SAM催眠学序説 その42
「SAM催眠学序説その40」で展開してきたタエの人柱状況の膨大な諸議論によって、今ひとつ謎として未解明であった部分がほぼ明らかになり、生まれ変わりの証拠「タエの事例」の全体像が明確に見えてきました。
そこで、「天明泥流タエの人柱秘話」と題して、SAM前世療法で顕現化した前世人格タエの語りと、語りの内容で検証できた史実を忠実にたどり、それができない空白部分はありうるであろう想像によって補い、「天明3年7月浅間焼泥押」と呼ばれる大泥流で人柱として16歳で溺死したタエの一生を、復元してみました。
この「秘話」には、これまで公開しなかったタエの人柱の裏にある生々しい隠された事情をあえて公開しました。 それによって、タエが人柱になったもう一つの理由が、より鮮明にご理解いただけるだろうと判断したからです。
なお、文章中の「タエの語り」、「タエの守護霊の語り」、「検証されている史実」を明確に示し、想像である部分と事実である部分とを区別するために、下線の後ろに3種類の記号が付けてあります。記号の意味は次のとおりです。
記号S1:タエの語り
記号S2:タエの守護霊の語り
記号K:検証済みの史実
また日付は旧暦で統一してあります。
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宝暦10年(1767年)生まれのタエ(S1・K)は、上州(上野国)渋川村上郷(群馬県渋川市上郷)(K)の名主キチエモン・ハツ夫婦に拾われ養育されました。(S1)
渋川村上郷の名主キチエモンは、捨て子を拾い上げ、養育するという篤志家(S1)であり豪農であったようです。
しかし、養育された子どもたちの実態は、年中馬小屋で藁にくるまって寝泊まりし、馬小屋でヒエの食事を与えられる(S1)という過酷な生活でした。
拾った子どもを農作業の労働力の無償の担い手として培うというねらいがあったと思われます。
すでに天明の飢饉の前兆が始まっていた(K)ことを考えると、拾ってもらい粗末な食事を与えられるだけでもありがたいと思わねばならなかったでしょう。
おそらく拾われた子どもたちは、絶えずひもじい思いをしていたに違いなく、安永9年(1780年)13歳(S1・K)になったタエが一番楽しかったのは、桑の葉を摘み取る仕事の合間に、桑の実を気兼ねなく腹一杯食べることだ(S1)と語っています。
天明3年(1783年)16歳(S1・K)の娘に育ったタエは、人柱になる悲劇について、「村のために」、「うれしい」、「恩返し」など、けなげに語っています(S1)から、気立てのよい、素直な、おそらく美しい娘であったと想像できます。
おそらくキチエモンはそうした美しく成長したタエを可愛がっており、タエも育ての親のおとっつあんであるキチエモンを慕っていたと思われます。
キチエモンは、商才に恵まれ、吾妻川の水運を利用して上流の村々から生糸や野菜を仕入れ(S1)それを売りさばくという当時始まりかけていた商品経済の先駈けの仕事に手を染めるという商人感覚を備え持つ、聡明でエネルギッシュで有能な名主であったと想像できます。
キチエモンは上流の村々から生糸・野菜などを仕入れる商売のための船着き場を持っており、その付近の川石が黒かったため、「黒川のキチエモン」、そして所有する田畑の土が黒かったため「黒田のキチエモン」という俗称で呼ばれていました(S1)。
ちなみに、天明3年当時渋川村の名主は4人で、その一人に「堀口吉右衛門」(K)がいたことが分かっていますが、タエはキチエモンの姓は分からない(S1)と語っています。
キチエモンは、美しく気立てのよい娘に成長した16歳のタエに情を移したと思われます。
キチエモンは、「白い米の飯を存分に食べさせてやるから言いなりにならないか」と密かに甘言をささやいた(S1)とタエは語っています。
白いご飯を遠慮気兼ねなく食べたいがばかりに、タエはキチエモンに身を任せました。やがてタエは、キチエモンの子を宿しました(S1)。
キチエモンの妻ハツがこれに気づかないはずはなく、タエは、キチエモンの子を宿したことを知ったハツから激しい折檻を受けた(S1)と語っています。
仮にも義理の娘に手を出し、子を孕ませたことが表沙汰になれば、キチエモンの名声は地に墜ち、妻ハツも笑いものになります。なんとしても表沙汰になることを塞がねばなりません。生まれてくる子の扱いもキチエモン夫婦には頭の痛いことであったはずです。
