SAM催眠学序説 その34
このテーマについては、「その33」のコメント欄で相当量の議論がされています。
これを整理し、現時点の私の結論をあらためて述べたいと思います。
タエの泥流による溺死と人柱についての疑義、つまりタエの語りの一つについて、信憑性に重大な疑いをかけられるということは、拙著『前世療法の探究』2006、で述べた検証についても、その信憑性に疑いが持たれることになります。
執筆者に対して、指摘された疑義についての説明責任を果たし、現時点の諸証拠を挙げて、できうる限りの決着をつけることが求められています。
まず、「その33」のコメント欄で、疑義を提示されたVITA ÆTERNA
さんのコメントのご見解を示し、次いでそのご見解についての私の反証を挙げるという順序で述べてみます。
VITAさんの疑義 その1
また、タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け
られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、
泥流は大量の岩石を
含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、
歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。
浅間焼泥押に関する
最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っております
(もち
ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、
タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。
VITAさんの疑義は上記のゴチック部分2点です。つまり、
①タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である。(注:語りでは、タエは泥流に呑まれて苦しみながら溺死している)
②吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった。(注:語りでは、タエは水が止まった橋脚に縛られて人柱になった)
という疑義になります。ちなみに、
①②の最新の研究の知見を述べている出典は
http://togetter.com/li/608596 早川由紀夫氏です。
早川氏の最新の知見とされる早川論文
http://t.co/clK6yNByJ6を読んでも、天明浅間山噴火に関する溶岩流や火砕流の詳細な分析はあっても、それが吾妻川に流れ込んだ後、川の流れにどう作用したのかについて言及した記述はありません。論文を読む限り、①②のような早川説がどこから出てくるのか、どのような根拠があるのか全く不明です。
それでも、VITAさんは、この「最新の研究の知見」とされる早川説を支持される立場だろうと拝察します。
そこで、VITAさんは早川説を支持する立場から、
「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」だと、繰り返し「タエの語り」の再検証を主張されていると思われます。
それでは、「最新の研究の知見」である
①②の早川説への反論を、科学的実験および史実の検討をとおした諸反証を挙げて述べてみます。
反証1 科学的実験による検証
「つくばの国総研」土石流メカニズム実験映像から(UROノートさん提供)
https://www.youtube.com/watch?v=eprBGInlo-E の実験映像をごらんになれば、タエの人柱になった地点は実験の扇状地地形であって、この地形になると泥流が先頭で流れ下り、岩石は遅れて流れ下ることが一目瞭然です。
タエが泥流に呑まれて溺死した状況と、泥流が先に到達する実験結果とに齟齬はありません。
つまり、この実験結果は、タエが土石流状の流れの直撃を受けて即死したわけでなく、泥流に呑まれて溺死した可能性の高いことを実証しています。
これについてVITAさんが反証として挙げられた浅閒焼泥押について、示された参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=PrDnYF6vN4U
https://www.youtube.com/watch?v=c2uc3PTZ9OE は、狭隘で斜度のかなりある沢筋を押し寄せる事態を撮影したものです。
しかし、タエの人柱となった吾妻川地点は沢筋ではなく、平坦部に近い緩い斜度といってよい扇状地地帯です。
これは2006年のアンビリ放映映像で、タエが人柱となったとされる吾妻川現場を確認できます。
私も、渋川市の吾妻川の橋が架かっていた現地を調査し、確認しています。
ほぼ平坦地を流れている斜度の緩い地点で、土石流状の流れが一気に押し寄せ、その岩石の直撃を受けて即死状態になったとはまず考えられない地形でした。
下の写真が、タエが人柱になったとされるまで橋の架かっていた「杢の渡し」跡の 吾妻川です。
「その33」でUROノートさんのコメントは、このことについて次のように述べています。
「ビータさんがリンクを貼ってくださった砂防堰堤があるような急勾配の地点を切り取れば、巨礫(きょれき)は位置エネルギーも運動エネルギーとして有効に使える為、水との速度差は大きくありません。し
かし、
利根川との合流地点付近(杢の渡し)のように、なだらかな扇状地の場合は、巨礫の位置エネルギーは地表との摩擦として消費され、その速度を著しく低
下させます。水の運動エネルギーが100%有効に使えるような管状の閉塞空間以外の条件では水が先に到達するのは自明です」
同様の見解を次の「反証2」で取り上げた、証拠文献の執筆者関俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)も、
「
川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、
河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」
と述べています。
したがって、VITAさんの参考動画は、川の斜度の前提が大きく異なるので反証とはなりえません。
