見に対して、それを有るとか無いとか言うのは不可能ですよ、と言いたかったので、「死後に存続する意識が有るとか無いとかいうことは出来ない」と偉い学者さんたちが言っていますよ、あなたはそんなことも知らないで、独断的な主張をしているのではないですか、と言ってくれたのです。(若い人々の中にはそんなことは選挙と関わりのないことではないですか、と疑問に思っている人もあるかも知れませんが、大いにあるのです。それは昔軍国主義の時代には軍神とか英霊とか言って、あの世があるかのように宣伝されていたからです。)
 原水爆ができるまでは、「人間は動物と違って魂は永遠不滅である。」と考える心身二元論が圧倒的に優勢でした。イギリスの偉大な哲学者バートランド・ラッセルが言ったように、『天国への信仰は、生来の喧嘩早さを補強するものとして相当な軍事的価値を持つものである。それ故に、軍国主義者は不滅への信仰が現世のことに冷淡になる程深刻になることはあるまいと常に想像して、この信仰を奨励する点において賢明であることを認めねばなるまい。』(バートランド・ラッセル著、大竹勝訳、「宗教は必要か」荒地出版社、1950年、116頁)
 実は、バートランド・ラッセルも死後の意識の有無を完全に立証した訳ではなく、「死後の存続は有りそうにない。」とだけ言っているに過ぎないのです。
 私の場合は有るか無いかを言っているというより、「死後の世界は実としては無い、虚としては有る。」と言っているのです。つまり、有り方の形が違うと言っているのです。そして「有る、無し」は人格の働きとして確かめられることである。そして、「人格は肉体を持った個人(感覚器官、運動器官、中枢器官から成る)と対象を要素(e)とする存在(b)である。」更に「対象の有無は、個人を中心とする、対象に対しての機能(f)である。」と定義するのです。(これは専門用語が入ってきて難しいと感じるでしょうから、深入りしないでください。)

 「通りすがり」さんに課題を出したのが6月8日でしたから、もう9日経っていますが、ここでは実像と虚像に対する物理学での定義をお知らせして、ヒントとし、もう少し待って見る事にしましょう。
 丸善から1989(平成元)年に物理学大辞典が出版されました。その649頁に像(光学的)の説明が載っています。
 発光物体または照明された物体からの光線が光学系を通り作る像。光線が像のある側の点に収束しているとき、これを実像(real image)という。一方、光線が光学機器内のある点から出てくるように見えるとき、これを虚像(virtual image)とよぶ。
これをヒントとして、更にご自分で考えてみてください。

これができたら、次は更に難しい課題、「虚運動が見えるかどうか」見えたら、「何故、人間には虚運動が見えるのか」という課題が待っています。

これらが分かると、「死後の世界は虚の世界である」ことが分かり、科学の第三革命としての「人格形成の科学」が分かるようになります。人格形成の科学
が分かり、その普及が大切と分かると、核廃絶、戦争廃絶が大事と分かり、世界平和へと一歩一歩近づくことができるようになります。

カントやヘーゲルの平和論が甘いと見る人々は、実は、これらのことが分かって居なくて、レベルⅡの「生存競争原理段階人格」に停滞している人々であると言えるかも知れません。

http://tsutsui-takeo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-8f31.html

ショウタ さんのコメント...

一卵性双生児がどうして死後の世界
  が無いことの証明になるのか

 よく質問されることに、ここでのテーマの問題があります。
 これは私が遺伝と環境の性格に及ぼす影響の問題を昭和33(1958)年に研究していたとき、二つの貴重な体験をして、それを真剣に考えて行って到達した結論です。(この点についてはここでは論じません。もし、関心や疑問のある方は最近書いた別冊のパンフレットを差し上げます。ファックス026-259-3370にご連絡ください。)
 「一つの人間の受精卵から、一卵性双生児を人工的につくったり、止めたり出来ないか」というテーマがその時の私の課題となったのです。これは当時心身二元論者であった私が身体と心は発達のどの時点で結びつくのか考えてみようとしたからです。
 デカルトによると{「不滅の霊魂」が人間にはあって、死ぬと身体は消滅しても心(=霊魂)は残る}ということですから、身体と心(=霊魂)は受精卵の段階からのどこかで結びつくはずである、それがどこかどの時期か見つけられないかという考えから出た訳です。
 
