わたしは臨床催眠実践者です。登録商標を取得した「SAM前世療法」の実践によって、魂状態の自覚とともに前世人格の顕現化などが「意識現象の事実」として確認できます。それらの意識現象について、生まれ変わりの先行研究と科学的方法論に基づく検証結果についての考察を公開していきます。「意識現象の事実」の真偽について、「観念より事実」、「理屈より実証」をコンセプトに検証と考察を深める実践を続けています。なお、このブログは、諸宗教との関わりは一切ありません。
2014年5月27日火曜日
溜飲が下がる思い
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原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、 原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣 位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子 力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少 なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。
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胸のすく正当な論理で、曖昧な判断で回避せず、みごとに判決の主旨がのべられています。
数々の検察の劣化が暴露され、司法にもそれが及んでいるという情報が流れている中で、この判決文を読む限り「司法の独立性は生きている」と実感できました。
「人格権」は、「経済活動の自由」より優先する基本的権利である、という至極まともな判決です。
福島原発事故後の2014年5月の現状を見れば、原発の存続は議論の余地のない馬鹿げた妄想であることが明明白白です。
私は、「簡素にして自給的で、喜びを中心にした生活」を理想とする者ですが、若狭湾で福島原発事故級の事故があれば、大飯原発に限らず若狭湾の原発から100キロ圏内(岐阜県可児市)で生きているそうした私の理想の生活の基盤が根こそぎ奪われることが明白です。
すでに福島原発事故で、汚染され続けている東日本と太平洋の現状を顧みれば、安価と言われる原発電力による経済活動を優先させることは、近視眼的な本末転倒の論理です。
経済活動の基盤である国土と海そのものが、取り返しのつかない状況になるからです。
孫子のためにも、生まれ変わるであろう私のためにも、原発は廃止にするべきでしょう。
原発廃止で腹をくくれば、日本人はそれに変わる電力供給をひねり出すだけの技術力と知恵を所有していると信じています。
私は、薄氷の上でのきわどい生活を余儀なくされていると思い続けています。
「根源的な権利(人格権)が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い」ので、「具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である」と断言した当裁判官は、万雷の拍手をもって称えられるべきでしょう。
呼吸をするように嘘をつく首相の言うがままにならない、反骨と正義を貫く裁判官が存在していることに、私は久しぶりに感動し、溜飲を下げたというわけです。
しかし、関電は即上告したといいますから、ときの政府の意向を反映させたがる上級審では、この判決が覆る可能性は大きいと推測できます。
溜飲が下がったのも、一時的な束の間の快感にすぎないかもしれません。
2013年7月24日水曜日
ドキュメンタリー映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』上映会の紹介を二つ
アンビリ放映では公開されていない、タエ・ラタラジューの事例の全セッション映像をご覧になれます。
【その1】
『催眠・魂・生まれ変わりの真実』上映会のご案内 【拡散希望】
開催日 : 平成25年8月11日(日)
場所:ミレニアム佐倉 (京成佐倉駅より連絡通路1分です)
所在地:千葉県佐倉市宮前3丁目4番地
<電車でご来場の方>
東京日暮里駅から成田空港行き普通、特急、快速特急、普通にて
京成佐倉駅下車(北口) 直結連絡通路にて徒歩1分
<お車でご来場の方>
ミレニアム佐倉にも駐車場がございます しかし満車が見込まれますので
満車の場合は 近隣のコインパーキングをご利用ください
できるだけ交通機関のご利用をお勧めします
<映画放映時間>
開始時間
・前編 11:00~13:00 終了時間
・後編 13:30~15:30
・前編受付は10:30からです
・後編受付は13:10からです
<映画料金について>
前編後編合わせて ¥1,000 です
前編だけ、後編だけの視聴でも構いませんが
料金は一律¥1、000です。
当日、直接会場にお越し下さい。
【その2】
8月17日土曜日 ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』上映会開催のご案内【拡散希望】
8/17 ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』上映会
映像編集 : 伊藤泰史
下記urlをご参照ください
リンク
2013年6月12日水曜日
なにが生まれ変わるのか(魂の構成要素とはなにか)
そこで、生まれ変わりの実証的研究者故イアン・スティーヴンソンの見解と、確信的スピリチュアリスト高森光季氏の見解を参考にしながら、私の「生まれ変わり」概念について考察してみます。
私の立場は、このブログのテーマにあるように、「生まれ変わりの実証的探究」です。
ただし、「魂」のように実測も計量もできない存在については、セッションであらわれた「意識現象の事実」の累積と、そこに確認できた共通項をもって「実証的探究」とする以外、現時点の探究方法はありません。
そうして、探究の結果、現時点で提示できる仮説としての生まれ変わりの定義は、「魂に包含される、魂の表層を構成する前世人格たちを含めた魂全体が、次の新たな肉体に宿ることをもって生まれ変わりとする」ということです。
また、魂表層の個々の前世人格たちは、互いの人生の知恵を分かち合い、死後も成長進化を続けているらしい。
こうして、魂表層を構成している前世人格たち全体の集合的意識も成長進化をしているらしい。つまり、魂は生まれ変わりを重ねながら成長進化を続けていくらしい。
こうした私の生まれ変わり概念は、奇抜のように思われるかもしれませんが、生まれ変わりの研究者である故イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりの見解と共通するところがないわけではありません。
スティーヴンソンは、世界中の2000事例を越える生まれ変わりの可能性のある事例を精査した結果、次のように述べています。
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スティーヴンソンの見解
たとえ生きている人間の人格全体が何でできているかを知らなかったとしても、どの事例から得られた証拠をもとに考えたところで、人格全体が生まれ変わったと言うことはできないであろう。前世に由来する可能性のある人格の一側面に注意を向けることしかできないのである。(中略)
前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォ)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化していくのではないかと思う。(中略)
私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、ひとつの人格がそっくりそのまま生まれ変わりうるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。実際に生まれ変わるかもしれないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する個性なのである。
スティーヴンソン・I 『前世を記憶する子どもたち』日本教文社,PP358-360
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上記のスティーヴンソンの見解は、とりわけ、人格全体が生まれ変わったということはできないという見解は、私がセッションで確認してきた「意識現象の事実」にほとんど符合しています。
私の現時点の生まれ変わり仮説も、人格全体が生まれ変わるとは定義できません。
そのような形で、つまり、人格全体が生まれ変わることを示唆する証拠は、「意識現象の事実」として確認できないのです。
スティーヴンソンの提唱している「心搬体」とは、いわゆる「魂」と同義です。生まれ変わりとは、前世人格で構成される表層を含めた「魂」=「心搬体」全体が死後存続し、次の肉体に宿ることと考えざるをえないのです。
ただし、私は、スティーヴンソンが「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない」と述べているその「心搬体(魂)の構成要素」を、「表層部分」と「核」の二層構造になっているという仮説をもっています。また、魂表層は前世のものたちによって構成されているという仮説に立っています。
このことをさらに分かりやすく説明するために、高森光季氏のブログで提示されている下記の図によって考えてみます。
高森氏は、私の生まれ変わり仮説(魂の二層構造仮説)を、「多面体説」として次のようにな見解を提示しています。
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高森光季氏の見解
多面体説
これは、魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す、というものです。
次の図は、時間軸に沿った変化として見てください。なんか雪玉ゴロゴロみたいな変な形になりましたが(笑い)。
魂であるXは、A、B、Cという現世存在を次々に生み出していきます。A、Bは死後も一応の個別性を持ちながら、魂Xとともにあります。
シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」というような説や、稲垣勝巳さんの「人格は魂の表層のもの」という説は、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。(ひょっとすると違うかもしれません。)
さて、この構図で問題になることは、まず、「個別の人格は生まれ変わりをしない」ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。
大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)
むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか。
もうひとつ問題になるのは、死後の「人格」の状態です。一番右の時点で、AとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。一般的に、死後存続説というものは、単に「残る」ということではなく、「活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。
AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。
つまり、このような捉え方(あくまでこの図のような捉え方ということ)は、「生まれ変わりの否定」であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。
(中略)
死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉と同様、「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」ということになっていると思われます。
霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」についてすら、合意ができていないようです。
「永遠なる自由――霊的哲学を求めて」より抜粋
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以下は、上記の高森氏の見解に対する私の見解です。
①
さて、上の図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、私の概念では、○A・○B(それぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂)・○A・○B(それぞれの前世人格)全体を含めて「魂」と呼んでいます。
さらに言えば、○C(現世人格)も、魂の表層に存在しており、この現世人格と前世人格たちを含めて、「魂の表層」なのだということです。
ちなみに、私の言う「魂」は、宗教的な意味は一切ありません。「肉体に入っており、死後肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。
イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・記憶を保って死後存続する意識体)」と同様の概念です。
②
高森氏は、この多面体説では、「個別の人格は生まれ変わりをしない、ということになるということです。
視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか」という主張をしています。
一方で氏は、「霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、『何が生まれ変わるか』、『生まれ変わりの定義とは何か』についてすら、合意ができていないようです」とも述べています。
生まれ変わりの定義に合意がないのであるなら、この多面体説をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ることをもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、なんら支障はないと私は思います。
端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。
そして、セッションで現れる意識現象の事実は、このことを支持していますから、これまでのスピチュアル霊学一般の見解に反するでしょうが、現時点ではそうと認めるしかありません。
つまり、里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙、ということであり、このことをもって「生まれ変わり」をしていると私は呼んでいるということです。
多面体説が、「生まれ変わりの否定」になるという高森氏の主張は、氏の概念規定上の見解に過ぎないと思います。
氏が、生まれ変わりの概念に合意がないことを認めているにもかかわらず、生まれ変わりの否定になる、という主張は自己矛盾ではないでしょうか。
③
高森氏の「AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です」という主張は、セッションで現れる「意識現象の事実」に反しています。
前世人格AとBは、友愛を結びながらそれぞれの人生の知恵を分かち合い、それぞれ成長を続けている、というのがセッションで現れる意識現象の事実です。
けっして、「単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていない」わけではありません。
そもそも、「魂にくっついている」という認識が誤りです。
くっついているのではなく、魂の表層を構成しているもの、したがって、魂そのものの構成要素です。
だからこそ、セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジューが顕現化するわけで、彼らが「単に眠っているように魂にくっついていたり」しているわけではないことを、セッション証拠映像を検討すれば誰もが納得されるでしょう。
④
私は、「魂の多面体仮説」=「魂の二層構造仮説」の立証を、催眠を道具に用いて、セッションで確認できた「意識現象の事実」の累積から共通項を抽出する、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。それ以外に「意識」の研究は方法がないと思うからです。
そして、現時点で確認できていることは、AとBとCが同じXに属するものである、という意識現象の事実です。
魂の多面体仮説に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究する有用な道具だろうと思っています。
そして、これまでの探究において、「多面体仮説」=「二層構造仮説」を否定する意識現象の事実はあらわれていないということです。
長々と「生まれ変わり」についての考察を述べてきました。
私の見解は、SAM前世療法の臨床から得てきた知見です。
スティーヴンソンの見解は、前世を記憶する子どもたちの検証から得られた知見です。
高森氏の見解は、過去の「シルバーバーチの霊言」に基づくスピリチュアリズム論的展開です。
ただし、私の生まれ変わり仮説=「魂の二層構造仮説」は、2007年1月23日の私あて第12霊信によって告げられた内容です。(注:私あて全霊信はこのブログで公開してあります)
そして、なぜ私に、過去のスピリチュアリズム霊信にはない、魂の二層構造のような詳しい情報が告げられたのか、という通信霊への問いに対して、2007年1月27日の第15霊信で次のような回答が告げられています。
「尋ねるまでもない、あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そしてこれまでのものたちに与えられるべきものが与えられたのだ。すべては神の計画によっておこなわれている。そして、それら(注:過去のスピリチュアリズム霊信)は誤りではない。それらの霊媒がそう受け取っただけなのだ。それは、真理において生じる矛盾ではなく、言葉の類似性により生まれた適切ではない表現となったものである。それは、そうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
果たして、通信霊の告げた「魂の二層構造」は真理であるのか、それを作業仮説とし、その仮説検証の過程で生まれた前世療法が、SAM前世療法というわけです。
2013年5月29日水曜日
前世人格の存在の座はどこか
魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして私は、顕現化した前世の人格と対話し、その苦しみや悲しみを共感的に傾聴します。
現世のクライアントの顕在意識(モニター意識)は、私と前世人格との対話を傍聴しています。
私と前世人格の対話、それを傍聴している現世の顕在意識という三者的構図が、これまでの心理療法になかったSAM前世療法独自・固有のセッション構造といえるでしょう。
前世の人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、傍聴している現世のクライアントの主訴も連動して改善が起こる、というのがSAM前世療法による暫定的治療仮説です。
このことつまり、こうした治療仮説そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。
ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。
したがって、カウンセラーは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なカウンセリングに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。
カウンセラーは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に生き続けている前世の人格(死者)と対面するというわけです。
ラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が応答型真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあるからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。
こうしたことから、魂の表層が前世人格存在の座であり、今も前世の人格が生きて存在している、という作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューとカルパナさんの次のような現在進行形のネパール語会話です。
※ CL : ラタラジュー人格(被験者里沙) KA : ネパール語話者カルパナ
CL Tapai Nepali huncha?
(あなたはネパール人ですか?)
KA ho, ma Nepali.
(はい、私はネパール人です)
CL O. ma Nepali.