「川嶋村 」は、現渋川市川島地区であり、当時は、タエの人柱地点である「渋川村」よりすぐ上流に位置する村になります。
タエの人柱地点より上流部の川嶋村の村人が、泥流に流されても、19人以上助かっているという史実が残っているのです。
たとえば、助かった一人である新八のように、3里(約12キロ)も 流されて生きていることはまず考えられません。
こうした史実に照らせば、
泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という早川説は、川の斜度から推測できる流れ方の物理法則と、記録に残っている史実を完全否定しない限り、その根拠をほとんど失います。
こうして、
「①タエを巻き込んだのは泥流ではなく、大量の岩石を含んだ土石流状の流れであるから、溺死ではなく即死である」とする早川説は棄却できるでしょう。
おそらく、早川氏もVITA さんも、タエの人柱地点の実際の地理的状況をご存じないのではないかと思われます。
反証2 歴史的事実の検証
「内閣府防災情報」災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 から
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/index.html
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf
第2章「よみがえった天明3年」第7節「資料による天明泥流流下とその確認」79~80ページには次のような記述があります。この第2章の執筆者は、関 俊明氏(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)となっています。
また、「この報告書は、災害教訓の継承に関する専門調査会の下に設けた小委員会において検討され、平成18年3月22日に開催された同調査会で承認されたものである」と奥付の説明があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
更に下り、中之条町では、九ッ時(「11時49分」)に高さ五丈(約15m)、あるいは十丈(約30m)の浪が押し寄せ、「一ノ浪二番ノ浪三番ノ浪三度押出シ通り候なり。」(『集成』II157)
とあり、3つの段波が記述されている。これは注目される記述で、既に見てきたように、吾妻川に入り込んだ岩屑なだれの土砂が大きく3つの筋であったこと、八ッ場の発掘調査で見つかっている畑面の泥流流下の傷の方向性にいくつかのグループがあり方向が異なること、天明泥流堆積物の様相が異なる場合があること、吾妻渓谷の上流の上湯原での時間的な経過の記述が残されていること、原町での明確な継続時間の記述があることなどから類推すれば、泥流は一押しに流れ下ったものではなく、吾妻渓谷の上流からここまで、少なくとも複数の段波として流れ下っていった可能性がある。
「(川嶋村)喜平次ハ川原嶋村へ流助カリ帰ル。」(『集成』II159)、「川島の者弐人行徳迄流助命して罷帰り候よし。」(『集成』II317)、あるいは「木に乗候哉命を保、那波郡柴宿(現玉村町)迄流て此所ニ上ケられ命無事にて古郷江帰る事有、珍敷事ニ御座候。」(『集成』
II322)、また、川嶋村新八というものは、3里流され半田(現渋川市)で助けられて戻ってきた(『集成』II124)というように、下流で引き上げられ命拾いをしたここの村人は少なくとも19人(『集成』II336)以上が確認できる。
川嶋村(後出の中村村でも同様)の村人が助かったという記事が多くあるのは、村の大半が埋まってしまう程被害が大きく遭遇者が多かったことだけが理由だけでなく、河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる。関根にあった広瀬堰の取水口までは15kmほどの距離がある。「トウカフチ」は、合流点から1.5km上流の「塔ケ渕」で、ここまで泥流が逆流し、更に流下距離で四十丁(約4.4km)以上となれば赤城村敷島付近まで増水したという想定になる。
さらに、地点を特定できないが、「利根川の上一時ばかり水少しニ相成、しばらく過て泥水山の如く押かけ、何方より流れ出候共相知ず。」(『集成』V191)という注目される記述がある。
これらのことからすれば、2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ、その地点で何らかの出来事があったと考えられる。そして、これらの記述は下流で記録された流水の一時的な枯渇現象と関わってくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記にある川嶋村とはタエの人柱地点の渋川村の上流の隣村です。渋川上流の川嶋村の村人で流され、助かった者が19人以上確認できるということは、大量の岩石を含んだ土石流状の流れでなかった(泥流であった)からこそ助かったと推測できます。資料では「
(川嶋村あたりから)河床勾配や河道が急に広がっているので、流速の変化により、助かる確率が高かったとも考えられる」と述べています。
こうした史実に忠実であろうとすれば、タエは土石流状の流れに巻き込まれて即死したのではなく、泥流に呑まれて、もがき苦しみ溺死した、と推測することが妥当であろうと思われます。
また、当時の記録から「2時間程度の流水の滞留があり、一気に泥水の流れが押し寄せるという状況を記録したものと考えられ」と、関俊明氏は推測されています。
また、UROノートさんのコメントも、次のように反証を挙げ反論しています。
「吾妻川の流れが止まった時間はなく、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった」と主張する早川説は、以上検討してきた複数の史実と、それに基づく関俊明氏の考証を否定していることになり、しかも、史実を否定するに足る「最新の研究の知見」とされる科学的根拠が不明です。
したがって、史実をたどる限り、少なくとも1時間前後の泥流の滞留時間があったことがほほ確実であり、
「②(泥流の止まった時間がなく)突如泥流が押し寄せたので、人柱にする余裕はとてもなかった」とする早川説は、根拠不明な憶説として棄却して差し支えないでしょう。
早川説は、ツィッター上でつぶやかれた「無根拠な印象論」であり、そのような「印象論ツイートはツィッターというメディアでは起りがち」だ、というUROノートさんの「その33」での指摘は、的を射ているように思われます。