 とにかく、「一つの人間の受精卵から、一卵性双生児を人工的につくったり、止めたり出来ないか」ということを考えてみたのです。これを実際に人間でやることは難しい時代でしたし、倫理的にも問題があると考えました。
 そこで、ハンス・ドリーシュのやった実験を基にして、思考実験をしました。彼はウニの受精卵を二つに分けると普通より小さなウニ、つまりウニの一卵性双生児ができることを見出したのです。しかし、沢山の受精卵の中には二つに分かれた後直ぐにまたくっつくのも見られたのです。そしてくっついた後はそのまま発生して行くと、普通のウニが出来たのです。

 これは当然人間の受精卵に応用することができる筈です。つまり、人間の手で受精卵を二つに分けて、発生させると、当然一卵性双生児が生まれてくる筈です。しかし、分けたのをまた直ぐにくっつけてそのまま発生させると、普通の人が生まれて来る筈です。
 このことは、当時心身二元論者で神仏を信じていた私にとって、神秘的な身体と心の結びつきがなんと人間の手の中にある、という驚くべき事柄に見えたのです。
 これに似た話しで落語に「死神」という題のものがあります。瀕死の重病人の枕元に死神が居ると、その人は必ず死に、足元に居ると必ず生返るということを知ったある人が、「よく当たる」というので評判となりました。あちこちに呼ばれた中に、「どうしても生き返らせてください」と頼まれた重病人がありました。ところが、困ったことに死神がその人の枕元に居るのです。
 けれども、その死神は働き過ぎて疲れているのか、時々ウトウトするので、名案(迷案?)を思いつき、依頼人に協力してもらって、強力な人を4人ほど用意して貰って、死神がウトウトした瞬間に病人の頭と足の向きを逆転してしまうのです。こうしてその重病人は生返ったということで、その後もあるのですが、省略しましょう。

 とにかく、心とか魂、あるいは自我というものは無数に独立して有るものなのかどうか、これが疑問になったのです。
 そこで、最初は「自我意識はただ一つである」と考えました。こうすると、分けても、同じ魂が二つの卵に入って行くのですから、心身二元論でも問題はないのです。
 ところが段々考えて行くうちに、物質にも物質の下に分子、分子の下に原子、原子の下に中間子などの素粒子があって、すべて質的に異なる働きがある、ということとつながって、なにも霊魂などというものを考えなくても、前提としなくても、物質の働きが如何にして心を発生させ、発達させるかを考えることが出来るのではないかと分かってきたのです。「死後の世界は有り得ない」、デカルトは間違っていた。と分かったのです。
 しかし、この時はまだ、『科学的存在観(SOパラダイム)』は出来ていなくて、心身二元論は崩壊してしまったのに、立つべき基盤が失われてしまったのでしょう。身体がまだ心身二元論に立っているのに、頭がその土台を無くしてしまったので、大変な恐慌に陥ってしまったのでした。つまり、突然、何が何だか分からないうちに、足元に大きな底なしの穴が開いて、どんどん落ちて行くという幻覚が襲ってきたのでした。これは恐惶が落ち着いた後に、「運動幻覚」という幻覚であったことが分かりました。これは人にも話せず、自分でも意識出来ない(意識しようとするとすぐに物凄い墜落幻覚に襲われるので)という強敵でした。この強敵からは逃げるしか方法は無かったのですが、それでも一人で少しづつ「新しい科学」を創ることによって、足掛15年かかりましたが、科学の第三革命としての「新しい科学」を創造することができて、救われました。

http://tsutsui-takeo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-d141.html

