2015年1月1日木曜日

タエの溺死と人柱についての疑義の検証

   SAM催眠学序説 その34


このテーマについては、「その33」のコメント欄で相当量の議論がされています。
これを整理し、現時点の私の結論をあらためて述べたいと思います。

タエの泥流による溺死と人柱についての疑義、つまりタエの語りの一つについて、信憑性に重大な疑いをかけられるということは、拙著『前世療法の探究』2006、で述べた検証についても、その信憑性に疑いが持たれることになります。
執筆者に対して、指摘された疑義についての説明責任を果たし、現時点の諸証拠を挙げて、できうる限りの決着をつけることが求められています。

まず、「その33」のコメント欄で、疑義を提示されたVITA ÆTERNA さんのコメントのご見解を示し、次いでそのご見解についての私の反証を挙げるという順序で述べてみます。 

   VITAさんの疑義 その1

 また、タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、泥流は大量の岩石を 含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。 
2014年12月23日 10:32 

浅間焼泥押に関する最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っておりますもち ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、 タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。
2014年12月24日 22:08

VITAさんの疑義は上記のゴチック部分2点です。つまり、

タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である。(注:語りでは、タエは泥流に呑まれて苦しみながら溺死している)

吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった。(注:語りでは、タエは水が止まった橋脚に縛られて人柱になった)

という疑義になります。ちなみに、①②の最新の研究の知見を述べている出典は
http://togetter.com/li/608596 早川由紀夫氏です。
早川氏の最新の知見とされる早川論文http://t.co/clK6yNByJ6を読んでも、天明浅間山噴火に関する溶岩流や火砕流の詳細な分析はあっても、それが吾妻川に流れ込んだ後、川の流れにどう作用したのかについて言及した記述はありません。論文を読む限り、①②のような早川説がどこから出てくるのか、どのような根拠があるのか全く不明です。

それでも、VITAさんは、この「最新の研究の知見」とされる早川説を支持される立場だろうと拝察します。

そこで、VITAさんは早川説を支持する立場から、「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」だと、繰り返し「タエの語り」の再検証を主張されていると思われます。

それでは、「最新の研究の知見」である①②の早川説への反論を、科学的実験および史実の検討をとおした諸反証を挙げて述べてみます。


反証1 科学的実験による検証

 「つくばの国総研」土石流メカニズム実験映像から(UROノートさん提供)

https://www.youtube.com/watch?v=eprBGInlo-E の実験映像をごらんになれば、タエの人柱になった地点は実験の扇状地地形であって、この地形になると泥流が先頭で流れ下り、岩石は遅れて流れ下ることが一目瞭然です。
タエが泥流に呑まれて溺死した状況と、泥流が先に到達する実験結果とに齟齬はありません。
つまり、この実験結果は、タエが土石流状の流れの直撃を受けて即死したわけでなく、泥流に呑まれて溺死した可能性の高いことを実証しています。

これについてVITAさんが反証として挙げられた浅閒焼泥押について、示された参考動画https://www.youtube.com/watch?v=PrDnYF6vN4U
https://www.youtube.com/watch?v=c2uc3PTZ9OE は、狭隘で斜度のかなりある沢筋を押し寄せる事態を撮影したものです。
しかし、タエの人柱となった吾妻川地点は沢筋ではなく、平坦部に近い緩い斜度といってよい扇状地地帯です。
これは2006年のアンビリ放映映像で、タエが人柱となったとされる吾妻川現場を確認できます。
私も、渋川市の吾妻川の橋が架かっていた現地を調査し、確認しています。
ほぼ平坦地を流れている斜度の緩い地点で、土石流状の流れが一気に押し寄せ、その岩石の直撃を受けて即死状態になったとはまず考えられない地形でした。
下の写真が、タエが人柱になったとされるまで橋の架かっていた「杢の渡し」跡の 吾妻川です。

「その33」でUROノートさんのコメントは、このことについて次のように述べています。

「ビータさんがリンクを貼ってくださった砂防堰堤があるような急勾配の地点を切り取れば、巨礫(きょれき)は位置エネルギーも運動エネルギーとして有効に使える為、水との速度差は大きくありません。し かし、利根川との合流地点付近(杢の渡し)のように、なだらかな扇状地の場合は、巨礫の位置エネルギーは地表との摩擦として消費され、その速度を著しく低 下させます。水の運動エネルギーが100%有効に使えるような管状の閉塞空間以外の条件では水が先に到達するのは自明です」

同様の見解を次の「反証2」で取り上げた、証拠文献の執筆者関俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)も、

川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」

と述べています。

したがって、VITAさんの参考動画は、川の斜度の前提が大きく異なるので反証とはなりえません。

「川嶋村 」は、現渋川市川島地区であり、当時は、タエの人柱地点である「渋川村」よりすぐ上流に位置する村になります。
タエの人柱地点より上流部の川嶋村の村人が、泥流に流されても、19人以上助かっているという史実が残っているのです。
村人の新八という者は、3里(約12キロ)流され半田(現渋川市)で助けられて戻ってきた、という記録があるのです。ちなみに、被害報告書である『浅閒焼泥押流失人馬家屋被害書上帳によれば、川嶋村で流死した村人は76人となっています。

大量の岩石を含んだ土石流状の流れが押し寄せて、巻き込まれた人が即死状態になるとすれば、19人以上が助かるような史実が残っていることはまず考えられないでしょう。
たとえば、助かった一人である新八のように、3里(約12キロ)も 流されて生きていることはまず考えられません。
こうした史実に照らせば、泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という早川説は、川の斜度から推測できる流れ方の物理法則と、記録に残っている史実を完全否定しない限り、その根拠をほとんど失います。


こうして、「①タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である」とする早川説は棄却できるでしょう
おそらく、早川氏もVITA さんも、タエの人柱地点の実際の地理的状況をご存じないのではないかと思われます。


反証2 歴史的事実の検証 

「内閣府防災情報」災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 から

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/index.html
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf

