SAM催眠学序説 その79
SAM前世療法において、魂状態の自覚に至ると、頻繁とは言えないまでも、偶発的に霊的存在とおぼしき者の憑依現象があらわれることがあります。
したがって、セラピストとして目前のクライアントに起きている霊的存在の憑依現象に対して、あいまいな態度は許されず、明確な立場をとって対処することが求められます。
SAM催眠学では次の立場を明確にとっています。
憑依現象に関わる「意識現象の諸事実」をSAM催眠学では、霊的存在が実在し、その憑依現象を認める立場に立っています。
これを、SAM催眠学における「憑依仮説」と呼んでいます。
当然のことながら憑依する主体である守護霊と呼ばれる高級霊、未浄化霊と呼ばれる迷える低級霊などの霊的存在を認めているということです。
さらに言えば、SAM前世療法によって、魂の自覚状態まで遡行させ、「前世人格」を顕現化させるという方法論そのものが、魂表層を構成している諸前世人格という霊的意識体を、意図的に憑依させることを企て、顕現化させる営みということになります。
こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりであるクライアント自身に憑依し、クライアントの肉体を借りて自己表現(発声し対話する、指を立てて答えるなど)をすることになります。
これは、まさに憑依現象ですが、「自分の魂表層の前世人格が自分に憑依する」などという奇怪な憑依現象はこれまで知られてきませんでした。
したがって、このような憑依現象に対する概念がありません。
そこで、SAM催眠学では、前世人格がその生まれ変わりである自分に憑依し顕現化する現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
自己の内部に入っている魂、その表層に存在している前世人格が自分に憑依する、という意味です。
実際にSAM前世療法で魂の自覚状態まで遡行すると、自己内憑依以外にも、偶発的に第三者の霊の憑依現象が観察されます。
また、里沙さんのような霊媒資質のあるクライアントであれば、意図的に守護霊を憑依させることも可能です。
したがって、第三者の霊である憑依現象、および憑依した主体である第三者の憑依霊は、「実体のない観念」ではなく、観察できる「意識現象の事実」です。
憑依および憑依霊について考察するために、事実に基づかない観念論では決着がつくとは思われないので、憑依現象の具体的事実を提示し、それについて具体的に考察してみましょう。
守護霊とおぼしき存在が憑依中のセッション証拠映像はyou-tubeの「タエの事例」に公開してありますから、そのセッション中に、里沙さんの守護霊が憑依している25分間分の逐語録を提示します。
ちなみに、前世療法セッション中に、偶発的ではなく、意図的に守護霊に憑依してもらい、セラピストが直接対話するというセッション証拠映像は、おそらく公開されたことがないと思います。
さて、下の逐語録の記号のTHはセラピスト稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。
ただし、CL里沙さんには彼女の守護霊が憑依して語っていますから、守護霊そのものの語りだと理解してください。
ちなみに、この対話は里沙さんの前世の記憶ではなく、憑依した守護霊と私とのまさに現在進行形の対話です。
なお、その後の守護霊呼び出しの再セッションで語られたこと、検証の結果明らかになったことを「注」としてコメントしてあります。
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TH じゃ、一つ聞きますよ。そのあなたのいる魂の世界に、たとえば、私の愛する人が待っていて、生まれ変わりがまだなら、私もそこへ行けば会えますか?
CL はい。会えます。
TH もう、生まれ変わりをしていたらどうなりますか?
CL 必ず出会います。
注:死後霊界に行った魂は「類魂」と呼ばれる魂のグループの一員となるらしい。次の生まれ変わりに旅立つときには、霊界の類魂内に自分の分身を残すという。したがって、先に死んだ者の魂がすでに生まれ変わりをしていても、後に死んだ者の魂は、先に死んだ者の魂の分身に必ず出会うということらしい。
TH 生まれ変わりをしていても出会えますか、魂どうしは?
CL はい。
TH もう一つ聞きますよ。今、あなたは偉大な存在者そのものになっていますね。じゃあその方は、時間も空間も超越していますから、今、私が、こうやって前世療法のセッションをしていることも、きっとお見通しのはずですね?
CL はい。
TH じゃ、聞きます。多くの人が、前世のことは現世に生まれ変わると、忘れて出てきません。でも今、里沙さんは深い催眠状態で前世のことを語ってくれましたが、もともと人間は、前世のことを忘れて生きるようにできていますか?
CL はい。
TH それを、無理矢理こうやって、催眠によってほじくり出すことは罪なことでしょうか? どうでしょう。
注:本来思い出すことのない前世を催眠という道具を使って探るという企てに対して、それは罪なことではないのか? という問いは、2001年にやむをえず最後の療法として初めて前世療法を試みた当初から、私の中に在り続けた疑問であった。守護霊は、人を救う手段であれば許される、と答えている。裏を返せば、人を救うためでなく前世を探ることは罪なことである、ということになる。したがって、とりわけSAM前世療法のように霊的療法をおこなうにあたっては、霊的存在に対して敬虔な態度を忘れることがあってはならないと思う。
CL そうではありません。人を救う手段であります。人を救う手段であれば、罪なことではありません。あなたは、それができる人なので、たくさんの人を苦しみから救うことが使命であると。
TH 私の使命ですか。
CL そうです。
TH であれば、私がこうやって前世療法をやった後は、二人の人からとっても憔悴(しょうすい) しているように見えるそうです。命を縮めているんじゃないかって言われています。そういうことになっていますか? どうでしょう。命を縮めることですか。
注:この問いも、私にとっては真剣な切実な心配であった。ちなみに、この「タエの事例」のセッション直後には、椅子から立とうして膝が笑って立てないほどの疲労が生じていた。
CL 違います。できる限りたくさんの人を救います。
TH 分かりました。じゃあ私は、それを自信を持ってやっていいのですか?
CL はい。
TH 他に、私に伝えておかなければならないことがあれば、どうぞおっしゃってくだ さい。
CL 世界にたくさんの悩める人がいます。必ず出会います。力を尽くすよう。力を尽くしてお救いください。
TH はい。私はそういう道を進むのが使命ですか?