折も折、天明3年旧暦4月の初めに、渋川村50km西方の浅間山に最初の噴火が起こりました。
しばらく平穏だったのが5月末には噴火が再開し、遠くは佐渡など遠方諸国にも火山灰が降る事態が起きています。6月末になると断続的に噴火が起き、浅間山から200km離れた名古屋にも鳴動が届くほどになり 、7月に入るとさらに噴火は激しさを増してきます。(K)
この消息をタエは、「あ、あさまの山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって」、「白い灰が毎日積もります」、「軒下(の高さまで)」(S1・K)と語っています。
「む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり,太鼓を叩いても雷神様はおさまらない」(S1・K))と、火山性地震と鳴動、大噴煙による雷神(火山雷)の怒りに怯えうろたえる村人の様子を語っています。当然のことながら、火山雷とともに火山灰のおびただしい降灰によって、凶作が起こり飢饉となる(K)ことに、村人たちは恐怖したに違いないと思われます。
こうした事態を憂慮し危機感を募らせたキチエモンは、噴火の激しさが増してきた6月末から7月初頭には主だった村人を集め、緊急の寄り合いを開き相談したと想像できます。
この寄り合いの場には、おそらく諸国行脚の途中、名主キチエモン屋敷に投宿していた「行者様(S)」も同席を頼まれ、村人たちは行者の経験豊かな知恵を借りようとしたかもしれません。
行者は、山鳴りが起きると岩屑なだれが起き、上流の谷を埋めて大洪水が起こるなど諸国行脚で知り得た各地の言い伝え(K)を披瀝したかもしれません。
それを未然に防ぐためには、神仏を頼んでただ祈るだけでは効験はなく、すさまじい噴火によって浅間山を追われ、大洪水とともに川下りするであろう龍神の怒りを鎮めるために、若い娘を龍神の花嫁としてお供えるする(S1)しかないだろう、大噴火を引き起こす雷神を鎮めるには馬をお供えする(S1)がよいだろう、などを進言したかもしれません。
また、地元上郷の良珊寺(K)僧侶であろう「導師様」(S1)も同席し、行者とともに進言したかもしれません。
行者様、導師様はタエの人柱を立てた現場に付き添っていた(S1)からです。
こうして、衆議により、この先さらに危機的大噴火が起きた暁には直ちに人柱を立てること、雷神を鎮めるために馬も供えること、場所は三国街道筋の「杢ケ橋」(もくがばし)(K)にすること、事前に関所役人にはお咎めなしで黙認してもらう了解を取り付けておくこと、人柱の人選は村を守る立場上名主キチエモンに一任すること、などが取り決めたられたものと考えられます。
こうして人柱に立てる娘として、捨て子であり、しかもキチエモンの子を宿していたタエが、キチエモンの脳裏にのぼったことは自然の成り行きだったと思われます。
育ての親である名主キチエモンが、上の村々を救うという大義名分により、捨て子であったタエを人柱に立てることに異存を申し立てる者はいないであろうし、同時にタエの口封じにもなり、タエさえ説得できれば一挙両得だと考えた(S1)と思われます。
こうしてタエは、キチエモンから人柱になることを勧められた(S1)と語っています。
そして、キチエモン(妻ハツも加わったかもしれない)は、タエに人柱になることの大義名分やら功徳やらを並べて、繰り返し説得したに違いありません。
わずか16歳の、素直で気立てのよいタエが、しかも赤子で捨てられていたところを拾われ、養育されたことに大恩を感じていないはずがなく、キチエモンのたっての願いと勧めを受け入れる(S1)ことは、選択の余地のないことだったでしょう。
「雷神様は馬に乗ります。龍神様はわたしを乗せていきます」、「浅間のお山に住む龍神様です。熱くて住めないので川を下ります」、「天明3年7月七夕様の日、龍神様と雷神様があま、あま、あまつ、あがつまがわを下るので・・・水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えにになります」、「村のために」、「恩返し・・・みんなのために。うれしい」、「ごちそう食べて、白い(絹の)着物の花嫁衣装着て」など、タエが自ら志願したかのようなけなげな語り(S1)は、キチエモンの必死の説得が功を奏した結果であることは明らかでしょう。
