2016年2月15日月曜日

「タエの事例」を評価していただいた書評の紹介

   SAM催眠学序説 その84

この書評は、HP「東京スピリチュアリズムラボラトリー」の記事として掲載されているものです。
HP名から分かるとおり筆者は、確信的スピリチュアリストと呼んで間違いない方でしょう。
したがって、スピリチュアリズムの観点に引き寄せた独特の書評になっていると思われます。

ただし私は『前世療法の探究』執筆の時点まで、「スピリチュアリズム」という用語すら知らない、唯物論側の人間でした。
SAM前世療法はまだ開発されておらず、霊的存在についてはまったく無知の状態でおこなったセッションで「タエの事例」が出現したというわけです。

「タエの事例」のセッション中に、実験的にタエの守護霊と思われる「偉大な存在者」の憑依実験をおこない、私は、そこで顕現化した「偉大な存在者」と25分間の直接対話をしました。

そして、執筆にあたって、この「偉大な存在者」をどう解釈するか、という難問に突き当たりました。
催眠学的解釈をすれば、被験者里沙さんが、セラピストである私の意図(要求)に無意識的に応えようとした結果ーこうした心理を「要求特性」といいますー「偉大な存在者」のふりをして役割演技をしたのだ、という解釈ができないわけではありません。

しかし、その後のポリグラフ検査で明らかになったように、里沙さんの知り得るはずのない情報を「偉大な存在者」が語っていることは明らかです。
催眠学的解釈では、この難問にどう考えても答えを出すことは出来ません。
あるいは、その他の臨床心理学的解釈によっても納得できる解釈を導き出すことは出来ません。
つまり、これまでの(現行の)唯物論的解釈を断念するしかないだろうと思われました。

こうして、初めて私はほとんど無関心であった「霊」の存在について、否応なしに向き合わざるをえないことになりました。

2006年5月に『前世療法の探究』を刊行し、翌2007年1月11日~2月14日の間、当時26歳の派遣社員であった読者M子さんを経由して(霊媒として)、私あて霊信が毎夜届くという超常現象が起こり、この霊信内容の真偽を検証する過程で、「SAM前世療法」が開発されていったといういきさつがあります。

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「前世記憶」の真偽を検証した日本初の試み
   ――稲垣勝巳『前世療法の探究』の紹
  



 著者は岐阜県の学校教頭で、長年生徒相談などで教育催眠に取り組んできた人のようです。プロの催眠療法士でも、催眠術師(?)でもないということが、逆に本書の内容の誠実さを高めるものかもしれません。
 まえがきに「本書の第二章で紹介する、『タエの事例』に遭遇し、『前世記憶の真偽』の問題に直面することになりました。……筆者が本書を世に問おうと 思った契機は、まさにこの不思議な事例との遭遇です」とあるように、本書の第一の眼目は、あるクライエントが想起した前世の詳細が、史実と高い符合を見せ た、ということにあります。
 「前世療法」自体については、すでに本編の「死後存続証明の新たな展開――臨死体験と前世療法」で、かなり詳しく論じていますのでそちらを参照していた だくことにして、ここでは、本書の第一眼目の紹介と、それに関連して、著者がほのめかしている、新たな展開の可能性について、述べることにします。

前世記憶の真偽

 前世療法は日本でも広く行なわれているようですが、当然のことながら、正統の心理療法と認められておらず(「前世」自体が唯物論に反します。中には「前 世イメージ療法」とか「前世物語療法」と呼び変えようとする「腰砕け」さんもいるようです)、そのため、民間「催眠治療師」などによるものが多く、その全 体像は把握できないようです。またそのような事情から、学会報告や学会誌論文などもほとんどありません。この主題に関連する著書を刊行しているのは、「生 きがい論」の提唱者で経営学者の(つまり実践家でも専門研究者でもない)飯田史彦氏、そして脳外科・心療内科医の経歴を持ち、自ら前世療法を実践している 奥山輝実氏らがいますが、いずれも、前世記憶の真実性や、死後存続の問題に関して、態度保留(個人的には信じているのでしょうが)という立場を取っている と思われます。従って、前世記憶の“真偽”を論じた本は、著者が言うとおり、日本初と言えるでしょう。

 「タエの事例」は、脊柱側彎症を患っている40代の女性が、著者の前世遡行催眠によって、天明3年(1783年)の浅間山大噴火で、「人柱」となって死 んだ少女「タエ」の記憶を甦らせた、というものです。このセッションは、逐語記録されていて、きわめて迫真力のあるものとなっています。
 クライエントの想起によると、「タエ」は、群馬県渋川村(現・渋川市)で、孤児として名主「クロダキチエモン」によって育てられていましたが、同年の浅 間山噴火の際、吾妻川が火砕流によって堰き止められ、直後に大洪水が襲ってくる恐れがあったために、「龍神様へのお供え」として、川の橋に縛りつけられ、 濁流に呑まれて死亡しました。
 これに関連する様々な叙述(中には「タエ」ではなく、「偉大な存在者」と呼ばれる別人格らしきものからの情報も含まれます)が、当人は通常の方法で入手できない情報であり、それらは「約八割」の高率で、史実と符合したとされています。
 特にタエが、安永9年に「13歳」、天明3年に「16歳」と語っているのは(つまり安永10年=天明元年ということ)専門家でも記憶している類のもので はないこと、「地元では馬頭観音を“ばと様”と呼んでいること」はまず通常では知り得ないこと、など、記憶の真実性を傍証する強力な要素があります。
 ただし、「タエ」の実在の証拠、人身御供の伝承・記録などは見出されず、養父の名も姓が違っているということで、「決定的な証拠」は獲得できなかったようです。著者はこう述べています。

《ある程度信憑性のある証拠は数多く得ることはできても、誰もが疑問を持つ余地のない決定的、絶対的証拠というものは、どういうわけか出てこない、という のがこの種の「超常的現象」に付随する性格であるようです。「タエの事例」で言えば、タエを実在するものとして信じたい人には、信じるに足る十分な証拠と 映るでしょうし、信じたくない人には、否定するに十分な曖昧さが残るというわけです。/本事例のタエの実在および死後存続問題についても、最終的にどちら をとるかは、読者それぞれの判断によるしかないと言うほかありません。》

 決定的ではなかったにせよ、このような探究が日本でもなされたということは、非常に意義があるもののように思われます。前世療法では、「治ればOK」 「クライエントの主観でOK」ということになりがちで、それ以上の探究(「なぜ治るのか」も含めた)がなされることはほとんどないのが現状だからです。今 後、実践家たちの報告が増えていくことがあれば、真偽問題や治癒構造をめぐっての研究も生まれてくるでしょう。

中間世セラピー

 もうひとつ、本書には、著者独自の冒険的試みが記されています。
 それは「中間世」での「気づき」の重視と、そこでの「偉大な存在者」との直接対話です。
 前世療法は、基本的には、前世記憶を甦らせ、それによって、「現況の困難の理由」が開示されたり、「生命の不滅」や「生の意義」を主観的に納得させられ たりする、というものでした。しかし、ホイットン、ウィリストンを始め、療法家たちは、次第に「中間世」の問題に注目するようになりました。さらに、マイ ケル・ニュートンに到ると、前世の細々とした記憶よりも、中間世(つまりは霊界ということですが)における「人生の総括」や「次の人生の選択の意味」など に力点が置かれるようになっています(ニュートンに関しては、改めて詳述する予定です)。
 日本でも、奥山輝実氏は中間世での「光(高次の存在)」との対話によって、クライエントが人生の意義を納得するというケースをいくつか挙げています(飯 田史彦・奥山輝実『生きがいの催眠療法』、PHP研究所、2000年)。(ただし、この「高次の存在」について、同書はなんと、「どうやら、『光』の正体 は、『宇宙』そのものであるようです」と述べています。唖然。)
 本書の著者も、中間世での「偉大な存在者」との対話を行なっており、それによってクライエントの心理構成の変化が起こり、治癒がもたらされると述べてい ますが、著者はニュートンと同様、「偉大な存在者」を「一部の宗教思想で提示されているような『指導霊』ないし『守護霊』と呼ばれる存在」と採っているよ うに思われます(留保付きですが)。
 さらに興味深いのは、この「偉大な存在者」がクライエントに「憑依」して、施術者と直接対話するということが試みられていることです。
 これは、すっと読み飛ばしてしまうところですが、実はかなり重大な問題を含んでいると思えます。
 まず、「偉大な存在者」との対話は、クライエントの「記憶」なのか、という問題があります。つまり、クライエントは、かつてある生を生き、そして次の生 を生きたわけですが、その「中間」において「偉大な存在者」と出会っていた、そのやりとりを、クライエントは「思い出している」のか、ということです。
 奥山氏の挙げているセッション記録などを見ても、「その『光』に聞いてみてください、何と言っていますか」とか、「なぜそうなのか、聞いてみてくださ い」とか、現在進行形で、クライエントに質問をうながし、クライエントも、現在進行形で答えを受け取っているように見受けられます。それは、本書のセッ ションでも同様です。
 つまり、この場面は、「記憶の想起」ではなく、クライエントが、「偉大な存在者」と、セッション中に対話をしているということになるわけです。
 さらに、著者のセッションでは、この「偉大な存在者」が、クライエントに「憑依」し、施術者である著者と、クライエントの状況や前世記憶の真偽をめぐって、かなり長時間のやりとりを行なっています。これはどういうことなのでしょうか。
 加えて興味深いことは、この「憑依」の間のやりとりを、クライエントはほとんど記憶していないと報告されていることです。前世を想起している時は、いく ら前世人格に同一化しているように見えても、クライエントの意識は残っており、想起していた間の記憶も保たれています。つまり、「憑依」の間は、クライエ ントの意識は、「偉大な存在者」によって占められていたことになります。
 これら一連の現象に対して、著者は一つの仮説を立てています。

《考えうる一つの仮説としては、前提として、「魂」や「霊」と呼ばれるものの存在を認める立場からの解釈です。この立場に立てば、「魂状態」だと自覚して いる〔中間世の〕クライエントは、深い催眠状態の中で、当人の自覚どおり、肉体とは別個の存在である「魂」として顕現化した状態にある、と解釈することに なります。したがって、筆者は、まさしく当人の「魂」と面接したということになります。また、中間世で出会った「光」ないし「人間的イメージを纏った神的 な存在者」は、一部の宗教思想で提示されているような「指導霊」ないし「守護霊」と呼ばれる存在だと、考えることができるでしょう。そして、クライエント の「魂」は、そこで出会った「指導霊」「守護霊」からの啓示を受けて、症状の改善効果をもたらすような自己・世界解釈に至り、現世を生きる意味を獲得して いった、と考えることができると思われます。》

 これは、スピリチュアリズムから見れば、ごく自然な解釈だと言えるでしょう。そして、それが妥当であれば、前世療法における「中間世」状態とは、クライ エントが「霊界」とコンタクトして、「ガイド」との対話を行なっている状況であるということであり、そして、「ガイド」がクライエントに憑依して施術者と 語るのは、「霊」が「霊媒」を通して会席者と会話をするという「交霊会」と相同の構造となっていると解釈できるのではないでしょうか。(ただし、この際、 「ガイド」から直接もたらされる情報は限定されているようです。奥山氏のケースでは、クライエントへの言及はしても、その子供への言及は拒否する、という やりとりが報告されています。)
 このように考えると、「中間世療法」は、もはや「前世のトラウマやカルマを探り出して云々」といったものではなく、「霊交」によってクライエントの状況を改善させる、まったく新たな方法なのではないかと考えられるわけです。
 さらにこのことは、「霊界とのコンタクト」という、人類がいにしえから求めてきたものが、催眠ということを通じても、可能になるということを語っている のではないでしょうか。少なくとも、自らの「ガイド」とのコンタクトが可能になるのだとすれば、「中間世」催眠は、かなり大きな意義を含んでいると考えら れるのではないでしょうか。

「治癒構造」の解釈

 もう一つ、興味深いのは、「なぜ治るか」という問題です。前世療法に対して、「前世」自体を否定する立場からは、「抑圧したトラウマを前世イメージに仮 託して意識化する」(精神分析的立場)や、「不都合な自己像を前世イメージに仮託することで間接的なものにし、治癒イメージをつくる」(イメージ療法的立 場)、また「人生や世界全体を体系的に意味づける物語を獲得する」(物語療法的立場)などの解釈があります。いずれも「仮託」や「物語」といった概念で、 前世の実在性を回避するのです。しかし、なぜそんな迂回的で複雑な方法をわざわざ取るのかは、説明されません。
 ここで著者は、前世を「想定しうるもの」としつつ、前世療法によって、魂の死後存続および、過去世・現世・未来世という生の連続性への「主観的確信」 や、「中間世での、神的存在者からの啓示ないしメッセージによる、自己の現在を生き抜く意味と自己の使命への気づき」が得られることで、症状が改善するの ではないかと言います。そして、「こうした体験によって、最終的に『超越的視点の獲得』を可能にしていくのが前世療法であり、前世療法の改善効果はそこに 由来すると考えていいのではないでしょうか」と述べています。
 「治癒構造の解明」は、もう少し微細に解明する必要があるように思われますが、ともあれ、ここで言われている「超越的視点」とは、まさしくスピリチュア リズムの提示する霊的真理(霊魂不滅と永遠の成長)の確信に、つながるものでしょう(しかも、前世療法(中間世療法)では、そこに「守護霊ないし指導霊と の対話」という、実体験的要素が加わっているので、その確信はいっそう強いものになるのでしょう)。霊的真理の確信が、心理的症状を改善する、というわけ です。
 このように考えていけば、前世療法、特に中間世療法は、スピリチュアリズムそのものだと言うこともできるかもしれません。そしてそれは、「霊媒による交信」以上に、人々に霊的真理を直接感得させる、新たな方法になるのかもしれません。

 ともあれ、本書は、前世記憶の真偽問題、中間世問題といった重要な主題を問いかけてくれる、貴重な本です。この本を契機に、謎の多い前世療法に対して、一層の探究が進むことを期待したいと思います。

  *『前世療法の探究』=2006年5月、春秋社刊、2100円
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この書評が出てから早くも10年が経っています。

筆者が「謎の多い前世療法に対して、一層の探究が進むことを期待したいと思います」と期待を寄せてくださったにもかかわらず、その後に開発した「SAM前世療法」によって探究を進め、そこで開示されてきた、きわめて深い催眠状態(魂の自覚状態)における「心(意識)の謎」は、ますます深まるばかりです。


2016年2月5日金曜日

「ラタラジューの事例」を評価していただいた記事の紹介

   SAM催眠学序説 その83


我田引水のようで少し気が引けますが、応答型真性異言 「ラタラジューの事例」を科学的事実として正当に評価してくださった方のこれまでの記事を4点紹介します。

「その1」は、アンビリ放映後の『スピリチュアリズム・ブログ』の記事です。
「その2」~「その4」はアマゾン書評の記事です。

 記述者それぞれが、「生まれ変わりの科学的研究」に造詣が深く、この研究分野の著作を相当読み込んでおられるように思われます。

前世療法や生まれ変わりについての著作はかなりの数に上ります。
とりわけ、1996年にブライアン・ワイス『前世療法』PHP研究所、が出版されて以後、ワイス式前世療法による前世の記憶が語られた、といった諸著作は、日本でもかなり流行し、刊行され続けています。

ただし、その語られた前世の記憶の真偽を、歴史的事実と照合するなど、時間と労力をかけ、前世の存在可能性についての科学的検証を報告した著作は、私の知る限り日本では皆無です。

したがって、これらワイスをはじめ「前世本・生まれ変わり本」の諸著作は、生まれ変わりの専門的研究者からは「通俗書」としか評価されえず、生まれ変わりの「科学的研究書」としての扱いを受けることはありません。
なぜなら、語られた「前世の有無」について、綿密・慎重な科学的検証がなされておらず、したがって、反証可能性にひらかれた報告になっていないからです。(通俗書としてはそれでいいのですが。)

私としては、これまでに報告された通俗書の内容の二番煎じでは、生まれ変わりの科学的事実としての説得力は無く、わざわざ発表する意味はまったくない、これまでの報告とは一線を画した、反証可能性にひらかれた科学的・実証的内容であってこそ、発表する意味がある、という立場から、アンビリ出演も2度し、出版も2冊してきました。

さらに言えば、物質的基盤だけでこの世界を完全に理解可能だとする唯物論世界観は、実は憶測に過ぎず、非物質的(霊的)なものを基盤とする世界観をも想定せざるを得ないのではないかという主張を、科学的根拠(たった1事例に過ぎませんが)に基づいて示したかったということです。


こうした、私の本意を汲み取っていただけた評価を受けたことをたいへんうれしく思っています。

(注) 引用文のゴチック部分は私の入れたものです。

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その1 「アンビリバボー」放映のラタラジュー「真性異言」の意義


昨日、午後7時57分から、フジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」で、「前世のネパール語で会話したラタラジューの事例」が放送されました。

 催眠によって、記憶をどんどんさかのぼり、出生以前、そしてさらに前世(とおぼしきもの)へと戻ることがあります。その前世で起こった出来事を思い出すことで、現世の自分の病気や恐怖症などが治ることがあります。
 これが「前世療法」です。
 催眠を受けた人全員が前世にさかのぼれるわけではありません。その割合は施術者(かける人)によってまちまちです。20%という人もいれば、80%という人もいます。現在のところ、はっきりとした検証はされていません。

 一般の前世療法では、病気や恐怖症などが治れば、それでよしということになります。その前世が本当かどうかは問題にしません。クライエント(来談者、患 者)は、多くの場合、「あれは自分の前世だ」と感じるようで、「魂は死なないことを確信した」と言う人もいます。けれども、それ以上、「真実か否か」を突 き止めようとはしません。

 ごく一部の前世療法家は、クライエントが思い出したことが、どれほど歴史的事実と一致するのか、調査しました。そして、「これは歴史的事実で、しかもクライエントが知ることができない事柄だ」と認められるものも、稀にあることがわかりました。

 さて、ここであるクライエントが、催眠によって前世の記憶を甦らせたとします。
 今回の「ラタラジューの事例」で言えば、里沙さんというクライエントが、前世に戻るよう誘導され、ネパールに生まれ、シャハ王朝あるいはラナ家に兵士と して雇われ、自分と妻と子供の名前を言い、村にはヒルが多くいたことなどを話したとします。そしてそれらの事柄が歴史的に充分あり得ることだと明らかに なったとします。
 さらに、里沙さんが、こうした事実をどこでも学ばなかった(学んだ可能性がほぼない)とします。(セラピストで研究者の稲垣勝巳氏は、綿密で精力的な調査によって、「学んだ可能性」を否定しています。)
 そうすると、これはかなり信憑性の高い「前世の記憶」と言えます。