(ああ、私もネパール人です)
この会話のラタラジュー(CL)という顕現化した前世人格は、カルパナさんに対して、明らかに、今、ここで、現在進行形で問いかけています。
つまり、前世人格ラタラジューは、魂表層で今も生きており、それが顕現化して問いかけているとしか考えられません。
こうした事実からも、被験者里沙さんが、ラタラジューであった前世の記憶を想起して語っている、という解釈は成り立たないのです。
応答型真性異言現象においては、それを会話した当事者の「前世の記憶」ではないというほかありません。
さて、私と同じく応答型真性異言の二つの事例を20年ほど前に出版しているイアン・スティーヴンソンは、この現象を次のように述べています。
スティーヴンソンも、応答型真性異言「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』11頁)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書9頁)と呼んでいます。
さすがにスティーヴンソンも、応答型真性異言で会話している現象は、当事者の記憶想起としてではなく、当事者とは別の、トランス人格(前世人格)が顕現化して会話している、ととらえざるをえなかったのです。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性と霊媒能力を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。
こうした海外で発見された催眠下であらわれた2例の応答型真性異言と考え合わせると、前世人格の存在する座は魂の表層である、とするSAM前世療法の作業仮説の検証は、ますます意味深い作業になると思っています。
なぜならば、スティーヴンソンは、呼び出された「トランス人格(前世人格)」が真性異言を話すことまでは言及しても、その「トランス人格(前世人格)」の存在する座はいったいどこにあるのかまではっきり言及しようとしていません。
ただし、彼は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォ)』と呼ぶことにしたらどうか」(『前世を記憶する子どもたち』359頁)とまでは提唱しています。
こうした文脈から、おそらくスティーヴンソンは、心搬体(サイコフォ)がトランス人格存在の座であると推測していると思われます。心搬体(サイコフォとは、いわゆる魂と同義です。「魂」という用語にまつわる宗教色を避けるために、「心搬体(サイコフォ)」という新しい中立的用語を提唱しているわけです。
トランス人格存在の座を明確に述べようとしないのは、実証を重んじる科学者としてのスティーヴンソンの慎重な自制からでしょうが、SAM前世療法の作業仮説は、それ以上言及されなかったトランス人格の存在する座までも検証しようとしています。
ところでスティーヴンソンは、次のような謎とその謎解きを次のように述べています。
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「私が特に解明したいと考えている謎に、イェンセンやグレートヒェンが母語(注 スウェーデン語とドイツ語)でおこなわれた質問と同じく、英語でおこなわれた質問に対しても、それぞれの母語で答えることができるほど英語をなぜ理解できたのかという問題がある。イェンセンとグレートヒェンが、かつてこの世に生を享けていたとして、母語以外の言葉を知っていたと推定することはできない。二人は、したがって、自分たちが存在の基盤としている中心人物(注 英語を母語とする被験者のこと)から英語の理解力を引き出したに違いないのである」(『前世の言葉を話す人々』235頁)。
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このことは、ラタラジューにも当てはまる謎です。
なぜ、ネパール人前世人格ラタラジューが、知っているはずのない日本語を理解し、私と対話できるのかという謎です。
これはラタラジューが顕現化した第一回セッションからこだわり続けていた謎でした。
そこで、実験セッションの始めに「ラタラジューはネパール人です。それなのに日本語が分かるということは、翻訳、仲立ちをしているのは魂の表層の『現世のもの』と考えてよろしいですか? 」という質問を里沙さんの守護霊にしたのです。
これに対して、里沙さんの守護霊とおぼしき存在も、そのとおりだ、と認めています。
またこの存在は、魂レベルでは言語の壁がなくなり自然に分かり合える、とも告げています。
つまり、「魂の二層構造仮説」のように、魂の実在を仮定すれば、スティーヴンソンの「特に解明したい謎」に解答が出せるかもしれないということです。
魂の表層に存在し、ラタラジューとつながっている「現世のもの(現世の人格)」が通訳をしているという説明ができることになるのです。
2013年5月12日日曜日
臨死体験と魂の問題
下記にこの記事の当事者であるパーニア氏と、そのインタビュー記事の抜粋を紹介します。
パーニア氏は、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校付属病院の医師で、同大学の蘇生法研究プログラムの主任。北米と欧州の25病院で臨死体験を記録する「Consciousness Project Human」のAWARE調査の責任者として、この現象を科学的に研究している人物である。
パーニア氏はこのほど、新しい著作『Erasing Death: The Science That Is Rewriting the Boundaries Between Life and Death(死を消去する:生と死の境界を書き換える科学)』を刊行した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・パーニア氏:人が死ぬと、血液の脳への流入がなくなります。血液の流入が一定のレベルを下回ると、電気活動は生じ得ません。脳に何らかの隠された領域があり、ほかのすべてが機能しなくなってもそれが活動していると考えるには、大変な想像力が必要です。
このような観察から、脳と心の相互作用に関する現在の概念に疑問が生じます。従来の考え方は、脳内の電気化学的なプロセスが意識につながっているというものです。死後に電気化学プロセスが起きないことは証明ができるので、この考え方はもう正確ではないのかもしれません。
脳の中には、われわれが発見していない、意識を説明する何かがあるのかもしれません。あるいは、意識は脳とは別個の存在なのかもしれません。
WIRED:それは、意識の超自然的な説明に近いように聞こえますが。
パーニア氏:最高に頭が柔軟で客観的な科学者は、われわれに限界があることを知っています。現在の科学では説明ができないという理由で、迷信だとか、間違っているだとかいうことにはなりません。かつて電磁気など、当時は見ることも測定することもできなかったさまざまな力が発見されたとき、多くの科学者がこれを馬鹿にしました。
科学者は自我が脳のプロセスであると考えるようになっていますが、脳内の細胞がどのようにして人間の思考になりうるのかを証明した実験は、まだ存在していません。
人間の精神と意識は、電磁気学で扱われるような、脳と相互作用する非常に微小なタイプの力ではあるが、必ずしも脳によって生み出されるわけではない、ということなのかもしれません。これらのことはまだまったくわかっていないのです。
WIRED:ただ、最近はfMRIによる脳画像と、感情や思考などの意識状態の関連性が研究されたりしていますよね。脳を見ることで、その人が何を見ているかや、何を夢見ているかがわかるという研究もあります。
パーニア氏:細胞の活動が心を生み出すのか、それとも、心が細胞の活動を生み出すのか。これは卵が先かニワトリが先かというような問題です。(fMRIと意識状態の関連性などの観察から)細胞が思考を生み出すことを示唆していると結論する試みがあります。「これが憂鬱の状態で、これが幸せの状態」というわけです。しかし、それは関連性に過ぎず、因果関係ではありません。その理論に従えば、脳内の活動が停止したあとに、周囲の物事を見たとか聞いたとかいう報告はないはずなのです。脳内の活動が停止したあとも意識を持ち得るのだとすれば、おそらくは、わたしたちの理論はまだ完成していないということが示されているのです。
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さて、「生まれ変わりの実証的探究」の私の立場からすれば、上記パーニア氏の太字部分の医学的見解は、脳以外に意識の存在を示唆しているように思われます。彼は、「現在はっきりとしているのは、(脳死後も)人間の意識が消滅するわけではないということだ」とまで述べているようです。
この見解は、「心・脳二元論」という立場です。
過去にも、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞級の大脳科学者が自らの実験研究の結果、晩年になって「心・脳二元論」を表明しています。
催眠研究者成瀬悟策九大名誉教授・医博も、晩年になって、「脳は心の家来です」と述べています。
SAM前世療法の大前提は、「心・脳二元論」仮説ですから、臨床医学者パーニア氏の最新の上記見解は、我が意を得たりと言いたいところです。
しかし、厳密に検討すると、手放しで喜べるほど、ことは単純ではないようです。
脳死臨床の場で、脳が本当に死んだかどうかを、直接的に観察できる方法は現在ありません。
したがって、「脳が生きて活動しているならこういう現象が観察されるはずだ」ということをいろいろ見ていって、そういった現象がすべて観察されないからこの脳は死んでいるだろう」と推論するわけです。
これが脳死判定の方法論的論理構造です。しかし、「脳が生きている」けれども、「脳の機能発現が観察されない」こともあるのです。
脳が活発に活動しているときには、脳内でものすごい数のパルスが飛び交っており、その影響で頭皮の上に微弱な電流が生じます。これを測定したものが脳波です。つまり、脳波は、脳の電気的活動の有無を直接測定するものではないのです。したがって、脳細胞レベルでは微弱な電気活動がまだ残っている段階でも、フラットな脳波が現れるといわけです。
脳波がフラットの状態であるから脳死である、つまり、脳の機能は停止してる、にもかかわらず意識現象が生じた、だから、意識は死後も消滅しない、という論理は成り立たないのです。
脳波がフラットであっても、脳は生きており、意識がある可能性を排除できないのです。
脳死をほぼ確実に判定できるのは、一定時間の脳血流停止を確認することとされています。
その確認方法として脳の酸素消費を測定する脳代謝検査があります。
細胞は生きている限り、酸素を消費し、ブドウ糖を消費します。細胞が死ねばどちらも消費しません。
それで、理論的には、脳代謝測定が脳死決定の最終的手段とされています。
はたして、パーニア氏は、脳代謝検査などで、一定時間の脳血流停止確認後、その患者の脳血流停止中の意識があったことをもって、「脳死後も意識は消滅するわけではない」と述べているのでしょうか。
それはまずありえないでしょう。脳細胞の血流が一定時間停止すれば脳細胞が死滅し、脳の復活はありえないので、そもそも脳血流停止中の意識内容を話すことができるはずがないからです。
このように、臨死体験によって、脳とは別に、消滅しない意識(魂)の存在を証明することにも、どうやら「挫折の法則」がはたらいているような気がします。
臨死体験研究者の多くは、医師や心理学者であり、それまでサイキカル・リサーチやスピリチュアリズムが蓄積してきた知見を、知らないかあるいは無視しています。
臨死体験研究の本をいくつも翻訳している超心理学者の笠原敏雄氏は、研究者たちのそうした態度を、先行業績を参照するという科学的手続きを無視したものだ、と指摘してます。
このように、これまでの多くの臨死体験研究では、実証性ということが十分に考慮されているとは思われません。
サイキカル・リサーチ(超心理学)を踏まえたオシスらの研究ですら、超ESP仮説への取り組みが不十分で、理論上の中心主題は残されたままだとしています。臨死体験と死後存続仮説との関係という中心的問題を明らかにすることに対しては、大きな貢献はしていないと私には思えます。
そもそも、臨死体験とは、体験者が生き返っているわけですから、「真の死後の体験」だということには矛盾があります。
呼吸停止・心停止であっても、脳は生きていただろうから、それは脳内現象であり、せいぜい体脱体験と同様のものに過ぎない、という説明が成り立ちます。
脳活動(脳幹活動まで含む)が完全に停止した状態で体験された「パム・レイノルズのケース」(セイボム『続「あの世」からの帰還』)でも、厳密に理論的に検証すると、完璧であるわけではありません。
そして、脳内現象を否定できる、脳細胞が死滅したことが確認された後の臨死体験はありえません。
脳細胞の死滅は、脳の復活不可能な完全な脳死であるからです。臨死体験が報告できるはずがありません。
このように臨死体験の実証的側面は、非常に脆弱なのです。
実証性を別にして考えても、臨死体験には限界があります。仮に、臨死体験者が、死後の世界の入り口まで覗いたとしても、それはあくまで「かいま見た」程度のものでしかありません。前世療法の本をホイットンとともにまとめたライターは、臨死体験を、「国境に足止めされた海外特派員がそこからその国の事情を報告する」ようなものだと表現しています。
2013年4月9日火曜日
死後存続(生まれ変わり)仮説を広める戦略
「ラタラジューの事例の英訳を作成なさるということですが、さまざまな発表の舞台のひとつに、トランス・パーソナル心理学会や超心理学会などのアカデミズムを標榜する舞台での発表をご検討されてはいかがなものかと思量いたします。
バラエティー番組などでセンセーションを巻き起こすことが、おそらく先生の本意とされるところではないのではないかと推察いたします。もちろん、広く生まれ変わりや死後生存の事実を大衆にしらしめるという点では、それもあながち排除すべきものとは思いませんが、単なるセンセーショナリズムに消費されてしまうことを恐れます」
についての回答として、私の現在の立場についてまとめてみました。
SAM前世療法が前提としている「前世」、つまり「死後存続仮説」は、今の科学(医学や臨床心理学や人文科学を含む)が基盤としている「唯物論」とは真っ向から対立します。これに対して、前世を認める立場、死後存続仮説を広める側としては、どのように対応すべきなのでしょうか。
① 実証事例を集め積み上げる
これまで120年に及ぶサイキカル・リサーチ(心霊研究)及び超心理学はこの闘争でしたが、これは実に困難な闘いでした。唯物論側は様々な誹謗や奇説(超ESP仮説)を繰り出して、それらの信憑性を否定してきました。また反唯物論的現象の希少性や「とらえにくさ問題」もあって、戦果ははかばかしくありません。
(こうした歴史については、笠原敏雄編著『サイの戦場』や同氏のホームページ「心の研究室」、明治大学教授石川幹人氏のサイト「メタ超心理学研究室」http://
この道で偉大な業績を上げたのは、イアン・スティーヴンソンの研究です。彼は気の遠くなる時間と手間をかけて、2000例を越す生まれ変わり事例を収集・検証したうえに、否定論者の最後の砦、「超ESP仮説」を棄却しうる「応答型真性異言」や、「前世記憶と一致する先天性刻印(birthmarks)」の事例をもつきとめ、生まれ変わり仮説の実証に大きく貢献しました。このことの説明は、東京スピリチュアリズム・ラボラトリーのホームページ、http://
ところが、こうした実証に対して、唯物論側は、「無視」という態度で終始しています。スティーヴンソンは、4巻にわたる綿密な研究書『再生と生物学』が、広く注目を集めなかったことに失望していたと言います。
生まれ変わり否定論者が、彼の研究をきちんと読んだ後に批判をしているという例は、皆無だと思います。
なお、この立場の研究者は、だいたい生まれ変わり仮説を「受け入れている」とは明確に表明しません。
そう表明するだけで、研究の信憑性が疑われてしまうのです(実はこれは奇妙な話で、例えば最近の新聞で話題になっている宇宙の「暗黒物質」に関する研究では、当人がそれを信じているかどうかは問題にされません。反唯物論現象のみこう した偏見があるのです)。
② 唯物論の論拠が絶対ではないことを論証する
実は、唯物論自体、絶対完璧の基盤を持っているわけではありません。唯物論自体は憶説(信仰)に過ぎませんし、実証主義、数理論理主義、基礎物理学なども、つきつめていくと、様々な論証不能性の壁にぶつかります。
また、科学や医学などを作り上げている知識のある部分は、「欺瞞」や「思い込み」や「政治性」などに汚染されています。一般の人はもちろん、正当科学に従事する人の多くも、こうした議論を知りませんが、現代哲学や物理学の最先端では、「実証」という概念も成立しなくなってきつつあるのです。
こういった議論は、しばしば難解ですが、興味深いものです。『七つの科学事件ファイル』『背信の科学者たち』といった暴露ものなど、考えさせられる著作もかなりあるのです。