タエが「上の村が水にやられる」と語り、「渋川村が水にやられる」と言わないのは、おそらく渋川村村落は地形的に吾妻川の水面よりかなり高い位置にあったからだと思われます。実際の泥流被害報告でも、家屋の流失は一軒もないとされています。ただし、流死は一人あったとされています。
うがって考えれば、「上の村」はキチエモンの商売上の交易相手の村々であり、それらの「上の村」を水害から守るのはキチエモンの商売のためでもあったと言えそうです。
なお、2006年TV放映の「奇跡体験アンビリバボー」では、「上の村が水にやられるので」という重要な語りが削除され、タエの人柱は「自分の住む渋川村を救うために」という理由になっていますが、これは私に無断で、フジTVが話を分かりやすくするため、セッション証拠映像の編集段階で意図的におこなっている歪曲です。
タエの説得に成功したキチエモンは、天明3年7月7日までには杢ケ橋の関所役人に人柱黙認の願い届けをしたと思われます。
三国街道の重要な杢ケ橋(K)を、流失から守るための人柱を志願している娘がいるので、なにとぞ黙認し、ついてはむごいことなので公にはしないように手配をしてほしい、などの願い届けを当時の渋川村4人の名主(堀口吉右衛門・後藤太兵衛・一場安兵衛・吉田喜兵衛)(K)らが出頭し、連名で願い出たとしたら、この願いを聞き届けた可能性は十分あると想像できます。
関所は見て見ぬふりをする、公にすることもまかりなならん、という処置をしたことはまったくありえないことではないはずです。
このように想像しないと、タエの人柱伝説が周辺地域の史実に残っていない(K)、ということが検証の最初の時点から解釈できないと思っていました。
関所役人としては、本人志願の人柱の願いを却下した結果、大災害に見舞われ、関所運営のためことあるごとに協力を頼んでいる名主たちの反感を買うことは後々を考えれば得策ではないでしょうし、だからといって人柱を公に許可したという事実が残ることは、いかに志願したことであっても公になれば、後でどんな非難を受けるやもしれません。
また、予測違わず大災害が起こるとは限らず、それならそれで人柱のタエは死なずに済み、杢ケ橋も無事なわけですから、どちらに転んでも問題が生じることがないように抜け目ない配慮をしたと思われます。
タエと馬を運ぶについてはできるだけ目立たぬようにすることを命じ、関所は見て見ぬふりをして記録に残すことを一切禁じ、人柱は無かったことにする、などの自分たちが火の粉を被らない妥協案を考えつくことは、今も昔も変わらぬ保身のための役人根性ではないでしょうか。
当時の三国街道杢ケ橋の関所役人は、高崎藩から2ヶ月交代の目付1人、与力2人、地元から3人の定番が世襲として勤めていた(K)ので、地元出身の定番役人たちと名主たちは顔見知りであったはずで、日頃ことあるごとに役人たちが関所運営に助力を頼んでいる4人の名主(K)が連名で願いの筋を申し出れば、黙認することはありえると思われます。タエの口封じというのっぴきならぬ裏事情のあったキチエモンが、融通を図ってもらえるよう付け届けを差し出した可能性もあるのではないでしょうか。
奇しくも天明3年7月7日午後には、吾妻火砕流を生じた大噴火が起こります(K)。
七夕伝説に因んで、いよいよ龍神、雷神がそろって吾妻川を下るぞ(S1)、その大異変の洪水を鎮めるために、タエを龍神の花嫁としてお供えに送り出す酒宴(S1)を今夜催すことにするぞ、と酒宴を始めた天明3年7月7日の夜から朝にかけて、大地を揺るがす未曾有の連続大噴火が起こりました。この大噴火の鳴動は、遙か遠く300km離れた京にまで届いた(K)と言います。そうした未曾有の大噴火の最中に別れの酒宴はおこなわれたと思われます。
そして翌朝天明3年7月8日午前、タエを大八車に乗せ、馬を引き、杢ケ橋に急行する段取りにしてあったと想像できます。
ところが、翌朝7月8日10時ころに浅間山から吾妻川に流下する大規模岩屑なだれ(鎌原火砕流) を引き起こし、京にまで届いたという大噴火鳴動(K)、あるいは前夜からの連続大噴火の鳴動によって怯え、必死で暴れる馬の口取りができない事態が生じました(S2)。