CL そうです。
注:里沙さんの守護霊によれば、私が霊界に存在していたとき、神との約束として、次の生まれ変わりである現世の一定の準備期間によって一定の霊的成長に至ったと認められたとき、新しい前世療法を開発すること、スピリットヒーリング能力が発揮できること、が決められていた、と語っている。これを認めるとすれば、2008年、私が59歳になった時点を指している。この歳にSAM前世療法の作業仮説を教える霊信を受け取り、同時にスピリットヒーリングとおぼしき能力が現れたからである。
TH もう一つ聞きます。大きな謎ですよ。おタエさんは、人柱となって16歳で短い一生を終えました。そのおタエさんの魂が、今、平成の現世では里沙さんとして生まれ変わっています。その里沙さんは、側湾症という治る見込みのない苦しい病にかかっています。なぜ、苦しみを二度も味わわねばならんのですか? いかにも不公平な人生ではありませんか。そのわけは何でしょう?
CL 魂を高め、人を救う道に位置付きし人です。
TH 里沙さんがそういう人ですか。
CL そうです。
TH じゃあ、側湾症になるということも、里沙さん自身が、あなたのいらっしゃる中間世で決められたことなんですか?
CL そうです。
TH それは、里沙さん自身が魂として選んだ道なんですか?どうやら
CL 「わたし」が選びました。
注:のちの再セッションで、里沙さんの魂は急速な成長・進化を望み、他人の痛みを自分の痛みとして共感できるように、脊柱側湾症という不治の病を自らの意志で選び、3回目の生まれ変わりである現世に生まれてきた、と守護霊は告げている。魂の成長・進化のためには、人生において負荷がどうしても必要であるということである。負荷は「人生の課題」と言い換えることができる。生まれ変わりは惰性でおこなわれるのではなく、魂の成長・進化のために現世の課題(負荷)を決めて生まれてくるということらしい。ただし、その課題は魂が肉体に宿ると同時に忘却されてしまう。したがって、現世を怠惰に生きることも、課題を探りながら真摯に生きることも、魂の主体性に任されているらしい。
TH 「わたし」とは、魂の「わたし」なのか、それとも偉大な存在である「わたし」のことですか? どちらですか?
CL 魂の「わたし」が選びました。
注:「魂のわたし」とは里沙さんの魂のこと、「偉大な存在であるわたし」とは守護霊ことである。あとの語りで明らかになるが、生まれ変わりを卒業すると、その魂は「偉大な存在であるわたしの一部になる」らしい。この語りを認めると、守護霊である「偉大な存在であるわたし」は「類魂」と呼ぶこともできる。
TH もし、そのことを現世の里沙さんがはっきり自覚できたら、彼女は救われるでしょうか?
CL 救われます。
TH その苦しみを乗り越えるだけの力を得ることができますか?
CL できます。
TH また、聞きますよ。お答え願えますか? 浅間山の噴火のときに雷が起きましたか?
注:噴火による火山灰の摩擦により静電気が発生する。この現象を「火山雷」という。実際に天明3年当時の浅間山大噴火の絵図には黒煙の中に稲光が描かれている。
CL はい。
TH そのことを、雷神様と人々は言うのでしょうか? 雷のことを。
CL そうです。まだ、噴火、自然現象は分からない人たちですから、魔物のせいだと思ったのです。
TH 龍神様はなんのことでしょう?
CL 浅間山は信仰の山です。龍神が祀られています。
注:浅間山に龍神信仰があることは、浅間山麓嬬恋村の住人から確認できた。アンビリバボーの中で渋川市教委の小林氏は、吾妻川を龍神に見立てたのだろう、と推測されているが、守護霊やタエが語っているとおりに「浅間山に住む龍神様」と解することが妥当であろう。
なお、浅間山の龍神信仰についてはネット検索はできない。
TH その龍神が、お山が火を噴いたために住めなくなって、川を下るというように人々は思ったわけですね。
CL そうです。
TH それから、そのときの噴火によって空が真っ暗になって、日が射さなくなって、火山灰が降り注いで、農作物は不作になりますよね。その結果、下界ではどんなことが起きたのでしょう? あなたはご存じのはずですが、教えてもらえますか?
CL 噴火による土石流で川が堰(せ)き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。
TH その川の名前が吾妻川でしょうか?
CL そうです。利根川の上流になります。
注:吾妻川は渋川市内で利根川と合流している。
TH さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだという証拠を、私はつかみたいと思っています。その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人たちに勇気を与えることができると思っています。このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。そういう人のためにも、おタエさんしか知り得ないことででも、われわれが後で調べたら何とか分かるようなそういう証拠の話か物がないでしょうか? そんなことを聞くのは傲慢(ごうまん)でしょうか? もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。
CL 傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。
TH それはおタエさんの左腕ですか?
CL そうです。
TH であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。
CL そうです。
TH その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?
CL そうです。
TH 下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?
CL お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。
TH それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?
CL そうです。
TH 馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?
CL 馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。
TH それは現在でもありますか?
CL あります。
TH おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?
CL 土、下。
注:「土、下」とは不可解な語りであるが、現渋川市上郷の高台にある良珊寺につながる坂道から脇道に少し入ったところに、石造りの馬と灯籠状の馬頭観音が祀られている。銘文には享保15年(1730年)と刻んである。天明3年(1783年)より53年前に設置されているので年代に矛盾はないし、石灯籠状の馬頭観音はお堂でもあるが、床はないので掘るとすれば直接土を掘ることになり、「土、下」という語りにも矛盾はないことになる。なお、上郷地区には他に馬頭観音はないので、守護霊の言う馬頭観音は、この石灯籠状の馬頭観音だと特定できる。
なお、渋川市上郷に馬頭観音が祀られていることをネット検索はできない。
TH どのくらい掘ったらいいのでしょうね?
CL 土石流で埋まっているので・・・。
注:この語りは、私が、実際にタエの骨の発掘作業をしかねないことを牽制するためのはぐらかし、つまり、土石流云々は嘘ではなかろうかと疑った。しかし、その後、私の読者のご努力で、上郷の良珊寺付近には過去に土石流被害があったことが、渋川市ハザードマップの検討から確認できている。
TH ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?
CL はい。
TH 分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?
CL 何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。
TH おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?
CL たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。
TH それは分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?
CL 女は、道具です。
注:「女は道具です」、このように言い放つ語りは、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のことばだと思われる。
TH 道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?