ソウルメイトさんの紹介している、牧野尚彦著「ダーウィンよ、さようなら」、マイケル・J・ベーエ著「ダーウィンのブラック・ボックス」、マイケル・デントン著「反進化論」のように、唯物論の代表であるダーウィニズムも、その信憑性は揺らいでいるのです。
③ アカデミズムからの白眼視などどこ吹く風で信じることをやる
へたをすると、狂信家、凝り固まったオカルティストと変わらなくなってしまう危険性があります。
当人の知性、人格などが、きびしく問われ、正常な知性を疑われることになるでしょう。
少なくとも、私の学会発表体験では、アカデミックな催眠関連学会で、前世療法を正当な催眠療法として認知する、あるいはきちんと研究する動きはないと思うしかありません。白眼視されているのです。
また、生命情報科学会、日本サイ科学会など超常現象をまじめに探究する学会においても、生まれ変わりの科学的研究者は見あたらないようです。
したがって、そのような日本において、学会発表してみたところで、まともな議論ができるとは思われません。
私は、大学の研究者ではありませんから、学閥や学統のしばりを受けることなく、実践者としての自己責任で、「アカデミズムの白眼視など、どこ吹く風」とうそぶいて、我が道を行くことができる立場です。
④ 広く一般の人々の支持に訴える
唯物論信仰に深く汚染されていない、多くの人々は、反唯物論的現象への拒否反応も少ないようです。
むしろ、「チャネリング」、「ヒーリング」、「マヤ暦」などの流行に見られるように、唯物論にとらわれない柔軟な立場の動きは、ますます大きくなっているようにも思われます。
アカデミズムの威光からの離反も、かなり顕著になってきているような気配もあります。
ニューエイジャーの人々の言うように、人類は意識革命をしつつあるのかもしれません。
そうした動きと連動する道を探るという戦略です。
ただし、③と同じく、へたをすると「怪しい霊能者」と変わらなくなるでしょう。そこに一線を引くのは、誰もが納得できる「事実」に立脚した議論を第一義とすることです。
そして、生まれ変わりに関する、実証なき千万の教説より、たった一つの実証の事実に依って立つ立場を信条にしています。
前世療法を擁護したい人、特に実践者は①の立場を堅持してもらいたいと願うのですが、現実にはめったに実証性のあるデータは出てこないかもしれません。しかし、①のデータが完全でなくとも、ある程度の納得のできる実証が確認できれば、それを根拠に、③や④の戦略も、また有効性を持つはずだと思います。
特に言いたいことは、③の道において、私が明確に表明しているように、「死後存続仮説(生まれ変わり仮説)」」を受け入れる」という立場は、サイキカル・リサーチや超心理学、特にスティーヴンソンの研究が蓄積されている現在、まったく「理性を疑われる」ようなものではなくなっているのではないかということです。
つまり、ちゃんと先行研究を勉強すれば、論拠は十分にあるよ、と言えるようになるはずだと思います。
逆に、態度を留保し、明確な立場表明の回避を重ねている(あるいは人生論ないし思想という安全地帯に逃げている)一部の「前世物書き」、しかも実証の努力もしていない人々は、不徹底なのではないかと思います。(それぞれ立場や事情もあり一概に非難できないでしょうが)。
また、④の道を探れば、あまり細かいことを言わずに、「何でもあり」でやってみる、前世体験をしてみたい人にどんどんやってあげて、納得する人が少しでも増えればOKというのもありかな、と思っている次第です。
私が、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』の2冊を出版し、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の二つをアンビリバボーで放映することを決意し、今また自主制作映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会を各地で催してもらっているのは、③④の戦略を念頭においているものです。
このブログを立ち上げたのも同様の動機からです。うれしいことに、平均毎日500アクセス前後の人々がおいでくださいます。
そして、今後、「ラタラジューの事例」証拠映像の英訳版を、動画で海外に発信していく予定です。
そして、英訳にすでにとりかかってくださっている協力者がおいでになります。
そもそも、SAM前世療法の作業仮説そのものが、霊的存在を名乗るものが教えたことですし、彼らが繰り返し告げていることは、「生まれ変わりの事実(霊的存在の実在を含めた霊的真理)」を広めよ、ということなのです。
※注 この記事は、かつて高森光季氏が提案されたものに手を加えたものです。
2013年4月1日月曜日
生き霊?との対話
まずは、「生き霊」という概念についてウィキペディアの記事を引用してみます。
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人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている]。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが 、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる 。
古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話がよく知られている。また、『今昔物語集』(平安末期成立)27巻20話に、辻で立っていた女が実は夫に離婚された近江国の女房の生霊だったというものがある。
憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、相手に恋焦がれるあまり、その想いの強さが生霊となって恋する相手に憑く話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊 」では、享保時代に京都のある男性に近所の女性が恋をして、あまりに強い想いが生霊となって彼に取り憑き、想いを囁いたり男の体を激しく動かしたりし、男が散々悩まされた挙句に病の床に臥せってしまったという話がある 。また、寛文時代の怪談集『曾呂利物語』では、ある女性が眠っている間に、その生霊が抜け首となってさまよい歩き、道端で男に追いかけられ、眠りから目覚めた後に「外で男に追いかけられる夢を見た」と語っており、かつて夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景と解釈されていたことが窺える
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さて、ここで紹介する奇妙なセッションに登場する人物は次の3名です。
①会社員で20代半ばのクライアントA子さん。
②職場同僚でA子さんの恋人B男君。
③職場同僚で生き霊を飛ばしていると思われるC子さん。
クライアントA子さんの主訴は、恋人B男君と一緒にいるときに、突然、別人格のように変身して(憑依様の状態)、B男君を非難することの改善でした。セッションには、同行したB男君が同席しました。
突然、別人格のように変身して憑依様の状態が、かなり頻繁に起こる、という心理現象にはいくつかの可能性が考えられます。
①統合失調症(精神分裂病)の症状である妄想
②解離性同一性障害(多重人格)の副人格の顕現化
③未浄化霊の憑依
④前世人格の顕現化
⑤生き霊の憑依
⑥無意識的理由によって別人格に変身する役割演技
事前のカウンセリングによって、①②など精神疾患の所見のないことは確認できました。ただし、精神疾患が隠れている可能性を疑って、催眠誘導には細心の注意を怠らないように慎重を期しておこないました。
催眠によって、潜在意識下に抑圧していたマイナス感情が噴出して(蓋開け効果)、コントロール不能になる畏れがあるからです。
A子さんの催眠感受性は良好で、異常の兆候はなく、魂の自覚状態まで順調に誘導できました。
しかし、魂状態の自覚に至って、顕現化した存在は、なんと、A子さんの職場の同僚で先輩C子さんの生き霊であると名乗ったのです。A子さんとC子さんは、同僚以上の親しい人間関係はないということです。
憑依している生き霊は、同席しているB男君を名指しで次のように罵り始めました。このとき、閉眼し催眠中であったA子さんは、薄目を開けてB男君を指さし、不気味とも思える表情をしていました。
「おまえ(B男)は、ほんとうはこいつ(A子)より、わたし(C子)のほうが綺麗だと思っているんだろう。な、なっ、ほんとうことを言えよ。私(C子)が綺麗だって言えよ」
「おまえ(B男)は、私(C子)を抱きたいと思っていたんだろう。ほんとうのことを言えよ」
「嘘つけ!ほんとうのことを言えよ。ほんとうは私(C子)を抱きたいと思ってたんだって言えよ!」
「私(C子)は、絶対、こいつ(A子)を許さないからな。おまえらの仲を必ず裂いてやるからな」
「私(C子)は、こいつ(A子)を、絶対自殺に追い込んでやるからな。殺すからな。絶対許さないからな」
生き霊を名乗る存在が顕現化したのも初めてのことですが、そうした存在が口頭で話すという現象も初めてのことで、私は驚くと同時に、どのようにしてこのセッションを終結したらよいのか混乱してしまいました。
解離性同一性障害のセッションと、インナーチャイルドのセッションから、「意識・想念」が、一個の人格としてふるまうような存在を作り出すらしいことは承知していましたから、このC子さんの生き霊に対しても、一個の人格として対話するしかないと腹を決めて、その後のセッションを展開しました。
まず、この生き霊が、なぜこのようなすさまじい憎悪と怨念をA子さんにぶつけてくるのか、その理由を問い質してみました。
生き霊が語る理由は、次のような事情でした。
前世で、A子さんは花魁であった。そしてその花魁に入れあげて妻子ある男が家庭を放棄した。その男の妻こそ現世のC子さんであった。
捨てられた妻(C子の前世)は、夫を迷わせ奪った花魁(A子の前世)を憎み、刺し殺して恨みを晴らした。
こうした前世の経緯をもつA子さんとC子さんが、ふたたび現世で再会し、しかも同じ職場の同僚として出会った。しかも、同僚のB男君は、最初C子さんに好意を示して接近しておきながら、後から就職してきたA子さんに乗り換えて、恋愛関係を結んでいる。C子さんにしてみれば、前世で夫を奪われ、今度は現世でもC男君を奪われ、恨み骨髄に徹しているということらしい。
こうして、C子さんの生き霊が、A子さんに憑依して、恨みを晴らそうということらしい。
ここまで分かったところで、私の思いは、この生き霊を説得して、おだやかにC子さんの元へ帰ってもらうことでした。生き霊というからには、浄霊して光の世界(霊界)へ送り出すことはできないでしょうし、生き霊を飛ばしているC子さんの元へ帰ってもらうしかないだろうと思われたからです。
生き霊祓いという強制措置は、最後の手段であって、祓ったからといって事が収まるとは思えなかったからです。C子さんが生きているかぎり、また生き霊の憑依現象が再発することが当然起こりうると考えられるからです。
また、私は、こうした生き霊の語りを聞くうちに、怨念へのおぞましさより、生き霊の心情に共感し、あわれに思う気持ちが湧いてきたからです。好いた男に対する深情け、その裏返しとしての奪った女への憎悪という女心をいとおしく思いました。
「あなたのC子を恨む気持ちはよく理解できた。しかし、あなたは前世で、夫を奪った花魁である前世のA子を殺して恨みを晴らし、帳消しにしたはずではなかったか。それを現世でふたたび、A子を殺すという同じことを繰り返すとしたら、C子の魂が成長するために生まれ変わった甲斐がないではないか。このような理不尽なことを、神が許されるとは思われない。あなたが、生き霊として、これ以上A子に害を為すというなら、あなたに生き霊祓いをすることになる。そのようなことをすると,C子は衰弱すると聞いている。そのようなことはどうしても避けたい。今後A子は、C子に悪意の感情を向けないという約束で、どうか憑依を解いてC子の元へおだやかに帰ってもらえないだろうか。約束が守られないときには、またあなたが憑依することはやむをえないと思っている」
ざっと以上のような説得を繰り返したところ、生き霊はやっと帰ることを約束してくれました。
その後、人格交替のような憑依様現象は収まったという報告を受けています。
また、C子さんには衰弱の気配はなく、逆にA子さんがエネルギーの減退を感じているということでした。
A子さんによれば、彼女はエンパスと呼ばれる他者の自分に向けられる想念を敏感に感知してしまう体質らしく、それまでC子さんが自分に向けている理由不明の悪感情を感じ続けていたということでした。
ちなみに、A子さんは美形というにふさわしいクライアントでしたが、C子さんもA子さんに劣らぬ美形だということでした。
この奇怪なセッションをどう解釈するかはなかなか難解な問題です。
意識現象としての生き霊の顕現化は事実ですが、果たして生き霊の憑依か否かの真偽を客観的に検証することは不可能です。
私は最初、A子さんは、恋人B男君がC子さんに想いを寄せていたことを知っているので、無意識的に生き霊の役割を演じて、B男君のC子さんへの未練の有無を試していることを疑いました。
深層心理学的解釈をするのであれば、そのようなことになるでしょう。
しかし、生き霊のすさまじい憎悪と怨念を、B男君の前で吐露すれば、B男君のA子さんへの恋愛感情が萎えてしまうのではないかと思われます。そのような憑依体質の恋人をもつことをためらうような気がします。
また、役割演技をしていることを疑われるとしたら、そこまでして疑り深いA子さんに興ざめするかもしれません。
そのようなマイナス面を覚悟してまで、役割演技をする利得があるとは考えにくいのです。
こうした生き霊現象を、精神科医であれば、統合失調症、あるいは解離性同一性障害を疑うことはほぼ間違いないと思われます。
憑依様現象を何度も体験しているセッション当事者の私は、唯物論的解釈を停止して、ありのままの意識現象の事実として、生き霊の顕現化現象として、とりあえずは認めておくしかないだろうと思っています。
2013年3月12日火曜日
SAM前世療法の治癒構造とその検証事例
SAM前世療法においても、その事情は同様です。したがって、ここで述べることも、当然、暫定的な仮説でしかありません。
それでは、わたしが現時点でSAM前世療法の治癒構造をどうとらえているのか、実践者としての実感的考えを述べてみたいと思います。
SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが意識・潜在意識をつくり出している、というわたしあて霊信が告げた作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。
魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして顕現化した前世の人格とセラピストは対話し、クライアントの顕在意識(モニター意識)は、前世人格の訴えるその苦しみや悲しみを共体験しながら傾聴します。
こうした対話によって、前世人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、前世人格とつながっている現世のクライアントは、自分の症状について「ああ、そうだったのか!」という感情を伴った納得(洞察)へと至ります。
こうして、前世人格の癒しに伴ってクライアントの主訴も連動して改善が起こるのだ、というのが、SAM前世療法による治癒の基本原理だと考えています。
このことつまり、こうした治癒原理そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。
したがって、セラピストは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なセッションに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。
セラピストは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に意識体として生き続けている前世の人格と対面する、というわけです。
19世紀末まで生きたラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあり、死後も魂の表層に生きているからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。
こうした検証事実から、魂の表層には今も前世の人格が生きて存在している、という霊の告げた作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューと対話相手カルパナさんの次のようなネパール語会話です。
ラタラジュー人格: Tapai Nepali huncha?