第2章「よみがえった天明3年」第7節「資料による天明泥流流下とその確認」79~80ページには次のような記述があります。この第2章の執筆者は、関 俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)となっています。
また、「この報告書は、災害教訓の継承に関する専門調査会の下に設けた小委員会において検討され、平成18年3月22日に開催された同調査会で承認されたものである」と奥付の説明があります。
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更に下り、中之条町では、九ッ時(「11時49分」)に高さ五丈(約15m)、あるいは十丈(約30m)の浪が押し寄せ、「一ノ浪二番ノ浪三番ノ浪三度押出シ通り候なり。」(『集成』II157) とあり、3つの段波が記述されている。これは注目される記述で、既に見てきたように、吾妻川に入り込んだ岩屑なだれの土砂が大きく3つの筋であったこと、八ッ場の発掘調査で見つかっている畑面の泥流流下の傷の方向性にいくつかのグループがあり方向が異なること、天明泥流堆積物の様相が異なる場合があること、吾妻渓谷の上流の上湯原での時間的な経過の記述が残されていること、原町での明確な継続時間の記述があることなどから類推すれば泥流は一押しに流れ下ったものではなく、吾妻渓谷の上流からここまで、少なくとも複数の段波として流れ下っていった可能性がある

「(川嶋村)喜平次ハ川原嶋村へ流助カリ帰ル。」(『集成』II159)、「川島の者弐人行徳迄流助命して罷帰り候よし。」(『集成』II317)、あるいは「木に乗候哉命を保、那波郡柴宿(現玉村町)迄流て此所ニ上ケられ命無事にて古郷江帰る事有、珍敷事ニ御座候。」(『集成』 II322)、また、川嶋村新八というものは、3里流され半田(現渋川市)で助けられて戻ってきた(『集成』II124)というように、下流で引き上げられ命拾いをしたここの村人は少なくとも19人(『集成』II336)以上が確認できる。 川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる。関根にあった広瀬堰の取水口までは15kmほどの距離がある。「トウカフチ」は、合流点から1.5km上流の「塔ケ渕」で、ここまで泥流が逆流し、更に流下距離で四十丁(約4.4km)以上となれば赤城村敷島付近まで増水したという想定になる。 さらに、地点を特定できないが、「利根川の上一時ばかり水少しニ相成、しばらく過て泥水山の如く押かけ、何方より流れ出候共相知ず。」(『集成』V191)という注目される記述がある。 これらのことからすれば、2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ、その地点で何らかの出来事があったと考えられる。そして、これらの記述は下流で記録された流水の一時的な枯渇現象と関わってくる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記にある川嶋村とはタエの人柱地点の渋川村の上流の隣村です。渋川上流の川嶋村の村人で流され、助かった者が19人以上確認できるということは、大量の岩石を含んだ土石流状の流れでなかった(泥流であった)からこそ助かったと推測できます。資料では「(川嶋村あたりから)河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」と述べています。

こうした史実に忠実であろうとすれば、タエは土石流状の流れに巻き込まれて即死したのではなく、泥流に呑まれて、もがき苦しみ溺死した、と推測することが妥当であろうと思われます。
また、当時の記録から「2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ」と、関俊明氏は推測されています。

また、UROノートさんのコメントも、次のように反証を挙げ反論しています。
「『突如泥流が押し寄せた』とはどんな状況なのでしょうか? http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf 上の74ページ以降の記述によれば、噴火による堆積物で吾妻川はかなり大規模に堰上げされ、大規模な逆流すら観測されたとしています。 この説の通り、吾妻渓谷の狭隘地に生じた自然堤防が決壊するまで、吾妻川下流域の水位が低下し、泥押の前兆が観測された後、大泥流が殺到したのが自然でしょう」

「吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった」と主張する早川説は、以上検討してきた複数の史実と、それに基づく関俊明氏の考証を否定していることになり、しかも、史実を否定するに足る「最新の研究の知見」とされる科学的根拠が不明です。
したがって、史実をたどる限り、少なくとも1時間前後の泥流の滞留時間があったことがほほ確実であり、(泥流の止まった時間がなく)突如泥流が押し寄せたので、人柱にする余裕はとてもなかった」とする早川説は、根拠不明な憶説として棄却して差し支えないでしょう
早川説は、ツィッター上でつぶやかれた「無根拠な印象論」であり、そのような「印象論ツイートはツィッターというメディアでは起りがち」だ、というUROノートさんの「その33」での指摘は、的を射ているように思われます。


以上の、早川氏の言説①②への反論により、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」というタエの語りは、史実に忠実な語りの可能性の高いことが立証できたと考えます。

こうして、VITAさんの、「タエの事例」に対する真摯な検討から生じた疑義提示がなされたおかげで、生まれ変わり「タエの事例」の信憑性が、より強化できたことに感謝いたします。
また、UROノートさんには、科学的知見に基づいた的確なコメントをいただき、あつくお礼申し上げます。


以前から私は、タエの「水が止まって危ないので」という語りを採用するにあたり、次のような研究家の見解に与していました。  そして「、「その33」で下記のように述べました。

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 天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)朝10時ころに発生した浅間焼けに伴う大火砕流(土石なだれ)は鎌原村を飲み込み吾妻川に流れ込んだ。 その火石(熱溶岩)を含んだ土石は1億立方メートル、2億トンにも達すると見積もられている。 土石は吾妻川の狭窄部分を堰きとめては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。 堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った。 昼の12時ころには吾妻川と利根川の合流点(注:タエの流されたのはほぼこの地点)に達し、ここでも利根の流れを堰き止めた。 夕方ころにはこの堰も壊れて土砂は利根川を下り関東平野北部に泥流被害をもたらした。 「八日の昼八ツ時分利根川ノ水音夥敷致候.……早速水引却て川水も無キ様ニ成候所,暮前に至り泥山の如クニ押来リ此時材木屋道具死人夥敷流来候.此時ハ泥湯ノ如クニ涌キ大石ノ火ノ燃ヘ出ルヲ押来候由.」 『天明三年七月砂降候以後之記録』
・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、大泥流の「土石は吾妻川の狭窄部分を堰き止めては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。
堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った」のであり、押し流された土石が、吾妻川上流の狭窄部分を、数回にわたって堰き止めた時には、一時的に川の水が止まるという現象が起きたと思われます。
それを「水が止まって、危ないので」とタエは語ったというわけです。
こうした、数回にわたって水が止まるという前兆のあとに突如大泥流が押し寄せたと考えれば、川の水が止まっている間に、タエを、急ぎ人柱仕立てる時間はあったと思われます。
その時間的余裕は、少なくとも1~2時間はあったのではないかと推測します。