CL クロカワキチエモン。
注:タエは「クロダキチエモン」と語っており、タエと守護霊の語るキチエモンの姓が食い違っている。タエを呼び出した再セッションで、タエは、キチエモンの所有する田の土が黒かったので「黒田のキチエモン」とも呼ばれ、キチエモンの所有していた船着き場周辺の吾妻川の石が黒かったので「黒川のキチエモン」とも呼ばれていた、と語っている。つまり、黒川のキチエモンは通称ということであろう。なぜ、守護霊もタエも、本名でなく通称でしか告げないのかは謎である。ちなみに当時の渋川村には4人の名主がおり、その一人に堀口吉右衛門が実在していることが調査の結果判明している。堀口家の当主は、初代から明治に至るまで「吉右衛門」を名乗っているので、先代吉右衛門と当代吉右衛門の区別のため、当代について「黒田の」「黒川の」という通称で呼ばれていたと推測できる。
なお、天明3年当時の渋川村の名主を知るためにネット検索はできない。
TH そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?
CL 残っています。
TH どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?
CL ・・・資料はあります。
注:資料とは、天明3年当時の人別帳と寺の過去帳であろう。しかし、渋川市では「人別帳」は戦災で焼失している。残るは寺の「過去帳」であるが、差別戒名という同和問題との絡みで公開されることが拒まれている。当時実在した上郷の名主は堀口吉右衛門であり、吉右衛門とその妻ハツの墓は上郷良珊寺の墓地だと推測し、墓碑を二度まで捜索したが、古い墓石は表面が風化し苔むしており、戒名・俗名の判読は不可能であった。
TH そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?
CL たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書きしるしたものはほとんどありません。
TH 分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。
CL はい。
TH ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。
CL はい。
TH なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?
CL 雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。
TH それは切り落とされたわけですか? 刀によって?
CL そうです。
TH それにタエさんは耐えたわけですか。
CL そうです。
TH それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?
CL 違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:タエも馬も龍神・雷神の供え物として、浅間山噴火とやがて起こる吾妻川の泥流を鎮めるために川中に縛られ捧げられた。馬が暴れるので、それを鎮めるためにタエの左腕を埋納した事情については、「SAM催眠学序説その42」をお読みいただきたい。
TH 分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?
CL はい。
TH ありますか、やっぱり。
CL はい。
TH あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?
CL 長く繰り返している。
TH 一番古くはどんな時代でしょう?
CL 天明、タエが初。
注:里沙さんの魂は、タエが最初の人生、次がネパール人ラタラジュー、そして現世となり、現世が3回目の生まれ変わりとなる。
TH もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?
CL 中間の世界。
TH そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?
CL 中間の粒子が魂に生まれ変わります。
TH 中間の世界で粒子が魂になる。
CL そうです。
TH 魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?
CL 粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。
TH その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?
CL わたしの一部になります。
TH 分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。
注:ここまでの守護霊憑依中の記憶は一切ない、と覚醒後里沙さんは語っている。里沙さんについては、守護霊憑依中の記憶は一切残らないことがその後の再セッションでの憑依実験から明らかになっている。
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守護霊とおぼしき存在については、ワイスを始めとする前世療法の報告や、「光」や不思議な姿をした「偉大な存在者」についての報告は、本来、科学的検討の俎上(そじよう)に載せられるものではありませんし、慎重な検討が必要な主題なので、今後も考察を深めることにしますが、ここで、里沙さんのケースでの「偉大な存在者」の語りに関して、いくつか注目すべき点を挙げておきます。
「偉大な存在者」の語りとしては、次のような項目がありました。
①浅間山の龍神信仰
②上郷の馬頭観音堂とタエの左腕の埋納
③村の吾妻川泥流被害状況
④名主クロカワキチエモンと妻ハツの記録の残存
⑤タエの記録の不在
⑥「馬の口取り」という説明
⑦タエの生まれ変わり回数
なお、このほか、「中間の世界の粒子が魂になり、生まれ変わりを続け、色が消えると生まれ変わりがなくなり、自分の一部となる」といった不思議な説明が語られています。
これらが里沙さん本人の記憶ないし情報収集から導き出せるかどうかは、ポリグラフ検査を実施して検証しました。
ポリグラフ検査の鑑定では、彼女が意図的に「偉大な存在者」の①から⑦の語り内容を収集した記憶はまったくない、という結果でした。
したがって、彼女が意図的に「守護霊」の役割演技をして語ったという疑いは晴らされたと言えます。
ここで注目したいのは、タエという「前世人格」と「偉大な存在者」との、情報の差異です。
このうち、龍神信仰、上郷馬頭観音堂、「口取り」という言葉は、タエも知っていると考えられるものです。
しかし、②の「馬頭観音堂へのタエの左腕の埋納」、③の「村が壊滅状態になったこと」、④の「名主と妻の記録は残存していること」、⑤「タエの記録の不在」、⑦の「タエの生まれ変わり回数」は、タエという人格から発し得る情報ではありません。
特に、タエの左腕が切り落とされたことは、タエ自身が語っていませんし、それが馬頭観音堂に埋納されたことは、死後の出来事でしょうから、タエは知るよしもありません。
③④⑤に関しては、一部不正確であったり、確定的な検証ができないものですが、タエの立場からこのような言い方ができるとは思えません。
⑦の「タエの生まれ変わり回数」については、「偉大な存在者」は「タエが初」と言い、タエ自身が「生まれ変わり?」と聞き直すなど、生まれ変わりを経験していないので生まれ変わりの意味が理解できない、つまりタエが初めての人生ように述べたという一致がありました。