 しかし、これに反論する人がいます。
 「里沙さんは、透視といった超能力で、誰かの心の中にある記憶を読み取ったり、ネパールにある記録を透視したりして、ラタラジューという人物を創り上げたのだ」という反論です。
 これはかなりトンデモナイ反論ですけれども、一部の超能力者は、遠くにある物体の姿を見たり、人の心の状態を読み取ったりすることもあるので、「絶対あ り得ない」とは言えません。里沙さんは超能力などを発揮したことはないのですが、「催眠誘導によってたまたま発揮した」という反論もあり得ます(確かに催 眠状態で透視などの超能力が突然出現することはあります)。

 では、里沙さんが、ラタラジューが使っていたネパール語で、会話を始めたらどうでしょうか。
 会話能力は、透視や読心術では得ることができません。辞書や教科書を読み取ったとしても、それだけで話せるようにはならないわけです。
 つまり「透視などで創作した」という反論は成立しなくなります。
 そして、「前世記憶の信憑性」は非常に高くなるわけです。

 ただし、もう一つの仮説があります。それは「霊が憑依した」という説です。里沙さんは霊媒体質で、以前ネパールに生きたラタラジューという人が霊となっていて、それが突然憑依したのだ、という解釈です。
 これは難しい問題です。断定はできませんが、通常、「霊が憑依する」と、その間、憑依された側の人間の記憶は失われています。何が起こったか覚えていないのです。
 ラタラジューの事例では、里沙さんはネパール語を話している間の記憶を持っています。
 また、ラタラジューと自分の間に、親密感(同一性感覚)を感じていたと証言しています。
 ですから、おそらくこれは憑霊現象ではないと思われます。

 前世の記憶を甦らせ、かつその前世での言葉を話す、という事例はきわめて稀で、世界で5例ほどしか報告されていません。
 なぜこのようなことが起こるのか。それは謎です。
 イアン・スティーヴンソンが調査した「シャラーダの事例」では、インドのウッタラという女性が、突然前世紀に別の場所で生きたシャラーダという女性に人格変化し、学んだことのないベンガル語を話すということが報告されています。(『前世の言葉を話す人々』参照)
 この事例は、
  ・シャラーダ状態では、身のこなしなどの行動パターンが変わり、電話機というものを理解できないなど、ほぼ完全な人格変換が起こっている。
  ・シャラーダが話している間は現世人格は記憶がない。
  ・シャラーダは、自分が死んだことを自覚していない。
 といった理由から、「憑霊」が疑われます。

 ごく稀ですが、霊媒に霊が憑依した際、その霊が生きていた国の言葉で話す(書く)という現象が起こることも報告があります(ブラジルの霊媒ミラベリのケースなど)。
 どうも、一部の霊はそういうことができるようです。
 しかし、ラタラジューの事例では、憑霊現象とはどうしても判断できません。
 あくまで推察ですが、「単なる記憶を思い出す」のではなく、「前世の人格そのものが強力に前面に出てくる」場合、こういうことが起こりうるのかもしれません。
 そういう意味でも、今回の事例は、非常に貴重なものだと思います。そしてそれが映像になりテレビという形で広く知られることは、大いに意義があるものだと思います。
 
 なお、今回の事例の詳しい内容については、mixi の稲垣先生のコミュ「前世療法の探究」
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=2399316
 をご参照ください。

 もちろん、今回の事例だけで、「人間は生まれ変わる」ということが、誰もが認める形で証明されたわけではありません(何が立証されたら証明になるのかに 関して合意がないので)。「死後存続」(人間の人格の主要な部分は死の後も残る)を認めない人(唯物論者)からは、いろいろと反論もあると思います。「や らせだ!」「あるはずがない!」といった感情的な反論は別として、もし蓋然性の高い別の解釈が出されるのであれば、きちんと検討しなければならないでしょ う。

付記:この事例のクライエントである里沙さんは、かなり悲痛な前世を思い出したためにつらい思いをしたそうですが、それにもかかわらず、またご自身の重い 病気をいとわず、懐疑的な調査方法にもめげず、研究に協力されています。お金にも名声にも関係なく、むしろ白眼視される危険性さえあるのに、真実の探求に 奉仕される精神は、実に尊いものだと思います。

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 スピリチュアリズムの立場から、生まれ変わりをめぐるよくある疑問に、Q&A形式で。

 「生まれ変わりは本当にあるの?」
 「ある」と考えてよいと思います。複数の「霊からの通信」ははっきりあると言っていますし、イアン・スティーヴンソンの研究、そしてワイス、ホイット ン、ウィリストン、ニュートンといった前世療法家の報告を見ると、筆者は「ある」としか思えません(ただ、一部の「霊からの通信」では、「生まれ変わりの 問題は非常に複雑なので、人間の知性では理解できない」とも言われているので、断定を留保する必要はあるかもしれません)。

 「誰もが生まれ変わってきているの?」
 これはわかりません。「今回が初めて」という人がいるかもしれません(ニュートンの報告では、どうもいるようです)。

 「生まれ変わりは何回もするの?」
 これも断定的なことは言えません。里沙さんのケースでは、「今回が3回目」と言われています。前世療法の事例では、数回、十数回という証言もあります。 中には「100回以上」というようなことを主張する報告もありますが、これはちょっと変(通常の生まれ変わりとは違う見方をしている?)だと思われます。

 「何回か生まれ変わっている人は、誰もが前世の記憶を持っているの?」
 おそらく無意識の中に、前世の記憶はあるでしょう。そして、好き嫌いとか、やりたいこと、生き方の特色といったことに、かなり影響を及ぼしていると思わ れます。水が恐いという人が、前世記憶を甦らせたところ、前世で水死しており、それを知ってから恐怖症がなくなったという事例もあります。特定の国、文 化、芸術などへの愛着も、前世に関係している場合があるようです。

 「なぜ普通は前世の記憶を思い出せないの?」
 一部の霊からのメッセージは、「前世の記憶がないほうが、魂の成長にはよい」と言っています。人間の意識はまだもろくて弱いので、前世のつらい出来事を思い出すとバランスが崩れたり、前世のネガティブな思いや感情に引きずられてしまうから、ということのようです。

 「思い出せないなら、前世に何の意味があるの?」
 前世自体に何かの意味があるのではなく、人間の魂は、何度も地上に生まれ変わって成長をしていく、その当然の結果として、前世があり現世がある、という ことになります。前世でやり残したこと、魂としてまだ学ぶべきことがあれば、魂は地上に生まれ変わる。そしてその「課題」は、意識できなくとも、魂(無意 識)は知っている、ということです。

 「前世の記憶を思い出すことはよいことなの、悪いことなの?」
 通常、しいて前世の記憶を思い出すことは必要ないでしょう。興味本位で探って、悲惨な過去を思い出し、心のバランスが崩れるといった危険性もあるかもし れません。ただ、何らかの不都合、たとえば心身症とか恐怖症とか、どうにもならない苦境とかが生じた場合、その打開のために前世記憶を思い出すことが役立 つことはあるようですし、それはやむを得ないものだと思われます。真摯な霊的探究として前世探究を行なう人もいるようですが、それはまあ、自己責任という ことで(ちなみに、催眠でない方法もあります)。

 「生まれ変わりたくないから生まれ変わらないということはできるの?」
 魂は、霊的成長の最善の方法として、この地上に生まれてくることを「自ら選んで」いると言われています。
 そして、魂が充分に成長すれば、もはや地上の生で学ぶ必要がなくなり、この世には生まれ変わらなくなるようです。ただし、どうすれば「卒業」になるかは、はっきりしていません。
 (ちなみに、ブッダの宗教的探究は「どうやったらこの苦しい地上に生まれ変わらなくなれるか」というものだったと思われます。このブログの【仏教って何だろう】を参照)。
 今の意識では「生まれ変わりたくない」と思っていても、霊界に行っていろいろと回顧・反省し、その上で「また生まれ変わって学ぶ」ことを納得ずくで選ぶ魂も多いようです。
 「生まれ変わりたくないのなら、ちゃんとこの人生で学ぶべきことを学んでいきましょうね」というところでしょうか。

 なお、「生まれ変わり」や「死後存続」があるからと言って、「リセット」を望んで自殺することは大きな間違いです。自暴自棄、悲観、恨みなどを抱えて自殺すると、死後も長くその思いに囚われて苦しむことが多いとされています。

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 再録になりますが、「生まれ変わり」問題をめぐる良質と思われる図書を挙げておきます。★は特にお薦めの本です。
★イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち』日本教文社、1990年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世の言葉を語る人々』春秋社、1996年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『生まれ変わりの刻印』春秋社、1998年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち2』日本教文社、2005年
★グレン・ウィリストン+ジュディス・ジョンストン/飯田史彦訳『生きる意味の探究』徳間書店、1999年(編抄訳)
ジョエル・L・ホイットン他/片桐すみ子訳『輪廻転生――驚くべき現代の神話』人文書院、1989年
ブライアン・L・ワイス/山川紘矢他訳『前世療法』PHP文庫、1996年
ブライアン・L・ワイス/山川紘矢他訳『前世療法2』PHP文庫、1997年
★マイケル・ニュートン/澤西康史訳『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』VOICE、2000年
マイケル・ニュートン/三山一訳『死後の世界を知ると、人生は深く癒される』VOICE、2001年
★稲垣勝巳著『前世療法の探究』春秋社、2006年
★アラン・カーデック(カルデック)/桑原啓善訳『霊の書』(上下)潮文社、1986~7年
★グレース・クック/桑原啓善訳『ホワイト・イーグル霊言集』潮文社、1986年
ジェラルディーン・カミンズ/梅原伸太郎訳『不滅への道』春秋社、2000年


その2 スピリチュアルとは一線を画す科学的な特殊事例の検討


まず最初に、この著書に対して批判して悪くコメントをしている人は、全く著書を読んでおらず、内容の「科学的な事実」を無視し、揚げ足をとった挙句、更に捏造して大ウソの書評をして評価を下げようとしてるだけなので信じる必要はありません。

それは実際に私自身が購入してみて感じました。

この著書は、確実に安易なスピリチュアルな本とは一線を画します。

この著書は、世界でも過去4例ほどしかない極めて貴重な「真性異言(しんせいいげん)」の事例に対する科学的な事例検討です。

研究メンバーは、
日本のメンタルヘルス研究所 所長の稲垣勝巳氏(※1)
(※1)元公立小中学校教頭・臨床催眠研究者・成瀬悟策医博の推挙の学校心理士・日本教育催眠学会理事
中部大学 国際関係学部教授 大門正幸先生、
中部大学 国際関係学部准教授 岡本聡先生、
さかえクリニック院長 医学博士 末武信宏医師、
日本法医学鑑定センターの荒砂正名氏(※2)(あらすな・まさな)も協力しています。
(※2)前大阪府警科学捜査研究所長で、36年間に8000人を超える鑑定経験を持つ日本有数のポリグラフ検査に精通した専門家。
です。
更に、これは日本で故・河合隼雄氏に並ぶ、成瀬悟策医博の系列で大学・医師チームで研究が行われ、正統にアカデミックに論文発表されました。

「真性異言」とは学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象のことです。

著書内では、真性異言が退行催眠中に表出し、その世界初の映像と音声収録に成功した経緯と、最新の真性異言の事例であるネパール人のラタラジューを中心に検証と考察、及び逐語録まで詳細に解説してあります。

2010年8月5日、映像はフジテレビのアンビリバボーでゴールデンタイムに公開されました。

この著書が優れているのは、被験者に対して「虚偽記憶かどうか」の出来る限りの科学的検証も行われていることです。
これは前世療法で著名なエール大学医学部のブライアン・ワイス医学博士・精神科医でも検証し得なかったことです。

虚偽記憶とは、過去にどこかその情報を得たりしていないかということです。
よく前世療法(前世イメージ療法とも)の中で、退行催眠で見えるものは虚偽記憶(記憶の再合成)の可能性があると言われています。
リモートビューイング(超ESP)仮説でも、退行催眠中に見える虚偽記憶(本物ではない記憶)の説明はできます。退行催眠中に、透視能力を発揮してその情報を持ってきたとも言われます。

しかし、今回発見させたのは【会話】。つまり【技術】です。
退行催眠中に【技術】という「虚偽記憶では証明不可能な反例」が出たという事例です。

「記憶」は過去の経験(テレビや雑誌など)で合成され、虚偽記憶となる可能性を秘めているとしても、【言語(しかも会話)】は、発達上の反復による学習により習得できる”技術”のため、記憶や透視では証明できません。
よって虚偽記憶も超ESP仮説も反証できるのです。

(例えば、ネパール語を学んでいない人に、道端でいきなりネパール語でしゃべってくださいと言われても無理ですし、やったとしても偶然にも当たりませんし、習ってない人にバイオリンを弾いてくださいも無理です。)

更にその会話は「偶然、ネパール語に聞こえた。」という類のモノではなく、しっかりと応答型に会話し、言語学者・大門教授の分析により
【ネパール語で70パーセントも会話が成立していることが立証されています】。

それだけでなく
【一人称や三人称の変化、助動詞や尊敬語や、独自の数字まで正しい発音で会話をしていました】。

情 報を得ていなかったこと、ネパールと接触がなかったこと等は、被験者の同意の上、過去の経歴の中で関わった人物、在住した市町村の戸籍、旅行先、テレビや インターネットやラジオの放送履歴などに到るまで徹底的に調べ上げ、更にポリグラフ検査まで行って、確実に「接触がなかった」と科学検証されました。

基本的に科学では「全称命題」に対して、一つでも反証できるものがあれば、それは「特称命題」と呼ばれています。
例えば、世界中にいるほぼ全てのカラスを観察して「カラスはみんな黒」と全称命題を立てても、1匹でも茶色や白のカラスがいれば「特称命題」ということで、その命題は覆(くつがえ)るわけです。
科学実験が「不完全帰納法」であることは、日本人だけ知らないだけで、世界の常識です。
(数学のように誰がどこでやっても絶対答えが一つ出るのは完全帰納法[数学的帰納法]。これが神学や論理学や哲学に繋がります。対して、物理学や化学や生物学や心理学や医学などの自然科学や社会科学は、統計的で反例があれば覆るので不完全帰納法と言います。)

真性異言という「特称命題」の事例は、その特称の名のとおり、通常の全称命題(実験的再現性が高いもの)を覆すものなので、イアン・スティーブンソンなどの極少数の先行研究の事例を元に仮説を検証しなければなりません。

よって、そのイアンの「死後存続(生まれ変わり)」仮説をそのまま採用すれば、率直に特殊命題として「生まれ変わりが証明された」と言えるわけです。言葉の通りだと思います。現時点ではそうとしか表現のしようがありません。

その科学性は、先行研究の仮説の検討と、しっかりとした引用文献から見い出される論理的整合性に明確に依拠しています。

もし、この事実に反論しようとするならば、

1、ネパール語を学んでいないことの確実な検証済みの被験者に、ネパール語で会話実験して、被験者の里沙さん(ラタラジュー)レベルの会話が成立するか実験する。そこで会話が成立することの立証。
これで初めて、里沙さんはネパール語を学んでいないけれども話すことができた、という反論を認められます。
(ネパール語で会話ができるとする検証基準は、前世人格ラタラジューの会話レベルと同程度であるネパール語の、25~30の単語と、ネパール語の文法に則った主述の明確な会話がわずかでもできるということです。)

2、里沙さんがネパール語を学んでいない科学的検証方法として、生育歴の詳細な聞き込み調査、ポリグラフ検査による調査、本人およびご主人の証言書署名のほかに、科学的検証方法があるのであれば、その方法論の説明。

3、 生まれ変わり研究の第一人者であるイアン・スティーヴンソンの研究方法を忠実に追試するという方法論を採用されているので、「ラタラジューの事例」を生ま れ変わりの科学的証明ではないと否定するのなら、スティーヴンソンの3つの事例も全否定することになるので、その科学的反証をきちんとすること。

4、生まれ変わりが絶対にないと強弁するのなら、生まれ変わりが絶対ありえないという科学的証明をきちんとすること。
そもそも、まだ脳が意識を生み出している科学的証明はまだできていない。
意識を生み出す脳細胞を発見できると脳科学者が必死で探していますが見つかっていません。脳がすべて、脳が消滅すればすべて無に帰するというのは、科学的裏付けのない単なる憶測、思い込みに過ぎません。もし、意識を生み出す脳細胞が発見されたなら、私は生まれ変わりがあるという事実の誤りを認められます。脳細胞の消滅と同時に意識(生前の記憶)も消滅するわけで、生前の意識(記憶)が来世に保持され持ち越されるはずがないということになるからです。

とにかく1の実験をして検証をし、ネパール語を学習していなくても、里沙さん程度にネパール語会話ができたという立証(反証)がないところでは反論は根拠を欠いた単なる感情的駄弁です。
否定論者は、これらのことが「できる」と断定的に言ってるので、「じゃあお前がネパール語しゃべってみろ」「全くネパール語のできない人が、ネパール人に話 しかけられて20~30のネパール語単語を用い、ネパール語文法に則った会話が少しでもできそうでしょうか?」「しかも、タマン語訛りのあるネパール語発音ができると思いますか?」と返したくなります。

更に、
『「脳が心を作り出す」や「心が脳を作り出す」の立場は科学的に解決されたんですか?』
『ニュートラルネットの出力者の不在問題は解決されたんですか?』
という今だに解決されていない疑問に対する解決もされなくてはなりません。

既存科学(唯物論者)傾向な人は、このような特称事例を見受けると、受け入れがたい科学的な事実を目の当たりにして拒否反応を示す【心理的抵抗】が起こってしまい、自分の傲慢な感情を科学の唯物論だけで担保して押し通すような神経症的傾向が出てしまうかも知れません。

そもそも「スピリチュアル vs 科学」という神経症的な二分法思考で、「既存の科学=正義」で「未解明科学、それ以外は悪」であるという認識自体、間違っていると思います。

例えば、新しい病原菌が見つかった場合、それを「過去の既存の科学の事例にないから悪。そんなものは存在しない。」と言うのは、それこそ現実の事実を無視して思考停止した”非科学的な態度”です。