そして、天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)の大噴火に至るまでに断続的な大きな噴火が度々起きており、降灰による農産物被害を恐れるキチエモンや村人は、タエを人柱に立てることを、7月8日の最大規模の噴火以前から準備していた、という推測が可能です。
とりわけ名主キチエモンは、舟を用いて上流の村々から生糸や野菜を買い付け交易していた(動画タエの事例第2セッション)といいますから、龍神を鎮め、噴火を終息させる必要に迫られていたと思われます。
 こうした事情から、おそらく旧暦6月末になって、噴火が一層激しさを増してきた時点で、いつでもタエを人柱に立てる準備ができていたと思われます。

また、 VITAさんは、泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という専門家の意見を述べていますが、要するに泥流中の岩石と衝突し、即死状態であったはずだという見解だろうと思われます。
しかし、タエは橋杭に縛られていたわけですから、泥流に押し流され浮いている橋とともに流されたと考えることが自然で、流された直後にも、束の間、苦しみもがくだけの息があったと考えることができると思われます。
そして、当たって即死に至るような岩石には相当な重さがあり、泥流の中・底層部に沈んで流されているはずで、泥流表層の水面近くには流れていないだろうと思われます。


こうして、「その33」で述べた、私の以前から持論としていた上記の推測の妥当性が高いことが再確認できました。
私にとって今回のVITA ÆTERNA さんの2つ疑義は、現地調査と史実との照合の結果執筆したタエの語りについて、何でいまさら根拠不明な早川説なのか、という感が強く、意外だったのが正直なところです。

ともあれ、VITAさんの、「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」 という要請に、きちんと証拠を提示して応えることができ、その結果タエの語りの信憑性が再確認できたことをうれしく思っています。

現在の日本に、生まれ変わり事例の科学的専門研究者と呼べる研究者は皆無です。
反証可能性にひらかれた、科学的検証に耐えられる、生まれ変わり事例が、きわめて出現しにくいという現実があるからです。
また、そのような事例は、実験的に得られるわけではなく、偶発的に出現することを待つしかないという性格の研究にならざるを得ないからです。
こうした意味で、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの科学的研究史上世界でもきわめて貴重な事例です。
催眠中に語られた前世を科学的に検証した事例は、「タエの事例」が日本では初の事例ですし、「ラタラジューの事例」ともにその証拠映像が公開されていることは、世界に例がないと思います。


検証可能な前世を語る具体的な事例に遭遇すれば、ネット検索によって、専門研究者でなくとも、誰でも、UROノートさんのごとく、検証に参加できます。

そして、前世存在の真偽の判断を検討することができます。

「タエの事例」のような検証事例が累積されることによって、前世の存在が多くの人々に認知されるようになる可能性がひらかれていると思われます。
それが可能になっている、ネット社会に生まれ合わせた恩恵を感じた今回の検証でした。

17 件のコメント:

ショウタ さんのコメント...

ラタラジューの仮説の反論者のコメントです

http://yamabeer.wordpress.com/2014/12/23/%e5%89%8d%e4%b8%96%e3%81%aa%e3%81%a9%e7%84%a1%e3%81%843-%e3%80%80%ef%bd%9e%e3%80%80%e3%81%9d%e3%82%82%e3%81%9d%e3%82%82%e9%9c%8a%e9%ad%82%e3%81%aa%e3%81%a9%e7%84%a1%e3%81%84%e3%82%93%e3%81%a0/

稲垣 勝巳 さんのコメント...

次がショウタさん紹介の「ラタラジューの事例」の反論者のコメントなんだそうです。
・・・・・・・・・・・・・
前世など無い(3)  ~ そもそも霊魂など無いんだから。
投稿日: 2014年12月23日 投稿者: Hollow Man

私が前世など無いと言いきる理由は単純です。
生まれ変わるとされている「霊魂」とやらが存在しないからです。もともとそんなもの無いので、生まれ変わりも前世も無いと言えるのです。(注:存在しないものなので、名前もその定義も曖昧ないい加減な代物で、それを何と呼べば良いのか不明なので仮に「霊魂」と言うことにします。)

しかし、「霊魂など無い」ことの証拠をここで言っても過去の投稿の繰り返しになってしまうので、また別の角度から考えてみます。

もしも、あなたが「前世があるかも」と思っているなら、よく考えてみて欲しいのですが、その前世があると考える根拠は何でしょうか。いわゆる前世を探求・研究しているという話を聞くと、その証拠とされているのは、「本人が知らないはずの昔の事を語る人がいて、その話が事実であるかどうか確認してみたら確かに史実であった」という話ですね。それが生まれ変わりの証拠だと言う。

いや、ちょっと待ってください。何故、それが霊魂や生まれ変わりの証拠になるのでしょうか。実際のところそれは何の証拠にもなりません。これから言うことをよく聞いて考えてみて下さい。
その証拠といわれるものが証明できるのは下記の事柄になります。

本人が知らないはずの過去の出来事に関する記憶がある。
その過去の出来事は、第三者が資料や証拠品で確認できる事柄であった。
資料や証拠品で確認できなかった言動は、それが事実かどうか判断できない。
第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である。