そして、最後の不思議な説明に関しては、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のものだと言えるでしょう。
ちなみにこれに類似した考え方は、「スピリチュアリズム」という西洋近代の宗教思想にもあるようです。
しかし、聴き取り調査によっても、里沙さんがそのような本を読んでいるとは考えられません。
つまり、情報の内容においても、その情報が語られる視点あるいは位相といったものからも、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」は、タエとも里沙さんとも、かなりの大きな差異を見せているということは言えると思います。
もちろん、だからといって、このような存在者が実在するという証明にはなりません。
ただし、渋川市上郷の馬頭観音石堂の下を掘り、そこにタエの左腕らしい、10代半ばの女性の骨が発見できたとしたら、どうでしょうか。
それは、タエの実在と里沙さんへの生まれ変わりを濃厚に支持するものになるでしょうし、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」の実在性の証明にも、可能性を開くものになるのかもしれません。
ここで語られた内容に関して、里沙さんはの次のように証言しています。
①浅間山については、活火山であることと、連合赤軍の浅間山荘事件以外知っていることはない。もちろん、見たこともない。火山について調べたことはない。
②天明の大噴火と火山雷や、それにともなう火砕流による吾妻川の泥流被害など全く知らない。
③群馬県に行ったことはない。ただし、絶縁状態で行き来の全くない親戚が桐生市にあると聞いている。渋川市はもちろん、渋川村など知らない。利根川の名前は知っているが、吾妻川は知らない。まして吾妻川が利根川の上流にあたることなど知っているわけがない。「吾妻」を「アガツマ」と読むことさえ知らなかった。
④過去に火山噴火などにまつわる人柱伝説や、悲話などの類の小説やテレビや映画を読んだり、見たり、聞いたりしたことはない。
⑤家にパソコンはあるが、インターネットの使い方を知らない。ただし、夫と息子は使える。誰かに依頼するなどして、タエの語り内容に関わる様々な情報を検索した事実はない。
なお、「インターネットが使えない」ということについては、里沙さんの息子にも、彼が電話に出たついでにそれとなく聞いて、母親がインターネットを使えないことを確認しています。
私は、さらに、セッションビデオを里沙さんに視聴してもらい、科学的研究のために本当のことを言ってほしい、と真剣に迫ってみましたが、逆に里沙さんに詰め寄られました。
なぜ、嘘をつかなければならないのか、嘘をつくことによって自分にどんな利得があるというのか、合理的な理由を教えてほしいと。
セッション記録ビデオを見て、自分自身でも全く知らないことを催眠中に語っているので、驚いているくらいなのに、嘘などついてるはずがないではないかと。
周囲からの聴き取り調査によっても、彼女が誠実な性格で、虚言癖などがないことを確認できました。
また、彼女の言うとおり、嘘をつくことによる利得は確かにありませんし、嘘をついていると疑わねばならない証拠が何一つ挙がっているわけでもありません。
これらの事実確認を踏まえて、できるだけ公正な視点から、この事例の解釈として、私が、彼女の守護霊の実在を認める立場をとる理由は、認めることによって「説明の成功」ができるからです。
目前で展開される意識現象を憑依だと認めることが、直感に著しく反していないからであり、憑依現象だと認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依現象が現行唯物論の枠組みからはどうにも説明が成功しないからです。
SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
また、「魂の自覚状態」に至ると、霊的存在の憑依とおぼしき意識現象が起こることもめずらしくありません。
ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、里沙さんの守護霊の語りを前にして、魂と生まれ変わりの実在や守護霊の実在可能性を回避するために、回りくどい心理学概念や精神医学概念を持ち出し、無理やり引き当て、霊的な意識諸現象に対してなんでもかんでも心理学的、精神医学的な解釈することは、現行唯物論科学の枠組みに固執するあまりのおよび腰的な、不自然な営みだ、と私には思われます。
そして、里沙さんに限らず、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
唯物論を絶対視し、魂や生まれ変わりの実在、霊的存在を認めることを回避する立場で、すべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって唯物論で前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得のいく説明ができますか?
どうやって唯物論によって、私と対話した里沙さんの守護霊の語り(里沙さん自身の全く知らない諸情報の語り)の納得できる説明ができますか?
私には、霊的存在の実在を認めることが、SAM前世療法で展開される憑依とおぼしき意識諸現象の解釈として「思考節減の原理」にもっともかなっていると思われます。
ただし、クライアントに起こる憑依現象すべてが、真正の憑依現象であるとは判断できません。
憑依霊が語った内容を検証にかけ、明らかにクライアントの知り得ない情報を語っていると検証できた場合でなければ、判断留保とするのが妥当でしょう。
そして、検証に足る情報が語られることは極めて少ないのも事実です。
ちなみに、超心理学上では「超ESP(万能に近い透視やテレパシー能力)仮説」があります。
そして、催眠中に超常的な能力が発現したという事例は、わずかながらあるようです。
とは言え、「超ESP」のような万能の超能力そのものは、立証されているわけではありません。
しかし、下に紹介するレナード婦人のような希有な実例が存在し、しかも、ESPの限界が不明なので、これを拡大解釈し、人間には未発見の万能の超能力が存在する可能性がある、という理屈上の仮説に過ぎず、実証はまったくありません。
グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出ているか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
E・M・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)
里沙さんが、レナード婦人を凌ぐような超ESPを発揮し、かなり広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、編集し、守護霊らしく装って語ったのだ、という解釈が成り立つでしょうか。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような超能力もないし、それを用いて意図的に情報収集をした記憶がないことはポリグラフ検査によって明らかです。
無意識のうちにやっているとすれば、いったい誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
また、無意識のうちにやっていることは証明できることでしょうか。
応答型真性異言は超ESPを用いたとしても、情報ではなく技能であるネパール語会話は取得できません。
したがって、「ラタラジューの事例」において、里沙さんが超ESPを用いることなしに、ラタラジューがネパール語会話をしている、つまり、自己内憑依現象を起こしていることは明白です。