客観的に観察される事象に対して、先行研究を駆使して、より合理的に、かつ善悪などの主観を除いた「事実」に近づくように探求するのが本来の「科学」です

「科学が正義で、それ以外は悪なので抹消すべきだ」という考えは、
中 国共産党の”科学崇拝”によって、霊能者や占い師や風水師や、果てには少林寺拳法などの武道精神にいたるまで、「目に見えない世界を信じる人」を1億人近 く(歴史上最多の)大虐殺した文化大革命・天安門事件や、今も続くチベット仏教徒やウイグルイスラム教徒への迫害。ソ連の大粛清で歴史上最多の大虐殺。
日本でも、過激派左翼の共産主義(唯物論)→学生運動→集団リンチ・よど号強奪や浅間山荘事件(革マル派・日本赤軍)→その後、彼らが拠り所を求めて作ったオウム真理教…
このすでに危ないと言われ、30年前には崩壊して終わった流れと同じです。
(今は、この時代を生きた人が教育者などになっているので、俗に言う理科系にいけばいくほど、リベラルで唯物論的になるのは嘆かわしいことですが…)

「本来の純粋な科学的な視点」で、寛容に懐疑的で中立的な観点を持てる人には、この著書は適していると思います。

私は、この特殊事例が突破口となり、今後「死後存続仮説を支持する事例がある」「未習得言語を話す事例がある」という反証から、新たな科学の発展にも貢献すると感じます。

近い未来、これを元に「未習得言語を話すようになれる技術」などが開発されていく契機にもなるはずです。
ノーム・チョムスキーの言語生得説の生成文法(とりわけ中心の普遍文法)の認知言語学・情報(数学)理論、同じくこの系譜の脳科学(人工知能)の最新研究である心の内部関数(機能:ファンクショナル)として必ず注目されます。

仮に、真性異言に反証するような何かが分かったとしても、「ニューラルネットの出力者不在の問題」を脳科学は解決しなければ、「脳」と「心」の関係の根本問題は解決されないのです。
(でも今でさえ「心が脳(モノ=認識の世界)を作り出す」という後者が有力です。これ以降は量子力学の世界で研究されていくと思います。)

そして、この真性異言という事例の特殊命題は、今世紀以降、未来永劫、残り続けると思います。

その3 大変冷静で実証的な本です


大変冷静で、実証的な本です。
「生まれ変わり」をできる限り客観的に証明することを志し、工夫と努力を重ねて状況証拠を挙げていっておられます。

元々、この本の筆者は催眠療法を実践するも、「前世療法」に懐疑的な、むしろ嫌悪感を覚えていたような方であったことも興味深いところです。
「前世療法」のブライアン・L・ワイスや、「輪廻転生」のジョエル・ホイットンなどの流れより、「前世を記憶する子どもたち」のイアン・スティーブンソンのように、できる限り実証的に検証することにより重点を置く、という点で、かなりこれまでの「前世探求・療法本」と一線を画するような内容となっています。
「応答型真性異言」検証というアプローチが、この本での生まれ変わり証明方法の白眉ですが、
複数研究者チーム体制で、録音及び録画している環境下で、ネイティブネパール人の方との間で、被験者本人が知り得ない(使い得ない)と幾重にも証明されるネパール語を使って、たどたどしいながらも会話が進んでいく場面は、読んでいて、静かな興奮と感動を覚えました。

「生まれ変わり」の実証に対して、筆者はくどいほど、様々な角度からの反論を予測して、それらに対しての考察及び、反駁の証拠・論拠を挙げており、
恐らく、これらを読んでも、「生まれ変わりは非科学的で認めたくない」と思えば、頑迷に認めない方もおられるのでしょうが、そうでもなければ、一定程度「生まれ変わり」という事象に対して否定的見解を持っている方でも、この本に綴られている一つ一つの検証を読み込み、虚心坦懐、かつ論理的に検討するならば、「生まれ変わりというのはありそうだ。死によって無に帰するわけではないようだ」という結論(予測)に至るのではないか、と思われます。

ともあれ、これまでの多くの前世療法などの本とは一線を画する、生まれ変わりの事実をできる限り実証的に客観的証拠を追求しながら明らかにしようとした良著であると、私には感じられます。
手元に置いて良く吟味し、検証する価値のある本です。

これまで、主要な生まれ変わりに関する書物を読んできた身として、
このように実証的な、特に「真性応答型異言」というアプローチを持って世に問うた著者の努力にお礼を申し上げたい思いがわきます。
また、日本でこのような本が出たことを、誇らしく思います。



この書を偏った考えで批判されているレビューを読みましたが、批判的レビューを記載された方はまずこの書をしっかり読んでいないことが明確です。
この書に紹介されている研究チームは少なくとも科学者であり 客観的、普遍的、再現性を重視した科学的アプローチを試みられています。 現在のスピリチャルのアカデミックな考え方として 真性異言は魂の存在の根拠になりうると考えられています。
魂の存在や前世の存在を直接 科学的に実証できることは極めて困難でこれまでも残念ながら証明された事例はありません。
今回のこの書でも記載してあるように、真性異言の映像が医療機関内で、医師や科学者、大学教授立会いの下、厳粛に実験セッションが行われ捉えられたということが評価されてもよいかと思います。

そのセッションでの映像や録音された言語を 専門の言語学者が自然科学的に解析しアプローチすることが科学でなくて何でしょうか?
この書を批判するレビュアーはまず、ご自身が科学者でもなく科学的観点でのアプローチの手法すらご存じないようです。
批判は適切に行われるべきであり偏った自己主張は良書を駆逐してしまいます。
考えの相異ではなく、少し無理があるレビューも存在しうることを読者の皆さんは認識する必要があります。
科学者である私もこの書を推薦します。
少なくともこれまでのスピリチャルの書とは全く異なる実証主義に基づいた探究された 良書であると考えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり

出版不況の現状の中で、私のような、出版社と一切コネのない、医師とか大学教授などの公的肩書きのない、一介の催眠臨床実践者の探究した「持ち込み原稿」を、出版していただくことはきわめて困難です。
たいていは、損害保険のような「著者引き取り分」が設定され、最初に著者が発行部数の半数分を買い取る条件で出版してもらう、というのが出版業界の通例です。

「著者引き取り」条件なしで出版を引き受け、売れ筋とは評価できそうにない地味な拙著を世に出していただいた、「春秋社」編集者、「ナチュラルスピリット社」社長、両氏の使命感と恩恵には、この場を借りてあらためてあつくお礼申し上げたいと思います。

ちなみに、拙著『生まれ変わりが科学的に証明された!』で提示したような、生まれ変わりの具体的証拠にほとんど反論の余地がない、と思われる内容の本は、多くの読者からは嫌われ、売れない傾向が強い、という指摘を専門的研究者から受けています。
生まれ変わりを認めざるを得ない、というところまで証拠が示され、選択の余地のないところに追い詰められると、多くの読者には「心理的抵抗」が生じ、感情的反感によって嫌われるか、無視されるのだそうです。
嫌われようが無視されようが、生まれ変わりを濃厚に示す事例に遭遇したからには、その事実をきちんと活字にして後世に残し、再検証できるようにしておくことが責務であろう、というのが私の考えです。

なお、2006年、2010年の2度にわたって、フジTV番組『アンビリバボー』で放映されたのは、出版できた拙著が契機となって放映依頼があり、けっして私自身が番組に売り込んだわけではありません。
「生まれ変わり」という同じ番組テーマに、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の両事例を高く評価していただき、2度も放映していただいたアンビリの番組ディレクター氏はじめ制作スタッフのみなさんにも、お礼申し上げねばなりません。

さて、生まれ変わりの科学的事実を主張する応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、発表以来6年間、唯物論者や霊能者、懐疑主義者から放たれてきた攻撃の矢を跳ね返し、「鉄壁の砦」に立て籠もって孤軍奮闘(スティーヴンソンの3つの事例もありますが)を続けています。

これまでに、拙著の検証記述と、その裏付けとなっているyou-tubu公開の「ラタラジューの事例」の証拠映像に正対し、丁寧に検討し、具体的反証を挙げ、誠実に、冷静に、正当な反論をしてきた論者は現れておりません。
こうした手間のかかる反証を挙げる検証作業をせず、反証可能性から目を背け、実証の裏付けの無い、もっともらしい空疎な仮説を持ち出して、筋違いの反論を並べるだけの脆弱なものばかりです(「SAM催眠学序説 その80」を参照)。

私がきちんと証拠を示し、それに基づいて生まれ変わりを主張しているのですから、私の主張している生まれ変わりを否定したい人は、まずは私が提示している諸証拠の反証を具体的に挙げることが求められています。
私の提示している諸証拠のどこそこがおかしい、だからこれは生まれ変わりの証拠ではない、と具体的に反証を挙げて否定すべきです。
このようにして、生まれ変わり否定の「立証責任」を果たすことが、否定する側には求められていると考えるのが筋というものでしょう。
この当然すべきことを理解できていない反論のいかに多いことか。

生まれ変わりを主張する「ラタラジューの事例」が、反証可能性にひらかれているにもかかわらず、反証を挙げて否定できないとすれば、この事実は、すくなくとも現時点において、生まれ変わりが科学的事実として認められていることを意味します。

 したがって、「ラタラジューの事例」は、物質的基盤だけでこの世界を完全に理解可能だとする唯物論世界観の堤防に、すくなくとも、唯物論世界観だけがすべてで絶対的なものではないぞ、という「アリの一穴」を穿ち続けていると自負しています。

2016年1月26日火曜日

「未浄化霊」「インナーチャイルド」「多重人格」「生き霊」の共通性

    SAM催眠学序説 その82

未浄化霊という霊的存在について、下記、私あて第12霊信で、「この世に残る未成仏霊のような存在は、残留思念の集合体である」と告げています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世に残る「未成仏霊」のような存在は、残留思念の集合体である。
だが、それらは意志を持つようにとらえられる。
よって、魂と判断されがちだがそれらは魂とは異なるものである。
それらの持つ意志は意志ではない。
なぜ、それらが意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。
それを残すのは、その魂ではない。
それらを管理するのは神である。
それらは計画の一部である。
転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。
その詳細への説明は与えるものではない。
あなた方は、なぜそのような仕組みになっているのか答えを待つのではなく、自らが探究して得るべきなのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通信霊の告げている、未成仏霊は残留思念の集合体である、という説を採用すると、インナーチャイルド、多重人格にあらわれる副人格、生き霊といった現象も、「強烈な思念の集合体であり、それらは意志を持つ人格のように振る舞う」という仮説が成り立つのではないか、というのがここでのテーマです。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおいて、たしかに未浄化霊を名乗る霊的存在が顕現化する意識現象があらわれ、「残留思念の集合体」であるにもかかわらず、あたかも意志を持った一個の人格として振る舞うからです。

このことをさらに考察しますと、「憎悪・悲哀・嫉妬などの強烈な思念」、つまり「強烈な負の意識」が凝縮された集合体になると、それが一個の人格的存在を創出することがある、という仮説が成り立つと思われるのです。

この仮説を裏付けるセッションで確認してきた「意識現象の事実」を三つ挙げてみます。


1 インナーチャイルドは「記憶」ではなく、解離している子どもの人格的存在ではないか

魂の表層には「現世のもの」が位置付いています。
この「現世の者」は、現世に誕生して以後の現世での潜在意識・意識を作り出している者ということになります。
したがって、魂の表層の「現世の者」に、インナーチャイルドと呼ばれる「子どもの人格」が内在している、と考えることになります。
つまり、インナーチャイルドを、成長していく大人の人格から取り残され、解離している「傷ついている子どもの人格」そのものとして扱うわけです。
「大人の私」の人格が、子どもであったときに傷ついた記憶を想起して語る、という立場をとりません。

以上の仮説に基づき以下の手順で、SAM前世療法によるインナーチャイルドセラピイを実験的におこないました。
被験者は、32歳男性です。
彼は、自分に向けられた叱声はもちろん、他人が受けている叱声にも、幼児のように過剰に反応し、異常なほどの恐怖感と激しい動悸に襲 われるという症状を持っていました。
特に大声で叱声を浴びると、耐えられないほどの恐怖感と動悸に襲われると訴えました。
そこで、インナーチャイルドセラピイを試みたというわけです。

①魂遡行催眠まで誘導し、魂の自覚状態に至っていることを確認する。
②魂の表層の「現世の者」を呼び出し、顕現化させる。
③「現世の者」の内部に存在する、症状を作り出すことによって、苦しみ訴えている「子どもの私」の人格を呼び出す。
④「子どもの私」の人格が、どのような原因から傷つき、苦しんでいるのかを対話によって聞き出す。
⑤苦しみに共感的理解をしてやりながら、さらに癒しが必要だと訴えればヒーリングをおこなう。

その結果、呼び出しに応じて現れた被験者の「子どもの私」の人格は2歳でした。
子どもどうしで遊んでいるときに、遊び相手の子どもと大声でわめき ながらオモチャの奪い合いになり、そのオモチャで気を失うほど激しく殴られたということでした。
その傷つきの恐怖体験を持つ「子どもの私」の人格が、「大人の私」に、類似のことが起こる度に恐怖感と動悸を起こさせて、自分の傷つきを訴えているということでした。
この恐怖感の訴えは、結果として「大人の私」への危険な事態に対する警報となって、「大人の私」を守るはたらきをしていると思われます。
こうした対話をした後、この「子どもの私」にヒーリングをし、「大人の私」と一つになるように説得してセッションを終結しました。

もう1例は、30代女性の事例です。
このクライアントの主訴は、家庭外で昼食をとるときに決まって起こる腹痛の改善でした。
良好な深い催眠(記憶催眠)状態を確認し、主訴に関わるトラウマが生じた時点まで年齢退行をしてみました。
その結果、小学校3年生のときに生じたトラウマであることを確認しました。
このクライアントはSAM前世療法の体験者です。
そのため、どうやら記憶催眠から魂遡行状態に移行した時点で、トラウマを訴える小学校3年生の少女の人格が顕現化しました。
担任の女性教師に給食を全部食べることを強要され、もう一人やはり食べられない同級生の女の子と二人、毎日掃除の時間に、脇で学級の仲間が掃除を している埃の漂う教室で給食を食べさせられていた辛さを泣きながら訴えました。
自分は胃腸が弱く食が細いので、とても給食を残らず食べられないのだと訴え るのです。
そうした苦痛が1年間続いたのです。
さらに、担任から「いくら勉強ができても、給食が食べられない子は悪い子です」と決めつけられ、自分は悪い子なんだと、「小学校3年生の私」の人格は激しく泣きました。
その口調は、10歳の少女としか思われないものでした。
この少女は、給食が全部食べられないことで、「悪い子」だと全人格を否定されていると思い込んでいました。
こうして、少女の人格は、自分の辛さと苦しみを、昼食時の腹痛という症状によって「大人の私」に、訴えているというのです。
私は、10歳の少女人格に正対し、説得を続け、これからは「大人の私」に腹痛という形で訴えをしないことを約束してもらい、「大人の私」と一つになるように(人格を統合するように)了解を取り付けました。

以下はセッション後のクライアントの感想の一部です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回のイメージ療法(注:稲垣とは別の療法士によるもの)と昨日先生にして頂いたセッションを併せて考えてみますと、おそらく前回のイメージ療法は、単に浮かんで来た映像の表面のみを きれいに修飾したに過ぎなかったため、その内に潜んでいたインナーチャイルドの人格は、訴えを聞いてもらえず、不満や悲しみが未解消のまま存在し、「悪 さ」をしていたのではないかと思います。
そして、昨日のセッションでやっと訴えを聞いてもらえるチャンスが来たと、人格が表面に出て来たのではないかと考えました。
大人の自分から見れば既に解決済みの件だと思っていたため、セッション中に当時の幼い人格の気持ち(悲しみ)がそのまま現れ、後から考えるとても不思議な体験でした。
そして、先生がインナーチャイルドの人格と直にお話して共感・説得して下さったため、大きな安堵感と開放感につながりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり

2 多重人格であらわれる副人格は主人格の思念が創出した人格的存在ではないか


私は、顕現化する多重人格の各人格(副人格) は魂の表層に存在する「前世の者」が、主人格(現世の者)を人格崩壊から守るために、自動的に顕現化する現象ではないかという仮説を抱いていました。

検証結果の結論から言うと、私の仮説は、以下に報告するクライアントにおいては成り立ちませんでした。

このクライアントは、22歳会社員の男性です。
2年前から、強いストレスにさらされると、六つの人格が交互にあらわれ、その各人格顕現化中の記憶がなくなる、という症状に悩んでいるという主訴 でした。
ただし、勤務継続に支障が出るには至っていませんが、勤務先周囲は人格交替が起こるらしいことに気づいて見守ってくれているということでした。
両親の離婚後、20歳で再会した母親からのセッション依頼でおこなったセッションです。

幼くして両親離婚、父方に引き取られて育つ過程で精神的虐待を受けていたという生育歴がありました。
主治医からは「解離性同一性障害」の診断が下りているということでした。

日本では、解離性同一性障害の報告はきわめて少なく、私も初めて直面した事例です。

母親立ち会いのもとに慎重に催眠誘導をおこない、魂状態の自覚まで導くと、次から次へと六回の人格交替が起こり、副人格が現れました。

①正体不明の怒りと苦しみのうめき声を発する男性(ヒーリングして落ち着かせました)
②目に疾患を持つ幼い少女とそれを治療する眼科医(いつもペアで現れるとのこと)
③37歳の落ち着いた女性
④お茶目な若者
⑤落ち着いた老人
⑥副人格たちのリーダーであるというもの静かな青年

六つの人格は、それぞれ声音と話しぶりが異なり、それぞれ独自の個性を持つ人格を思わせました。
これら六つの副人格どうしは互いの存在を知っていますが、主人格は副人格についてまったく知らないという典型的な多重人格(DSM-ⅣーTRによる解離性同一性障害)の症状でした。

会話のできた②③④⑤⑥の副人格に、「あなたは魂の表層にいる前世のものではありませんか?」と尋ねると、回答は全員「ノー」でした。

「ではあなたは、どういう存在ですか?」と尋ねると、「この人(主人格)を守るためにいる」という回答です。
「この人は、あなたが勝手に現れるの で困っています。もうこの人は大丈夫ですから、この人と一つになって勝手に現れることをやめてくれませんか」と繰り返し説得しました。