切羽詰まっている一行は、馬を鎮め守るために(S2)、上郷の馬頭観音(S2・K)へ、酒宴で酩酊しているタエの左腕を切り落として埋納する(S2)という狂気とも言える残酷な振る舞いにおよびました。村人に狂気を帯びさせるせるほどの未曾有の大噴火だったということでしょう。
タエの死を密かに望んでいたであろうキチエモンは、あえてこれを止めなかったのかもしれません。
こうして、空を覆う噴煙によって昼間なのに夜のような4kmほどの道のりを(S1・K)、タエを大八車に乗せ、馬を引いた一行は、三国街道に架かる杢ケ橋に運んだと思われます。
おそらく天明3年7月8日午前10時半過ぎころには杢ケ橋に到着していたでしょう。
付き添った村人たちによって、タエは杢ケ橋の、橋の柱に縛られ馬も橋の柱に繋がれ、龍神・雷神へのお供え(S1)の準備が急ぎ整えられました。
天明3年7月8日午前11時過ぎころには準備が終わり、タエと馬を運んで来た一行は、川岸の土手に待機し、吾妻川の異変を見守るばかりになっていた(S1)はずです。
川岸には「行者様、導師様、みんないます」(S1)とタエは語っています。
キチエモンをはじめ3人の名主、大八車と馬の引き手、行者様・導師様を合わせて、川岸には十数人の者たちが、タエを運んだ大八車を置いて待機し、吾妻川の異変を警戒しながら息を呑んでタエと馬を見守っていた(S1)と思われます。
この時刻には、すでに上流の吾妻渓谷八ツ場で大規模な堰止めの大泥流被害が起こっていたはずで(K)、そうした泥流被害を被った上流の村々から異変を知らせる半鐘を打ち鳴らす音などが次々に下流の村へと受け継がれ、杢ケ橋の川岸で見守っているキチエモンたちにも、上流で不吉な異変が起きていることが伝わって来たのかもしれません。
果たして、天明3年7月8日正午過ぎころに、「浅間焼け泥押し」と呼ばれる未曾有の大熱泥流が、大地を揺るがして流れ下り(K)、杢ケ橋・タエ・馬・大八車もろとも一気に呑み込み押し流したのです。
こうしてタエは泥流に呑まれて溺死しました(S1)。
天明3年(1783年)7月8日正午過ぎ(K) 、タエはわずか16年の、あまりに短い薄幸の一生を終えたのでした。
こうしたタエの薄幸の一生すべてを承知している守護霊は一言、「女は道具です」(S2)と重く含みのある語りを残しています。
そして、人柱タエとともに流失した杢ケ橋は、二度と架け直しがされず、それ以後は「杢の渡し」として吾妻川を渡る手段は渡し船へと変わりました。(K)
現在は、街道も廃れ、渡し場跡だけが当時の名残をわずかにとどめている(K)ばかりです。
災害を免れるために人柱となったタエの願いは叶うことなく、「天明3年7月浅間焼け泥押し」と呼ばれる大泥流は、吾妻川・利根川流域55ケ村の合計流死者1624人、流失家屋1511軒(K)の未曾有の大災害を残したのでした。
なお、渋川村の被害は、「くるま流れ、田畑少々流水入る、人一人流る」(K)となっています。
渋川村では、家屋の流失はなく、「田畑に流水が少し」あり、「ひと一人が流れ」、「くるまが流れた」のみと報告されています。(K)
雷神を乗せたはずの馬は、流された後、おそらく助かったのではないかと思われます。
あるいはお供えとして流死が予定されていた馬であるので報告から外されたかもしれません。
同じくお供えとして流死が予定されていたタエは、さすがに人であるので報告されたのでしょうか。
泥流で流された「くるま」は、タエを運んで川岸に置いた大八車であろうし、流死した「人一人」はタエであろう、と確かに推測できる痕跡が、当時の泥流被害報告書『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』(K)に、下枠内写真のようにかろうじて今に残されているというわけです。
フジテレビジョン 『奇跡体験!アンビリバボー前世スペシャル』2006.10.12放映分より |
こうして、タエの人柱「悲話」は、文字どおり人柱「秘話」となって、多くの流死した人々の中に紛れ、語り継がれることもなく、歴史の闇のはるか彼方に消え去っていったのです。
(終わり)
追伸
この秘話を、里沙さんの魂表層から顕現化し、生きた証を示し、生まれ変わりの事実を明かしてくれたタエの前世人格と、その次の次の生まれ変わりである里沙さんに、鎮魂の祈りを込めて捧げたいと思います。