そのすぐれた霊媒資質を備えている彼女が、守護霊の憑依ではなく、超ESPを用いて情報収集し、守護霊を偽装し語っている、と考えることのほうが不自然だと思います。
そもそも、広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、まとめ上げ、守護霊を偽装して語る、というような途方もない能力を発揮することが、人間に可能であるとは思われません。
実際、そのような万能の超能力(超ESP)を発揮した人間が、心霊研究(SPR)および超心理学研究のこれまで100年余の研究史上発見された事実は皆無です。
彼女が、私やセッション見学者たちを驚かせるために、無意識のうちに超ESPを駆使して情報を集め、守護霊を偽装して語ったのだ、という見方と、守護霊が実在し彼女に憑依して語っているのだ、という見方と、どちらがより検証結果を踏まえた直感に反せず、より思考節減の原理に沿った自然な解釈であるかは、すでに明白であるように私には思われます。
SAM前世療法において、魂状態の自覚に至ると、頻繁とは言えないまでも、偶発的に霊的存在とおぼしき者の憑依現象があらわれることがあります。
したがって、セラピストとして目前のクライアントに起きている霊的存在の憑依現象に対して、あいまいな態度は許されず、明確な立場をとって対処することが求められます。
SAM催眠学では次の立場を明確にとっています。
憑依現象に関わる「意識現象の諸事実」をSAM催眠学では、霊的存在が実在し、その憑依現象を認める立場に立っています。
これを、SAM催眠学における「憑依仮説」と呼んでいます。
当然のことながら憑依する主体である守護霊と呼ばれる高級霊、未浄化霊と呼ばれる迷える低級霊などの霊的存在を認めているということです。
さらに言えば、SAM前世療法によって、魂の自覚状態まで遡行させ、「前世人格」を顕現化させるという方法論そのものが、魂表層を構成している諸前世人格という霊的意識体を、意図的に憑依させることを企て、顕現化させる営みということになります。
こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりであるクライアント自身に憑依し、クライアントの肉体を借りて自己表現(発声し対話する、指を立てて答えるなど)をすることになります。
これは、まさに憑依現象ですが、「自分の魂表層の前世人格が自分に憑依する」などという奇怪な憑依現象はこれまで知られてきませんでした。
したがって、このような憑依現象に対する概念がありません。
そこで、SAM催眠学では、前世人格がその生まれ変わりである自分に憑依し顕現化する現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
自己の内部に入っている魂、その表層に存在している前世人格が自分に憑依する、という意味です。
実際にSAM前世療法で魂の自覚状態まで遡行すると、自己内憑依以外にも、偶発的に第三者の霊の憑依現象が観察されます。
また、里沙さんのような霊媒資質のあるクライアントであれば、意図的に守護霊を憑依させることも可能です。
したがって、第三者の霊である憑依現象、および憑依した主体である第三者の憑依霊は、「実体のない観念」ではなく、観察できる「意識現象の事実」です。
憑依および憑依霊について考察するために、事実に基づかない観念論では決着がつくとは思われないので、憑依現象の具体的事実を提示し、それについて具体的に考察してみましょう。
守護霊とおぼしき存在が憑依中のセッション証拠映像はyou-tubeの「タエの事例」に公開してありますから、そのセッション中に、里沙さんの守護霊が憑依している25分間分の逐語録を提示します。
ちなみに、前世療法セッション中に、偶発的ではなく、意図的に守護霊に憑依してもらい、セラピストが直接対話するというセッション証拠映像は、おそらく公開されたことがないと思います。
さて、下の逐語録の記号のTHはセラピスト稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。
ただし、CL里沙さんには彼女の守護霊が憑依して語っていますから、守護霊そのものの語りだと理解してください。
ちなみに、この対話は里沙さんの前世の記憶ではなく、憑依した守護霊と私とのまさに現在進行形の対話です。
なお、その後の守護霊呼び出しの再セッションで語られたこと、検証の結果明らかになったことを「注」としてコメントしてあります。
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TH じゃ、一つ聞きますよ。そのあなたのいる魂の世界に、たとえば、私の愛する人が待っていて、生まれ変わりがまだなら、私もそこへ行けば会えますか?
CL はい。会えます。
TH もう、生まれ変わりをしていたらどうなりますか?
CL 必ず出会います。
注:死後霊界に行った魂は「類魂」と呼ばれる魂のグループの一員となるらしい。次の生まれ変わりに旅立つときには、霊界の類魂内に自分の分身を残すという。したがって、先に死んだ者の魂がすでに生まれ変わりをしていても、後に死んだ者の魂は、先に死んだ者の魂の分身に必ず出会うということらしい。
TH 生まれ変わりをしていても出会えますか、魂どうしは?
CL はい。
TH もう一つ聞きますよ。今、あなたは偉大な存在者そのものになっていますね。じゃあその方は、時間も空間も超越していますから、今、私が、こうやって前世療法のセッションをしていることも、きっとお見通しのはずですね?
CL はい。
TH じゃ、聞きます。多くの人が、前世のことは現世に生まれ変わると、忘れて出てきません。でも今、里沙さんは深い催眠状態で前世のことを語ってくれましたが、もともと人間は、前世のことを忘れて生きるようにできていますか?
CL はい。
TH それを、無理矢理こうやって、催眠によってほじくり出すことは罪なことでしょうか? どうでしょう。
注:本来思い出すことのない前世を催眠という道具を使って探るという企てに対して、それは罪なことではないのか? という問いは、2001年にやむをえず最後の療法として初めて前世療法を試みた当初から、私の中に在り続けた疑問であった。守護霊は、人を救う手段であれば許される、と答えている。裏を返せば、人を救うためでなく前世を探ることは罪なことである、ということになる。したがって、とりわけSAM前世療法のように霊的療法をおこなうにあたっては、霊的存在に対して敬虔な態度を忘れることがあってはならないと思う。
CL そうではありません。人を救う手段であります。人を救う手段であれば、罪なことではありません。あなたは、それができる人なので、たくさんの人を苦しみから救うことが使命であると。
TH 私の使命ですか。
CL そうです。
TH であれば、私がこうやって前世療法をやった後は、二人の人からとっても憔悴(しょうすい) しているように見えるそうです。命を縮めているんじゃないかって言われています。そういうことになっていますか? どうでしょう。命を縮めることですか。
注:この問いも、私にとっては真剣な切実な心配であった。ちなみに、この「タエの事例」のセッション直後には、椅子から立とうして膝が笑って立てないほどの疲労が生じていた。
CL 違います。できる限りたくさんの人を救います。
TH 分かりました。じゃあ私は、それを自信を持ってやっていいのですか?
CL はい。
TH 他に、私に伝えておかなければならないことがあれば、どうぞおっしゃってくだ さい。
CL 世界にたくさんの悩める人がいます。必ず出会います。力を尽くすよう。力を尽くしてお救いください。
TH はい。私はそういう道を進むのが使命ですか?