②③④⑤の副人格は説得に応じ、「この人と一つになる(人格統合する)」と約束してくれましたが、⑥の副人格は、①の副人格が落ち着くまで面倒をみる必要があり、まだ一つになることは危険であるので約束できない、と拒否しました。

結局、①と⑥の副人格は、主人格との統合をどうしても拒否したので、ここで今回のセッションは終結としました。
予後を見守り、必要があれば再セッションすることにしました。

こうした、意識現象の事実から、このクライアントにおける副人格は、魂の表層の「現世の者」が自分を守るために作り出したフィクションの人格ではないか、と考えざるをえませんでした。
 
多重人格における、副人格=前世人格という仮説は成り立つ余地はなさそうです。
離婚後引き取られた父親の元で、父親からの耐えがたい精神的虐待から自分を守るために必死の思念を凝らしているうちに、その思念の凝縮した集合体が六つの副人格を創出し、それぞれが1個の人格的存在として振る舞うようになったのではないかと考えられます。 
そして、精神医学も同様の見解をとっていると思われます。


3 生き霊は強烈な憎悪や嫉妬の思念が創出した人格的存在ではないか

さて、ここで紹介する奇妙なセッションに登場する人物は次の3名です。

①会社員で20代半ばのクライアントA子さん。
②職場同僚でA子さんの恋人B男君。
③職場同僚で生き霊を飛ばしていると思われるC子さん。

クライアントA子さんの主訴は、恋人B男君と一緒にいるときに、突然、別人格のように変身して(憑依様の状態)、B男君を激しく罵ることの改善でした。
セッションには、同行したB男君が同席しました。

突然、別人格のように変身して憑依様の状態が、かなり頻繁に起こる、という心理現象にはいくつかの可能性が考えられます。

①統合失調症(精神分裂病)の症状である妄想
②解離性同一性障害(多重人格)の副人格の顕現化
③未浄化霊の憑依
④前世人格の顕現化
⑤生き霊の憑依
⑥無意識的理由によって別人格に変身する役割演技

事前のカウンセリングによって、①②など精神疾患の兆候のないことは確認できました。
ただし、精神疾患が隠れている可能性を疑って、催眠誘導には細心の注意を怠らないように慎重を期しておこないました。
催眠によって、潜在意識下に抑圧していたマイナス感情が噴出して(蓋開け効果)、コントロール不能になる畏れがあるからです。
A子さんの催眠感受性は良好で、異常の兆候はなく、魂の自覚状態まで順調に誘導できました。

しかし、魂状態の自覚に至って、顕現化した存在は、なんと、A子さんの職場の同僚で先輩C子さんの生き霊であると名乗ったのです。
A子さんとC子さんは、同僚以上の親しい人間関係はないということです。
憑依している生き霊は、同席しているB男君を名指しで次のように罵り始めました。
このとき、閉眼し催眠中であったA子さんは、薄目を開けてB男君を指さし、不気味とも思える表情をしていました。

「おまえ(B男)は、ほんとうはこいつ(A子)より、わたし(C子)のほうが綺麗だと思っているんだろう。な、なっ、ほんとうことを言えよ。私(C子)が綺麗だって言えよ」
「おまえ(B男)は、私(C子)を抱きたいと思っていたんだろう。ほんとうのことを言えよ」
「嘘つけ!ほんとうのことを言えよ。ほんとうは私(C子)を抱きたいと思ってたんだって言えよ!」
「私(C子)は、絶対、こいつ(A子)を許さないからな。おまえらの仲を必ず裂いてやるからな」
「私(C子)は、こいつ(A子)を、絶対自殺に追い込んでやるからな。殺すからな。絶対許さないからな」

生き霊を名乗る存在が顕現化したのも初めてのことですが、そうした存在が口頭で話すという現象も初めてのことで、私は驚くと同時に、どのようにしてこのセッションを終結したらよいのか混乱してしまいました。
解離性同一性障害のセッションと、インナーチャイルドのセッションから、「意識・想念」が、一個の人格としてふるまうような存在を作り出すらしいことは承知していましたから、このC子さんの生き霊に対しても、一個の人格として対話するしかないと腹を決めて、その後のセッションを展開しました。
まず、この生き霊が、なぜこのようなすさまじい憎悪と怨念をA子さんにぶつけてくるのか、その理由を問い質してみました。
生き霊が語る理由は、次のような事情でした。

前世で、A子さんは高級遊女である花魁(おいらん)であった。
そしてその花魁に入れあげて妻子ある男が家庭を放棄した。
その男の妻こそ現世のC子さんであった。
捨てられた妻(C子の前世)は、夫を迷わせ奪った花魁(A子の前世)を憎み、刺し殺して恨みを晴らした。
こうした前世の経緯をもつA子さんとC子さんが、ふたたび現世で再会し、しかも同じ職場の同僚として出会った。
しかも、同僚のB男君は、最初C子さんに好意を示して接近しておきながら、後から就職してきたA子さんに乗り換えて、恋愛関係を結んでいる。
C子さんにしてみれば、前世で夫を奪われ、今度は現世で もB男君を奪われ、恨み骨髄に徹しているということらしい。
こうして、C子さんの生き霊が、A子さんに憑依して、恨みを晴らそうということらしい。

ここまで分かったところで、私の思いは、この生き霊を説得して、おだやかにC子さんの元へ帰ってもらうことでした。
生き霊というからには、浄霊して光の世 界(霊界)へ送り出すことはできないでしょうし、生き霊を飛ばしているC子さんの元へ帰ってもらうしかないだろうと思われたからです。

生き霊祓いという強制措置は、最後の手段であって、祓ったからといって事が収まるとは思えなかったからです。
C子さんが生きているかぎり、また生き霊の憑依現象が再発することが当然起こりうると考えられるからです。
また、私は、こうした生き霊の語りを聞くうちに、怨念へのおぞましさより、生き霊の心情に共感し、あわれに思う気持ちが湧いてきたからです。
好いた男に対する深情け、その裏返しとしての奪った女への憎悪という女心をいとおしく思いました。

「あなたのC子を恨む気持ちはよく理解できた。しかし、あなたは前世で、夫を奪った花魁である前世のA子を殺して恨みを晴らし、帳消しにしたはずではな かったか。
それを現世でふたたび、A子を殺すという同じことを繰り返すとしたら、C子の魂が成長するために生まれ変わった甲斐がないではないか。
このよう な理不尽なことを、神が許されるとは思われない。
あなたが、生き霊として、これ以上A子に害を為すというなら、あなたに生き霊祓いをすることになる。
その ようなことをすると、C子は衰弱すると聞いている。
そのようなことはどうしても避けたい。
今後A子は、C子に悪意の感情を向けないという約束で、どうか憑依を解いてC子の元へおだやかに帰ってもらえないだろうか。
約束が守られないときには、またあなたが憑依することはやむをえないと思っている」

ざっと以上のような説得を繰り返したところ、生き霊はやっと帰ることを約束してくれました。
生き霊に対する私の、生き霊の心情に共感し、浮気者のB男君ではなくA子さんを憎悪するC子さんをあわれに思うとともに、こうした女心をいとおしくさえ思う気持ちが通じたのかもしれません。
その後、人格交替のような憑依様現象は収まったという報告を受けています。
また、C子さんには衰弱の気配はなく、逆にA子さんがエネルギーの減退を感じているということでした。
A子さんによれば、彼女はエンパスと呼ばれる他者の自分に向けられる思念を敏感に感知してしまう体質らしく、それまでC子さんが自分に向けている理由不明の悪感情を感じ続けていたということでした。


さて、「憎悪・悲哀・嫉妬などの強烈な思念」、つまり「強烈な負の意識」が凝縮された集合体になると、それが一個の人格的存在を創出することがある、という仮説の裏付け(状況証拠)である三つの事例を紹介しました。

どうやら、「凝縮され持続する強烈な負の意識はエネルギーの要素を持つらしい」ということになります。
強烈な負の意識が持続し凝縮すると、ある種のエネルギーを持ちうるようになり、 その凝縮されたエネルギー体は、切迫した条件下では人格としての属性を創出するようになることがある、と言えるかもしれません。

そして、インナーチャイルドや生き霊の例が示すように、そのような人格の属性を帯びた意識体は、時空の制限を超えることもできるように思われます。

このような仮説を唱えることは、唯物論者にとっては、妄想として片付けられるでしょうが、催眠臨床に携わる者としての、あらわれる「意識現象を状況証拠とした」実感的仮説です。

わずかな事例から以上のような仮説を唱えることは、「極端な一般化だ」という批判を受けることを覚悟のうえで、SAM前世療法の示す可能性のある仮説として提示しました。

イアン・スティーヴンソンは、意識現象について次のように述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
心的現象は、私たちがなじんでいる空間とも、物理学者が記述する物理空間とも異なる空間の中で起こるということである。・・・人間の肉体は物理的空間に、心は心理的空間にあるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


深度のきわめて深い催眠中にあらわれる心理的空間で生起する「意識現象」の謎は、途方もなく深遠であり、探究が尽きることがありません。

そもそも、われわれには、「意識があること」が言うまでもなく自明であるのに、その意識自体はどこで生み出されているのか、というもっとも根源的な謎が未だに分かっていないのです。


2016年1月11日月曜日

SAM前世療法であらわれる不思議な意識現象

   SAM催眠学序説 その81

SAM前世療法の作業仮説ー魂表層を構成している前世諸人格を呼び出すーという仮説によるセッションそのものが不思議な意識現象の連続なのですが、そうした意識現象のうちでも、とりわけ不思議な意識現象を報告したいと思います。

ただし、以下に報告する意識現象の真偽は検証のしようがありません。
同様の意識現象をあらわした複数のクライアントの報告している性格特性などの共通性、私あて霊信、他の定評ある霊信の告げている内容などから、「そのようである」という推測が可能だというレベルの報告です。

1 現世が魂として最初の人生の人がいるらしい

【第17霊信】

「あなたという存在も、(魂の)側面の者であり、すべての側面の者は友であると理解しなさい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記の「魂の側面」という語は、第12霊信では「魂の表層部分」という言い方をしています。
したがって、「側面」よりは「表層」という言い方のほうがイメージしやすいので、SAM前世療法の用語は「魂の表層」という言い方で統一しています。

そこで、霊信によれば、現世の「わたし」という存在を担う者が、魂の表層の一つとして位置付いている、と告げていることになります。

もし、前世がない人、つまり、生まれ変わりをしていない魂の持ち主がいるとすれば、その人の魂表層には「現世の者」のみが存在しているということになります。

そして、実際のセッションで、そういう前世の無いクライアントが十数人出現しています。
なぜこのことが分かったというと、「魂遡行催眠」というSAM前世療法独自の技法によって、魂状態の自覚までぎりぎりまで催眠を深め、魂状態の自覚に至っていることを確認し、目指す前世人格に何度呼び出しをかけても顕現化しないということが起こるからです。

そこで、「あなたは現世の者ですか?」と尋ねると「そうだ」と回答が返ってきます。
さらに、「あなた以外に魂表層には前世の者たちがいるはずですが分かりますか?」と尋ねると「いない」という回答、または「分からない」という回答が返ってきます。
 
さらに、「現世の者であるあなた以外に前世の者たちがいない(いるかどうか分からない)ということは、あなたは現世が最初の人生であって生まれ変わりをしたことがないのですか?」と尋ねると「そうです」、または「分からない」という回答が返ってきます。

こうした「現世の者」とのやりとりから、どうやら生まれ変わりを体験していない、つまり魂として最初の人生を送っている魂の持ち主が存在していることが分かってきたということです。

このことは、魂に生まれ変わりの最初があるのが当然だと考えれば、納得のできることだと言えそうです。

「タエの事例」で、霊界に上がったタエは、私の問いかけに次のように答えています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私::魂のあなたは、そこにずーっと居続けるのですか?

タエ:・・・入れ替わります。

私:「わたし」が入れ替わるとは、また誰かに生まれ変わるということですか?

タエ:はい。

私:それまでその世界にいるわけですか。で、その世界の居心地はどうですか?

タエ:気持ちいいー。

私:また生まれ変わりたいと思わないくらい、気持ちがいいのですか?


タエ:・・・分かりません。・・・生まれ変わる?

私:次に生まれ変わるのが、もうイヤというぐらい、居心地がいいのですか?

タエ:・・・分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このやりとりで見えてくるのは、タエの魂には「生まれ変わる」という意味が理解できないらしい、ということです。

タエの守護霊の告げたところによれば、被験者里沙さんの生まれ変わりの最初の人生は「天明、タエが初」だと告げています。

したがって、タエの魂には、前世がない、ということになります。
そのように解釈すれば、生まれ変わりをしていないタエの魂が「・・・分かりません。・・・生まれ変わる?」という回答は、もっとものことだと了解できます。

そして、このタエの回答は、セッションであらわれた前世を持たない十数人のクライアントの回答と、符合すると言ってよいと思われます。

そしてまた、この十数人のクライアントの共通した性格特性には、次のような符合が見られます。

① 幼い頃から非常に好奇心が強く、好奇心に駆られるとすぐ行動に移してしまう。
したがって、自分は落ち着きのない性格だという自己評価をしている。

②素直で、明るく、悪気がなく、いわゆる「いい人」だという評価を他者から受けている。

③一方で、ナイーブで傷つきやすく、職場の上司からの叱責、仲間からの裏切りなどで自信を失い、劣等感からうつ状態に陥る場合がある。

上記3点の共通した性格特性については、以下に紹介する、アラン・カルディックの『霊の書』に述べてある高級霊の告げたところを信ずるとすれば、納得できるのではないかと思われます。

カルディックが通信霊に対して、「魂の最初の状態はどのようなものですか?」と尋ねたところ、通信霊は「無知、無垢です」とだけ回答しています。

最初の人生を送っている魂の持ち主は、無知であるがゆえに好奇心が強く、無垢なるがゆえに素直で明るく 悪気がなく、一方で無垢なるがゆえに傷つきやく、うつ状態に陥りやすいということなのでしょう。

ちなみに、十数人のクライアントの八割は、特に不都合な症状はなく、好奇心に駆られSAM前世療法を体験したい、ということが動機であり、二割がうつ状態の改善という主訴でした。

八割、二割それぞれのクライアントは、「自分の魂は現世が最初の人生であり、前世はないのだ」という意識現象の事実を認めると、それぞれが、自分がそうした魂の持ち主であるがゆえに、これまでの種々の出来事に思い当たることがあり、その理由が納得できた、というセッション後の感想を述べておられます。


2 守護霊から人間に生まれ変わった人がいるらしい

【第9霊信】

今日は、私たちのように守護する存在について語ろう。
これは、あなたが学んだものとは異なるものである。
守護する者の中には大きく分けると、「生まれ変わりをしたことがある、かつては人として存在していた者」と「生まれ変わりをしたことがない者」がある。
これをM子は、より分けるために「守護霊」と「ガイド」として区別をつけていた。
彼女の中では「守護霊」とは生まれ変わりを経験した者であり、今後生まれ変わる者や生まれ変わりを必要としない者を含めたものである。
そして、「ガイド」とは生まれ変わりを必要としない者である。(中略)
エドガー・ケイシーは守護霊である。
だが、彼やあなた(稲垣)を守護する者は「ガイド」である。
今ここで語る私は、M子のガイドであり、人として生まれ変わることを選択していない。
守護霊もガイドも霊的存在であることに変わりはない。
本質的には同じものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記第9霊信に、「守護霊とは生まれ変わりを経験した者であり、今後生まれ変わる者や生まれ変わりを必要としない者を含めたものである」という不可解な文言があります。

どこが不可解かと言えば、守護霊とは、人としての生まれ変わりを経験し霊的成長進化を遂げた霊的存在であって、人としての生まれ変わりを卒業しており、再度人として生まれ変わりをすることがない存在であると考えられるからです。
にもかかわらず、守護霊の中には再度人として「今後生まれ変わる者」がいる、と告げていることが私には不可解でした。

霊信を文字通り受け取れば、現世の人の中には「前世で守護霊を経験している者」がいるということになります。

そして、SAM前世療法のセッションにおける意識現象の事実として、魂表層の前世の者たちの中から、守護霊を経験していたという者の顕現化することが、ごく稀に起きています。
そうしたクライアントは10人に満たない数でしかありません。

そして、守護霊の経験の前世を持つクライアントは、現世では高い社会的地位や豊かな財産を持つ、あるいは社会的に著名な人など特別な人ではなく、ごく普通の庶民と言ってよい人ばかりでした。
たとえば、学習塾の経営者である女性、地方紙の新聞記者である男性、鍼灸師である女性などでした。

これらクライアントに共通している特性は、何らかの形で人々のお役に立ちたいという志向が高いこと、霊的な事象への関心が深いこと、第三者からは思いやり深く親切な人という評価を受けていることでした。

そして、顕現化した前世で守護霊であった者に、「あなたは本来、人間に生まれ変わる必要がない存在のはずですが、あなたは自ら望んで人間へと生まれ変わったのですか?」と尋ねたところ、全員が、上位の高級霊あるいは神から、「霊的真理を地上の人間に広めよ」と指示され、敢えて人間へと再び生まれ変わった、という回答でした。

その中の一人の女性クライアントは、ハラハラと落涙しながら、「もう霊界へ戻りたい。生まれ変わってみて、人間世界の酷薄さ、醜さに疲れ果てた。けれども、使命を果たさないまま戻るわけにはいかない」と嘆いたことが強く印象に残っています。

スピリチュアリズムと呼ばれる思想では、イエス・キリストは霊格のきわめて高い魂の持ち主であり、生まれ変わりの必要のない存在であるが、地上の人間を救うために神からの命を受けて、貧しい庶民である大工の子として生まれ変わったとされています。
この話と、守護霊から巷の庶民へと生まれ変わった、というクライアントたちとは、自然の符合があるように思われます。

ちなみに、守護霊であった前世の者が顕現化した契機は、私の、「現世の者にもっとも強く影響力を及ぼしている前世の方は出てきてください」という暗示によっています。

なお、守護霊であった直後の生まれ変わりが現世である場合と、守護霊であったときから人間に生まれ変わって現世に至る間に、人間としての生まれ変わりをいくつかしている場合の両方の場合がありました。

また、魂表層の一つとしての守護霊であった者が、そのまま現世の者の守護霊を兼ねている場合と、それとは別個に現世の者を守護している守護霊が存在している場合の両方がありました。