(あなたはネパール人ですか?)
対話者カルパナ: ho, ma Nepali.
(はい、私はネパール人です)
ラタジュー人格: O. ma Nepali.
(ああ、私もネパール人です)
この会話のラタラジューと名乗る人格は、カルパナさんに対して、明らかに、ただ今、ここに現れて、問いかけています。
前世人格ラタラジューは、今も生きており、顕現化して現在進行形で問いかけているとしか考えられません。こうした事実から、里沙さんが、ラタラジューという前世の記憶を想起して語っているという説明は成り立たないのです。
それでは、前世人格が顕現中のクライアント自身の意識状態は、どうなっているのでしょうか。これは治癒構造の根本に関わる重要なポイントだと思われます。
既に紹介してきた里沙さんの手記からも分かるように、セッションの進行をモニターしているクライアントの意識は明瞭にあります。
つまり、前世人格の意識と現世人格のモニター意識が、併存状態のままでセッションが進行・展開していくということです。
クライアントの意識は、セラピストと前世人格の間で交わされる対話を聞いている第三者的オブザーバーの立場で、セッションに参加・同席していると理解してよいと思われます。
こうして、SAM前世療法においては、セラピスト対前世人格の間で交わされる対話、そこに同席しモニターしている現世人格の意識という「三者的構図」になっていると言えるでしょう。
カウンセラーの質問に対して発話するのは前世人格です。前世人格は、クライアントの肉体つまり、発声器官を用いて発話することになりますから、モニター意識からすると、勝手に、あるいは自動的に発話がされているという自覚を持つことになります。
それは前世人格が、悲嘆の場面に直面化したときに涙を流すという場合についても同様です。前世人格がクライアントの涙腺を用いて涙を流すことになりますから、モニター意識はそれを自分が流している涙であるという自覚を持てないことになるのです。
ただしここで重要なことは、モニター意識は、単なるオブザーバーではなく、前世人格の苦悩やそれが癒されていく感情を、まさに自分のことのようにまざまざと共感的に理解しているということです。
つまり、前世人格の意識とモニター意識は、完全な分離状態として併存しているわけではなく、分離していると同時に強い一体感も持っている、ということです。
魂の生まれ変わりという視点から見れば、現世のクライアントは前世の生まれ変わりの結果ですから、別人格とはいえ、両者の意識は切っても切れない絆で密接につながっているはずで、同一性の感覚があるのは当然でしょう。
こうして、クライアントのモニター意識が、前世人格の語る苦悩の感情と、語ることによってもたらされる癒しの感情を共体験し、その前世人格の苦悩が潜在意識として現世の自分の意識に流れ込んで心理的諸症状(ときには肉体的症状)を引き起こしていたということ、を洞察するに至ると、それらの症状が改善に向かう、というのが現時点でわたしの考えている暫定的な基本的治癒構造です。
たとえば、77歳の男性クライアントの主訴は、端からみれば些細と思われる不誠実な行為に対して、激しい怒りが沸騰し、加齢とともにそれがだんだん激しさを増している、という主訴によってセッションをおこないました。
そこ
で顕現化した前世人格は、信長と敵対していた摂津の20代の若い領主でした。信長に対抗するために同盟を結んでいた大名の裏切りにより謀殺されたという事情を語りました。信頼していた同盟者の裏切りを絶対許すことができない、謀殺されていかにも無念である、と苦悩を訴えました。
魂の表層にあって、この謀殺された領主の人格が現世のものにその怒りを訴え続けていたわけです。
この前世人格の影響を受けて、不誠実な行為に対する怒りの沸騰現象を起こしていることを洞察したクライアントは、セッション1ヶ月後にはそうした怒りの爆発を意識的に抑制できるようになった、との報告をセッションに同席した奥様より報告を受けています。
おもしろいのは、覚醒後このクライアントが、「摂津とはどのあたりですか?」と尋ねたことです。ご本人が語ったにもかかわらず、摂津という語の意味するところが分からないというのです。
このように、前世人格の影響によって起きている様々な意識現象の諸事実の累積は、かなりの事例数にのぼります。
不都合な心理的諸症状や性格特性は、前世人格の持つ体験が多かれ少なかれ影響をもたらしている、という多くのクライアントの示す意識現象の事実を無視することはできません。
こうしたことから、人格の形成には、遺伝と環境に加えて、前世人格の体験という第三の要因を考えるべきではないかという提案は、あながち的外れの誤りではないと思われます。
理由不明な、各種恐怖症、強迫観念、変わった能力、変わった性癖などは、深層心理学的な、精神分析的な、回りくどい唯物論による解釈を持ち出さなくとも、前世人格のそうしたことに関わる具体的状況を探り、それに照らして理解したほうが、すっきりと解釈できることは確かです。
そうして、節減の原理にもかなった説明だと思われます。
実際に、主訴に関わる前世人格の心的外傷を癒すことによって、少なからぬクライアントの諸症状の改善が連動して起こる事実は否定できません。
生まれ変わりを認めることは、人間の性格特性や特異行動を説明するうえで、従来の心理学上の様々な考え方で解釈するよりも、より説得力があるように思われます。
もちろん、現世の不都合な諸症状や特異能力すべてを、前世からの影響に還元することは、安易な、短絡的な一般化として戒めるべきでしょうが。
今後、多くの諸事例をさらに検証し、累積し、分析をしていけば、現行の人格形成の理論的枠組みに、前世人格による要因を加えるなどの検討を迫ることになるかもしれないと思われます。
生まれ変わりの科学的研究の泰斗、バージニア大学精神科教授イアン・スティーヴンソンが、自分の研究室を、「超心理学研究室」から「人格研究室」に改称したというのも、以上述べてきたような考え方によるものかも知れないと思っています。
彼が存命中であるのなら尋ねてみたいものです。
2013年3月4日月曜日
超ESP仮説によって応答型真性異言は説明可能か
もし、超ESP仮説によって応答型真性異言を説明するとすれば、「ラタラジューの事例」は、被験者里沙さんが、どういうわけか、催眠中に限り(覚醒時に里沙さんがESPを発揮した事例は皆無である)、無意識的に、万能の透視能力やテレパシー能力を、瞬時に発揮し、駆使した結果、瞬時にネパール語会話技能を取得し、ラタラジューという一昔前に私用された名前をはじめ、カトマンズ市民ですら知る者のほとんどいないナル村の名前、ナル村村民の食べ物、棲息するヒル、ヒマラヤを望む山上での火葬などの諸情報を、瞬時に取得し、架空の前世人格ラタラジューを演じた(ふりをした)ものだ、ということになります。つまり、里沙さんという生者の持っている「心の力」で、すべて説明可能であり、前世人格の顕現化現象、あるいは生まれ変わりなどは完全にフィクションであり、生まれ変わりの事実などはまったく「無い」ということになります。
さて、超ESP仮説の打破に挑んだのが、ヴァージニア大学精神科教授で、現代における超心理学の泰斗、そして「生まれ変わり研究」の先駆者として知られる故イアン・スティーヴンソンです。
スティーヴンソンが着目したのは、もし、ESPによって取得不可能なものであれば、それは超ESPであろうとも取得が不可能である、という事実でした。少し長くなりますが、彼の着目点を引用してみます。
デュカス(注 カート・ジョン・デュカス、哲学者)は、本来、霊媒は他人の持つあらゆる認知的情報をESPを介して入手する力を持っているかもしれないことを原則として認めているが、その情報を本来の所有者と同じように使うことはできないと考える。デュカスによれば、霊媒は、テレパシーを用いてラテン語学者からラテン語の知識をすべて引き出すこともあるかもしれないが、その知識をその学者の好みとか癖に合わせて使うことはできないのではないかという。以上のことからデュカスは次のように考える。もし霊媒が、本来持っているとされる以外の変わった技能を示したとすれば、それは何者かが死後生存を続けている証拠になるであろう。もしその技能が、ある特定の人物以外持つ者がない特殊なものであれば、その人物が死後も生存を続けている証拠となろう。・・・技能は訓練を通じて初めて身につくものである。たとえばダンスの踊り方とか外国語の話し方とか自転車の乗り方とかについて教えられても、そういう技能を素早く身につける役には立つかもしれないが、技能を身につけるうえで不可欠な練習は、依然として必要不可欠である。ポランニー(注 マイケル・ポランニー、科学哲学者)によれば、技能は本来、言葉によっては伝えられないものであり、そのため知ってはいるが言語化できない、言わば暗黙知の範疇に入るという。もし技能が、普通には言葉で伝えられないものであるとすれば、なおさらと言えないまでも、すくなくとも同程度には、ESPによっても伝えられないことになる。(スティーヴンソン「人間の死後生存の証拠に関する研究ー最近の研究を踏まえた歴史的展望」笠原敏雄編『死後生存の科学』PP.41-43)
ESPである透視・テレパシーなどによって、取得可能なのは、あくまで「情報」です。
そしていくら情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、「技能」の取得はできません。自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、たとえば言語も情報による伝達だけでは「会話」まではできないはずです。つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話能力」までは獲得することができないわけです。
したがって、ある人物が、前世の記憶を、その前世での言語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりが最も有力な説明仮説となる、とスティーヴンソンは考えたのです。
そして、前世記憶を語る中には、ESPによる「情報取得」では説明できない、学んだはずのない外国語での会話を実際に示す事例が、きわめて稀ですがいくつか報告されています。これを「真性異言」と呼びます。
「真性異言」(xenoglossy ゼノグロッシー)とは、フランスの生理学者で心霊研究協会の会長も務めたシャルル・リシェの造語で、本人が習ったことのない外国語を話す現象のことを言います。『新約聖書』などにも「異言」(glossolaria グロッソラリア)という現象が記述されていますが、「真性異言」は、その言語が特定の言語であることが確認されたものです。このうち、特定の文章や語句だけを繰り返すものを「朗唱型真性異言」、その言語の話者と意味のある会話ができるものを「応答型真性異言」と呼びます。
さて、真性異言のうち、「朗唱型真性異言」は、「情報」ですから超ESPによって取得が可能と言えます。
しかし、意味の通った会話ができる「応答性真性異言」は、そうではありません。言語を自由に話せるというのは、「技能」であり、いくら単語や文型の情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、応答的会話は可能にはなりません。自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、言語も情報による伝達だけでは技能である「会話」まではできないのです。つまり、「超ESP」によっても、「外国語の会話能力」は取得できないことが明白です。
こうして、ある人物が、前世の記憶を、その前世での外国語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりを最も有力な説明仮説として採用せざるをえないということになります。
生まれ変わりの証拠である応答型真性異言は、スティーヴンソンが20年にわたって世界中から収集し精査した2000余りの生まれ変わり事例の中で、わずか3例にすぎません。
「イェンセンの事例」と、「グレートヒェンの事例」、および「シャラーダの事例」です。
イェンセンとグレートヒェンの事例は、催眠中に偶発的に前世人格が出現したもので、前者はスウェーデン語、後者はドイツ語で、短い会話によるやりとりが記録されています。
シャラーダの事例は、覚醒時に前世人格が出現し、きわめて長い会話で流暢に受け答えし、歌まで歌っています(『前世の言葉を話す人々』春秋社)。
スティーヴンソンの報告以外に信頼できる事例として、数名の科学者によって調査され、覚醒時にスペイン語で流暢な長い会話をした「ルシアの事例」の調査報告があります(心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)。
つまり、世界中で信頼にあたいする応答型真性異言の事例は4例発見されており、そのうち2例が催眠下で起こった事例ということになります。
さて、こうしたスティーヴンソンの応答型真性異言研究(生まれ変わりの実証研究)は、きわめて綿密な調査と、公正で慎重な検証によって、他の領域の一流科学者たちにも説得力をもって認められつつあるようです。
たとえば、有名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかったはずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』P302)と述べています。
また、行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」(Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記)と述べています。
そして、技能である応答型真性異言こそが生まれ変わりの最有力な証拠だ、とするスティーヴンソンの研究を、科学的・実証的に反証し、論破した研究はいまだに提出されてはいないのです。
このこと、すなわち、応答型真性異言こそは、超ESP仮説を打破できたことが認められたということを意味します。ひいては、応答型真性異言こそ、生まれ変わりを証明する科学的証拠としてついに認められたことになります。
超ESPという途方もない万能の超能力者が発見されておらず、超ESPそのものの実証がない時点で、超ESP仮説によって会話技能である応答型真性異言という現象まで説明できるなどの主張は、生まれ変わりの事実を絶対に認めたくないがためのこじつけだと私には思えます。そして、超ESP仮説を持ち出して、ラタラジューの応答型真性異言を説明できるとすることのほうが、生まれ変わりを認めることより奇怪なことだと私には思われます。
2013年2月21日木曜日
タエとラタラジューは前世人格か憑依霊か?