私は文系で科学については素人で手が届きません

稲垣さんはこの問題についてどのように考えてますか?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

私の思考の基盤が、「観念より事実」、「理屈より実証」であることはこのブログをとおして何度も表明しています。

あなたの紹介している論者は、「思考実験」などのことばを用いておいでになるので、観念論として霊魂否定をしようと試みておいでだと理解しました。

そして、論理的整合性という視点から読んでみて、
「ところが段々考えて行くうちに、物質にも物質の下に分子、分子の下に原子、原子の下に中間子などの素粒子があって、すべて質的に異なる働きがある、ということとつながって、なにも霊魂などというものを考えなくても、前提としなくても、物質の働きが如何にして心を発生させ、発達させるかを考えることが出来るのではないかと分かってきたのです。死後の世界は有り得ない、デカルトは間違っていたと分かったのです」
という一節は、言葉足らずでどうにも理解できません。論理が飛躍しているからです。

「霊魂」は非物質と考えるべきでしょうが、この論者は非物質である「霊魂」を物質に還元できるという唯物論の考えに固まっておいでのようです。「物質の働きがいかにして心を発生させ、発達させるか」のどの文言はその表明でしょう。
私は、「霊魂は物質に還元できない」という前提に立っていますから、根本的に相容れない考え方です。

私には4歳になる男子一卵性双生児の外孫がいます。
車で15分の距離に住んでいますから、週1回は2時間ほど遊んでやります。
二人は同一遺伝子、同一環境で育っていながら、明らかに性格や興味の対象の違い、食べ物の好みの違いが歴然としています。顔立ち、体格、声など外見は言うまでもなく瓜二つで、初対面の人には区別がつくことはまずありません。
この「事実」は、彼ら二人の霊魂は別々のものが宿っていることの傍証だと思っています。
こうした「事実」から、一卵性双生児は霊魂存在の傍証であろうと見ています。
けっして観念論ではありません。

さて、唯物論的観念者のこの方は、応答型真性異言「ラタラジューの事例」という事実を、霊魂実在や死後存続という仮説を用いないで、唯物論で、すべて物質に還元して、論理的整合性のある説明ができるのでしょうか?

迷子 さんのコメント...

こんにちは。

 ショウタさんへ、「生まれ変わりの刻印」イアン・スティーヴンソン(著)笠原敏雄(訳)春秋社。の290ページを読んでみてください。前世の記憶する双生児の話があります。

シュヴァル さんのコメント...

他人に意見を求める前に自分はどう思うかが大事ではありませんか?

自分の意見を書いたうえで講評をお願いするならともなく
他人の意見を一方的に持ってくるのは失礼に思いますよ

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

あなたの紹介している論者は、「ラタラジューの事例」について次のように反応してきたということでした。

「 稲垣勝巳さんのラタラジューの事例の退行催眠で『応答型真性異言』を聞かせて貰いました。こういうことが本当に有ったとすれば、不思議ですね。マジックなどでも不思議なことはやりますが、タネは無いと言いながら、結構タネはあるものです。素人は知らないし、知らせないものです」

「死後の世界は有り得ない」という、はじめに結論ありき、の硬直した思考態度の典型です。
「ラタラジューの事例」をマジックだと思いたければ、いったい公開動画のどの部分がマジックの可能性があると思うのか、それはなぜか、を具体的にキチンと指摘しなければ、つまり反証をあげなければ、「死後の世界は有り得ない」という論拠になりません。
どこかにマジックであるタネがあるにちがいない、と思って安心していたい程度の知的レベルの方だと判断しています。

私の結論を言えば、この論者は、「こういうことが本当に有ったとすれば」と述べているように、本音は「本当に有ったとは絶対に思いたくない」ということでしょう。
ご自分が苦労のあげく到達したと思い込んでいる唯物論世界観が崩れることが恐怖だからです。

こうした、真理探究に知的不誠実な人間に対しては、「縁無き衆生」だとして相手をしないことにしています。

シュヴァル さんのコメント...

この反応からしてそもそも無礼な対応に感じますね。

根拠も、証明もせずに断定するのは研究を行うものの言動ではないように思います

ショウタ さんのコメント...