いずれにせよ、守護霊の中には再度人として「今後生まれ変わる者」がいる、と霊信で告げていることが、SAM前世療法のセッションであらわれた「意識現象の事実」として確認できたということです。

ただし、こうした意識現象の事実が、「客観的事実」であるのか「クライアントの願望の投影されたフィクション」であるのかは検証不能ですから、判断留保としておくのが公正なあり方であろうと思います。
また、精神医学の立場から判断するかぎり、覚醒中のこれらのクライアントに精神疾患の傾向は見られず、精神的に安定した社会生活を送ることが出来ている人たちだと言えます


3 宇宙人の前世を持つ人がいるらしい

SAM前世療法にあらわれる意識現象の中には、地球外の星の住人つまり、宇宙人であった前世の者が顕現化する事例がめずらしくありません。

これまでに、そうした宇宙人として過ごした星の名前を列挙してみますと、プレアディス(昴)・シリウス、北斗七星のうちの一つ、ゼータ星、木星の月のうちの一つ、北極星、オリオン星座のうちの一つ、太陽などと答えています。

また、地球人が名前をつけていない星だ、と答える事例もあります。

そして、「太陽の住人である」と答えた宇宙人の前世人格に、「太陽は高熱の星であり、とても生物が住める環境ではないが、あなたはどのような状態で太陽で生きていたのか?」と尋ねてみたところ、「意識体として存在していた」という回答でした。
「意識体であったあなたには器としての肉体がないはずだが、死はどのような形でおとずれるのか?」とさらに尋ねると、「自分の意志で決める」ということでした。
このような宇宙人の前世人格が共通して答えていることは、「自分の住んだ星は地球よりはるかに生きやすい星であり、醜い争いや憎しみ合いなどのない、穏やかで平和な環境に恵まれた星であった」という回答でした。

しかし、そうした恵まれた環境の星での生まれ変わりを繰り返しても、霊的な成長進化の促進があまり望めないので、敢えて戦争の絶えたことのない過酷な環境である地球に生まれ変わることを志願し、地球人に生まれ変わった、ということでした。

興味深いことは、現世の直前が宇宙人の前世であったクライアントに、高い割合でうつ状態の主訴があることでした。
おそらく、地球人としての初めての生まれ変わりによる、過酷な地球の環境での生きづらさから生じるうつ状態であろうと思われます。
また、このことは、魂として最初の人生を送っている、生まれ変わり体験のない、無垢な魂を持つクライアントの中に、過酷な環境によって自信を失い、うつに陥る場合があることと符合しているように思われます。

それ以外の宇宙人の前世を持つクライアントたちの共通性が認められる点は、考え方や感受性が、普通の常識的な人たちから見ると、「どことなく変わっている、ズレがある」と言われていることでしょうか。
宇宙人と地球人の感性や価値観がまったく同じではなかろうと想像すれば、こうした評価を受けることは当然かもしれません。

ちなみに、里沙さんの守護霊も、「人間以外の宇宙人として生まれ変わっていることもある」と告げていますし、スピリチュアリズムでも、宇宙人としての生まれ変わりを認めています。

4 考察のまとめ

さて、SAM前世療法のセッションにあらわれる3点の不思議な意識現象を報告してきました。
魂の実在、生まれ変わりの実在を認める立場でこうした意識現象を考察してみますと、魂はどこまでも霊性の成長進化を志向するように出来ていること、そして、魂の成長進化のためには負荷をかける必要があること、が見えてくるのではないでしょうか。

このことは、生まれ変わりは、惰性で、たまたま偶然に、おこなわれるのではなく、霊性の成長進化という方向性、目的性があり、そのために、現世を生きるうえで、何らかの形で負荷を課せられ、あるいは自ら課して生まれ変わっている、と結論づけてよいように思われます。

この結論を受け入れるならば、今、自身に降りかかっている苦境、生きづらさをは、魂の霊性を成長進化させるために、現世に生まれ変わったうえでの当然の負荷だという了解が可能になるのではないでしょうか。
そして、この了解を受け入れ(目覚め)、負荷あることを当然として人生に立ち向かうとき、その人の霊性は、ワンステップの成長進化を遂げたのだ、という評価ができると思われます。
「霊的真理」とは、こうした魂の本来的方向性、本来的目的性に目覚め、負荷ある現世を生き抜くことが含意されているのではないでしょうか。
こうして、自分の魂の表層に存在している前世諸人格と現世人格が友愛を結び、統合されるとき、魂表層全体の霊的成長進化に貢献するための現世の生き方への覚醒が促されることになります。

私あて第15霊信は次のように告げています。

「あなた方は一日を通し、生まれ変わる。そして、日々進化していく。生と死の過程は日々おこなわれるものである。今日という一日が始まり、あなた方はその先へと進んで行く。その先に、あなたの魂が、そしてあなたとともにあなたの魂から生まれた多くの者が存在し、同じものを見つめていくのだと理解しなさい。それらの者たちの、協力を求めるのだ。友愛、それは自身の魂による者たちこそ真の友愛である。あなた方は、自らの魂の側面である者たちと友愛を築くのだ」


そしてまた、負荷ある人生は、そうあるものと思い定めて生きる苦しい人生の過程の瞬間瞬間に、peak experience(至高経験)がおとずれ、苦しい人生をその都度鼓舞してくれる喜びの恩恵が瞬間瞬間に贈られてくる、いうのが私の体験的実感です。


その典型を、魂の成長進化の促進のために脊柱側湾症という負荷を自ら課して現世に生まれてきた、という里沙さんの守護霊の語り、および里沙さんの実際の生き方の事実が、体現していると思われます。

こうして述べてきたことは、観念的・道徳的「人生論」ではなく、SAM前世療法セッションであらわれるクライアントの諸意識現象が示している「事実」にほかならないと考えています。


2015年12月29日火曜日

生まれ変わり否定の諸言説のまとめ

  SAM催眠学序説 その80

「SAM催眠学序説」も、2015年末をもって、今回の「その80」まで公開することができました。

ネット上に表明される文章は、ツイッターやフェイスブック、2チャンネルを見ても分かるとおり、「軽薄短小」が圧倒的な流れです。

本ブログのテーマ「生まれ変わりの実証的探究」は、実証性を重んじる、真面目な内容の性格上、おのずと「重厚長大」になりがちです。
また、そうでないと「実証的探究」の実証の中身が十分伝わらず、充実しません。

いずれにせよ、本ブログは反時代的な代物であることは管理人として重々承知しているところです。

そもそも、政治も企業社会も、「いまだけ、かねだけ、じぶんだけ」の風潮が主流の現代日本で、まだまだ自分の人生の先が長いと思っている人は、今、いかに必要なお金を稼ぐかが一番の関心事であるのは当然ですし、まずは明日を生きることに必死で、この先の日本や世界の行方、ましてや死後の行方などに真面目に目を向けるゆとりなどとんでもない、と思われるのが大方の実情だろうと思います。

だから、「生まれ変わりや死後の有無」を真面目に科学的に考えるなどは 、酔狂なヒマ人が勝手にやっとればよい、ということになるのはもっともなことだと思っています。
そして、原則的に私は、酒も賭け事もやらず「簡素で、自給的で、喜びを軸とする生活」を理想としているヒマ人であります。

したがって、本ブログ内容の需要はけっして高くはないということは開始当初から承知しています。
それでも、ブログ更新時には1日200近いアクセスがあり、そうでないときでも毎日100前後のアクセスがありますから、真面目な継続的読者のおいでになることは、ほんとうにうれしく思います。
この2015年1年間のご愛読にこころより深謝いたします。
ちなみに海外からのアクセスも1日30前後あり、2014年8月からの総アクセス数は5万を超えました。

人はいつか必ず死を迎える、この厳然たる事実を直視して、死への不安を抱いて今を生きることは重苦しいでしょうから、多くの人々は死の不安から目を背け、スポーツに熱狂したり、芸能界のスキャンダルやらを面白がったりしながら気晴らしに興じ、自分の死について正対し、真面目に考える重苦しさを先延ばしにして、あいまいにすることで、この生きにくい時代をやりくりしながら、なんとか日々を送っているのではなかろうか、というのが年末にも関わらずシコシコ書く時間のあるヒマ人、私の感想です。

しかし、死に直面化せざるを得ないときが、遅かれ早かれ人生のどこかで必ずやってきます。

死は無に帰ることなのか、自己は死ともに完全に消滅するのか、それとも死後はあるのか・・・。
これは、すでに生きる時間の折り返し点を間違いなく通過している私自身のきわめて切実な問いであります。


本ブログは、この重大かつ根本的な問いに、科学的な実証をもって答えの一端を見出そうとしている試みです。


そして、実証のともなわない、観念的な、宗教的言説、霊能者的言説とは一線を画し、「観念より事実、理屈より実証」の旗印のもとに、私みずから手がけた生まれ変わり示す具体的事例の科学的検証という私の身の丈に見合った守備範囲を限定して述べてきました。

その生まれ変わりを示す「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を掲げて、生まれ変わりの実在可能性を主張してきましたが、当然それへの反論をいくつかコメントしていただきました。

今回は2016年を迎えるに当たって、そうした諸反論の経過を振り返ってみたいと思います。


Ⅰ 史実を踏まえた学問的反論

まず、特筆すべきは、2015年1月1日付「SAM催眠学序説その34」から開始され、3月22日の「その42」まで3ヶ月近く続いた、「タエの事例」について読者VITAさんから提示された下記2つの疑義に関しての論争です。

疑義 その1

 タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、泥流は大量の岩石を 含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。

 疑義 その2

浅間焼泥押に関する最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っておりますもち ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、 タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。

浅間焼泥押についての最新の研究の知見を述べ、拙著の批判をしているのは地質学者の群馬大教授早川由紀夫氏のブログhttp://togetter.com/li/608596 です。

早川教授のブログで示された二つの疑義についてきちんと解明したいということでした。
私としては、専門家である大学教授の権威ある批判(学問的見解)に対して、真っ向勝負することであり、タエの語りで不明であったことの解明につながる緊張感に満ちた仕事でした。

この議論の経過と決着は、「SAM催眠学序説その34」~「その42」のブログ記事およびコメント記事をお読みください。
記事内容の質、量ともに専門学会でおこなわれる討論をしのぐハイレベルの内容であったと自負しています。
この討論の仕掛け人であるVITAさんにはあらためてお礼申し上げます。
また、泥流の流れ方についての専門的知見を展開し、討論に参加してくださったUROノートさんにもあつくお礼申し上げます。


Ⅱ 自称霊能者からの無根拠な妄想による言いがかり反論

さて、「ラタラジューの事例」 については、霊能者を自称している人物のブログで、ラタラジューは未浄化霊の憑依であり、里沙さんはその憑依霊の霊障によって転写された腰痛などに襲われるであろう、という根も葉もない霊視結果が、2010年の「ラタラジューの事例」のアンビリ放映後に次のように述べられていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私の感応によりますと、数十年前に亡くなったネパール人男性が、日本へ行く旅行者に憑依して、日本霊域に来ています。

昭和までの幽界が強い時代は、日本の結界が強力に存在していて、外国人のさ迷う霊が日本に入ることは非常に難しかったのです。しかし近年は、この結界が崩壊している様です。私は番組を見て、この事を再認識させられました。

日本霊域でさ迷っていたネパール人男性は、ある時、退行催眠で無防備に成っていた女性の所へと引き寄せられたと言います。そして簡単に入り込む事(憑依)が出来たので、自分の言いたい事を話したのです。

女性(注:被験者里沙さん)は、長年の腰痛治療の緩和に成れば良いと思い、安易に退行催眠による腰痛治療を始めました。
ところが術者先生(注:稲垣)による「問い掛け」とは、物を言いたい霊に対して、場所を提供することに成るのです。この結果、彼女は異国の男性の憑依を受けたのです。
問題は、そのネパール人の霊は、この女性に執着していました。

今後、彼女には腰痛に加えて、憑依する霊がいまだに持つ腹痛も、現実的な病気として彼女に転写するでしょう。それ以外にも、彼女の人生に影響を与えて変えてしまいます。
現に番組では、ネパール人男性が戦争に行き、人間を刃物で刺した記憶が、彼女が料理で肉を切る時にフラッシュバックして苦しいと、彼女は話していました。
人の意識に干渉する治療は、予想外の二次被害を生み出しますの注意してください。お金を払ってまでして、違う危険性を新たにはらみます。
これもやはり、先生も相談者も「無知ゆえの事」です。

彼女は過去生において、東北の弁財天信仰をする滝のそばで、口寄せ(くちよせ:霊を憑依させてお告げをすること)をさせる行者の元にいました。
そこで、寄り代(よりしろ)に彼女自身がされていたのです。その時の因縁の白蛇が、彼女の腰のチャクラに巣食っています。これは腰痛として現れています。
このような過去生の行為が、再度また男性の元に引かれて、口寄せをする行為につながっています。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり

すでに5年以上前の記事ですが、この霊能者のもっともらしい上記予言は完全に的外れでした。
セッション後の里沙さんに霊障(ラタラジューの腹痛の転写)らしき身体の痛み現象などが、これまでにまったく起こっていないことが実証されているからです。
この自称霊能者は、感応できたと称する意識現象が客観的事実であるのか、主観的な妄想であるのかを自己点検する謙虚さを欠いたまま、臆面もなく断定できる厚顔無恥そのものの人物のようです。


Ⅲ 唯物論者からの応答型真性異言事例そのものが錯誤であるという反論

 的外れな反論としては他にも、それぞれ別人からの2つの反論がネット上に掲載されていました。

①ラタラジュー程度のネパール語会話であれば、ネパール語を知らない誰でも会話できる。
②ラタラジューのネパール語会話は、それらしく聞こえる空耳の羅列にすぎない。

上記①②の反論は、言いがかり以上のものではなく、検証実験すればその主張が成り立たないことが歴然としています。
臆面もなく、よくもこのようなめちゃくちゃの反論ができるものだと呆れるばかりでした。
両反論者ともに、生まれ変わりなどあってたまるか、という完全な唯物論者です。
「応答型真性異言」という、唯物論者にとってきわめて目障りな超常現象そのものをなかったことにしようとする目論見です。
「生まれ変わり」、「霊魂」という単語に過剰な拒絶反応を示し、非科学的迷信、社会の害悪だと決めつけ、きちんとした検証抜きで、問答無用のありえない戯言だと切って捨てる傲慢な態度です。
そのため、顕著な認知の歪みに陥るのではないかと思われます。
そうした認知の歪みに陥らないためには、本ブログ「投稿の留意点」に掲げてある「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度を持ち続ける必要があるのです。


Ⅳ 潜在記憶仮説で説明可能であるという反論 

無意識のうちに入手している「潜在記憶」で生まれ変わりとおぼしき記憶は説明可能である、という反論はもっとも妥当性がある反論です。
この反論には、たとえば次に紹介するような実証的根拠がありますから説得力があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしきものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶がそれまで全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれないのである。(中略)

記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに前世の人格を作り上げてしまうのである。このようにして作られた前世の人格は、長年月にわたって繰り返し呼び出されても、それなりの感情や一貫した性格を示して見せることであろう。(中略)

前世の記憶らしきものをはじめからある程度もっている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想い出すのではないか、とお考えになる方がおられるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ数名の者に催眠をかけたことがある。
この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているのかもしれないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確な形では語っていなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく想い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世の人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外の実験では他の施術者に実験を依頼した。その結果ただの1件も成功しなかった」
        イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP79-80
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、潜在記憶仮説で説明できるのではないか、という点については、当然のことながら私も疑いをもちましたから、潜在記憶の入手可能性を徹底的に調査しました。
調査結果では、潜在記憶となる情報を入手できそうな入手先の痕跡は一切発見できませんでした。
最終的にポリグラフ検査をおこないましたが、検査結果の鑑定は「意図的に情報を入手した記憶は一切認められない」ということでした。
反論者の常套句は、「どこかで」無意識的に情報を入手したに違いない、という論理で主張してくるのですが、肝心の「どこか」については具体的に触れようとしません。
その「どこか」をさんざん調査しても発見できなかったのですから、無理難題、ないものねだりと言うほかありません。
タエにしてもラタラジューの語った情報にしても、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は入手できるとは考えられません。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネット(注:里沙さんはネット検索の技能を持っていません)などの手段を使わず、あれだけの情報を入手することはあり得ないでしょう。
両事例を潜在記憶仮説によって説明することは、記憶の入手先がない以上、成り立ちようがありません。

ただし、「タエの事例」については、被験者里沙さんの心の力、つまり彼女は催眠中に万能の透視・テレパシーの能力を発揮してあらゆる情報を入手できたはずだ、とする「超ESP仮説」が適用できないわけではありません。
応答型真性異言である「ラタラジューの事例」については、応答的会話技能はESPでも取得できないとされていますから、超ESP仮説によっても説明できません。


Ⅴ ポリグラフ検査の被験者に不正(催眠による細工)があったのではないかという反論

ところが、私が催眠を用いて里沙さんの受けたポリグラフ検査をスルーさせたのではないか、という疑いを持つ人がついに出てきました。
つまり、被験者里沙さんは意図的に情報入手しているが、その事実がポリグラフ検査にひっかからないように、つまり嘘をついても心理的動揺が生じないように、催眠が用いられていたのではないか、という疑いです。
徹底した懐疑主義に立てばこうした疑いも出るでしょうが、これは私と里沙さんの人間性を否定されかねない疑いです。
したがって、次のような反論をしてあります。