この映画を視聴され「タエの事例」、「ラタラジューの事例」のフルセッションをご覧になった人は、そのセッション映像が、あらかじめ計画されたヤラセであるとか、被験者里沙さんの演技であるとか、巧妙に捏造されたものだと疑う人はまずいないだろうと思われます。
両セッションには、医学博士号を持つ医師、大学教授など社会的地位のある複数の見学者が
同席していますし、里沙さんへのポリグラフ検査で、彼女が事前に意図的にタエとラタラジューの語りに関する情報を入手した記憶は全くない、という鑑定結果が出ています。
さらに、「ラタラジューの事例」は、日本生命情報科学会での発表、およびイアン・スティーヴンソンの後継者であるバージニア大学ジム・タッカー教授に報告がされています。捏造したセッションであるなら、このような公言はできません。かならず見破られるに決まっているからです。
したがって、私は、タエ→ラタラジュー→里沙という順に、「魂が次々に肉体を換えて宿り続けている」ことが、検証の結果推定できうると考えています。里沙さんにおいては、魂の生まれ変わりが立証できた、と思っています。
ただし、このことは、タエとラタラジューが、魂表層に存在する「前世人格」であるという前提に基づくものであって、タエとラタラジューが里沙さんの前世人格の顕現化ではなく、異物である霊の憑依現象だとすれば、事情はまったく異なった様相を帯びることになります。
そして、タエとラタラジューは、里沙さんにとって異物である霊の憑依現象を疑った人がいたとしても、あながち間違いだとは断定できません。なぜなら、外からの観察する限りにおいては、そのようにも受け取れるからです。
顕現化したのは「前世人格」であるのか「憑依霊」であるのか、この区別は先行研究がないだけに難問と言えます。タエとラタラジューは、里沙さんの「前世の記憶」である、というワイス式前世療法の前提であれば、このような難問が生じる余地はありません。
「前世人格の顕現化」というこれまでにない作業仮説に基づくSAM前世療法につきまとう独自、固有の難問と言えるでしょう。
しかし、タエとラタラジューの事例が憑依現象だということになれば、SAM前世療法が前世を知るための療法として成立することを否定されてしまいます。
それでは、タエとラタラジューが魂表層の前世人格の顕現化現象である正当な根拠はどこにあるのでしょうか。このことについて整理して述べてみたいと思います。
①セッションの手続きとして、里沙さんを「魂の自覚状態」まで深め、そこに至ったところで、魂表層の「現世のもの」が顕現化した。現世のものに、タエおよびラタラジュー人格との交替を指示しその指示どおりタエ・ラタラジューが顕現化している。つまり、タエもラタラジューも、里沙さんの魂表層に存在しているからこそ、交替して顕現化したと考えるのが自然である。
そのことを示す、里沙さんが残してくれた「タエの事例」セッション中の内観(内省)の記録は、次のようなものである。
「扉を開けると、まぶしい光の世界が見え、そこにもう一人の私がおりました。前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光の塊ではありましたが、まちがいなく私でした。そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました。私の前世は、タエという名前の女性で、天明三年に起きた火山の噴火を鎮めるために人柱となって、一六歳で溺死するというものでした。目の前に迫る茶色い水の色や、「ドーン」という音もはっきり分かりました。水を飲む感覚、息が詰まり呼吸できない苦しさ、そして死ぬことへの恐怖、それは言葉では言い表すことのできない凄まじいものでした。私は、タエそのものとして死の恐怖を体験しました」
上記の記録で、里沙さんのモニターしている意識は、「前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光の塊ではありましたが、まちがいなく私でした。そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました」と語っている。
これは、「魂状態」に遡行し、タエが顕現化してくる過程を表現したものと解釈できる。そして、自分が何者なのかを知ったと述べている。さらに、「私は、タエそのものとして死の恐怖を体験した」と続けている。
もし、タエが異物としての憑依霊であるなら、このような自分とタエとの「同一性の感覚」が生じるとは考えにくい。
同様に、「ラタラジューの事例」セッション中の内観記録は次のように述べられている。
「ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの七八年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。
(中略)
カルパナ(セッション協力者)さんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。 そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました」
里沙さんは、上記においても「それほどまでラタラジューと一体
2013年2月11日月曜日
SAM前世療法で示される「生まれ変わり」の仕組み
ブログ管理者高森氏は、スピリチュアリズム霊学に基づいて5つの生まれ変わりの類型を提示しています。セッションの意識現象の事実から導き出した私の提唱する「生まれ変わり」の概念は、高森氏の提示するⅤ型(多面体説)ということになりそうですが、以下にまずその記事の問題となる部分を示し、次いで記事の問題点を指摘したいと思います。
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Ⅴ.多面体説
これに対して、一応は「私という個性的存在」を認めつつ、魂なり霊なり宇宙精神なりを強調する考え方もあります。
これは、魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す、というものです。
次の図は、時間軸に沿った変化として見てください。なんか雪玉ゴロゴロみたいな変な形になりましたが(笑い)。
魂であるXは、A、B、Cという現世存在を次々に生み出していきます。A、Bは死後も一応の個別性を持ちながら、魂Xとともにあります。
シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」というような説や、稲垣勝巳さんの「人格は魂の表層のもの」という説は、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。(ひょっとすると違うかもしれません。)
さて、この構図で問題になることは、まず、「個別の人格は生まれ変わりをしない」ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。
大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)
むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか。
もうひとつ問題になるのは、死後の「人格」の状態です。一番右の時点で、AとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。一般的に、死後存続説というものは、単に「残る」ということではなく、「活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。
AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。
つまり、このような捉え方(あくまでこの図のような捉え方ということ)は、「生まれ変わりの否定」であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。
(中略)
特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう。
(中略)
死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉と同様、
「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」
ということになっていると思われます。
霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」についてすら、合意ができていないようです。
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①さて、上の図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、私の概念では、○A・○B(それぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂)・○A・○B(それぞれの前世人格)全体を含めて「魂」と呼んでいます。
さらに言えば、○C(現世人格)も、魂の表層に存在しており、この現世人格と前世人格たちを含めて、「魂の表層」なのだということです。ちなみに、私の言う「魂」は、宗教的な意味は一切ありません。「肉体に入っており、死後肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・記憶を保って死後存続する意識体)」と同様の概念です。
②高森氏は、この多面体説では、「個別の人格は生まれ変わりをしない、ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか」という主張をしています。
一方で氏は、「霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、『何が生まれ変わるか』、『生まれ変わりの定義とは何か』についてすら、合意ができていないようです」とも述べています。
生まれ変わりの定義に合意がないのであるなら、この多面体説をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ることをもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、なんら支障はないと私は思います。端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。そして、セッションで現れる意識現象の事実は、このことを支持していますから、これまでのスピチュアル霊学一般の見解に反するでしょうが、現時点ではそうと認めるしかありません。
つまり、里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙、ということであり、このことをもって「生まれ変わり」をしていると私は呼んでいるということです。
多面体説が、「生まれ変わりの否定」になるという高森氏の主張は、氏の概念規定上の見解に過ぎないと思います。氏が、生まれ変わりの概念に合意がないことを認めているにもかかわらず、生まれ変わりの否定になる、という主張は極論であり自己矛盾ではないでしょうか。
③高森氏の「AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です」という主張は、セッションで現れる意識現象の事実に対する認識不足す。
前世人格AとBは、友愛を結びながらそれぞれの人生の知恵を分かち合い、それぞれ成長を続けている、というのがセッションで現れる意識現象の事実です。
けっして、「単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていない」わけではありません。そもそも、「魂にくっついている」という認識が誤りです。くっついているのではなく、魂の表層を構成しているもの、したがって、魂そのものの構成要素です。だからこそ、セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジューが顕現化するわけで、彼らが「単に眠っているように魂にくっついていたり」しているわけではないことを、セッション証拠映像を検討すれば誰もが納得されるでしょう。
④「特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう」という高森氏の指摘については、今後の課題です。
氏の「立証」が、科学的立証を意味するなら、氏の提示した生まれ変わりの5つの類型すべては観念論であり、すべて立証不能です。
私は、「魂の多面体仮説」の立証を、催眠を道具に用いて、セッションで確認できた「意識現象の事実」の累積から共通項を抽出する、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。それ以外に「意識」の研究は方法がないと思うからです。
そして、現時点で確認できていることは、AとBとCが同じXに属するものである、という意識現象の事実です。
魂の多面体仮説に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究する有用な道具だろうと思っています。
そして、これまでの探究において、多面体仮説を否定する意識現象の事実は現れていないということです。
『催眠・魂・生まれ変わりの真実』横浜上映会のお知らせ
ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』
・・・・・・SAM前世療法の実録ドキュメンタリー映画・・・・・・
日 時 3月10日(日) 13:30開場
14:00開演
16:00 第1部終演
16:00~16:30 休憩時間
16:30 第2部開演
18:30 全編終演
座 席 全席自由席
料 金
・当日券 1,000円
・前売券 800円 シークレイン3Fカウンターで2月9日(土曜日)より販売
・事前申し込み 800円
下記のurlにアクセスして、事前にお申し込みください。料金は当日のお支払いとなります。
お申込みフォーム
http://www.sam.hemisyncjapan.com/?page_id=38
なお、上映後、懇親会(予算3000円)を予定しておりますので、併せてご参加ください。
また懇親会のみの参加も可ですので、お申込みフォームの備考欄に懇親会のみ参加と入力願います。
【アクセス】
JR京浜東北線・鶴見線「鶴見」駅 東口から徒歩2分
京急本線「京急鶴見」駅 西口から徒歩2分
「シークレイン」のマークが目印です。
・施設名 横浜市鶴見区民文化センター サルビアホール(3F 音楽ホール)
・所在地 〒230-0051 横浜市鶴見区鶴見中央1-31-2 シークレイン内
・お問合せ先 TEL 045-511-5711 / FAX 045-511-5712
参照urlはhttp://salvia-hall.jp/?p=9352
2013年2月6日水曜日
名古屋上映会の紹介
誤解を避けるために申し添えますが、上映会を主催するのは私ではありません。志のある方が自らの裁量で企画し、おこなっていただいていることです。私は映画監修者として、会場費が赤字にならないよう応援する立場です。
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3月30日土曜日
場所
名古屋市東区上堅杉町1
ウィルあいち 視聴覚室
名城線市役所下車2番口より東へ徒歩7分
名古屋市政資料館前
「 良い映画を観る集い 」
映画鑑賞代金
各500円・2部通し1000円
10~12:00
ドキュメンタリー映画 『催眠・魂・生まれ変わりの真実』 (応答型真性異言「ラタラージュの事例」)
12~13:00 ランチ休憩
650円コーヒー別途300円
13~15:00 映画 『Theシフト』
15~15:30 主催者 伊藤泰史氏あいさつ
終了
以上の予定です
連絡先は、メールとFAXだけにしてあります。m(_ _)m。
詳しい場所は参加希望者の方に直接、こちらから地図等FAXかメールでご連絡させて頂きます。尚、鑑賞希望の皆様にはランチの予約も合わせて承っております。大変込み合う為に席を確保する為です。
連絡先
松本はるみ
haru-mi08427@softbank.ne.jp
FAX 052-852-3311
2013年2月5日火曜日
生まれ変わりについてやや難解な議論その2
「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」の記事ですが、私はこれについて再コメントしました。その紹介です。なんとややこしい議論であることよ、と思われる方は読むのを中断されるでしょう。が、スピリチュアリズム霊学を学ぶには格好の記事であることは確かです。
稲垣勝巳さんへの応答2013-02-04 03:54:15
前回の記事(人格とは何か)に関して稲垣勝巳さんからコメントをいただきましたので、別エントリとして応答を書いてみたいと思います(コメ欄は不自由なので)。
《セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。》 「『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、「魂」とその「表層」も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか。
「表層」というのを独立人格で現在も生きて活動しているとするのか、というところがポイントですね。(私のこれまでの理解では、過去世の人格は、「遺像」(非常に濃密な記憶・記録)のようなものとして保持されるという感じです。)
《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》
これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか。
別主体であるタエやラタラジューは、普段はどこで何をしているのでしょう。その「人格」は、外界・他者を認識し、何らかの意志を持って行為をしているのでしょうか。また、タエやラタラジューは、お互いや「(本体の)魂」や現世人格である里沙さんに同一性感覚を持っているのでしょうか。本当にタエやラタラジューは生まれ変わっているのでしょうか。
《ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。魂表層の前世人格が不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。》 《なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。》
こういう観点だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。
「他者」が「前世人格」であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。 「同じ魂の表層である」と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか。
もし、「現世の私」というものが、生まれ変わりにおいて、部分的解体を経ず、「次の生の人格」とは別の存在として、現世生活とは少し離れて存在・活動するのであれば、それは「類魂(同じグループの魂)」を見守ると言われてきた状態と、あまり違いはないことになるのかなと思います。(もっともその場合、私は類魂を見守りつつも、霊界で自分なりの活動をしていることになると思いますが。)
さらに懐疑論的に言えば、前世人格が「実在」であり、この世に「生まれ変わっている」という「証明」は可能でしょうか。(「守護霊」の証言は、科学的な証明の対象になるものでしょうか。)
《あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。》