CL そうです。
注:里沙さんの守護霊によれば、私が霊界に存在していたとき、神との約束として、次の生まれ変わりである現世の一定の準備期間によって一定の霊的成長に至ったと認められたとき、新しい前世療法を開発すること、スピリットヒーリング能力が発揮できること、が決められていた、と語っている。これを認めるとすれば、2008年、私が59歳になった時点を指している。この歳にSAM前世療法の作業仮説を教える霊信を受け取り、同時にスピリットヒーリングとおぼしき能力が現れたからである。
TH もう一つ聞きます。大きな謎ですよ。おタエさんは、人柱となって16歳で短い一生を終えました。そのおタエさんの魂が、今、平成の現世では里沙さんとして生まれ変わっています。その里沙さんは、側湾症という治る見込みのない苦しい病にかかっています。なぜ、苦しみを二度も味わわねばならんのですか? いかにも不公平な人生ではありませんか。そのわけは何でしょう?
CL 魂を高め、人を救う道に位置付きし人です。
TH 里沙さんがそういう人ですか。
CL そうです。
TH じゃあ、側湾症になるということも、里沙さん自身が、あなたのいらっしゃる中間世で決められたことなんですか?
CL そうです。
TH それは、里沙さん自身が魂として選んだ道なんですか?どうやら
CL 「わたし」が選びました。
注:のちの再セッションで、里沙さんの魂は急速な成長・進化を望み、他人の痛みを自分の痛みとして共感できるように、脊柱側湾症という不治の病を自らの意志で選び、3回目の生まれ変わりである現世に生まれてきた、と守護霊は告げている。魂の成長・進化のためには、人生において負荷がどうしても必要であるということである。負荷は「人生の課題」と言い換えることができる。生まれ変わりは惰性でおこなわれるのではなく、魂の成長・進化のために現世の課題(負荷)を決めて生まれてくるということらしい。ただし、その課題は魂が肉体に宿ると同時に忘却されてしまう。したがって、現世を怠惰に生きることも、課題を探りながら真摯に生きることも、魂の主体性に任されているらしい。
TH 「わたし」とは、魂の「わたし」なのか、それとも偉大な存在である「わたし」のことですか? どちらですか?
CL 魂の「わたし」が選びました。
注:「魂のわたし」とは里沙さんの魂のこと、「偉大な存在であるわたし」とは守護霊ことである。あとの語りで明らかになるが、生まれ変わりを卒業すると、その魂は「偉大な存在であるわたしの一部になる」らしい。この語りを認めると、守護霊である「偉大な存在であるわたし」は「類魂」と呼ぶこともできる。
TH もし、そのことを現世の里沙さんがはっきり自覚できたら、彼女は救われるでしょうか?
CL 救われます。
TH その苦しみを乗り越えるだけの力を得ることができますか?
CL できます。
TH また、聞きますよ。お答え願えますか? 浅間山の噴火のときに雷が起きましたか?
注:噴火による火山灰の摩擦により静電気が発生する。この現象を「火山雷」という。実際に天明3年当時の浅間山大噴火の絵図には黒煙の中に稲光が描かれている。
CL はい。
TH そのことを、雷神様と人々は言うのでしょうか? 雷のことを。
CL そうです。まだ、噴火、自然現象は分からない人たちですから、魔物のせいだと思ったのです。
TH 龍神様はなんのことでしょう?
CL 浅間山は信仰の山です。龍神が祀られています。
注:浅間山に龍神信仰があることは、浅間山麓嬬恋村の住人から確認できた。アンビリバボーの中で渋川市教委の小林氏は、吾妻川を龍神に見立てたのだろう、と推測されているが、守護霊やタエが語っているとおりに「浅間山に住む龍神様」と解することが妥当であろう。
なお、浅間山の龍神信仰についてはネット検索はできない。
TH その龍神が、お山が火を噴いたために住めなくなって、川を下るというように人々は思ったわけですね。
CL そうです。
TH それから、そのときの噴火によって空が真っ暗になって、日が射さなくなって、火山灰が降り注いで、農作物は不作になりますよね。その結果、下界ではどんなことが起きたのでしょう? あなたはご存じのはずですが、教えてもらえますか?
CL 噴火による土石流で川が堰(せ)き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。
TH その川の名前が吾妻川でしょうか?
CL そうです。利根川の上流になります。
注:吾妻川は渋川市内で利根川と合流している。
TH さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだという証拠を、私はつかみたいと思っています。その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人たちに勇気を与えることができると思っています。このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。そういう人のためにも、おタエさんしか知り得ないことででも、われわれが後で調べたら何とか分かるようなそういう証拠の話か物がないでしょうか? そんなことを聞くのは傲慢(ごうまん)でしょうか? もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。
CL 傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。
TH それはおタエさんの左腕ですか?
CL そうです。
TH であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。
CL そうです。
TH その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?
CL そうです。
TH 下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?
CL お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。
TH それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?
CL そうです。
TH 馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?
CL 馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。
TH それは現在でもありますか?
CL あります。
TH おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?
CL 土、下。
注:「土、下」とは不可解な語りであるが、現渋川市上郷の高台にある良珊寺につながる坂道から脇道に少し入ったところに、石造りの馬と灯籠状の馬頭観音が祀られている。銘文には享保15年(1730年)と刻んである。天明3年(1783年)より53年前に設置されているので年代に矛盾はないし、石灯籠状の馬頭観音はお堂でもあるが、床はないので掘るとすれば直接土を掘ることになり、「土、下」という語りにも矛盾はないことになる。なお、上郷地区には他に馬頭観音はないので、守護霊の言う馬頭観音は、この石灯籠状の馬頭観音だと特定できる。
なお、渋川市上郷に馬頭観音が祀られていることをネット検索はできない。
TH どのくらい掘ったらいいのでしょうね?
CL 土石流で埋まっているので・・・。
注:この語りは、私が、実際にタエの骨の発掘作業をしかねないことを牽制するためのはぐらかし、つまり、土石流云々は嘘ではなかろうかと疑った。しかし、その後、私の読者のご努力で、上郷の良珊寺付近には過去に土石流被害があったことが、渋川市ハザードマップの検討から確認できている。
TH ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?
CL はい。
TH 分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?
CL 何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。
TH おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?
CL たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。
TH それは分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?
CL 女は、道具です。
注:「女は道具です」、このように言い放つ語りは、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のことばだと思われる。
TH 道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?