難しいですね。

私は文系で科学は素人のため、どちらも説得力を感じてしまいます。

ただ、科学は反証可能性が大事だとわかりました。

ショウタ さんのコメント...

例のブログの人の稲垣さんの回答への回答です

コピペ

「新しい科学1073」に対するコメントを有難う。このコメントに回答します。なお、この回答を「新しい科学」シリーズに転載すること(このままでない可能性も含めて)をお許しください。

広く、多くの人々に開示して冷静に慎重に考えてより広い考え方を獲得することを目指したいと思っています。

私の学説を稲垣さんに紹介し、回答をメールしてくれて有難う。しかし、君自身の考察や私から提案した課題への回答はどうなっているのですか。自分で考え他者と対話することが基本ではないですか。

自分の考えを高めるために他の人の意見を参考にするにしても、自分で考え主張するという実践をしなければ、自分の思考を鍛え、高度な思考をすることは出来ません。是非、自立した考えを持てる

ようにしてください。

ところで、稲垣さんの「あなたの紹介している論者は、「思考実験」などのことばを用いておいでになるので、観念論として霊魂否定をしようと試みておいでだと理解しました。」との意見はわたしには大変独断的な意見に聞こえます。

思考実験という言葉に引っ掛かっているようですが、1073にはこの言葉は使ってないので、どこから引用して紹介したのでしょうか。 それに昨年の理論心理学会で発表した論文では自分の1958年に行った調査の結果と

ハンス・ドリーシュの行った実験を基にして考察したことですので、「観念論」呼ばわりはそのまま稲垣さんにお返ししたいと思います。また、次の所で「という一節は、言葉足らずでどうにも理解できません。論理が飛躍しているからです。」との

意見はどうしてそう思うのか説明がないので、ここも理解不可能と言う同じ言葉をお返しするより仕方がない感じです。 更に、『「霊魂」は非物質と考えるべきでしょうが、この論者は非物質である「霊魂」を物質に還元できるという唯物論の考えに固まっておいでのようです。「物質の働きがいかにして心を発生させ、発達させるか」のどの文言はその表明でしょう。私は、「霊魂は物質に還元できない」という前提に立っていますから、根本的に相容れない考え方です。』との個所も私はそんなことは少しも言ってないのに、稲垣さんは勝手に解釈しています。

勝手に解釈して置いて、それに文句をいっているだけなので、私と相撲を取っているのではなくて、自分で自分と相撲をとって、勝ったかのように錯覚しているに過ぎないと私は感じてしまうのです。

2016,6,22    筒井健雄

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

この筒井武雄氏という論者の回答は、私の提示したもっとも肝心なことを逃げていると思いませんか。
それは
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、唯物論的観念論者の筒井氏は、応答型真性異言「ラタラジューの事例」という事実を、霊魂実在や死後存続という仮説を用いないで、唯物論で、すべて物質に還元して、論理的整合性のある説明ができるのでしょうか?
ラタラジューの事例」をマジックだと思いたければ、いったい公開動画のどの部分がマジックの可能性があると思うのか、それはなぜか、を具体的にキチンと指摘しなければ、つまり反証をあげなければ、「死後の世界は有り得ない」という論拠になりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の提示しているこうした事例に基づく具体論を放棄して一切触れず、具体的証拠なしに議論することを「観念論」だと私は批判しているのです。

もう一つ、こうした私の批判をそのままコピペして筒井氏に転送し、筒井氏を煽って、私との議論を高みの見物をして楽しむというショウタさんのやり方は知的品性に欠けると思います。こうした、やり方は不快です。いい加減にしておやめなさい。あなたには、前科があります。

筒井氏が私の議論を「勝手に解釈して置いて、それに文句をいっているだけなので、私と相撲を取っているのではなくて、自分で自分と相撲をとって、勝ったかのように錯覚しているに過ぎないと私は感じてしまう」と批判していますが、こうした稲垣への批判が当を得ているかどうかは読者にお任せすればよいことです。

また、「そこで、ハンス・ドリーシュのやった実験を基にして、思考実験をしました」と筒井氏ははっきり述べているにもかかわらず、「思考実験」という用語を、私が「どこから引用して紹介したのでしょうか」という筒井氏の奇妙な反論は解せません。
ご自分の述べた用語もお忘れのようです。
こういう迂闊な人とは議論する気にはなりません。

ショウタ さんのコメント...