「催眠暗示により、嘘を嘘として認知しないようにポリグラフ検査前に細工するということは、嘘をつくことが道徳に反する、という価値観の持ち主には原則的に不可能です。
私の数度の催眠実験でも、嘘をつくことを強要する催眠暗示した場合、被験者は拒否するか覚醒してしまいました。
したがって、里沙さんに虚言癖のような傾向が無い限り、嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としていられるような催眠暗示が有効であるとは思われません。
催眠は、良心に反することを強要できるほど強力ではない、というのが催眠学上の定説です。
また、ここで紹介したポリグラフ検査は被験者里沙さんが嘘をついても平然としているかどうか、つまり動揺せず、したがって生理的諸反応が起きないかどうかを確認する本検査前の予備検査がされています。
内容は、彼女の年齢を問う予備検査です。
30代か、40代か、50代か、60代かそれぞれにすべてに『いいえ』と答えさせるものでした。
その結果、50代で明白な特異反応が認められました。
彼女は、検査当時51歳でしたから、50代か? で『いいえ』と嘘をつき、それが特異反応として検知されたというわけです。
この事前検査結果からも、彼女が嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としている、などの催眠暗示がおこなわれていないことは、すでに明らかです。
仮に、そうした事前暗示がなされていても無効であったことが証明されています。
また、つづく本検査結果においても、以下の鑑定が出ています。
『鑑定事項1『タエの事例』に関する情報入手経緯については『本・雑誌類で』で明確な特異反応(顕著な皮膚電気反応)を認めたが、内観には考慮すべき妥当性があり、前世療法を受ける以前の認識(記憶)に基づくものか否かの判断はできない。
考慮すべき妥当性ある内観とは『先生(稲垣)からこんな本読んだことはないかと尋ねられる度に本屋に走り本を読んだりした。こうした経緯があり、前世療法を受けて以後のことながら、一回目の質問時から引っかかりを感じた』という内観報告である。したがって、特異反応はこうした内観に矛盾しないものである』
この鑑定は、つまり里沙さんは、完全な嘘をついていなくても、少しでも心理的なひっかかりがあれば動揺が生じること、正直で素直な性格であることを示しています。
こうした諸事実によって、少なくとも、ここで実施されたポリグラフ検査を、催眠により問題なく通過させたなどの不正が起こり得たはずがありません」

上記私の反論について、疑義を提出した人からの再反論はありません。


Ⅵ 量子脳理論を説明仮説へと援用し拡大解釈した反論

この反論を持ち出した人は、Wikipediaに掲載されている量子脳理論についての次の引用記事をヒントにしていると思われます。
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ペンローズ・ハメロフ アプローチ

理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。
意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と 呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説 明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。[1]
臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」と述べている。

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上記ゴチック部分のハメロフの主張の問題点を挙げると

①「脳で生まれる意識は・・・」と、脳が意識を生み出すことが確定されているかのような前提を述べていますが、脳が意識を生み出しているという科学的立証はいまだにありません。

②量子脳理論提唱者のハメロフの主張は、「臨死体験」の説明仮説としては論理が通っているでしょうが、「心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。体験者が蘇生した場合は意識が脳に戻る」などの主張の科学的立証は一切ありません。
立証しようにも検証方法がないのです。
そして、臨死体験が「脳内現象」であるのか、「体外離脱現象」であるのかの決着さえも、いまだについていません。
したがって、ハメロフの主張は、臨死体験論争に、目新しい量子脳理論を持ち出して説明しようとする「私論」、ないし「試論」でしかないと言えるでしょう。

③ハメロフの言う「体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」、あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」という主張に、「ラタラジューの事例」の反論者は、待ってましたとばかり飛びついて、「量子脳理論で生まれ変わりは説明できる」と断定しているのですが、ハメロフは、宇宙にあり続ける死者の意識情報は「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」ときわめてあいまいな表現しかしていません。
理論とは言えないレベルの、科学的実証の見込みのない恣意的推論に過ぎないからでしょう。
 
④私は、ハメロフの量子脳理論による「生まれ変わり」の説明については、次のような決定的な欠陥のあることを反論しています。

「かつて、ラタラジューが生きており、死後ラタラジューの意識(人格)が量子として宇宙に偏在したとします。
そのラタラジューの意識(人格)がなぜわざわざ日本人の里沙さんの意識を選んで宿るのか、その理由がまったく説明ができないではありませんか?
宇宙に偏在していたラタラジューの意識(人格)が、たまたま気まぐれで偶然に里沙さんの意識に宿ったわけですか?
また、そのような偶然が普遍的に起こるとしたら、応答型真性異言現象がもっと多くの人々の間に起きてもいいのではありませんか? 
つまり、学んではいない異国語で応答的会話のできる人々が、これまで世界に5例にとどまらず、もっと相当数現れてもいいはずです。
この点についての整合性のある合理的説明ができない限り、量子脳仮説で生まれ変わりを説明できるとは到底考えることはできません」

上記の私の反論についての再反論はありません。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識情報が、偶然に現世の誰かの生命体と結び付いて生まれ変わる、とすればこうした現象は、すでに「生まれ変わり」という辞書的定義を逸脱しています。
生まれ変わることに目的性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、生まれてきた誰でもよい誰かの肉体に宿る、こうしたまったく無縁である死者の意識が、生を受けたまったく無縁の現世の者の意識に偶然に宿ること、これを「生まれ変わり」と呼べるのでしょうか。


おそらく、量子脳理論について生かじりの知識しかなく、量子論という最新科学を背景にした目新しい主張に、軽率に飛びついてみただけだからでしょう。


Ⅶ 形態形成場仮説を借用し飛躍した推論による反論

形態形成場仮説は、Wikipediaの説明記事の引用によれば、次のようになっています。
この仮説は、生物学者シェルドレイクの提案だとされています。
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この仮説は以下のような内容からなる。
  1. あらゆるシステム形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
  2. 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
  3. 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
  4. これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。
簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。
この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる[2]
また、シェルドレイクは記憶経験は、ではなく、ごとサーバーのような場所に保存されており(記憶の外部保存仮説)、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。
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反論者は、上記の、生物学者シェルドレイクの提案している形態形成場仮説の説明のうち、「記憶の外部保存仮説」を借用し、拡大解釈をして、生まれ変わりについて次のように反論しています。

「わたしは否定派ですが、理由は『死後の世界』を想定しなくても『この世』だけてすべて説明可能だからです。(中略)
わたしにはむしろシェルドレイクなどが主張する『形態形成場仮説』のほうが説得力を感じます。
つまり、そもそも『記憶』というものは『脳内』存在せず、重力場や電磁場と同じように種ごとに世代を越えて(つまり故人も含めて)共通の『場』に蓄積さ れていくものだ、ということです。従って、『脳』」は中継器のようなものであり、生物は『脳』」を通じて遺伝子というキーを使って自分の『記憶』にアクセスし ていると見るのです。
実際、脳科学が進歩した現在においてさえ、『記憶』が『脳内』に存在している、という確証はないのです。
ここで、ある条件下において他者の『記憶』にアクセスできるとすれば鳥類の『渡り』や魚類の『回遊』など世代を越えた情報交換が必要な現象や『本能』の謎も説明できることになります。
そして、この仮説により前世記憶や臨死体験などは勿論のこと、テレパシーなどの『記憶』に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります

私は、反論者の上記のゴチック部分について次のような再反論をしました。


「形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)によって、ある条件下において、他者(死者)の「記憶」にアクセスできる、という主張は、「ある条件下」の具体内容が示されないかぎり、検証実験はできません。
そ の検証実験によって、他者(死者)の記憶にアクセスが成功したという検証がいくらかでもできて初めて、『「形態形成場仮説によって前世記憶や臨死体験などをは勿論 のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という科学としての言説が成り立つのではありませんか?
こうした、検証のされていないところで、『前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という主張は、形態形成場仮説の極端な一般化という認知の誤りに陥った短絡的な恣意的推論と言うべきでしょう。

そ もそも、形態形成場仮説によって他者(死者)の記憶にアクセスできる、などの、あたかも最新量子物理学の成果を装った主張は、形態形成場仮説を『ラタラ ジューの事例』に都合よく援用した安易な拡大解釈、ないし実証のない恣意的推論だと受け取るしかないではありませんか。
だからこそ、『ある条件下において』などという、安直で曖昧模糊とした、反証可能性に閉じた言い回しをして、逃げを打っているのではありませんか?

『ある条件下』の内容が不明では、その条件を満たすにはどうすればよいのか、その検証が不可能ですから、科学的仮説の体裁になっているとは言えません。
仮説の検証方法が示され、仮説の再現方法が保障されていてこそ、仮説→検証→検証結果の分析と考察→仮説の実証、という科学的方法の適用が可能です。
したがって、反証可能性に閉じられており、検証のできない仮説は、科学的な仮説ではなく、恣意的推論の表明に過ぎないという誹りを免れません。

検証のできない、反証可能性に閉じられた仮説を持ち出すのは、前世などあるはずがない、という決めつけの前提から、『死後の世界を想定しなくてもこの世だけてすべて説明可能だ』という唯物論絶対の砦に立て籠もって、自分の世界観の安定を図ろうとする硬直した態度のように私には思えます」


上記の私の再反論についての反論はありません。

さらに加えて言えば、「ある条件下において」の文言を、「超ESPなどの能力が発揮できる条件下において」と置き換えれば、「超ESP仮説」と同様のことを述べていることになりませんか?
「超ESPという能力を発揮できる条件においては、死後存続のあらゆる証拠は、生者による超能力で完全に説明できる」と考える理論が、「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
つまり、「死後の世界を想定しなくても、この世だけですべて説明可能だ」とする理論です。
こう考えれば、「形態形成場仮説」のうち「記憶の外部保存仮説」は、「超ESP仮説」のような仮説に「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」という否定的見解を示す人が出るのは当然でしょう。
そして、「超ESP」という万能の超能力者が、発見されているわけではありません。
また、超ESPを用いて、情報である記憶は入手できても、情報に還元できない「暗黙知」である技能は取得できず、会話技能を示す応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、「記憶の外部保存仮説」で説明することには無理があると言うべきです。



「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を生まれ変わりの証拠とする私の主張への反論を、7点にわたって網羅しました。
このうち、両事例について、具体的反証を挙げて反論しているのは、Ⅰぐらいでしょうか。
「実証的探究」を掲げている本ブログ管理人としては、Ⅰ以外は、実証性に乏しく少々物足りない観念的反論だと評価するしかありません。
「理屈より実証、観念より事実」の旗印からすれば、実証なき理屈、事実なき観念による反論では十分な説得力を認めることはできません。

現時点において、これら諸反論では、両事例が示す生まれ変わりの実証性を揺らがせることがいささかもできなかった、と評価するしかなかったからです。
とりわけ、最新の量子論を背景にした量子脳理論、形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)でタエ・ラタラジューの両事例を説明できると主張されていますが、その主張の杜撰さから、どうやら生まれ変わりの科学的研究(SPRおよび超心理学)における先行研究の造詣があるとは思われませんでした。
生まれ変わり仮説の「否定が先にありき」であり、したがって、私の主張根拠である両事例の反証可能な点についての具体的な検討をすることなく投稿されているように思われます。


このことは、「前世を語る子どもたち」の膨大な実証的研究、3つの「応答型真性異言」の実証的研究を残した、生まれ変わりの科学的探究の先駆者バージニア大学の故イアン・スティーヴンソン博士の業績と、それを模範とする私のささやかな探究が、少なくとも現時点では、否定することはできない、という評価に値すると自負してよいと思われます。

しかしながら、私の主張している「生まれ変わり仮説」は、生まれ変わりの濃厚な事実を示す状況証拠に基づいていますが、完璧な証拠だと断定できるまでに至っているものではありません。
だから、常に批判(反論)にさらされているあり方、常に反証可能性に開かれているあり方こそが、真理を求めるための、公正で科学的な探究態度だと思っています。
こうした公正で慎重な探究態度を逸脱しないために、私自身も、生まれ変わりがあってほしいという願望による、事実認識の歪みの有無についての自己点検を、常に怠ってはならぬと自戒しています。

諸反論の幾つもの波を被り、揉まれ、洗われ、再反論を慎重に検討し、粘り強く思考していくプロセスの繰り返しがあってこそ、生まれ変わり仮説はより強靱なものに仕上げられていくに違いないからです。
そして、反論は、反証可能性に開かれた形で証拠として提示された具体的諸事実に基づいて実証的になされるべきでしょう。
法廷のルールに則れば、私が具体的諸証拠を提示して生まれ変わりがある、と主張しているのですから、生まれ変わりなど絶対にない、と主張する人は、私の掲げている諸証拠に対して具体的反証を挙げて生まれ変わりがないがないことを実証する「立証責任」があるということです。 

こうして生まれ変わりを否定する諸仮説をすべて公正に検討し、最後に残ったもっとも妥当性の高い仮説が「生まれ仮説」でなければ、宗教的信仰ではなく、科学的な事実としての生まれ変わりを、多く人々が納得することはできないでしょう。


生まれ変わりのように、きわめて重大で、広範囲に深甚な社会的影響力をおよぼすことを、科学的事実だと主張することであればなおさらです。
なお私は、もし生まれ変わりのないことが、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の具体的反証をあげて「科学的に実証」されるなら、怪しげな宗教的言説、怪しげな自称霊能者のお告げ、胡散臭い霊感商法などが、きれいさっぱり完全に一掃できる画期的なことだと評価しますし、私の主張は、潔く誤りを認めて撤回します。
このことは、ひいてはスティーヴンソンの生まれ変わり研究の業績も否定することになるでしょう。

最後に、you-tubeに公開している「ラタラジューの事例の英語版」に寄せられた海外からの2つの好意的評価コメントを紹介して締めくくりとします。
文面から、それぞれ生まれ変わりの科学的研究への造詣があると思われるお二人です。
また、コメント文面から「ラタラジューの事例」の公開動画にある説明コメントを丁寧に読んだうえでのコメントであると推測できます。

ちなみに、量子脳理論、および形態形成場仮説を持ち出して否定論を述べているお二人は、おそらく「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の動画にある説明コメントをきちんと読んでおいでになるとは思われません。

さて、お一人からはCongrats. Well done! 、 もうお一人からは Great job!という「!」付きの身に余るうれしい評価でした。
日本の濃尾平野の片隅の田舎町から、机に座ったままで世界に向けて発信出来る幸運な現世に生まれ合わせた喜びを噛みしめています。

Quite incredible! A very well planned session. It's amazing that she, as Rataraju, understands Nepali and gives many replies in Nepali (although many times she says "I don't know').. Congrats. Well done! To me, xenoglossy is evidenced here through the route of a spirit.


Hi. I think at some point when Ratarajou mentioned about his stomach pain, he died at that point and when people cross over its hard to communicate with them because like Dr.Brian Weiss said they are in state of resting or sleeping. If you noticed it was harder to talk to him after that point. Questions that he were answering in the earlier parts of the video, he answered "I dont know" or not understand at the point after he died(of stomach pain) because Rataraju was already resting and its hard to talk to them when its like that. If you are familiar with Dr. Michael Newton works the regression approach to be able to talk to people who are already in the spirit home or people who already cross over is by LBL type regression. But Kudos to this video, this is a great material supporting the reality of past lives and reincarnation. Great job!


最後まで辛抱強くお読みくださった読者の方には、あつくお礼申し上げます。

2016年が、あなたにとって、意義深く稔り多い成長進化の年になりますように、お祈りいたします。

そして、世界中のすべての人々にとってもそうであるように。

どうぞ、よき新年をお迎えください。
2016年も、どうぞよろしく。

2015年12月9日水曜日

守護霊と呼ばれる存在についての考察

   SAM催眠学序説 その79

SAM前世療法において、魂状態の自覚に至ると、頻繁とは言えないまでも、偶発的に霊的存在とおぼしき者の憑依現象があらわれることがあります。

したがって、セラピストとして目前のクライアントに起きている霊的存在の憑依現象に対して、あいまいな態度は許されず、明確な立場をとって対処することが求められます。

SAM催眠学では次の立場を明確にとっています。

憑依現象に関わる「意識現象の諸事実」をSAM催眠学では、霊的存在が実在し、その憑依現象を認める立場に立っています。
これを、SAM催眠学における「憑依仮説」と呼んでいます。

当然のことながら憑依する主体である守護霊と呼ばれる高級霊、未浄化霊と呼ばれる迷える低級霊などの霊的存在を認めているということです。

さらに言えば、SAM前世療法によって、魂の自覚状態まで遡行させ、「前世人格」を顕現化させるという方法論そのものが、魂表層を構成している諸前世人格という霊的意識体を、意図的に憑依させることを企て、顕現化させる営みということになります。

こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりであるクライアント自身に憑依し、クライアントの肉体を借りて自己表現(発声し対話する、指を立てて答えるなど)をすることになります。

これは、まさに憑依現象ですが、「自分の魂表層の前世人格が自分に憑依する」などという奇怪な憑依現象はこれまで知られてきませんでした。
したがって、このような憑依現象に対する概念がありません。

そこで、SAM催眠学では、前世人格がその生まれ変わりである自分に憑依し顕現化する現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
自己の内部に入っている魂、その表層に存在している前世人格が自分に憑依する、という意味です。

実際にSAM前世療法で魂の自覚状態まで遡行すると、自己内憑依以外にも、偶発的に第三者の霊の憑依現象が観察されます。
また、里沙さんのような霊媒資質のあるクライアントであれば、意図的に守護霊を憑依させることも可能です。

したがって、第三者の霊である憑依現象、および憑依した主体である第三者の憑依霊は、「実体のない観念」ではなく、観察できる「意識現象の事実」です。

憑依および憑依霊について考察するために、事実に基づかない観念論では決着がつくとは思われないので、憑依現象の具体的事実を提示し、それについて具体的に考察してみましょう。

守護霊とおぼしき存在が憑依中のセッション証拠映像はyou-tubeの「タエの事例」に公開してありますから、そのセッション中に、里沙さんの守護霊が憑依している25分間分の逐語録を提示します。
ちなみに、前世療法セッション中に、偶発的ではなく、意図的に守護霊に憑依してもらい、セラピストが直接対話するというセッション証拠映像は、おそらく公開されたことがないと思います。


さて、下の逐語録の記号のTHはセラピスト稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。
ただし、CL里沙さんには彼女の守護霊が憑依して語っていますから、守護霊そのものの語りだと理解してください。
ちなみに、この対話は里沙さんの前世の記憶ではなく、憑依した守護霊と私とのまさに現在進行形の対話です。
なお、その後の守護霊呼び出しの再セッションで語られたこと、検証の結果明らかになったことを「注」としてコメントしてあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

TH じゃ、一つ聞きますよ。そのあなたのいる魂の世界に、たとえば、私の愛する人が待っていて、生まれ変わりがまだなら、私もそこへ行けば会えますか?

CL はい。会えます。

TH もう、生まれ変わりをしていたらどうなりますか?

CL 必ず出会います。
注:死後霊界に行った魂は「類魂」と呼ばれる魂のグループの一員となるらしい。次の生まれ変わりに旅立つときには、霊界の類魂内に自分の分身を残すという。したがって、先に死んだ者の魂がすでに生まれ変わりをしていても、後に死んだ者の魂は、先に死んだ者の魂の分身に必ず出会うということらしい。

TH 生まれ変わりをしていても出会えますか、魂どうしは?