本人が知らないはずの事を語ったなら、無自覚かも知れないがその記憶を持っているという事であり、そして第三者が事実と確認できる内容であれば、当の本人や別の第三者がそれを知ることも論理的に可能なのである。分かりやすく言えば、本人しか知らない事実は、それが事実であることを証明できないが、証明できる事実なら誰でも知ることができるのである。

いずれにしても、ここで確認されているのは記憶(情報)の信憑性であって、それは霊魂や生まれ変わりの証拠にはならない。その記憶が本人の頭の中に無自覚で記憶されているにしろ、あるいは、どこか別の場所から通信で送られてくるにしろ、その情報の発生源や経路については、何も確認されていないのだから、これを以って生まれ変わりだ前世だと言うのは、根拠のない思いつき、空想に過ぎない。本人がそう言っているというのは証拠になりません。

前世の記憶と言われるものをいくら調べて事実確認をしても、それによって前世があるという証明はできない。信じている人にはいくら理屈を言っても無駄だろうが、論理的に実りがないと分かっているだけに気の毒に思います。

それじゃあどうしてそんな事が起きるのか。前世の記憶でないなら何なのかと聞きたいでしょうが、それは分かりません。その記憶がどこから来たかを示す証拠が無いので分かりません。合理的に考えれば、本人がどこかで知覚した情報なのでしょうが、それを確認することは出来ないでしょう。私が言えるのは、仮に前世の記憶であってもその証明はできないという事です。それはいくら探求しても無駄なのです。存在を証明できないという論理的な意味においても「前世など無い」のです。
・・・・・・・・・・
この反論者は、冒頭から「私が前世など無いと言いきる理由は単純です。生まれ変わるとされている霊魂とやらが存在しないからです。もともとそんなもの無いので、生まれ変わりも前世も無いと言えるのです」と断定しています。この断定はそもそも根拠がありません。証拠を挙げないであることを信じ込み、独断的に思いつきで物事を推測し判断することを認知療法では「恣意的推論」と呼び、認知の歪みが生じる思考の始まりとされています。
そもそも「ラタラジューの事例」についての反証もないのに、「ラタラジューの事例」の「反論」とは言えません。
今後、こうした独断論や印象論は、このブログにはそぐいませんから、投稿されても掲載しません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

Hollow Manさんの「認知の歪み」の1例を示してみます。

その1

「本人が知らないはずの事を語ったなら、無自覚かも知れないがその記憶を持っているという事である」

綿密な調査、ポリグラフ検査などの検証によっても、語られた前世記憶の入手された痕跡がないことを問題にしているのであって、それを「無自覚かもしれないがその記憶をもっている」という根拠のない断定は「恣意的推論」です。「霊魂など無い」という恣意的推論と同様の認知の歪みです。

その2

「それじゃあどうしてそんな事が起きるのか。前世の記憶でないなら何なのかと聞きたいでしょうが、それは分かりません。その記憶がどこから来たかを示す証拠が無いので分かりません」

このように「分かりません」と述べたにもかかわらず、「前世がない」という飛躍した断定へなぜ結びつくのか、論理の破綻が明らかです。

「霊魂はない」「生まれ変わりはない」という「根拠のない思いつき、空想」という恣意的推論が大前提になっているので、こうした認知の歪みが生じていると思われます。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

補足です。

「その31」のorphan elder さんのコメントは、示唆に富む優れた内容ですから再掲してみます。
・・・・・・・・・・・・
ただ唯物論といっても、現時点での説は「説になっていない説」ですからねえ。

結局、生まれ変わりにしろ、臨死体験にしろ、胎内記憶にしろ、唯物側が以下の要素を抜きに反論することはできていないので、それを検証したところで、あまり意味がないように思うのですよ。

1.どこかで本人が知らないうちにその情報を把握していたに「違いない」

2.単なる錯覚にすぎず、それをあたかも自分自身が経験したと思い込んでいるに「違いない」

3.偶然でしかないものをことさら取り上げて未知の現象にしようとしている「だけに過ぎない」

4.人間は実は、脳だけでなく、細胞レベルやひょっとしたらDNAに記憶情報が取り込むことができるに「違いない」(胎内記憶が特にそういう批判を受ける)。

5.まだ我々が検知できない脳の領域があるに「違いない」

これらに共通する点はただ一つ「そうに違いない」という推測とそれに基づく解釈だということであり、実証ではないということです。

第一、生まれ変わりにしろ臨死体験にしろ胎内記憶にしろ、その現象を説明するのにここまで「偶然性」「錯覚」「虚偽の情報」「潜在記憶」「無意識のうちの情報取得」というそれさえあれば何でも説明できてしまうような要素を持ち出さなければ説明できないというのであれば、果たしてそれを「科学的説明」と呼んでいいものかどうかという疑問があります。(引用終わり)
・・・・・・・・・・ 
さて、Hollow Manさんの次の思考は全くそのとおりです。
「本人が知らないはずの過去の出来事に関する記憶がある。その過去の出来事は、第三者が資料や証拠品で確認できる事柄であった。資料や証拠品で確認できなかった言動は、それが事実かどうか判断できない。第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である」そして、「第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である」これもそのとおりです。
問題は、前世の諸事実(情報)を語った当の本人が、そうした諸事実を通常の方法では入手していないことが検証された場合なのです。そういう事例をどう説明するかです。
Hollow Manさんは、「それでもどこかで本人が知らないうちにその情報を把握していたに『違いない』」と無根拠で実証のない断定をし、したがって、「前世などない」と短絡した結論を出しています。
これは、超心理学の生まれ変わり研究で、生まれ変わり否定論者の打ち出した「超ESP仮説」と同様の思考構造です。ただし、否定論者たちは、通常の方法で前世の情報を入手した痕跡がなければ、超常的な能力(透視・テレパシーなどESP)を発揮して入手したに違いないと主張したわけです。ESPという超常能力が人間にあることは、研究者には周知の事実ですから、「超ESP仮説」は全く実証のない無根拠な仮説だと棄却できません。この意味で、Hollow Manさんのような無根拠に単純に「前世はない」という断定をする粗雑な論理ではないと言えます。
粗雑な論理と言えば「本人がそう言っているというのは証拠になりません」
という断定も不可解です。犯罪を犯した本人が、自分の犯した罪の内容を語り、事実関係が確認されても、それは「本人がそう言ってるだけだから犯罪の証拠になりません」ということなのでしょうか。こんな馬鹿な論理がとおるなら、自白は証拠にならない、ということになります。

Hollow Manさんの論理で、超ESP仮説が適用できない「ラタラジューの事例」を、どう説明(強弁)できるのか知りたいものです。

稲垣 勝巳 さんのコメント...