以上の、早川氏の言説①②への反論により、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」というタエの語りは、史実に忠実な語りの可能性の高いことが立証できたと考えます。
こうして、VITAさんの、「タエの事例」に対する真摯な検討から生じた疑義提示がなされたおかげで、生まれ変わり「タエの事例」の信憑性が、より強化できたことに感謝いたします。
また、UROノートさんには、科学的知見に基づいた的確なコメントをいただき、あつくお礼申し上げます。
以前から私は、タエの「水が止まって危ないので」という語りを採用するにあたり、次のような研究家の見解に与していました。
そして「、「その33」で下記のように述べました。
・・・・・・・・・・・・・・・・
天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)朝10時ころに発生した浅間焼けに伴う大火砕流(土石なだれ)は鎌原村を飲み込み吾妻川に流れ込んだ。
その火石(熱溶岩)を含んだ土石は1億立方メートル、2億トンにも達すると見積もられている。
土石は吾妻川の狭窄部分を堰きとめては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。
堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った。
昼の12時ころには吾妻川と利根川の合流点(注:タエの流されたのはほぼこの地点)に達し、ここでも利根の流れを堰き止めた。
夕方ころにはこの堰も壊れて土砂は利根川を下り関東平野北部に泥流被害をもたらした。
「八日の昼八ツ時分利根川ノ水音夥敷致候.……早速水引却て川水も無キ様ニ成候所,暮前に至り泥山の如クニ押来リ此時材木屋道具死人夥敷流来候.此時ハ泥湯ノ如クニ涌キ大石ノ火ノ燃ヘ出ルヲ押来候由.」
『天明三年七月砂降候以後之記録』
・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、大泥流の「土石は吾妻川の狭窄部分を堰き止めては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。
堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った」のであり、押し流された土石が、吾妻川上流の狭窄部分を、数回にわたって堰き止めた時には、一時的に川の水が止まるという現象が起きたと思われます。
それを「水が止まって、危ないので」とタエは語ったというわけです。
こうした、数回にわたって水が止まるという前兆のあとに突如大泥流が押し寄せたと考えれば、川の水が止まっている間に、タエを、急ぎ人柱仕立てる時間はあったと思われます。
その時間的余裕は、少なくとも1~2時間はあったのではないかと推測します。
そして、天明3年(1783)7月8日(新暦8月5日)の大噴火に至るまでに断続的な大きな噴火が度々起きており、降灰による農産物被害を恐れるキチエモンや村人は、タエを人柱に立てることを、7月8日の最大規模の噴火以前から準備していた、という推測が可能です。
とりわけ名主キチエモンは、舟を用いて上流の村々から生糸や野菜を買い付け交易していた(動画タエの事例第2セッション)といいますから、龍神を鎮め、噴火を終息させる必要に迫られていたと思われます。
こうした事情から、おそらく旧暦6月末になって、噴火が一層激しさを増してきた時点で、いつでもタエを人柱に立てる準備ができていたと思われます。
また、 VITAさんは、泥流は大量の岩石を含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、という専門家の意見を述べていますが、要するに泥流中の岩石と衝突し、即死状態であったはずだという見解だろうと思われます。
しかし、タエは橋杭に縛られていたわけですから、泥流に押し流され浮いている橋とともに流されたと考えることが自然で、流された直後にも、束の間、苦しみもがくだけの息があったと考えることができると思われます。
そして、当たって即死に至るような岩石には相当な重さがあり、泥流の中・底層部に沈んで流されているはずで、泥流表層の水面近くには流れていないだろうと思われます。
こうして、「その33」で述べた、私の以前から持論としていた上記の推測の妥当性が高いことが再確認できました。
私にとって今回のVITA ÆTERNA
さんの2つ疑義は、現地調査と史実との照合の結果執筆したタエの語りについて、何でいまさら根拠不明な早川説なのか、という感が強く、意外だったのが正直なところです。
ともあれ、VITAさんの、
「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」 という要請に、きちんと証拠を提示して応えることができ、その結果タエの語りの信憑性が再確認できたことをうれしく思っています。
現在の日本に、生まれ変わり事例の科学的専門研究者と呼べる研究者は皆無です。
反証可能性にひらかれた、科学的検証に耐えられる、生まれ変わり事例が、きわめて出現しにくいという現実があるからです。
また、そのような事例は、実験的に得られるわけではなく、偶発的に出現することを待つしかないという性格の研究にならざるを得ないからです。
こうした意味で、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの科学的研究史上世界でもきわめて貴重な事例です。
催眠中に語られた前世を科学的に検証した事例は、「タエの事例」が日本では初の事例ですし、「ラタラジューの事例」ともにその証拠映像が公開されていることは、世界に例がないと思います。
検証可能な前世を語る具体的な事例に遭遇すれば、ネット検索によって、専門研究者でなくとも、誰でも、UROノートさんのごとく、検証に参加できます。
そして、前世存在の真偽の判断を検討することができます。
「タエの事例」のような検証事例が累積されることによって、前世の存在が多くの人々に認知されるようになる可能性がひらかれていると思われます。
それが可能になっている、ネット社会に生まれ合わせた恩恵を感じた今回の検証でした。