CL はい。

TH もう一つ聞きますよ。今、あなたは偉大な存在者そのものになっていますね。じゃあその方は、時間も空間も超越していますから、今、私が、こうやって前世療法のセッションをしていることも、きっとお見通しのはずですね?

CL はい。

TH じゃ、聞きます。多くの人が、前世のことは現世に生まれ変わると、忘れて出てきません。でも今、里沙さんは深い催眠状態で前世のことを語ってくれましたが、もともと人間は、前世のことを忘れて生きるようにできていますか?

CL はい。

TH それを、無理矢理こうやって、催眠によってほじくり出すことは罪なことでしょうか? どうでしょう。
注:本来思い出すことのない前世を催眠という道具を使って探るという企てに対して、それは罪なことではないのか? という問いは、2001年にやむをえず最後の療法として初めて前世療法を試みた当初から、私の中に在り続けた疑問であった。守護霊は、人を救う手段であれば許される、と答えている。裏を返せば、人を救うためでなく前世を探ることは罪なことである、ということになる。したがって、とりわけSAM前世療法のように霊的療法をおこなうにあたっては、霊的存在に対して敬虔な態度を忘れることがあってはならないと思う。


CL そうではありません。人を救う手段であります。人を救う手段であれば、罪なことではありません。あなたは、それができる人なので、たくさんの人を苦しみから救うことが使命であると。

TH 私の使命ですか。

CL そうです。

TH であれば、私がこうやって前世療法をやった後は、二人の人からとっても憔悴(しょうすい)  しているように見えるそうです。命を縮めているんじゃないかって言われています。そういうことになっていますか? どうでしょう。命を縮めることですか。
注:この問いも、私にとっては真剣な切実な心配であった。ちなみに、この「タエの事例」のセッション直後には、椅子から立とうして膝が笑って立てないほどの疲労が生じていた。

CL 違います。できる限りたくさんの人を救います。

TH 分かりました。じゃあ私は、それを自信を持ってやっていいのですか?

CL はい。

TH 他に、私に伝えておかなければならないことがあれば、どうぞおっしゃってくだ さい。

CL 世界にたくさんの悩める人がいます。必ず出会います。力を尽くすよう。力を尽くしてお救いください。

TH はい。私はそういう道を進むのが使命ですか?

CL そうです。
注:里沙さんの守護霊によれば、私が霊界に存在していたとき、神との約束として、次の生まれ変わりである現世の一定の準備期間によって一定の霊的成長に至ったと認められたとき、新しい前世療法を開発すること、スピリットヒーリング能力が発揮できること、が決められていた、と語っている。これを認めるとすれば、2008年、私が59歳になった時点を指している。この歳にSAM前世療法の作業仮説を教える霊信を受け取り、同時にスピリットヒーリングとおぼしき能力が現れたからである。

TH もう一つ聞きます。大きな謎ですよ。おタエさんは、人柱となって16歳で短い一生を終えました。そのおタエさんの魂が、今、平成の現世では里沙さんとして生まれ変わっています。その里沙さんは、側湾症という治る見込みのない苦しい病にかかっています。なぜ、苦しみを二度も味わわねばならんのですか? いかにも不公平な人生ではありませんか。そのわけは何でしょう?

CL 魂を高め、人を救う道に位置付きし人です。

TH 里沙さんがそういう人ですか。

CL そうです。

TH じゃあ、側湾症になるということも、里沙さん自身が、あなたのいらっしゃる中間世で決められたことなんですか?

CL そうです。

TH それは、里沙さん自身が魂として選んだ道なんですか?どうやら

CL 「わたし」が選びました。
注:のちの再セッションで、里沙さんの魂は急速な成長・進化を望み、他人の痛みを自分の痛みとして共感できるように、脊柱側湾症という不治の病を自らの意志で選び、3回目の生まれ変わりである現世に生まれてきた、と守護霊は告げている。魂の成長・進化のためには、人生において負荷がどうしても必要であるということである。負荷は「人生の課題」と言い換えることができる。生まれ変わりは惰性でおこなわれるのではなく、魂の成長・進化のために現世の課題(負荷)を決めて生まれてくるということらしい。ただし、その課題は魂が肉体に宿ると同時に忘却されてしまう。したがって、現世を怠惰に生きることも、課題を探りながら真摯に生きることも、魂の主体性に任されているらしい。

TH 「わたし」とは、魂の「わたし」なのか、それとも偉大な存在である「わたし」のことですか? どちらですか?

CL 魂の「わたし」が選びました。
注:「魂のわたし」とは里沙さんの魂のこと、「偉大な存在であるわたし」とは守護霊ことである。あとの語りで明らかになるが、生まれ変わりを卒業すると、その魂は「偉大な存在であるわたしの一部になる」らしい。この語りを認めると、守護霊である「偉大な存在であるわたし」は「類魂」と呼ぶこともできる。

TH もし、そのことを現世の里沙さんがはっきり自覚できたら、彼女は救われるでしょうか?

CL 救われます。

TH その苦しみを乗り越えるだけの力を得ることができますか?

CL できます。

TH また、聞きますよ。お答え願えますか? 浅間山の噴火のときに雷が起きましたか?
注:噴火による火山灰の摩擦により静電気が発生する。この現象を「火山雷」という。実際に天明3年当時の浅間山大噴火の絵図には黒煙の中に稲光が描かれている。

CL はい。

TH そのことを、雷神様と人々は言うのでしょうか? 雷のことを。


CL そうです。まだ、噴火、自然現象は分からない人たちですから、魔物のせいだと思ったのです。

TH 龍神様はなんのことでしょう?

CL 浅間山は信仰の山です。龍神が祀られています。
注:浅間山に龍神信仰があることは、浅間山麓嬬恋村の住人から確認できた。アンビリバボーの中で渋川市教委の小林氏は、吾妻川を龍神に見立てたのだろう、と推測されているが、守護霊やタエが語っているとおりに「浅間山に住む龍神様」と解することが妥当であろう。
なお、浅間山の龍神信仰についてはネット検索はできない。

TH その龍神が、お山が火を噴いたために住めなくなって、川を下るというように人々は思ったわけですね。

CL そうです。

TH それから、そのときの噴火によって空が真っ暗になって、日が射さなくなって、火山灰が降り注いで、農作物は不作になりますよね。その結果、下界ではどんなことが起きたのでしょう? あなたはご存じのはずですが、教えてもらえますか?

CL 噴火による土石流で川が堰(せ)き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。

TH その川の名前が吾妻川でしょうか?

CL そうです。利根川の上流になります。
注:吾妻川は渋川市内で利根川と合流している。

TH さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだという証拠を、私はつかみたいと思っています。その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人たちに勇気を与えることができると思っています。このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。そういう人のためにも、おタエさんしか知り得ないことででも、われわれが後で調べたら何とか分かるようなそういう証拠の話か物がないでしょうか? そんなことを聞くのは傲慢(ごうまん)でしょうか? もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。

CL 傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。

TH それはおタエさんの左腕ですか?

CL そうです。

TH であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。

CL そうです。

TH その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?

CL そうです。

TH 下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?

CL お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。

TH それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?

CL そうです。

TH 馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?

CL 馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。

TH それは現在でもありますか?

CL あります。

TH おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?

CL 土、下。
注:「土、下」とは不可解な語りであるが、現渋川市上郷の高台にある良珊寺につながる坂道から脇道に少し入ったところに、石造りの馬と灯籠状の馬頭観音が祀られている。銘文には享保15年(1730年)と刻んである。天明3年(1783年)より53年前に設置されているので年代に矛盾はないし、石灯籠状の馬頭観音はお堂でもあるが、床はないので掘るとすれば直接土を掘ることになり、「土、下」という語りにも矛盾はないことになる。なお、上郷地区には他に馬頭観音はないので、守護霊の言う馬頭観音は、この石灯籠状の馬頭観音だと特定できる。
なお、渋川市上郷に馬頭観音が祀られていることをネット検索はできない。


TH どのくらい掘ったらいいのでしょうね?

CL 土石流で埋まっているので・・・。
注:この語りは、私が、実際にタエの骨の発掘作業をしかねないことを牽制するためのはぐらかし、つまり、土石流云々は嘘ではなかろうかと疑った。しかし、その後、私の読者のご努力で、上郷の良珊寺付近には過去に土石流被害があったことが、渋川市ハザードマップの検討から確認できている。



TH ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?


CL はい。


TH 分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?


CL 何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。

TH おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?

CL たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。

TH それは分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?

CL 女は、道具です。
注:「女は道具です」、このように言い放つ語りは、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のことばだと思われる。

TH 道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?

CL クロカワキチエモン。
注:タエは「クロダキチエモン」と語っており、タエと守護霊の語るキチエモンの姓が食い違っている。タエを呼び出した再セッションで、タエは、キチエモンの所有する田の土が黒かったので「黒田のキチエモン」とも呼ばれ、キチエモンの所有していた船着き場周辺の吾妻川の石が黒かったので「黒川のキチエモン」とも呼ばれていた、と語っている。つまり、黒川のキチエモンは通称ということであろう。なぜ、守護霊もタエも、本名でなく通称でしか告げないのかは謎である。ちなみに当時の渋川村には4人の名主がおり、その一人に堀口吉右衛門が実在していることが調査の結果判明している。堀口家の当主は、初代から明治に至るまで「吉右衛門」を名乗っているので、先代吉右衛門と当代吉右衛門の区別のため、当代について「黒田の」「黒川の」という通称で呼ばれていたと推測できる。
なお、天明3年当時の渋川村の名主を知るためにネット検索はできない。

TH そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?

CL 残っています。

TH どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?

CL ・・・資料はあります。
注:資料とは、天明3年当時の人別帳と寺の過去帳であろう。しかし、渋川市では「人別帳」は戦災で焼失している。残るは寺の「過去帳」であるが、差別戒名という同和問題との絡みで公開されることが拒まれている。当時実在した上郷の名主は堀口吉右衛門であり、吉右衛門とその妻ハツの墓は上郷良珊寺の墓地だと推測し、墓碑を二度まで捜索したが、古い墓石は表面が風化し苔むしており、戒名・俗名の判読は不可能であった。
 
TH そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?
 
CL たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書きしるしたものはほとんどありません。

TH 分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。

CL はい。

TH ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。

CL はい。

TH なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?

CL 雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。

TH それは切り落とされたわけですか? 刀によって?

CL そうです。

TH それにタエさんは耐えたわけですか。

CL そうです。

TH それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?

CL 違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:タエも馬も龍神・雷神の供え物として、浅間山噴火とやがて起こる吾妻川の泥流を鎮めるために川中に縛られ捧げられた。馬が暴れるので、それを鎮めるためにタエの左腕を埋納した事情については、「SAM催眠学序説その42」をお読みいただきたい。

TH 分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?

CL はい。

TH ありますか、やっぱり。

CL はい。

TH あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?

CL 長く繰り返している。

TH 一番古くはどんな時代でしょう?

CL 天明、タエが初。
注:里沙さんの魂は、タエが最初の人生、次がネパール人ラタラジュー、そして現世となり、現世が3回目の生まれ変わりとなる。

TH もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?

CL 中間の世界。

TH そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?

CL 中間の粒子が魂に生まれ変わります。

TH 中間の世界で粒子が魂になる。

CL そうです。

TH 魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?

CL 粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。

TH その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?

CL わたしの一部になります。

TH 分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。

注:ここまでの守護霊憑依中の記憶は一切ない、と覚醒後里沙さんは語っている。里沙さんについては、守護霊憑依中の記憶は一切残らないことがその後の再セッションでの憑依実験から明らかになっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
守護霊とおぼしき存在については、ワイスを始めとする前世療法の報告や、「光」や不思議な姿をした「偉大な存在者」についての報告は、本来、科学的検討の俎上(そじよう)に載せられるものではありませんし、慎重な検討が必要な主題なので、今後も考察を深めることにしますが、ここで、里沙さんのケースでの「偉大な存在者」の語りに関して、いくつか注目すべき点を挙げておきます。

「偉大な存在者」の語りとしては、次のような項目がありました。

①浅間山の龍神信仰
②上郷の馬頭観音堂とタエの左腕の埋納
③村の吾妻川泥流被害状況
④名主クロカワキチエモンと妻ハツの記録の残存
⑤タエの記録の不在
⑥「馬の口取り」という説明
⑦タエの生まれ変わり回数

なお、このほか、「中間の世界の粒子が魂になり、生まれ変わりを続け、色が消えると生まれ変わりがなくなり、自分の一部となる」といった不思議な説明が語られています。

これらが里沙さん本人の記憶ないし情報収集から導き出せるかどうかは、ポリグラフ検査を実施して検証しました。
ポリグラフ検査の鑑定では、彼女が意図的に「偉大な存在者」の①から⑦の語り内容を収集した記憶はまったくない、という結果でした。
したがって、彼女が意図的に「守護霊」の役割演技をして語ったという疑いは晴らされたと言えます。

ここで注目したいのは、タエという「前世人格」と「偉大な存在者」との、情報の差異です。
このうち、龍神信仰、上郷馬頭観音堂、「口取り」という言葉は、タエも知っていると考えられるものです。
しかし、②の「馬頭観音堂へのタエの左腕の埋納」、③の「村が壊滅状態になったこと」、④の「名主と妻の記録は残存していること」、⑤「タエの記録の不在」、⑦の「タエの生まれ変わり回数」は、タエという人格から発し得る情報ではありません。

特に、タエの左腕が切り落とされたことは、タエ自身が語っていませんし、それが馬頭観音堂に埋納されたことは、死後の出来事でしょうから、タエは知るよしもありません。

③④⑤に関しては、一部不正確であったり、確定的な検証ができないものですが、タエの立場からこのような言い方ができるとは思えません。

⑦の「タエの生まれ変わり回数」については、「偉大な存在者」は「タエが初」と言い、タエ自身が「生まれ変わり?」と聞き直すなど、生まれ変わりを経験していないので生まれ変わりの意味が理解できない、つまりタエが初めての人生ように述べたという一致がありました。

そして、最後の不思議な説明に関しては、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のものだと言えるでしょう。
ちなみにこれに類似した考え方は、「スピリチュアリズム」という西洋近代の宗教思想にもあるようです。
しかし、聴き取り調査によっても、里沙さんがそのような本を読んでいるとは考えられません。

つまり、情報の内容においても、その情報が語られる視点あるいは位相といったものからも、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」は、タエとも里沙さんとも、かなりの大きな差異を見せているということは言えると思います。

もちろん、だからといって、このような存在者が実在するという証明にはなりません。
ただし、渋川市上郷の馬頭観音石堂の下を掘り、そこにタエの左腕らしい、10代半ばの女性の骨が発見できたとしたら、どうでしょうか。
それは、タエの実在と里沙さんへの生まれ変わりを濃厚に支持するものになるでしょうし、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」の実在性の証明にも、可能性を開くものになるのかもしれません。


ここで語られた内容に関して、里沙さんはの次のように証言しています。

①浅間山については、活火山であることと、連合赤軍の浅間山荘事件以外知っていることはない。もちろん、見たこともない。火山について調べたことはない。

②天明の大噴火と火山雷や、それにともなう火砕流による吾妻川の泥流被害など全く知らない。

③群馬県に行ったことはない。ただし、絶縁状態で行き来の全くない親戚が桐生市にあると聞いている。渋川市はもちろん、渋川村など知らない。利根川の名前は知っているが、吾妻川は知らない。まして吾妻川が利根川の上流にあたることなど知っているわけがない。「吾妻」を「アガツマ」と読むことさえ知らなかった。

④過去に火山噴火などにまつわる人柱伝説や、悲話などの類の小説やテレビや映画を読んだり、見たり、聞いたりしたことはない。

⑤家にパソコンはあるが、インターネットの使い方を知らない。ただし、夫と息子は使える。誰かに依頼するなどして、タエの語り内容に関わる様々な情報を検索した事実はない。

なお、「インターネットが使えない」ということについては、里沙さんの息子にも、彼が電話に出たついでにそれとなく聞いて、母親がインターネットを使えないことを確認しています。

私は、さらに、セッションビデオを里沙さんに視聴してもらい、科学的研究のために本当のことを言ってほしい、と真剣に迫ってみましたが、逆に里沙さんに詰め寄られました。

なぜ、嘘をつかなければならないのか、嘘をつくことによって自分にどんな利得があるというのか、合理的な理由を教えてほしいと。

セッション記録ビデオを見て、自分自身でも全く知らないことを催眠中に語っているので、驚いているくらいなのに、嘘などついてるはずがないではないかと。

周囲からの聴き取り調査によっても、彼女が誠実な性格で、虚言癖などがないことを確認できました。
また、彼女の言うとおり、嘘をつくことによる利得は確かにありませんし、嘘をついていると疑わねばならない証拠が何一つ挙がっているわけでもありません。

これらの事実確認を踏まえて、できるだけ公正な視点から、この事例の解釈として、私が、彼女の守護霊の実在を認める立場をとる理由は、認めることによって「説明の成功」ができるからです。

目前で展開される意識現象を憑依だと認めることが、直感に著しく反していないからであり、憑依現象だと認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依現象が現行唯物論の枠組みからはどうにも説明が成功しないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。

この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
また、「魂の自覚状態」に至ると、霊的存在の憑依とおぼしき意識現象が起こることもめずらしくありません。 

ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、里沙さんの守護霊の語りを前にして、魂と生まれ変わりの実在や守護霊の実在可能性を回避するために、回りくどい心理学概念や精神医学概念を持ち出し、無理やり引き当て、霊的な意識諸現象に対してなんでもかんでも心理学的、精神医学的な解釈することは、現行唯物論科学の枠組みに固執するあまりのおよび腰的な、不自然な営みだ、と私には思われます。

そして、里沙さんに限らず、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。

唯物論を絶対視し、魂や生まれ変わりの実在、霊的存在を認めることを回避する立場で、すべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって唯物論で前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得のいく説明ができますか?

どうやって唯物論によって、私と対話した里沙さんの守護霊の語り(里沙さん自身の全く知らない諸情報の語り)の納得できる説明ができますか?