坊さん
あなたの投稿したコックリさんなどの話題は、本ブログの「投稿ガイライン」を逸脱していますので削除しました。
本ブログのテーマは「生まれ変わりの実証的探究」です。

また、ご自身の意見を一切述べず、他者の意見を貼り付けるだけ、というやり方は「コメント」とは見做しません。安直で怠惰なやり方だと思います。自分は意見を一切述べず、だから火の粉はかぶらないので、高見の見物を決め込むというやり方です。このページでショウタさんがやっています。だから、ショウタさんの紹介した
記事への私の反論に対して、彼は知らんぷりをしています。坊さんにも同じやり方はとおりません。

シュヴァル さんのコメント...

以前も投稿したのですが
ショウタさんの考えみたいなものが見えないのは同感ですね。

自分の考えってお持ちなんでしょうか?
あるならご提示していただければ議論しやすいと思うのですが

こういう単なるコピペ的なやりかたって
2chでよく見るやりかたですね。
一方的な貼り付けになって議論にならないように思います

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさんのこれまでの投稿からして、本ブログを2チャンネルのような基本的にエンターテインメントとして扱っていることはほぼ間違いないと推測しています。
私は、今回の「生まれ変わりが無い」というHollow Manさんの記事を貼り付けたのは、
①この記事の内容を正当な論理だと評価し、稲垣がどう反論するかを試す。

②この記事の内容が論理的破綻をしていることをすでに読み取っているが、それを稲垣がどう突いてくるかを楽しむ。
のいずれかだろうと推測しています。

①であれば、ショウタさんの読解力が未熟であることを他の読者の衆目の前に晒すことになったでしょう。

②であれば、少々姑息なショウタさんの嫌みな性格が知られることになったことでしょう。

匿名性をいいことに、自分の意見を開示せず、他者の意見を貼り付けて、火の粉をかぶらない高見から見物人を決め込むというやり方はエンターテインメントとしては楽しいでしょうね。
私はそうしたブログ投稿の楽しみ方を目くじら立てて怒るほど非寛容ではありませんが、もう少し知的レベルの高いエンターテインメントとして楽しめる投稿をしてほしいと思います。
ただし、①の推測が当たっているとしたら、それをショウタさんに期待することは無いものねだりかもしれません。

ショウタ さんのコメント...

私は稲垣さんの上記のあげた①の立場です。

なぜ正当と思ったのは小保方さんの例ではないですが霊魂と生まれ変わりの誰でも納得できるような証拠や発見ではないからです。

確かに稲垣さんの研究やラタラジューの例は興味深いですが「生まれ変わりの証明」というのは弱いと思います。

Hollow Manさんは理系の方で科学の固定概念が強いのだと思います。

私的には稲垣さんが本当にラタラジューの事例で生まれ変わりを語るなら唯脳論者の茂木健一郎さんや苫米地英人さんや養老孟司さんや立花隆さんなどにも情報を提供して議論してほしいです。


ちなみに会社の人との雑談をしているときラタラジューの事例を紹介したら「本気でこれを信じているのか?マインドコントロールの証拠だぞ」と言われました。


私は一昨年や去年祖父母を亡くし人の死について深く考えるようになり死後存続に興味があり宗教ではなく科学的な視点に追及しています。

私は稲垣さんの研究を科学研究として支持派ですが人間の命の価値観にもかかわる問題なので公の場や真面目な話や生活の価値観には持ち出せないので実質上ではエンターティーメントと見ています。

人は必ず死にます。果たして死とは終わりなのか新たな旅立ちや始まりなのか?

私は後者を理性で信じたい立場です。


この研究をアカデミー学会でも研究されるのに期待しています。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさんは、「その33」のUROノートさんの次のコメントを読んでいますか。
・・・・・・・・
世の中には、コンピューターサイエンスの専門家に過ぎないのに脳機能科学の権威と名乗りつつ、怪しげな脳にまつわる言説を流布しておられる方もいらっしゃるようです(http://www.brain-book.com/report/noukino-1.html)し、小保方さん事件や、ヘンドリックシェーン事件、ソーカル事件などアカデミックスキャンダルすらも存在していますから、専門家とされる方の言説を無根拠に鵜呑みにすることは大変危険ですよね。
・・・・・・・・
貼ってあるURLを開いてよく読んでくださいね。
「ラタラジューの事例」について私は学会で2度発表していますし、映像証拠はyou-tubeで公開し、どなたにも見ることができるようにしてあります。
唯脳論者に反論があれば、どうぞと開かれています。
「ラタラジューの事例」が生まれ変わりの証拠として現時点最強だと思っています。イアン・スティーヴンソンの『前世の言葉を話す人々』を読んでみれば、このことが分かるはずです。どうも読んでいないようですね。
「ラタラジューノ事例」を弱いと思うのなら、いったいどういう証拠であれば納得しますか? 「ラタラジューの事例」の具体的個所をもとに具体的なご意見をどうぞ。
反証可能性に閉じた観念論なら不要です。
たとえば、まだ我々が検知できない脳の領域があるに「違いない」、などの実証の伴わない想像論を観念論と言います。
「ラタラジューの事例」のここが怪しい、唯脳論で説明できる、といった具体的指摘をしてください。
どうやら、あなたはこれまでのブログコメント記事も読まないで、思いつきで投稿しているとしか思われません。
関連学会発表も2回行っていること、主立った研究者にはDVDを送付していることを書いています。そもそも立花・茂木・苫米地のような各氏は、生まれ変わりの研究者ではありません。
今後、すでに記事にして回答してあることを読まないで、投稿したと判断できた場合には掲載をしません。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
あなたは、「その31」12月7日のコメントで、「動画全て見ました。素晴らしいです。エンターティーメントとして扱ったことに申し訳なく感じました」
と書いています。