私はスピリチュアリズムと心霊研究を探究してきて、もともとの立場としてはスピリチュアリストです。スピリチュアリズムの綱領と言われているもの(そんなものは正式にはありませんがw)は、「①人間の個性の死後存続、②霊との交信可能性」です。ですから、私は基本的には「私という人格が死後存続したり生まれ変わりしたりするか」という問題意識を持っています。で、長年の探究の蓄積によって、それは正しいだろうと思っています。ただし、それ以外の様態が並行的にあり得ないと言うつもりはありませんし、「私という人格ではない、別のものが死後存続する、生まれ変わる」という可能性(私や人格や魂という概念そのものの再編成?)も全否定するつもりはありません(カルマの伝搬というのもあるでしょうし)。しかし、それらはいわゆる「スピリチュアリズム」とは異なる立場だろうと思います。そしてもちろん、そちらが正しいと証明されれば、受け入れるつもりです。
《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》
それを否定するつもりもありませんし、否定する根拠もありません。ただ、従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、と感じているだけです。
そしてその違いが何によるのか、単に解釈や表現の違いなのか、そもそも違う現実がいくつもあるのか(霊統の違い?)、それともどこかに間違いがあるのか、そのあたりにとまどっている次第です。
タエやラタラジューの発現現象が、「独立的人格の憑依」だとした場合、どうも気になるのは、彼らが「完全な人格性」を欠いているように見えることです。
彼らは、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです。
霊の憑依において、霊媒が優秀であればという条件付きですが、出現した人格は、現に今生きている人格と同様、自己の状態への言及や、居合わせた人への働きかけや、意志や意見の表明をします。現存在としているわけです。(マイヤーズ霊の交差通信記録などはその典型です。)
けれども、記録をみる限り、タエやラタラジューは、どうもそういう「一人前の人格」には見えないのです。むしろ、通常の(現世内の)退行催眠で幼児に戻った人が、当時の自分を表現している時に近い印象を受けます。あるいは、こういう言い方はちょっと申し訳ないですが、死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する「未浄化霊」の語りに近い感じもします。
前にもどこかでちらりと言ったことがありますが、もし「私」が死後存続し、生まれ変わっても、こういう状態でしかないのだとしたら、とてもつらい感じがします。
これまでの「霊との交信」記録では、かなり多くの「死後の魂」にとって、「死は解放である」「霊界は肉体の束縛から逃れて、(その魂なりに)素晴らしい世界で活動する」ことが証言されています。未熟な魂といえども、自己省察や主体的活動をして生きています。古くは「ベールの彼方」から、最近はマイケル・ニュートンなどの報告まで、そうした証言はたくさんあります。
個人的な感想を言えば、それが真実であれば嬉しいと思いますし、真実であろうと思っていますし、スピリチュアリズムがもたらした希望はそこにこそあると思っています。
そういった観点から見ると、タエやラタラジューは、別人格主体ではなく、「人格記憶・記録の殻(統合的構造体)」であって、それが一時的に復元されたのではないか(霊界に行った魂が、新たに来た魂や、脱魂で訪れた魂に会う時、かつて現世で生きていた時の姿や人となりを纏うのと同様に)と推論せざるを得ないわけです。そうでないのなら、これは「特殊ケース」かなとも。
もちろん、稲垣さんには実践を通した知見というものがあるわけですから、それを無碍に否定したり、こちらの見解を押しつけたりするつもりはありません。
タエやラタラジューの事例は、唯物論に反駁するのに非常に強力な事例だと賞賛していますし、真摯な実践家としての稲垣さんの姿勢に敬意を抱いております。 ただ、私は、今のところスピリチュアリストの末裔として、あくまでも「私」の死後存続や霊界活動や生まれ変わりを問題にし続けたいですし、多くの事例から、その事実を主張したいと思っています。
ご質問への回答 (稲垣勝巳) 2013-02-04 23:58:28
①『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、魂とその表層も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか」というご質問については、私は、セッションで現れる意識現象の事実の累積から、そのように理解しています。
私あて霊信においても、魂は表層と中核(内層)の二重構造をしていると告げています。
ただし、魂の中核(内層)については不明です。
②《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》「これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか」というご質問について。
タエとラタラジューについての拙著の記述には、ご指摘のようにこのような内容はありません。
こうした情報は、それ以外のセッションで顕現化した諸前世人格への聴き取りの累積から確かめてきたことです。
その理由は、2007年1月の私あて霊信で通信霊がそのように告げてきたので、その真偽を確認するためです。
③ 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》 という私の見解については、諸セッションで現れる意識現象の事実は、そのように現れてくるから、そう考えるしかない、というトートロジーでお答えするしかありません。
敢えていえば、「臨床から得られた知」というほかありません。
ちなみに、こうした知見のもとは私あて霊信が告げています。
従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、というあなたの感想は私も全く同感でした。
そのことを通信霊に質したところ、
「尋ねるまでもない。あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そして、これまでのものたちに与えられるべきものが与えられただけだ。すべては神の計画のもとにおこなわれている。それはそうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
という回答とは言えない回答でした。
魂の二層構造仮説などは、およそ生身の人間である私の独創であるはずがないのです。
④ 「彼ら(タエとラタラジュー)は、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです・・・死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する『未浄化霊』の語りに近い感じもします」というご感想について。
そのように感じられるのはもっともでしょう。
両事例とも、2回のセッションしかしていませんから、さらにセッションを数回重ねれば、状況認識や他者への働きかけをすることが観察されるかもしれません。
しかし、セッションをおこなうことは、当の里沙さんの脊柱側湾症の悪化状態とタエとラタラジューの死に際の苦痛の再現にこれ以上耐えられないという訴えによって、控えるしかないのです。
ただ、彼らは意志の表明はしていると認められます。
里沙さんの肉体を借りて、そうした意志を表明しているときの里沙さんの苦しみや喜びの表情は、セッション映像を詳細に観察すれば納得できることです。
セッションをおこなった当事者の私からすれば、タエもラタラジューも、ただ今、ここに現れて、生き生きと対話している、という印象を持たざるをえませんでした。
里沙さんの前世記憶の想起ではない、と思わざるをえないのです。
⑤「こういう観点(自己内憑依現象という概念)だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。他者が前世人格であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。同じ魂の表層である、と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか」というご質問について。
自己内憑依している前世人格が、他者(異物としての憑依人格)ではないという証明は、少なくとも里沙さんにおいては、彼女の残しているセッション中の意識内容の内観記録を詳細に検討すれば、可能だと思っています。
一言で要約すれば「現世の自分と前世人格との同一性の感覚の有無」によって判断可能だということです。全くの他者(異物)に対して、自分とのつながりの感覚が持てるはずがないからです。
このことについての先行研究は皆無ですから、現時点ではこれしか回答のしようがありません。
もう一つは、同一の魂の表層に存在するタエとラタラジューの人格であるので、交替を要求すれば、交替が起こり、要求した人格が顕現化する現象の観察によって、同じ魂の表層に存在しているからこそ、連絡を取り合うことが可能だろうと推測できます。
ちなみに、私あて霊信でも、「それぞれの前世のものたちは友愛を結び、人生の知恵を分かち合っている」と告げています。
それ以外のご質問については、現時点では回答を持っていません。
分からないということが正直なところです。
私あて霊信の真偽を検証するために、SAM前世療法の実践を累積してたかだか5年、700事例を越えた時点の私の見解です。
今後も、私は諸文献の事例からではなく、まずは自らの手で確認した事例から、明らかになったことを主張したいと思っています。
2013年2月4日月曜日
生まれ変わりについてのやや難解な議論の紹介
彼はスピリチュアリズム霊学の立場からの問題提起でしょうし、それに対する私のコメントは、心理臨床実践者の立場での見解だと言えます。
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死後存続や生まれ変わりにおける「人格」についてのやや専門的な議論
前のブログの【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)において、真性異言を伴う「前世想起」とおぼしき事例――イアン・スティーヴンソンの「シャラーダの事例」と稲垣勝巳氏の「ラタラジューの事例」――を取り上げて、「憑霊か前世記憶か」という問題を論じ、さらに、「死後存続」や「生まれ変わり」において「何が主体か」という問いを出しました。
そして、「死後存続」や「生まれ変わり」の「主体」が科学的・実証的に定義できない以上、「死後存続」や「生まれ変わり」の科学的・実証的証明も不可能になるのではないかという、いささか極論的で驚愕的な提議もしてみました。
《死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。》
また、稲垣氏が、「ラタラジュー(やタエ)は現世人格とは別人格であり、それが憑依している」というような解釈をされていることに関して、いささかの疑問も提示しました。
そのあたりのところがすっきりしなかったので、少し続編を綴ってみることにします。
死後存続とか生まれ変わりは、当然、その主体があることを前提にしています。
それは一般的には「私」、もう少し詳しく言えば「私の人格」です。
もし「私」が「神という大きな火の小さな火花」であるとか、「大いなる宇宙エネルギーの一顕現化」であって、「私」の死後、その「火」とか「エネルギー」とかだけが脱け出して、存続や再生(再顕現化)を続けるのであるなら、それは「私」の存続や再生とは言えません。
同様に、稲垣氏の解釈にあるように、個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は「魂の表層のもの」であって、不滅の存続をするのは「魂」そのものだとするならば、個々の現世人格の「私」は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に「凍結」して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)
で、改めて、「死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならない」ということになると思います。そして、問題は、その「私の人格」とは何かということになります。
これは前のブログでちょっと書いた「私というものは、私の人格をも超えた存在だ」という提議と、矛盾するものではありません。私は必然的に、常に私の人格を帯びるものであるけれども、私の主体(真の核)はそれを超えたところにあるということになるかと思います。
主体としての「私」の人格とは何かということを、ごく一般的な見方から考えてみたいと思います。 それは、次のようなものになるかと思います。①固有の性格特性(複数)が持続的に保持されていること②「私」を主人公とした記憶(多数)を保有していること③②に伴う知識・技能を保有していること④外界を受容し、判断し、それに対して意志をもって行為すること⑤自己同一性感覚(主体感覚)があること(当然、責任主体も想定されていること)
①の性格特性というのは、たぶん非常に多様・多数のものです。優しい・厳しいといった漠然としたものから、特定のもの(権力、愛、真実などなど)への強い志向といったものまで、レベルも、大小も、方向性も、様々あるでしょう。そして、一般的に人は、自己の中に複数の性格特性を持っていて、それを発揮したり引っ込めたりもします。また、一部の特性が途中で消滅したり、新たな特性が加わったりすることも、ないとは言えないでしょう。
②は自己同一性の基礎となる記憶です。新生児はともかくとして、人間はこれをたくさん獲得していきます。もちろん、中には表面(意識)から消え去ってしまうものもありますし、あまりに細かくて心には意味のない情報は、内奥(無意識)からも消え去ってしまうかもしれません。
③は、経験によって蓄えられた客観的な知識(教養・常識・世界観)とか、言語能力や楽器演奏能力といった「特殊技能」(暗黙知)などです。
④は、生きている主体であるということです。内的な空想・妄想によってではなく、外界(他者)を客観的に認識・判断し、一定の「自由意志」「選択」によってさらに経験を増していくということです。また、主体であるということは、「自らの行為による結果は自らが引き受ける」という責任の所在も意味します。
⑤は、時間や累積的経験の全般にわたって「私」が主体として体験してきたという感覚、私は私であり、私に責任があるという感覚です。 これらの要素は、時たま、病気や事故などによって毀損されることがあります。神経症によって性格特性の一部だけが突出していびつになったり、記憶喪失になったり、認識や判断や意志が働かなくなったり、自己同一性感覚が部分的に破壊されたり(解離性自己同一性障害=多重人格)、と。 けれども、通常では、これらが人格の中心部分を形成していることは間違いないでしょう。
さて、こうした要素が、死後どうなるか。 唯物論の「帰無仮説」では、すべてなくなります。当然ですね。いや、原理主義的唯物論だと、こうした要素すら「ない」と言うかもしれません。自己同一性なんて、どうやって計測できるの? みたいな感じですね。まれに見られる「折衷的死後存続説」というのがあります。
これは、たとえば、②の「私の記憶」のみが、どこかに、何らかの形で保持される、という考え方です。「アカシック・レコード」なんていう概念がありますね(実際にあるらしいですが)。仏教でいうと「虚空蔵」ですか。 偉大な業績や作品を遺せば、そこに「私」が残り続ける、といった考え方は、けっこう広く見られます。西欧文明のエリートたちは、案外そういうことを目指しているかもしれません。個人名にやたらこだわりますし。 一部の宗教には、「悉皆成仏説」とでも言うべき死後説があります。それは、(極悪人を除いて?)すべての人は、死後に菩薩や天使のような存在になるというものです。
これにおいては、①②③に関係なく(むしろそれはさらっと捨て去られて)、「私」は「理想的人格」に変身します。④の行為主体性が継続されるだけで、⑤生前人格との自己同一性感覚も不明です。
まあ、ありがたい説ではありますが、「私(という人格」の死後存続とは言えないものです。 とある霊からのメッセージは、「死後、どんな低劣な人間も極悪人も一瞬のうちに変身して天使のようになるというのなら、それは死後存続とは言えないだろうに」と言っています。 そしてこういう考え方は、「生きるということの意味」も倫理も奪ってしまう、宗教にあらざるべき考え方と言えるでしょう。 結局、「死後存続説」とは、①の性格諸特性はほぼそのまま保持される②の体験記憶はほぼそのまま保持される(次第に細かい部分は失われることがあるにしても)③の知識・技能も同様④の行為主体性も保持される⑤生前人格との自己同一性感覚はある ということでなくてはならないと考えられます。 そして、スピリチュアリズムや心霊研究において蓄積されてきた「霊(肉体を去った個性)との交信」記録においては、おおむねこのことが立証されてきたわけです。(多くの人は認めないにしても。)
さて、こうして「存続」した「私という人格」が、再び現世に生まれ変わる時に、どうなるか。
これはとても難しい問題です。
①の性格特性はその主要な部分が保持されると思われます。ここがまったく変わってしまったら、「自己同一性」は保持されなくなるでしょう。
②の体験記憶は、ごく稀な例外を除いて、表面的には“全消去”されます。ただし、無意識?には保持されて、変性意識状態で想起されることもあります。
③の知識・技能については、稀に一部を保持・発揮することがあるようです(由来不明の恐怖症や持って生まれた特異才能など)。なお、ごく稀に、身体的特徴(先天性・後天性を問わず)を引き継ぐことがあるようです(スティーヴンソンによる“先天性刻印”の研究参照)。
④の行為主体性は当然保持されています。また、時に「カルマ」などと表現される「責任」主体性(課題や償いを引き受けること)もあるとされています。
⑤自己同一性感覚は、前世人格や中間世人格との間には存在しません(そもそも通常は知らない)。
つまり、体験記憶や知識・技能記憶は消去されているものの、性格特性(のかなりの部分)と責任主体性は持続している、ということになるかと思います。
ところで、こうして生まれ変わった「私」が、また死んだ後、どうなるか。複数回再生と死を経験した「私」は、どういう状態にあるか。ここに微妙な点があります。
可能性は二つでしょう。 Ⅰ 直前の生とのみ連続性がある Ⅱ 複数回の生との連続性がある
Ⅰはあまりに奇矯な考え方ですが、まだ未熟で現世の諸欲にとらわれているような魂ではあるのかもしれません。
Ⅱは、「生まれ変わりによって魂が成長していく」とする考え方と合致するものです。
複数回の生との連続性を持った場合、
①複数回の生において持った性格特性をすべて保持する
②細部は除いて、複数回の生の主要記憶を保持する
③②と同様
④長い時間・経験を越えて持続する主体性を獲得し、責任も受容する
⑤複数回の生の自己と同一性感覚を持つ こうなっていくのであれば、「私」は、輪廻転生を繰り返すことによって、より豊かに、大きく成長していくものだ(現世ではそれを自覚しないが)ということになるでしょう。
さて、ここで、前世想起(催眠下、ないしは偶発的変性意識状態による)とおぼしき事例での、きわめて「人格そのものに近い」出現について考えてみます。
特に「シャラーダの事例」や「ラタラジューの事例」のように真性異言を伴ったものに顕著ですが、前世人格とおぼしき人格が、今そこにいる人格のように、発言したりする場合です。これは、よくある前世退行催眠での、「こういうことがあった」という「記憶想起」とはかなり位相が異なるものです。 シャラーダやラタラジューを文字記録や映像記録で見た感じでは、
①の性格特性はある程度認められる(特にシャラーダの場合は非常に顕著)
②は部分的にかなり詳細に発現する
③は部分的に発現している(在世時の言語=真性異言)
④は?