新たな唯物論者

ラタラジューを紹介したらこうなりました
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/fdb6fd3f1c850fda4e32ea7b0f12d5c2

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
ご紹介の論者の記事を読みました。
要点は次のようですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5.生前の記憶を有する者がいて、生まれ変わりの例として挙げられるが、 極々断片的な思い出話で決め付けはできない。 多重人格者は容易に別人格を演出することができるようである。
自分のことを胸に手を当てて考えてみるといい、一体どんな記憶の断片があり誰の生まれ変わりと特定できるのか。万人に一人もそんな人間はいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この論者は、応答型真性異言について、まったく理解できていないようです。
応答型真性異言は「記憶の断片」などではなく、「前世人格の顕現化」であり現在進行形の応答的会話です。

上記のような決めつけ論は、唯物論者には実に多いものです。
それなのに、応答型真性異言を唯物論で説明しようとという誠実な努力をしないのです。
おそらく、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わり諸研究にも目を塞いでいるはずです。
知的怠慢というべきでしょう。

ショウタ さんのコメント...

異言はインチキらしいです…

コメント参照
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/fdb6fd3f1c850fda4e32ea7b0f12d5c2

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

あなたの紹介している論者の応答型真性異言がインチキだという主張は、次のことですね。
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異言なんていくらでもインチキできますよ。
例え、事実だとしてもサンプルが少なすぎますよ。70億人中数百人ではね。
まあ、その数百人が生まれ変わりで前世の記憶もあるとしましょうか。そしたら、他の人間も前世があるといえますか。その数百人が特殊で他の大多数は転生と関係なく生まれてきたという考えも成り立つでしょうね。
私なんか前世の記憶なんてカケラもないです。
いろんな宗教が死後の世界のことを説いていますが、言っていることが皆違います。
そして死後の世界で金儲けしている、そこは共通してますな。
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私見を言えば、私の公開している「ラタラジューの事例」、スティーヴンソンの公開している
「グレート・フェンの事例」を綿密に検討して反証を提出してから「インチキだ」と主張しないかぎり、ただのイチャモンであって、相変わらず応答型真性異言が「生まれ変わりの科学的証拠」であり、生まれ変わりが事実であることは微動だにしません。

たしかに、応答型真性異言は催眠中の事例としては世界でわずか3事例に過ぎません。
しかし、たとえ1事例であっても生まれ変わりが科学的に立証できれば、「生まれ変わりは事実だ」と言うことは特称命題として認められることです。

そして、たとえ1事例の立証であっても、生まれ変わりが他の人に起きていないとは断定することはできないでしょう。
むしろ、立証できないだけで、起こっている蓋然性が高いと考えることが妥当だろうと判断できるだけの多くの事例が累積されいると私は考えています。

この論者とは、まともに議論できる余地が無いと思われます。
生まれ変わりの具体事例で具体的に反証できないと、感情論で「死後の世界で金儲けしている、そこは共通してますな」のような関係のない一般論で論点ずらしする、これは知的怠慢、不誠実だと受け取るしかありません。

この論者が、「ラタラジューの事例」についての具体的反証以外に今後どのような一般論を述べても、一切コメントはしませんので、紹介は無用にしてください。



シュヴァル さんのコメント...

私はそろそろショウタさんの対処を考える時期に来ていると思います
彼は先生の言動を勝手にコピーしたり煽りの材料に使っており
完全にマナー違反です

これをいちいちルールないからといって認めていたのでは
社会的な信用にかかわると思います

マナーを守れないと公言しているようなものですからコメントを返す必要がそもそもないと思いますし
過去の謝罪して、再開をしたわけですからもはや受け入れる必要はないのではないでしょうか?