1ヶ月経った今日のコメントには、「人間の命の価値観にもかかわる問題なので公の場や真面目な話や生活の価値観には持ち出せないので実質上ではエンターティーメントと見ています」と書いています。

こういうのをチャランポランと言います。

私は、「人間の命の価値観にもかかわる問題」をブログという「公の場で真面目な話として」取り上げていますから、基本的にエンターテインメントとして書いているはずがありません。
そこのところを取り違えないでくださいね。情けなくなります。
あなたが「理性で生まれ変わりを信じたいと思っている」のなら、理性的に真面目に、私の示している生まれ変わりの事実としての証拠に正対して考えてみてください。

坊 さんのコメント...

自分ご自身の意見も述べないといけないのですね。


私もこの事例が生まれ変わりを本当に裏付けるならテレビや新聞等のメディアで取り上げている科学者にも注目されないのが棚に落ちないです。本当に唯物論で説明つかないのでしょうか?


私は石川幹人著書の『「超常現象」を本気で科学する』を読んで現代科学は超常現象の殆どは唯物論で説明付くと書いてありました。


それに技能や会話は本当に無意識で習得できないのでしょうか?

多重人格のビリー・ミリガンも特定の人格に限り出きる力や手先の技術や独特の言語を持っていたりした事例もあります。

また知りえない史実と一致することについてもずっと前テレビでお笑いコンビの二人がコンビの一人が寝て夢で相方の行動を当てるという実験をやったという番組がありました。

夢の内容は男性が「西の狸」と喋りそして人がビルから飛び降りるという夢を見たらしいです。その後相方が帰ってきて何の行動をしたと聞いたら何と遊園地で西のほうにある狸の乗り物のジェットコースターに乗っていて更にエレベーターみたいな落ちる感じの乗り物に乗っていて夢と似ていたという。

しかしそれはあくまでも夢と現実を当てはめただけで史実ではないと言っていた。


ラタラジューの事例ももしかしたら上記のような本当に真性異言は無意識では取得できないのか、史実と一致は単に催眠の言葉と現実を当てはめただけでないか疑問です

稲垣 勝巳 さんのコメント...

坊さん
SPR(サイキカルリサーチ)および超心理学の現在まで100年余の先行研究史では、学んでいないこと(練習していない技能)が科学的検証によって確認され、なおかつその「技能」を超能力や無意識のうちに獲得できたという実証事例は現時点で皆無です。
もし、そうした検証事例が、1例でも発見されれば、画期的発見になるでしょう。
ビリーミリガンに現れた副人格が「独特の言語を持っていたりした事例」とは、「朗唱型異言」の類いではないでしょうか? また、科学者による、副人格の異言に対する検証があったのでしょうか?
通俗的な本の内容を信じ込むことは危険です。あなたが尊敬していると思われる脳科学者T氏がどういう人物であるかは、http://www.brain-book.com/report/noukino-1.htmlを読めば、綿密な検証に基づいて、正体が暴かれています。

「ラタラジューの事例」を語った里沙さんが、ネパール語、ネパール人との
接触が一切ないという検証のうえで、無意識的にネパール語会話「技能」を学ぶにしても、学び先、情報源がないのに、どのようにしたら無意識的に学べると思いますか? 
練習の不可決な会話「技能」は、ESPでも獲得できません。
ただし、会話のやりとりではなく、一方的に異言を話すだけなら「朗唱型異言」であり「応答型真性異言」ではありません。これは会話「技能」ではなく、「情報」ですから、情報であればESPで獲得できるとされています。

学び先が無いところからでも、無意識的に練習の不可欠な「技能」が学べるはずだ、という科学的実証は一切ありません。それでも「どこかで」学んでいるに違いない、と強弁するのなら、その「どこか」を指摘しないと説明にならないでしょう。

私は、2009年に「ラタラジューの
事例」に出会ってから、生まれ変わりの科学的研究者として評価を受けているイアン・スティーヴンソンの方法論と先行研究に倣って、被験者里沙さんが、「どこかで」通常の方法でネパール語会話技能を学んでいないか、を徹底的に疑って検証を重ね、生きている人間の諸能力では、学んだことのないネパール語会話技能を獲得できないことを確認してきました。
そうして、現在考えられるあらゆる仮説を検討した結果、最後に残る仮説として、「生まれ変わり仮説」を認めるしかないだろう、という結論に至ったのです。生まれ変わり仮説を簡単に認めたわけではありません。また、生まれ変わりは必ずある、という先験的な「生まれ変わりの信念」から検証をスタートしたわけではなく、唯物論的懐疑からスタートしているのです。生まれ変わり仮説を認めているのは、検証の結果論です。そこを取り違えないでくださいね。
「何事も先験的に否定せず、何事も実証なくして認めず」という姿勢を忘れたことはありません。
あなたは先験的に、唯物論はすべて正しい、唯物論ですべて説明できる、と思い込んでいるのではないでしょうか。そうした先験的バイアスがかかっている人には、「ラタラジューの事例」を虚心坦懐に検討することを期待してはいません。

なお、「棚に落ちない」は不適切であり、「腑に落ちない」が適切です。

Unknown さんのコメント...

 そもそも「生まれ変わり」とは、本当に唯物論に矛盾し、非科学的な現象なのでしょうか?