⑤現世人格との同一性感覚は持っていない
④ですが、シャラーダは、その時点での外界や状況を客観的に認識し(自分がなぜここにいるのかはわからなかったようですが)、さらに自分の郷里に帰り、親戚たち(実はもういない)に会いたいといった要求をしたようです。ラタラジューは、「~したい」というような発言はないようです。
⑤に関して、現世人格が「出現人格」に対して同一性感覚を持っているかということですが、シャラーダの事例では、出現時に現世人格は不在(消失)となっており、事後に報告されても「それは私の前世だ」という感覚はなかったようです。ラタラジューの事例では、里沙は出現と同時かその直後に、同一性感覚を持ったような感じで報告されています。
つまり、シャラーダの事例では、この「人格」は、「死後存続」した人格が、そのままで、つまり「憑霊」して出現したと捉えることが自然だと思えます。
ラタラジューの場合は、どうでしょうか。現状認識や主体意志に乏しいということは、完全な人格ではないということ、つまり憑霊ではないということでしょうか。
一般的に「前世退行催眠」で前世記憶を想起した場合、一般人が普通に過去の記憶を甦らせているように語る場合もありますが、時に、非常に臨場感を伴って、あたかもその前世人格が、今そこでその体験をしているかのように――つまりかなり人格的な姿をして――、再現される場合もあります。 このような場合、そこに「人格」が出現していると見るべきなのでしょうか。それとも、それは諸記憶が総合されて、そこに霊的エネルギーが注入されることによって、「あたかも人格のように」出現していると見るべきなのでしょうか。
稲垣氏の提示しているように、「前世人格は別人格であり、それが憑霊している」という捉え方をすると、「私の人格」の「死後存続」や「生まれ変わり」という考え方とは衝突することになります。 ラタラジュー、タエ、里沙がそれぞれ「別人格」であるとすると、その間にある「生まれ変わり」とは何だということになるのでしょうか(どういう連続性があるのかということでもあるでしょう)。
また、ラタラジューやタエは、「死後に人格性を持って活動している」のでしょうか。彼らが死後、かなり不活性な状態で留まり続けるとしたら、里沙、あるいは私たちという現世人格も、死後、不活性な状態になるのでしょうか。
どうも私には、「ラタラジューやタエが、統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』であるなら、生まれ変わり説は成立するが、『別人格』であるのなら憑霊説になるのではないか」と思われてなりません。
それとも、「私という人格の死後存続や生まれ変わり」という概念が不適切だということになるのでしょうか。
そうすると、一体“何が”死後存続し、生まれ変わるのでしょうか。
言うまでもありませんが、こうした議論は、シャラーダの事例やラタラジューの事例の信憑性を否定しているものではありません。
それは明らかに「唯物論では説明できないもの、それに反駁するもの」であり、「人間の人格(少なくともその主要部分)が肉体の消滅後も、現行の物質的な手段に依らない何らかの形で保持される」(狭い意味での「死後存続」)ということを証明するものであることは疑いありません。
しかし、「死後存続」や「生まれ変わり」は、厳密に考えれば考えるほど、定義・立証が困難になってくるものであり、おそらく科学的・実証主義的な方法や語彙では、扱ったり論じたりすることがほぼ不可能なものではないかと思えるわけです。
こうした突っ込みすぎた議論は別にして、「死後の個人との交信」や「前世記憶の想起」などによって、死後存続や生まれ変わりが十分に信憑性を持ったものであることは、どれだけ強調してもし過ぎることはないでしょう。
しかし同時にその奥には、人間の知性ではなかなか理解し尽くすことのできないような謎があることも、また銘記しておくべきなのかもしれません。
またまたすっきりした議論になりませんでしたが、とりあえずはこのあたりで。
【コメント】
臨床家としての立場から (稲垣勝巳) 2013-02-03 23:13:29
心理臨床のひとつであるSAM前世療法士としての私の立場は、観念より事実、理屈より実証へ向かわざるをえません。
主訴を抱えて生きづらくなっているクライアントを前にして、とりあえずの作業仮説を構築し、それにもとづくセッションを展開していかねば終結の道筋も立ちませんし終結へ至ることもできないわけです。
そうしたセッションで現れる意識現象の事実の累積によれば、「個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は魂の表層のものであって、不滅の存続をするのは魂そのものだとするならば、個々の現世人格の私は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に凍結して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)で、改めて、死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならないということになると思います」というあなたの見解には同意しかねます。
私の理解力が不足かもしれませんが。
セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。
そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。
ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。
こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。
魂表層の前世人格が、不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。実際、顕現化した前世人格は、そのように答えます。
なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。
あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。
私は、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。
ただし、私の見解は、霊学的知識を棚上げして、セッションの累積から手探りで仕入れたものですから、現時点の「とりあえずの見解」であることをお断りしておきます。
2013年2月1日金曜日
上映に関して起きているちょっと面白い現象
そして、ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』DVDを里沙さんから借りて、深夜に視聴中の彼女の二人の友人が、半端ではないラップ音が聞こえて恐怖に駆られたという報告や、20日の上映会で上映中にホット缶コーヒーの飲み口部分が膨張し次に凹むという超常現象の報告など、映画視聴中に気味の悪い超常現象が起こったという報告を立て続けに受けています。これは、何らかのメッセージかもしれない。
そして、一昨日のセッションで、神と私の守護霊団のメッセージを告げるために憑依したというクライアントの守護霊を名乗る存在の憑依現象が起きました。憑依霊が告げるには、今回上映会開催にあたり、霊的真理を急ぎ広めるようたびたび告げてきたが、それを実行に移してくれたことに神と我々は喜んでいる、ラップ音など超常現象はその祝福のしるしとして起こしている、という信じ難いメッセージを告げました。
視聴中のラップ音などは、私が神のタブーを犯しているという怒りの警告であり、今回映画の持つ霊障のメッセージかもしれないと内心案じていましたが、この憑依霊とおぼしき存在の告げたことは逆で、祝福のメッセージだと言うのです。
ちなみに、この40代女性クライアントは、今回映画については作られたことも、上映会のことも全く知らない、ということでした。不思議と言えば不思議な催眠中に起きた意識現象です。
そもそも、今回の映画上映の元をたどれば、2007年1月~2月に届いた私あて霊信(本ブログに公開)なのです。その中で、神の命を受けていると通信してきた守護霊団を名乗る存在が、私に教えた魂と生まれ変わりの仕組みを作業仮説にして創始したSAM前世療法によって発現した「タエの事例」と「ラタラジューの事例」のセッション映像を中心とした映画です。
この2007年の私あて霊信が、高級霊からの通信であるなら、そして低級霊によるまやかしでないのなら、今回映画の制作と上映は、これまでの経緯からして、霊的真理を急ぎ広めよ、という神と守護霊団側の意に沿ったもので、そのことに霊障などがあろうはずがない、と思っています。
この記事を読んでいる方の中には、映画を見ようと思っている方がおいででしょうから、上映に関して立て続けに報告されている気味悪い超常現象を知って知らんぷりはできないと思い、こうして記事にしたわけです。
映画視聴中の超常現象は、どうやら霊感の強い人が体験するようですが、超常現象なんぞ勘弁してよ、と思う人は見ないほうがよろしいかと。
もっとも、タブー破りの霊障があるとすれば、映画監修者の私が第一に被るべきですし、第二は映像編集者の伊藤泰史氏が被るはずでしょうが、今のところ、両人ともいたって元気にしています。
もし、霊障らしき災いが起こったときには、包み隠さず公開しますし善後策を講じます。
映画視聴に伴うラップ音などの超常現象が、霊的存在からの「警告」のメッセージなのか、「祝福」のメッセージなのか、今後のなりゆきを見守りたいと思います。
【追記】
私の教え子で、名古屋さかえクリニック末武信宏院長が上記記事を読んでfacebookに転載し、コメントを書いている最中(2月1日午前1時ころ)、突然天井のファンが回り始めたということです。そのことを、facebookに即座に書き込むと同時にファンは止まったという超常現象の報告がありました。「ラタラジューの事例」のセッション場所は、彼の院長室でしたし、応答型真性異言の共同研究者として、彼もこの映画には深く関与しています。医学博士として科学者を任じている彼が嘘をつくとは思えません。超常現象の起きたコメントとは、「では、私もおそろしい災いを被るのでしょうか」というものでした。
(2月1日午前1時30分記)
2013年1月30日水曜日
スティーヴンソンの前世療法批判
彼こそ、生まれ変わりを信仰レベルから科学的研究レベルへ引き寄せた先駆者であることに疑いの余地はありません。
残念なことに、彼は「ラタラジューの事例」が出る2年前に世を去りました。
スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究の業績は、日本でも春秋社から2冊、日本教文社から2冊翻訳出版されています。
しかし、4冊どれも学術本なので、読みづらく、スピリチュアル系を称する人たちからは敬遠されているようで、読んでいる人は少数派のようです。
通俗本として研究者から評価を受けているブライアン・ワイスの『前世療法』PHP、の圧倒的人気の陰に隠れて、陰がうすいという印象です。
もっとも、スピリチュアル系の人たちは、生まれ変わりは科学的証明など不要な当然の真実だと断言する人が多く、スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究などは無駄な悪あがきだと評価されている気がしないでもありません。おそらく、私のやっていることも同様に評価されているだろうと推測します。
さて、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わり研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法による生まれ変わり研究について、どのような見解を持っていたかを紹介します。
スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって意図的に探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうしてスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。
私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P7)
こうしたスティーヴンソンの批判の矛先が、ワイスやホイットンの前世療法に向けられているとは必ずしも言えないでしょうが、この批判がなされる同時期に、相次いで彼らの著作が公刊されていることも事実です。
スティーヴンソンの批判を私の立場で推測してみれば次のようなことになるでしょうか。
ワイスが『前世療法』PHP、で取り上げているキャサリンの事例でみる限り、前世記憶の信憑性の裏付けは、彼女が絶対知るはずのない三つの情報を語ったことにあるようです。
一つはワイスの父親のヘブライ名であるアブロムを言い当てたこと、もう一つはワイスの娘の名が彼女の祖父にちなんで命名されたこと、さらに一つは、生後間もなく死んだワイスの息子の死因である心臓の先天的異常を言い当てたことでした(同書P56)。
このことをもってワイスはキャサリンの語った前世の存在について、「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」(同書P61)と結んで確信しています。
しかし、この三つの事実をもって前世の存在を確信したとすれば、軽信に過ぎると思われます。
ワイスは、スティーヴンソンの著作や、デューク大学のESP(超感覚的知覚。テレパシーや透視など)研究に関する資料にも目を通したと語っています(同書P39)。
であるならば、キャサリンが超常能力(ESP)を発揮して、ワイスの脳内から三つの情報を引き出したかもしれないという仮説でも説明できることをなぜ検討しなかったのでしょうか。
そのことに触れていないことに疑問を持たざるをえません。
それ以外のキャサリンの語った前世の記憶は検証不可能なものばかりですし、マスター(「進化を遂げた精霊たち」)と呼ばれる存在を主語として語られたことについては科学的検証の俎上(そじょう)に乗せられるものではありません。
結局、ワイスの著作『前世療法』は、学問的に信頼の得られるきちんとした裏付けという観点からすれば、前世や死後存続の科学的検証に耐えられることはほとんど何も語っていないというのが私の出した結論です。
さらに同じく前世療法を扱ったホイットンの『輪廻転生』人文書院、はどうでしょうか。
ハロルドというクライアントがバイキングの前世に戻ったときに、ホイットンの求めに応じて書き記した22の語句を検証した結果、10語が事実バイキングの言語であったという記述(前掲書P211)については、前世や死後存続の状況証拠として採用できるように思われます。朗唱型真性異言であろうからです。
しかし、この事例についても、クライアントが超常能力(ESP)を発揮して書物等から情報を入手した可能性を疑うことができるわけで、そうした厳密な検討がされないままで、「状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はない」(前掲書P7)と述べていることには、抵抗を感じざるをえません。
結局、ワイスの著作にしてもホイットンの著作にしても、彼らの実施した前世療法の中で語られたクライアントの前世記憶の信憑性については、科学的実証性という観点からは懐疑的にならざるをえないというのが私の結論でした。