私には、霊的存在の実在を認めることが、SAM前世療法で展開される憑依とおぼしき意識諸現象の解釈として「思考節減の原理」にもっともかなっていると思われます。

ただし、クライアントに起こる憑依現象すべてが、真正の憑依現象であるとは判断できません。
憑依霊が語った内容を検証にかけ、明らかにクライアントの知り得ない情報を語っていると検証できた場合でなければ、判断留保とするのが妥当でしょう。
そして、検証に足る情報が語られることは極めて少ないのも事実です。

ちなみに、超心理学上では「超ESP(万能に近い透視やテレパシー能力)仮説」があります。
そして、催眠中に超常的な能力が発現したという事例は、わずかながらあるようです。
とは言え、「超ESP」のような万能の超能力そのものは、立証されているわけではありません。

しかし、下に紹介するレナード婦人のような希有な実例が存在し、しかも、ESPの限界が不明なので、これを拡大解釈し、人間には未発見の万能の超能力が存在する可能性がある、という理屈上の仮説に過ぎず、実証はまったくありません。

グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出ているか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
E・M・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)

里沙さんが、レナード婦人を凌ぐような超ESPを発揮し、かなり広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、編集し、守護霊らしく装って語ったのだ、という解釈が成り立つでしょうか。

里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような超能力もないし、それを用いて意図的に情報収集をした記憶がないことはポリグラフ検査によって明らかです。

無意識のうちにやっているとすれば、いったい誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
また、無意識のうちにやっていることは証明できることでしょうか。

応答型真性異言は超ESPを用いたとしても、情報ではなく技能であるネパール語会話は取得できません。
したがって、「ラタラジューの事例」において、里沙さんが超ESPを用いることなしに、ラタラジューがネパール語会話をしている、つまり、自己内憑依現象を起こしていることは明白です。

そのすぐれた霊媒資質を備えている彼女が、守護霊の憑依ではなく、超ESPを用いて情報収集し、守護霊を偽装し語っている、と考えることのほうが不自然だと思います。

そもそも、広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、まとめ上げ、守護霊を偽装して語る、というような途方もない能力を発揮することが、人間に可能であるとは思われません。

実際、そのような万能の超能力(超ESP)を発揮した人間が、心霊研究(SPR)および超心理学研究のこれまで100年余の研究史上発見された事実は皆無です。

彼女が、私やセッション見学者たちを驚かせるために、無意識のうちに超ESPを駆使して情報を集め、守護霊を偽装して語ったのだ、という見方と、守護霊が実在し彼女に憑依して語っているのだ、という見方と、どちらがより検証結果を踏まえた直感に反せず、より思考節減の原理に沿った自然な解釈であるかは、すでに明白であるように私には思われます。


2015年12月1日火曜日

生まれ変わりを否定する諸仮説の検討

   SAM催眠学序説 その78


生まれ変わりを科学的事実として認めることは、個人の人生観・世界観は言うに及ばず、宗教や科学をはじめとして、人間の営み全体の諸領域にきわめて広汎かつ深甚な影響を及ぼすことになります。

そのため、唯物論による世界観に安定・安住してきた多くの人々を根底から揺るがすことになり、それら唯物論陣営のさまざまな反論、ときには感情的な反感による罵倒すら受けることになります。

それほどの甚大な衝撃を及ぼす重大事ですから、否定する諸仮説が持ち出されることは当然のことでしょう。

それでは、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の事実を否定する諸仮説を冷静に慎重に検討し、一つ一つ論破してみたいと思います。

こうして、最後に残った仮説が生まれ変わり仮説であるなら、それが唯物論に真っ向から対立することになっても、謙虚に認めるべきでしょう。
しかしながら、ガチガチの唯物論者は断固として認めようとはしません。
反証を挙げて反論できないと分かると、唯物論にとって不都合な事例はなかったことにするという無視の態度を取って認知的不協和を処理することが常のようです。

 

(1)意図的作話仮説


この仮説は、里沙さんの証言をすべて否定するうえに成り立つ仮説です。
里沙さんは、前もって入念に諸資料を読み、その情報に基づいて「タエの物語」、「ラタラジューの物語」を練り上げ作話し、セッション中には催眠に入ったふりをしてその物語を語り、しかもそのすべてをなぜか隠しているという解釈です。

里沙さんの人間性そのものを否定することになるので、私としてはくみしえないものですが、これも生まれ変わりの否定仮説として一応考えておかなければなりません。
通常の手段でどれだけの情報が収集できるかという検証にもなるからです。

「タエの事例」において、この仮説には、有利になる背景があります。
それは、2003年に出版された、立松和平の小説『浅間』の存在です。
この小説は、「ゆい」という娘が主人公で、天明3年8月5日の浅間山大噴火による鎌原火砕流と、それによって全滅した鎌原村が舞台として登場しています。
「おカイコ様」という呼び方も出てきます。
この小説はラジオドラマ化され、舞台公演もされています。 
もし、里沙さんがこの小説『浅間』を知っているとすれば、架空の人物タエの物語は、さほど困難ではないと思われます。
私はこの点を彼女に詳細に尋ね、読んだことも、聞いたことも、見たことも一切ないという証言を得ていますが、意図的作話仮説に立てば、それは虚偽の証言ということになります。

しかし、小説『浅間』だけでは、これらの内容を作話として組み立てることは不可能です。「安永九年のとき13歳、三年後の天明3年のとき16歳」、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」などの情報はこの小説からは引き出せません。

特に、年号の問題はきわめて重要です。安永という年号は、中・高の歴史の教科書には出てきません。
ちなみに、当時私の同僚の中学校社会科教師6人に、「安永」を知っているかを尋ねてみましたが、全員が知りませんでした。まして、安永が9年で終わり天明へと改元されていることを知る一般人は、まずいないでしょう。
「安永9年のとき13歳」で、「天明3年のとき16歳」ということを、瞬時のためらいもなく言えるということは、容易にできるものではありません。

したがって、これだけのタエの物語が作られるためには、加えて、インターネットの検索能力が必須とされるはずです。
しかしながら、インターネットでもこれらの事項を検索することは、かなりの時間と知識が必要です。しかも、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」といった情報は、インターネットからは入手できません。
これらは、『渋川市史』を読むなり、現地を訪れるなりしないと、得られない情報です。
龍神信仰のことは当てずっぽうで言えるかもしれませんが、馬頭観音のこと、そして特に「ばと様」という特殊な呼び方は、現地でしか得られない情報だと思われます。

さらに、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・」という語りで検証したように、当時上流の村であった川島村の被害まで入念に調査して作話することは、まず考えられません。
また、このような入念な情報収集をして作話し、しかもそれを意図的に隠すという必然性が彼女にはありません。
そもそも彼女は、自分の病気(脊柱側湾症)の理由を知り、現世の生き方の指針を得るために、前世療法を希望したのです。
それも何らかの詐欺行為だとすることが考えられるでしょうか。
見学に同席した研究者たちの期待に応えようとした、という見方も、そういった条件がなかった第一回セッションで、既にタエの記憶が断片的にであれ出ているのですから、不自然です。

加えて、私の催眠療法体験から見て、里沙さんが催眠に入ったふりをしていたとか、少女タエを演技をしていた、とはどうしても考えられません。
5名の信頼度の高い研究者が見学していますし、証拠として彼女の表情を克明に写したビデオが残っていますから、間違いなく、催眠性トランスに入っていたと断言できます。

さらに、用意されていたいかに巧みな作話であったとしても、私が、偉大な存在者の憑依実験をすることまでは、予想できなかったはずです。
雷神に供える馬を鎮めるために、タエの左腕が切り落とされ、上郷の馬頭観音下に埋められているという語りをはじめとする、偉大な存在者(守護霊)の語りを、その場で瞬時に作話できた、とするには無理があるように思われます。

さらにまた、里沙さんが入念な事前調査をして人を欺く意図があったのなら、決定的な証拠である「堀口吉右衛門」という名前を、なぜクロカワキチエモンと言ったのか説明できません。
私が入手できたように、天明3年当時の渋川村の名主が、「堀口吉右衛門」であることは、作話する過程で、彼女にも入手可能だと思われます。
それをわざわざ、史実と食い違うようにしなければならないのか、納得できる理由が見当たらないのです。
そして、作り話などしていない、という里沙さんの証言を、嘘だと疑わねばならない証拠が、何一つ挙がっているわけではありません。
加えて、彼女が、事前にタエの物語に関わる諸情報を意図的に収集していたことは、ポリグラフ検査によって否定されています。

「ラタラジューの事例」で語られた諸情報の入手についても、まったく同様です。


以上のように、意図的作話仮説にはほとんど可能性を見出す余地がありません。

(2)潜在記憶仮説


 「潜在記憶」とは、通常の自覚としては忘れてしまっており、全く記憶に出てこないのですが、実は潜在意識に蓄えられている記憶のことを言います。
したがって、潜在記憶仮説で、タエの語りの内容を解釈すれば、次のようになるでしょう。

里沙さんの証言は、彼女の自覚としてはそのとおりだが、記憶を忘れ去っているだけで、実は潜在記憶として、情報の貯蔵庫に蓄えられていたはずだ。
潜在意識が、情報の貯蔵庫に蓄えていた様々な情報を巧みにつなぎ合わせ、加工・編集して架空のタエの前世物語、ラタラジューの物語を作りあげ、フィクションとして語ったものだ、という説明になります。

確かに、催眠状態にあるクライアントには「要求特性」と呼ぶ、セラピストの指示に従順に従おうとし、期待に応じようとする傾向が知られてます。
したがって、過去に得てきた情報を総動員して、架空の人格を作り上げ、それを自分の前世だと語る可能性が絶対ないとは言えません。

しかし、タエの語った検証一致率84%の事実を潜在記憶仮説ですべてを説明するのは、まず不可能のように思われます。
それは、前述したように、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は容易に取得できないと思われるからです。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネットなどの手段を使わず、それらを知ることは、ほぼありえないと断言できるでしょう。
また、小説『浅間』は、出版から二年しか経っていませんので、それを読んでいて忘れるということも、まず考えられません。
また、潜在記憶仮説では作為は否定されますので、「噴火」という言葉を知らないような態度を取ったことも、説明できません。

「ラタラジューの事例」 についても、里沙さんにはネパール人との接触がまったくないという生育歴と身辺調査から、潜在記憶として蓄積しようにもその記憶の入手先がないことがほぼ確実です。

これらのことから、潜在記憶仮説も、その可能性は棄却できるでしょう。
それでも、生まれ変わりなどあろうはずがないから、きっと「どこか」で潜在記憶として入手しているに違いない、というような根拠不明な主張は科学的仮説として認めることができません。

 

(3)遺伝子記憶仮説


前世記憶とおぼしき記憶に関して、「遺伝子の中に記憶が保存されるのではないか」という仮説も成り立ちます。
しかし、タエとラタラジューのケースではそれは絶対ありえません。
タエが実在したとすれば、彼女は16歳で人柱になったことになります。
彼女に子どもがいて、それが里沙さんの祖先であったということは考えられません。
16歳の若い母親を人柱にするということは、人間の心情としても、龍神という神様への「お供え」という意味からしても、ありえないからです。
また、人柱になる前に白い花嫁衣装を着てごちそうを食べたことをうれしそうに語っているのは、子を持った女性の心情とは到底思えません。
ただしタエは、セッション後のフラッシュバックでキチエモンの子を宿していたことを打ち明けています。
しかし、タエは溺死していますから、その血脈はその時点で断絶していることになります。

ラタラジューについても、里沙さんにネパール人の血が入っているかどうかを確認しましたが、さかのぼり得る限りにおいて両親双方にネパール人の祖先はいないことが明らかでした。

そして、そもそも、遺伝子にこれだけの詳細な事柄が記憶されるという科学的実証はありません。

したがって遺伝子記憶仮説は、棄却できるでしょう。

(4)透視などの超常能力(超ESP)仮説


里沙さんが、通常の方法によらず、超常能力、つまり透視やテレパシーなどによる方法でタエに関する情報をことごとく入手し、それをあたかも前世の記憶として語ったとする仮説です。

里沙さんが、テレパシーによって、同席者の心を読み取り、それらをもとに前世記憶を作話した可能性はあるでしょうか。
5名の見学者のうち、火山雷の知識のある者1名、ネパール旅行経験者1名、吾妻川を知っている者1名がいました。

私は「おカイコ様」という呼び方および、天明3年の浅間山大噴火と吾妻川の泥流被害のおおよそを知っています。
天明3年8月4日・5日の大噴火と火砕流、渋川村上郷という地名、安永という年号などの細かな情報は、私を含め同席6名の者は持っていませんでした。
したがって、この解釈には無理があります。

では極めて強力な万能に近い透視能力で、これらの情報を入手したという可能性はあるでしょうか。
突飛にみえる仮説ですが、超心理学上の「超ESP仮説」として知られている仮説です。
浅間山噴火に関する情報や、当時の渋川村の歴史的状況については、私が調べられたように、ある程度は文字記録となって残っています。
それらを私同様に入手し、前世の記録として語ったと考えることは、一つの仮説としては成り立つでしょう。
タエに関する情報は文字記録にないようですから、その部分は作話ということになります。

この「超ESP仮説」を完全に棄却するのは、「タエの事例」では不可能かも知れません。
「ばと様」という極めて特殊な表現は、透視で入手することは不可能だと思われますが、それさえも、「どこかにあるはずだ」、あるいは「現在その土地に住んでいる人の心を読んだのだ」という途方もない拡大解釈が際限なくされれば、どこまでも決着はつけられなくなります。
したがって、ここでは、反論を述べるに留めることにします。

まず、前世療法のセッション以前に、里沙さんが超常能力を発揮したことは、本人・周囲とも一度もないと証言しています。
にもかかわらず、催眠中に突如として超常能力が働き、それがほとんど万能に近いものであると説明するのは無理があるように思われます。

催眠時に超常的な能力が発現するという事例は、わずかながらあるようですが、かなり広範囲に分散された様々な断片的情報を瞬時に入手し、齟齬(そご)のないようにつなぎ合わせ、まとめ上げ、里沙さんが同一視しているタエと緊密に一致する人格を構築するのは、不可能なわざとしか思えません。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような能力もないし、そのようなことをしたという記憶もないわけですから、一体誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
「無意識」がやっているという解釈も出るでしょうが、それは証明できることなのでしょうか。

また、里沙さんは、なぜよりによって、見たことも聞いたこともないタエと自分を同一視しなければならないのか、説得力のある説明ができそうにありません。
彼女が、私や見学者を驚かせるために、縁もゆかりもない架空の人物を超常能力を駆使して作話したとする見方と、素直に「前世記憶」を甦(よみがえ)らせただけだとする見方と、どちらが自然かは明白なように思われます。

さらに、超常能力を駆使できたとすれば、名主堀口吉右衛門の存在を知り得たはずなのに、なぜそれをクロダキチエモンと言わねばならなかったのか説明がつきません。

以上を考え合わせると、超常能力(超ESP)仮説は、生まれ変わり仮説を否定するために、十分な裏付けもなく強引に作り上げられた空論のように思われます。
人間にESP(透視やテレパシー) の能力があることは証明されています。
しかし、その限界が分かっていません。
限界が分かっていないので、万能に近いESP能力者が存在する可能性があるのではないかという理屈が成り立つということであって、そもそもこの仮説自体は証明されているわけではないのです。

私には、生まれ変わり仮説より、さらに突飛で奇怪な説得力のないものに思われます。、

ちなみに、ラタラジューのネパール語による会話技能は、超ESP能力によっても取得できないとされています。
技能は情報ではなく、練習を必要とするものであり、いかなる情報も取得できるとする超ESPによっても、練習が不可欠である技能までも取得することはできません。
超能力によって技能を取得した事例はないのです。

(5)憑依(憑霊)仮説


「生まれ変わり仮説」は、霊魂仮説を認めない限り成立しませんが、霊魂仮説を受け入れた場合、タエに関してもう一つの仮説による解釈が成り立ちます。

それは、第三者であるタエの「霊」が、催眠中の里沙さんに「憑依」(憑霊)したという仮説です。
突飛にみえる仮説ですが、世界中にはそれらしい事例がないわけではありません。
里沙さんも周囲も、過去に「憑依」様の体験は皆無だと証言していますが、催眠下でそれが偶発的に起こらないという保証はありません。

前世人格か憑依霊かという問題は、生まれ変わり仮説を暫定的に採用した研究者でも、迷うところの多いもののようです。

生まれ変わり仮説も霊魂仮説も、その科学的研究はまだ確固とした体系を持っていませんので、この問題に関しても、詳細な先行研究はないように思われます。

あくまで試験的な仮説ですが、私は、「同一性の感覚」の有無と「憑依状態の記憶」の有無が、前世人格と憑依霊とを識別できる有力な指標になるのではないかという仮説を立てています。

セッション後の感想で、里沙さんは、前世のタエと現世の自分とが同一の魂であることを実感している、と述べています。
 第三者の憑依霊に対して、自分との同一性の感覚が生まれるはずがないでしょう。

また、「偉大な存在者(守護霊)」が直接語った場面に関して、催眠覚醒後に全く記憶がないと述べています。
このような構造は、他のケースにも見られるものです。
なお、宗教学のシャーマニズム研究でも、「憑霊」とおぼしき事態の場合、その間の当人の記憶がないことが多いと報告されています。



こうして、少なくとも、里沙さんにおいては、前世人格と憑依霊を識別するこの二つの指標が当てはまります。


このように想定すると、「偉大な存在者」とは何かという問題が残りますが、「前世人格」と「憑依霊」との間には、一応の線引きができるのではないかと考えています。

そして、「タエの事例」は、「憑霊」よりは「前世人格」である可能性が明らかに高いように判断できると思います。


「ラタラジューの事例」においても同様の解釈ができます。

(6) トリック(ヤラセ)仮説


疑いをかけられる当事者私と里沙さんには論外の仮説です。

しかし、可能性として、私と里沙さん、あるいはセッション見学者も含めて、事前に打ち合わせの相談のうえ、台本によるインチキセッションを企てたという仮説も考えておく必要があるでしょう。

とりわけ、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」が、娯楽番組である「アンビリバボー」で取り上げられたので、視聴率稼ぎのヤラセの疑いをかけた人がいたようです。

しかし、この仮説が成り立つためには、you-tubeに公開してあるセッション記録映像に基づいて、どの場面の、誰の、どういう台詞が、不自然でヤラセの可能性がある、という具体的指摘をしなければなりません。

生まれ変わりなどあるはずがないから、トリックがあるに決まっている、という主張は、具体的根拠不明な思い込みによる言いがかりとして判断するしかありません。


以上、およそ提出されそうな生まれ変わり否定の仮説を取り上げ、検討を加えてみました。
まだまだこんな仮説もあるぞ、という方はどうぞコメントをお願いします。