 以前にもこちらに投稿させていただきましたが、結局のところ、ショウタさんや坊さんがことさら取り上げていらっしゃる脳科学者たちも、所詮私が以前に指摘した「それさえあれば何でも説明できてしまえる要素」を抜きにしては語っていないので、はっきり言えば、それは「科学」というよりは「推測」、あるいはもっと厳しい見方をすれば「信仰」でしかありません。唯脳信仰とでもいうべきでしょうか。

 たとえば坊さんの指摘された「無意識」についても逆に問いますが、どこまで科学的に「無意識」について判明しているのでしょうか?無意識の作用や性質については、まだ全体の数%くらいしか解明されていないという話を前に聞いたことがあります。つまり、「未知のもの」です。

 結局のところ、「生まれ変わり」という、現時点においてはほぼ未解明(あるのかどうかすらまだ確定していない)ものを説明するのに、これまた「無意識」や「潜在意識」、「脳の未解明領域(確かにまだ脳は全体の20%も解明されていないのは事実なのだが、あまりに安易に使われすぎているような気がする)」という、まだよくわかっていないものを持ち込んで、それで「科学的に説明した」としているだけの話であり、おそらくではあるが、これを主張する当人たちですら、こんな説明では説明になっていないと自覚はしているのではないでしょうか?

 未知の現象を説明するのに、これまたよくわかっていないもの(先程の例でいえば無意識とか潜在記憶など)を持ち出して説明に充てる。これがいかに不毛なことかは語るまでもないでしょう。

 結局、そういった「よくわかっていないもの」というのは、ある意味「万能性」を有しているという点で、科学的説明には本来必要とされないはずなんです。

 たとえば、この件に関しては「偶然」だの「錯覚」だの「虚偽の情報」だの「未解明領域」だの「無自覚のうちに情報取得した」だのこういうのを持ち込んでしまえれば、はっきり言ってなんでも説明できてしまえるんですよ。そういう意味で、これらの概念は「万能性」を有しており、これは科学的な説ではなく、単なる推測やあるいはもっときつい言い方をすれば、信仰と一緒だということです。

 彼らの著作をすべて読んでいるわけではありませんが、大体大まかな彼らの意見を少し拾ってみると、必ず文章のどこかに上記の「万能性を有した概念」が出てきております。本来は、科学にこういう要素が入り込むこと自体おかしいわけで、結局それは、第一人者自身が「この分野のことはなんもわかっておりませんよ」と白状しているようなものなのです。

 科学がこういった「万能性を有するもの」を可能な限り排除するのは、本来当たり前のことなんです。たとえば、科学が未発達な時代においては、天災などは「神の怒りである」と説明されてきました。これは現在では通用しません。なぜならこの説明には、「神」という、それさえあれば何でも説明できてしまえるものが入り込んでいるからです。さらに言えば人知を超えた存在なので、「未知」ともいえるでしょう。でも昔の人々はこれで納得していたわけですが、現代人なら、こんなものは説明ではなく単なる信仰だよと小ばかにするでしょう。
 
 こういうことなんです。すなわち、現時点の多数派の科学者が提唱する説というのは、はっきり言って説というよりは単なる推測です。「多分無意識のうちに技能を習得しているんだろう」というのを一般人には難解な専門用語を持ち出してそれらしく体裁を整えているにすぎません。

 少なくとも、否定派の意見や説明に中には、私が上記に挙げた要素を抜きに語られているものなど(私が知る限りでは)ほとんどありません。

Unknown さんのコメント...

 さらに言えば、仮に現時点の唯物論の延長で説明されると仮定しても、前に私が上げた天動説と地動説の例から、いくつもの「例外事項」や「つじつま合わせ」の要素が入り込む天動説と、より簡便に且つ合理的に説明できる地動説とではどちらの方に軍配が上がるかは明らかでしょうということで、おそらく唯脳論(現時点での過程においては)は、天動説になりうる可能性があるということです。

 誤解を恐れずに言えば、天動説でも一応惑星の運行は計算できます。ただ、それをやるには宇宙の何もないところに周転円なるものを仮定して、さらに数多くの例外事項を設けたうえでという条件が付きます。これよりもならば地動説のほうがはるかに合理的で優れているといえるわけです。

 多分、生まれ変わりも「無理に解釈しようとするならば」唯物論の延長でも説明はできると思いますが、ただ、おそらく私の予測では、唯脳論(先程も書きましたが、現時点の過程に基づく唯脳論であるならば)ではどこまで行っても、私が先ほど上げた事例ついて、説明の、それこそ「どこか」に盛り込まなければならなくなると思います。つまり、やはりどこかに「無理」があるからそうなるわけです。

 私が生まれ変わりがあると思う理由を上げるのであれば、

1.少なくとも、検証されている(確かに少数ではあるものの)事例の特異性から考慮すれば、おそらく脳神経学からこれらの現象を説明するのは困難を極める(最終的には私が以前から申し上げている通り、「無意識」「潜在意識」といった要素が入り込む)であろうことが予測できる。それでも無意識や潜在意識がほぼ100%説明できる段階にあるならばまだ話が分かるが、現状ほぼわかっていない以上、説明するのに都合が悪い時に強引にあてはめられる要因が非常に強い。

2.前の投稿の冒頭でも書きましたが、果たして生まれ変わりは本当に「非科学的なもの(オカルト)」なのか?ということ。

 次の投稿に続きます。

Unknown さんのコメント...