CL クロカワキチエモン。
注:タエは「クロダキチエモン」と語っており、タエと守護霊の語るキチエモンの姓が食い違っている。タエを呼び出した再セッションで、タエは、キチエモンの所有する田の土が黒かったので「黒田のキチエモン」とも呼ばれ、キチエモンの所有していた船着き場周辺の吾妻川の石が黒かったので「黒川のキチエモン」とも呼ばれていた、と語っている。つまり、黒川のキチエモンは通称ということであろう。なぜ、守護霊もタエも、本名でなく通称でしか告げないのかは謎である。ちなみに当時の渋川村には4人の名主がおり、その一人に堀口吉右衛門が実在していることが調査の結果判明している。堀口家の当主は、初代から明治に至るまで「吉右衛門」を名乗っているので、先代吉右衛門と当代吉右衛門の区別のため、当代について「黒田の」「黒川の」という通称で呼ばれていたと推測できる。
なお、天明3年当時の渋川村の名主を知るためにネット検索はできない。
TH そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?
CL 残っています。
TH どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?
CL ・・・資料はあります。
注:資料とは、天明3年当時の人別帳と寺の過去帳であろう。しかし、渋川市では「人別帳」は戦災で焼失している。残るは寺の「過去帳」であるが、差別戒名という同和問題との絡みで公開されることが拒まれている。当時実在した上郷の名主は堀口吉右衛門であり、吉右衛門とその妻ハツの墓は上郷良珊寺の墓地だと推測し、墓碑を二度まで捜索したが、古い墓石は表面が風化し苔むしており、戒名・俗名の判読は不可能であった。
TH そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?
CL たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書きしるしたものはほとんどありません。
TH 分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。
CL はい。
TH ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。
CL はい。
TH なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?
CL 雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。
TH それは切り落とされたわけですか? 刀によって?
CL そうです。
TH それにタエさんは耐えたわけですか。
CL そうです。
TH それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?
CL 違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:タエも馬も龍神・雷神の供え物として、浅間山噴火とやがて起こる吾妻川の泥流を鎮めるために川中に縛られ捧げられた。馬が暴れるので、それを鎮めるためにタエの左腕を埋納した事情については、「SAM催眠学序説その42」をお読みいただきたい。
TH 分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?
CL はい。
TH ありますか、やっぱり。
CL はい。
TH あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?
CL 長く繰り返している。
TH 一番古くはどんな時代でしょう?
CL 天明、タエが初。
注:里沙さんの魂は、タエが最初の人生、次がネパール人ラタラジュー、そして現世となり、現世が3回目の生まれ変わりとなる。
TH もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?
CL 中間の世界。
TH そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?
CL 中間の粒子が魂に生まれ変わります。
TH 中間の世界で粒子が魂になる。
CL そうです。
TH 魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?
CL 粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。
TH その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?
CL わたしの一部になります。
TH 分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。
注:ここまでの守護霊憑依中の記憶は一切ない、と覚醒後里沙さんは語っている。里沙さんについては、守護霊憑依中の記憶は一切残らないことがその後の再セッションでの憑依実験から明らかになっている。
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守護霊とおぼしき存在については、ワイスを始めとする前世療法の報告や、「光」や不思議な姿をした「偉大な存在者」についての報告は、本来、科学的検討の俎上(そじよう)に載せられるものではありませんし、慎重な検討が必要な主題なので、今後も考察を深めることにしますが、ここで、里沙さんのケースでの「偉大な存在者」の語りに関して、いくつか注目すべき点を挙げておきます。
「偉大な存在者」の語りとしては、次のような項目がありました。
①浅間山の龍神信仰
②上郷の馬頭観音堂とタエの左腕の埋納
③村の吾妻川泥流被害状況
④名主クロカワキチエモンと妻ハツの記録の残存
⑤タエの記録の不在
⑥「馬の口取り」という説明
⑦タエの生まれ変わり回数
なお、このほか、「中間の世界の粒子が魂になり、生まれ変わりを続け、色が消えると生まれ変わりがなくなり、自分の一部となる」といった不思議な説明が語られています。
これらが里沙さん本人の記憶ないし情報収集から導き出せるかどうかは、ポリグラフ検査を実施して検証しました。
ポリグラフ検査の鑑定では、彼女が意図的に「偉大な存在者」の①から⑦の語り内容を収集した記憶はまったくない、という結果でした。
したがって、彼女が意図的に「守護霊」の役割演技をして語ったという疑いは晴らされたと言えます。
ここで注目したいのは、タエという「前世人格」と「偉大な存在者」との、情報の差異です。
このうち、龍神信仰、上郷馬頭観音堂、「口取り」という言葉は、タエも知っていると考えられるものです。
しかし、②の「馬頭観音堂へのタエの左腕の埋納」、③の「村が壊滅状態になったこと」、④の「名主と妻の記録は残存していること」、⑤「タエの記録の不在」、⑦の「タエの生まれ変わり回数」は、タエという人格から発し得る情報ではありません。
特に、タエの左腕が切り落とされたことは、タエ自身が語っていませんし、それが馬頭観音堂に埋納されたことは、死後の出来事でしょうから、タエは知るよしもありません。
③④⑤に関しては、一部不正確であったり、確定的な検証ができないものですが、タエの立場からこのような言い方ができるとは思えません。
⑦の「タエの生まれ変わり回数」については、「偉大な存在者」は「タエが初」と言い、タエ自身が「生まれ変わり?」と聞き直すなど、生まれ変わりを経験していないので生まれ変わりの意味が理解できない、つまりタエが初めての人生ように述べたという一致がありました。
そして、最後の不思議な説明に関しては、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のものだと言えるでしょう。
ちなみにこれに類似した考え方は、「スピリチュアリズム」という西洋近代の宗教思想にもあるようです。
しかし、聴き取り調査によっても、里沙さんがそのような本を読んでいるとは考えられません。
つまり、情報の内容においても、その情報が語られる視点あるいは位相といったものからも、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」は、タエとも里沙さんとも、かなりの大きな差異を見せているということは言えると思います。