厳密な科学者であったスティーヴンソンも、おそらく私と同様の結論に至っていたから、超ESP仮説を無視した生まれ変わり実証の言説に苦々しい思いを抱いていたと推測できます。
スティーヴンソンは、生まれ変わりの科学的実証の前に立ちはだかっていた最後の壁、超ESP仮説打破に立ち向かって苦闘を続けた研究者であるからです。
前世記憶の真偽を追究するために、膨大な労力と綿密な検証作業を長年積み上げてきたスティーヴンソンにとって、催眠中に語られた前世の記憶を厳密な科学的検証にかけないまま、クライアントの症状改善を理由に、安易に認めてしまう前世療法が、苦々しく思えることは当然であろうと私には素直に共感できました。
ただし、彼は、催眠中に語られる前世の記憶をすべて無意味だとしているわけではありません。事例の中には、彼自身の検証の結果、通常の方法では入手できない情報が少数ながら存在することも認めています。彼のこうした見解に、科学者スティーヴンソンの柔軟な態度を感じ、共感できるものを感じました。
スティーヴンソンは、『前世を記憶する子どもたち2』で、「私は、自らの手で調べた応答型真性異言の2例が催眠中に起こったという事実を忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究を決して非難することができなくなった」と、『前世を記憶する子どもたち』の中で展開した前世療法への批判をいくぶん修正しています。
この2例の催眠中に起きた応答型真性異言こそ、スウェーデン人の男性前世人格「イェンセンの事例」とドイツ人少女の前世人格「グレートヒェンの事例」です。両事例ともアメリカ人女性が被験者で、それぞれ学んでいないことが検証されたスウェーデン語、ドイツ語で応答的会話をしたという事例です。
私の発表している「ラタラジューの事例」は、このスティーヴンソンの研究の延長線上に位置づいています。
おそらくこのブログを読んでくださっている方は、「生まれ変わりの凡百の言説より、たった一つの確実な証拠」を重んじる立場の人が多いだろうと推察します。
でなければ、超ESP仮説がどうのこうの、技能は暗黙知であるなど、厳密さを求めるわずらわしい議論にこだわる私の記事などにアクセスされるはずがないと思っています。
2013年1月29日火曜日
真性異言の検証と公にするむつかしさ
私は、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。
また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言を単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。
また、私の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例では、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
この事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。
こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学としての検証対象になりません。
さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は暗黙知と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。
しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
私の知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」です。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと思っています。
しかし、「ラタラジューの事例」の検証と公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。
①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。
②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。
③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。
④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。
⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。
⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。
⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。
⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。
⑨学会発表、出版、それにともなうTV出演の同意などを、本人、ご主人から得ること。
⑩TV出演によるいわれのない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。
ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの総費用がかかりました。
真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。科学的検証のために先立つものはお金なのです。
また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。
また、アンビリを視聴したご近所の口から、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセだという陰口が聞こえてきたということです。
また、アンビリ視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが不幸にさらされるようなことを予言しています。
これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。
「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公になることはなかったのです。
2013年1月25日金曜日
閑話休題その2
映画視聴中にラップ音を聞いた二人の友人に共通するのは、二人ともにかなり霊感の高いことだそうです。
私は、霊感にはまったくの不感症ですから、真夜中の視聴中せいぜい微かな風鈴の音らしいものを聞いたぐらいです。かわいらしいものです(笑)。
二つ目の話題は、映画に対する私の地元岐阜県可児市教委担当者の反応です。
本日、監督の伊藤泰史さんと可児市教委の映画後援をお願いするため、13時から90分間、二人の教委担当者と話し合いを持ちました。
私の本音は、市教委の後援など特に不要、ネットでPRすれば十分だと思っていましたが、市教委の後援を取り付けないと映画ポスターを公民館など公共施設での掲示を許可されないということで、伊藤氏の要請で私も市教委との後援取り付け交渉に出かけたということです。伊藤氏は今日で3回目の陳情でした。
後援を渋る市教委担当者の理由の概要は次のような内容でした。
映画の内容について、生まれ変わりの科学的証明をしようとしている映像で担当者個人としては驚くとともに納得できた。
しかし、世間一般の過半数が、生まれ変わりを信じていない現状で、市教委がこの映画に後援を認めることは、市教委として生まれ変わりを公式に認めたのだという誤解が生ずる。
生まれ変わりの事実を認めることは、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる。したがって、市教委として後援を許可することは時期尚早であり許可できない。八割くらいの人々が生まれ変わりを認めるときまで後援を待ったらどうか。
(ちなみに90分間のやりとりはICレコーダーに証拠として録音してあります)
八割の人々が生まれ変わりを認めている状況なら、この映画を制作し公開する意味も、私の生まれ変わり研究の意味もほとんどないわけで、まったくおはなしになりません。
こうした回答に透けて見えるのは、生まれ変わりを認めざるえない映画でも、少しでも後援許可への責任を問われる畏れがあるなら、後援はなんとしても避けたい、という姿勢です。
後援を出したあとの思わぬ災難はどうか勘弁してほしい、という本音です。
私は、20年前に可児市教委教育研究所の主任指導主事として2年間勤務している恩義もあり、行政官としての担当者の苦しい胸の内に十分共感できましたから、後援許可の再検討の約束を取りつけたところで交渉を打ち切りました。
再検討されても、後援はまず却下されるでしょう。
研究とは、素朴に言って、今まで誰も言わなかった新しいことを主張することだと思います。ライフワークとしてやるからには、今までの理論体系をゆるがすような新しいことを主張していきたいものだと思ってやってきました。
SAM前世療法による生まれ変わりの科学的証明の研究は、上に書いたことのささやかな実践です。
そして、現時点での集大成が今回制作した映画というわけです。
新しい主張は、必然的にそれまでの主張への批判とならざるをえません。
それまでの主張への疑問・問題意識が研究の原動力であるからです。
したがって、研究によって新しい主張ができるレベルまで至ったと判断し、主張を公にすることは、それまで主張されたことを公然と批判し反論することにほかなりません。
今回の映画は、魂・生まれ変わり・霊的存在を濃厚に示す映像証拠を提示し、証拠の事実をして語らしめる、という立場で制作してあります。
それは、唯物論に真っ向から対立する立場の明確な表明です。
そして、いかに唯物論に反する事実でも、事実の示すことは認めるしかありません。
また、生まれ変わりや霊的存在についての実証を示すことなく、それらについてのひたすら信仰を説く言説を業務独占してきた宗教者、霊能者と呼ばれる職業の業務独占領域への侵害になるかもしれません。
生まれ変わりは、信仰や信じるというレベルのことではなく、証拠をもって科学的事実レベルに引き寄せることができた、と宣言しているからです。
実際、ある宗教団体の信者の方、霊能者を称する方から、私の証明しようとやっていることは神の禁じているタブーに対する反逆であり、神への冒涜であるから、必ずおそろしい報いを受けることになるぞ、と警告を受けています。
生まれ変わりを信仰レベルにとどめておくことが、業務独占には何かと都合がいいからでしょう。
神の怒りをかって神に罰せられるのであれば甘んじて受けるのがこの研究の宿命だと観念しますが、神の名を騙る狂信者に殺されるのはご免こうむりたいと思います。
私は本来死ぬことが何よりこわいと思い続けてきた軟弱者ですから、狂信者から黙らんと殺すぞと脅迫されれば、きっと変節して主張を沈黙することになるでしょう。
プラグマティズムの教育哲学者、J.デューイは、革命家に対する次のような批判をしています。
習慣の安定性と力とを知っている人は、急激な全面的な社会変化を企図したり、あるいは予言したりすることをためらうであろう。社会革命は、外的な諸習慣や、法律上、政治上の諸制度については突如たる深い変更を生ぜしめるかもしれない。しかし、これらの制度の背後にある諸習慣、また客観的諸条件によって否応なしに形作られてきた諸習慣、すなわち思想と感情の諸習慣は、必ずしも容易に変化されないものである。
人間生活のうちにある遅れ(lag)の力は巨大である。
デューイの言う社会革命とはマルクス主義による暴力的社会革命を指しているのですが、私の今回の映画も、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる、と言った市教委担当者から見れば革命的な映画ということかもしれません。
そういう評価を受けたことは素直にうれしく思いますが、この映画によって、唯物論思想とそれによる感情の諸習慣は、デューイの指摘にあるように容易に変化するものとは思われません。
焦らず、倦まず、弛まず、怯まず、生まれ変わりの事実を提示していきたいと思います。
2013年1月16日水曜日
閑話休題
といっても、生まれ変わりの探究において、そうそう目新しい話題提供ができるわけでもありません。
そして、昨日このサイトの訪問者数を確認して驚きました。
1月12日に6,070回のアクセス数がカウントされていたからです。
その後も1,000を越えるアクセスが今日まで3日間続いています。
普段は200~400アクセスで推移してきました。
この異変は、きっと多くの読者を獲得しておいでになる複数のブロガーが、私の記事を拡散してくださったからだと推測しています。それらブロガーの皆様には、この場を借りてあつくお礼申しあげます。
そしてこのお礼は、セッション中に憑依した私の守護霊を名乗る存在、降臨したと思われる神を名乗る存在からのお礼でもあります。それら存在が、昨年末より、「霊的真理を広める仕事を急げ」というメッセージを告げており、そのための手段として今回の映画制作を急ぎ、上映会に漕ぎつけたという事情があるからです。
メッセージを告げた神や霊的存在が実在しているとすれば、その実在を映像で示そうと企画した上映会案内記事を拡散していただいたことに、神および高級霊がお喜びにならないはずがないと思います。合掌。
さて、おもしろい話をひとつ。
昨日、今回のドキュメンタリー映画の主人公ともいえる里沙さんより奇妙な電話がありました。
「『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会で、会場の照明が点らなかったりする超常現象が起きませんでしたか」という電話です。
なぜ、このような問い合わせ電話があったかの理由がおもしろい。
里沙さんには、検閲用映画DVDを渡してありましたが、彼女の友人夫婦にせがまれてそれを貸し出したそうです。
友人夫婦は、新築まもない自宅で、深夜におよぶ映画視聴をしました。ところが、前編「タエの事例」のセッション映像が始まったころから、窓ガラスがカタカタ鳴り始め、後編「ラタラジューの事例」に至って、カタカタ鳴る現象に加えて柱がギシギシ鳴り始め、友人夫婦は怖くなって、里沙さんに電話で報告してきたということです。新築の家で、このような奇妙な現象が起こるとは考えられない、この映画には霊的な何かがあるのではないか、という問い合わせだったそうです。
この話が本当であれば、おそらくポルターガイストと呼ばれている超常現象だと思われます。
そこで里沙さんは、上映会場でなにか異変があったかを尋ねて電話をしてきたというわけです。
幸か不幸か、1月6日の封切り会場では、そのような超常現象の報告は聞いていません。
もっとも私の知らないところで、会場トイレの照明が消えたり、トイレの水が流れなかったりする不思議現象があったかもしれません(笑)。
私は、この映画の字幕校正のために、深夜何度も視聴してきましたが、超常現象らしきことは何も起きていません。それらしいことといえば、真夜中に視聴中、風鈴の音のような涼やかな微かな音が断続的に聞こえたことはあります。真冬・真夜中の風鈴とは風流じゃのう、と思ったことを覚えています。そういえば、我が家の軒下には風鈴などがぶら下げてありません。空耳であったのかもしれません。
1月20日の上映会では、注意をはらって超常現象の有無を観察してみます。