 ここからの投稿は私の「推測」も混じるので、投稿内容の掲載については、稲垣先生のご判断にお任せいたします。

 私は、多分「生まれ変わり」はSFの一ネタくらいになっていくのではないかと予測しております。実際、近年公開されたSF映画である「クラウド・アトラス」なども露骨に転生という用語こそ出てこないものの、取り扱っているテーマはまさに輪廻転生です。こちらの一条さんのブログに詳しい内容が書かれております。

http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150105/p1

 さらに少しばかり引用しましょう。

>稲葉さんは、「この映画のベースにあるのは輪廻転生(reincarnation)」と指摘し、以下のように述べています。
「転生には性別や時代や人種にも関係がないようだ。僕らの些細な色んな行為は、親切でも悪でも、未来や過去へと同時に複雑に影響しあっているということ。6つの時代のパラレルワールド。原因や結果。過去・現在・未来。それは単純な直線関係ではないようだ。人間の脳の働きの癖でそう理解しやすいだけにすぎなくて。すべては今、同時的に起こっている。頭(理性)で把握する時に直線関係で因果や時間の流れを直線的に並べてしまうだけだろう。『時間』は一つの概念でありコンセプトだ。
輪廻転生(reincarnation)のイメージとしては、複数のスクリーンを映画館で同時に上映していることと似ている。 映画のフィルムを伸ばして、そのすべてのコマを同時にみているのに似ている。時間を糸とすると、糸が入り乱れた糸玉全体を見ているイメージ」
素晴らしい感想です。

 引用ここまで。

 私も同感です。多分、これから先もクラウド・アトラスのような映画やSF作品は出てくると予測しております。なぜなら、これは十分に今後の理論科学のありようによっては入る余地がありそうだからです。

 生まれ変わり-輪廻転生とは言いますが、それをより科学っぽく表現するならば、

「別の時代の別の誰かとして生きる」

ことではないでしょうか?

 現在の科学では、量子論の発展により空間飛躍はありうる、というか、最先端では量子テレポーテーションなどの「空間を超越した情報のやり取り」については説明されております。すなわち、先ほどの

「別の時代の別の誰かとして生きる」

のうち、

「別の誰かになる」

の部分に関しては、ある意味「空間跳躍」あるいはスピリチュアル派のいう「時間も空間も関係ない」という概念の後半部分が該当します。

 また、インターネットの発達により、現在では一般庶民でさえ、「別の誰かに完全になるということまではいかないまでも、別の誰かになりきる(あるいはふるまう)ことができるようになりました。アバター作って架空の人物になりきったり、あるいはネット上で男が女としてふるまったりするなど、「誰かになる(あるいはなりきる)こと」については、もう社会的にそれほど「心理的抵抗感がない」状態になりつつあります。

 これが、ネットがない時代ではせいぜいやれるのは俳優とか女優とかごく一部でした。それ以外の人間が他人のふりをしていたら、あまりいい顔はされなかったことでしょう。

 つまり、「別の時代の別の誰かになりきり」ということに関して言えば、後半部分については疑似的ではあるにせよ、それほど抵抗なく受け入れられている環境にあるともいえるわけです。

Unknown さんのコメント...

 さらに続きますが、実は昨今では「時間という概念は本当にあるのか」という議論が科学界で持ち上がったりもしております。確か日経サイエンス2010年の何月号だかは忘れましたが、時間というものは存在しないのではないかという議論が出ていて、先ほどのクラウド・アトラスの稲葉医師のコメントのように、

>。原因や結果。過去・現在・未来。それは単純な直線関係ではないようだ。人間の脳の働きの癖でそう理解しやすいだけにすぎなくて。すべては今、同時的に起こっている。頭(理性)で把握する時に直線関係で因果や時間の流れを直線的に並べてしまうだけだろう。『時間』は一つの概念でありコンセプトだ。

というようなことを言っていたような気がします。こちらにその簡単な概要が載っておりますが、まさに稲葉医師と似たようなことが
書かれております。

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1009/201009_040.html

 さらに、別分野の専門家の話も持ち出しますが、広井良典さんという、人口減少社会などの著書がある社会学者さんがいるのですが、彼もまた、「時間は本来円環的なものであり(実は、人々が輪廻思想を信じていた時代では、ほとんどの民族がこの円環的時間軸の中で生きてきた。たとえば自分の尻尾を加えたウロボロスなど、魂の循環をたとえるのに持ち出されていた。あのキリスト教や、イスラムですら、生まれ変わりの思想はあった)、これから先、循環型社会になるにつれ、人々にとって「死後は虚無」という概念が合わなくなってくるだろうというようなことをおっしゃっておりました。現在の閉塞感を見抜いておられたのでしょう。また、死後の世界があるかないかについては、それ自体が「現在の直線的時間軸」の中での議論でしかないのだとも言っておりました。

 さらに唯物論においても、生まれ変わりは矛盾するものではないという解釈は、以前にもこちらに挙げた受動意識仮説からの説明で十分です(ただし、私はこの仮説はあまりに人間の意識を受動的なものと決めつけてかかっているので、個人的には懐疑的に見ておりますが)。

http://muumu.blog25.fc2.com/blog-entry-218.html

 こうしてみると、生まれ変わりというのは、本来「霊魂」という非科学的、非物質的なものを持ち込まずとも、単に我々が「直線的時間軸」を「信奉している」からオカルトじみて見えるだけで、ひょっとしたら社会のその時の状況や変化に応じて見方を変えることで、いくらでも現実のものとして取り上げられるようになるのかもしれません。
 
 現に、昔、円環的時間軸の中にいた我々の先祖のあらゆる民族や集団が、転生を信じていたという記録は残っておりますからね。 

 いずれにしろ、「別の時代の別の誰かとして生きる」ということが現象として本当にあるならば、まず間違いなく「時間跳躍や空間跳躍」あるいは、「時間や空間に制約されることなく働く情報のやり取り」などが絡んでくる可能性が高いと思われます。タイムトラベルに近い概念なわけですからね。SFにも親和性はあると思います。

 以上、長々と私の考えを述べさせていただきました。あまりまとまっていないので、掲載は稲垣先生のご判断に任せます。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

orphan elderさん
きっとドーンとびっくりするようなコメントが来るだろうと思っていましたが、
期待に違わず、ドーンと衝撃的なコメントとをいただき、科学への造詣の深さに敬服するとともに深謝いたします。
じっくり読ませていただきます。
「円環的時間軸」論から、学生のころに読んだニーチェを思い出しました。

まずはお礼まで