もちろん、だからといって、このような存在者が実在するという証明にはなりません。
ただし、渋川市上郷の馬頭観音石堂の下を掘り、そこにタエの左腕らしい、10代半ばの女性の骨が発見できたとしたら、どうでしょうか。
それは、タエの実在と里沙さんへの生まれ変わりを濃厚に支持するものになるでしょうし、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」の実在性の証明にも、可能性を開くものになるのかもしれません。
ここで語られた内容に関して、里沙さんはの次のように証言しています。
①浅間山については、活火山であることと、連合赤軍の浅間山荘事件以外知っていることはない。もちろん、見たこともない。火山について調べたことはない。
②天明の大噴火と火山雷や、それにともなう火砕流による吾妻川の泥流被害など全く知らない。
③群馬県に行ったことはない。ただし、絶縁状態で行き来の全くない親戚が桐生市にあると聞いている。渋川市はもちろん、渋川村など知らない。利根川の名前は知っているが、吾妻川は知らない。まして吾妻川が利根川の上流にあたることなど知っているわけがない。「吾妻」を「アガツマ」と読むことさえ知らなかった。
④過去に火山噴火などにまつわる人柱伝説や、悲話などの類の小説やテレビや映画を読んだり、見たり、聞いたりしたことはない。
⑤家にパソコンはあるが、インターネットの使い方を知らない。ただし、夫と息子は使える。誰かに依頼するなどして、タエの語り内容に関わる様々な情報を検索した事実はない。
なお、「インターネットが使えない」ということについては、里沙さんの息子にも、彼が電話に出たついでにそれとなく聞いて、母親がインターネットを使えないことを確認しています。
私は、さらに、セッションビデオを里沙さんに視聴してもらい、科学的研究のために本当のことを言ってほしい、と真剣に迫ってみましたが、逆に里沙さんに詰め寄られました。
なぜ、嘘をつかなければならないのか、嘘をつくことによって自分にどんな利得があるというのか、合理的な理由を教えてほしいと。
セッション記録ビデオを見て、自分自身でも全く知らないことを催眠中に語っているので、驚いているくらいなのに、嘘などついてるはずがないではないかと。
周囲からの聴き取り調査によっても、彼女が誠実な性格で、虚言癖などがないことを確認できました。
また、彼女の言うとおり、嘘をつくことによる利得は確かにありませんし、嘘をついていると疑わねばならない証拠が何一つ挙がっているわけでもありません。
これらの事実確認を踏まえて、できるだけ公正な視点から、この事例の解釈として、私が、彼女の守護霊の実在を認める立場をとる理由は、認めることによって「説明の成功」ができるからです。
目前で展開される意識現象を憑依だと認めることが、直感に著しく反していないからであり、憑依現象だと認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依現象が現行唯物論の枠組みからはどうにも説明が成功しないからです。
SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
また、「魂の自覚状態」に至ると、霊的存在の憑依とおぼしき意識現象が起こることもめずらしくありません。
ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、里沙さんの守護霊の語りを前にして、魂と生まれ変わりの実在や守護霊の実在可能性を回避するために、回りくどい心理学概念や精神医学概念を持ち出し、無理やり引き当て、霊的な意識諸現象に対してなんでもかんでも心理学的、精神医学的な解釈することは、現行唯物論科学の枠組みに固執するあまりのおよび腰的な、不自然な営みだ、と私には思われます。
そして、里沙さんに限らず、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
唯物論を絶対視し、魂や生まれ変わりの実在、霊的存在を認めることを回避する立場で、すべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって唯物論で前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得のいく説明ができますか?
どうやって唯物論によって、私と対話した里沙さんの守護霊の語り(里沙さん自身の全く知らない諸情報の語り)の納得できる説明ができますか?
私には、霊的存在の実在を認めることが、SAM前世療法で展開される憑依とおぼしき意識諸現象の解釈として「思考節減の原理」にもっともかなっていると思われます。
ただし、クライアントに起こる憑依現象すべてが、真正の憑依現象であるとは判断できません。
憑依霊が語った内容を検証にかけ、明らかにクライアントの知り得ない情報を語っていると検証できた場合でなければ、判断留保とするのが妥当でしょう。
そして、検証に足る情報が語られることは極めて少ないのも事実です。
ちなみに、超心理学上では「超ESP(万能に近い透視やテレパシー能力)仮説」があります。
そして、催眠中に超常的な能力が発現したという事例は、わずかながらあるようです。
とは言え、「超ESP」のような万能の超能力そのものは、立証されているわけではありません。
しかし、下に紹介するレナード婦人のような希有な実例が存在し、しかも、ESPの限界が不明なので、これを拡大解釈し、人間には未発見の万能の超能力が存在する可能性がある、という理屈上の仮説に過ぎず、実証はまったくありません。
グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出ているか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
E・M・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)
里沙さんが、レナード婦人を凌ぐような超ESPを発揮し、かなり広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、編集し、守護霊らしく装って語ったのだ、という解釈が成り立つでしょうか。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような超能力もないし、それを用いて意図的に情報収集をした記憶がないことはポリグラフ検査によって明らかです。
無意識のうちにやっているとすれば、いったい誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
また、無意識のうちにやっていることは証明できることでしょうか。
応答型真性異言は超ESPを用いたとしても、情報ではなく技能であるネパール語会話は取得できません。
したがって、「ラタラジューの事例」において、里沙さんが超ESPを用いることなしに、ラタラジューがネパール語会話をしている、つまり、自己内憑依現象を起こしていることは明白です。
そのすぐれた霊媒資質を備えている彼女が、守護霊の憑依ではなく、超ESPを用いて情報収集し、守護霊を偽装し語っている、と考えることのほうが不自然だと思います。
そもそも、広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、まとめ上げ、守護霊を偽装して語る、というような途方もない能力を発揮することが、人間に可能であるとは思われません。
実際、そのような万能の超能力(超ESP)を発揮した人間が、心霊研究(SPR)および超心理学研究のこれまで100年余の研究史上発見された事実は皆無です。
彼女が、私やセッション見学者たちを驚かせるために、無意識のうちに超ESPを駆使して情報を集め、守護霊を偽装して語ったのだ、という見方と、守護霊が実在し彼女に憑依して語っているのだ、という見方と、どちらがより検証結果を踏まえた直感に反せず、より思考節減の原理に沿った自然な解釈であるかは、すでに明白であるように私には思われます。