2022年3月18日金曜日

SAM前世療法で起きた身体の超常現象

SAM催眠学序説 その148


ここに紹介するのは、わたしの主宰しているSAM催眠塾の塾生である宝田昌子さん(スーパーバイザーSAM前世療法士)の質問メールです。                                   SAM前世療法のセッションにおいては、ときに免れることのできない憑依などの霊的現象があらわれることがあります。                                                    このことについて現時点のわたしの見解を述べたいと思います。

なお、宝田昌子さんには了解をいただいて、送付されたメールをコピペ・引用しました。   下記の点線枠内が彼女の質問メールです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつもSAM催眠塾にて学ばせていただきありがとうございます。
突然のメールに驚かれたと思います。
実は、稲垣先生にご相談したい事例がありメールを送りました。
それは、マヒしている右手が何故かセッション中に滑らかに動き出した下記「Mさんの事例」です。

クライアントMさん(56歳男性)

【主訴】 
過去の記憶に悩まされることをどうにかしたい。
10日間前から気持ちが落ち着かず眠れない。食欲がない。

【体の状態】
首の付け根から右手の指先までマヒしている。
フォークを持ってご飯を食べられる程度にはなんとか指を動かせるが、きわめてぎこちない。

【セッション中の状態】
右手が、Mさんのお腹の辺りでピアノを弾くように「滑らかに動く」という現象が起きた。
右手首が、グッと90度に曲がって呼びかけに反応をした。

私が、Mさんの事例で驚いたのは、体の状態がセッション中、変化したように観察できたことです。
それは、ぎこちない動きをする「Mさんの右手の指が、セッション中には滑らかに動き、手首がグッと90度に曲がり、問いかけに返事をしたのです。

先生、こんな不思議な現象は起こるのでしょうか?
稲垣先生のご意見をお聞きしたいと思い、ぶしつけながらメールを出した所存です。
詳しい内容は、以下の通りです。

Mさんの体の症状について

Mさんは、二年前「エリテマトーデスリウマチ」と医師から診断されました。
Mさんは、「出来れば首の手術をして治るものなら治したい。」と話されていました。

《全身性エリテマトーデスとは》

全身性エリテマトーデス(systemic lupus erythematosus: SLE)とは
全身のさまざまな臓器に炎症や障害を起こす自己免疫疾患です。
特に関節、皮膚、腎臓、神経などを中心に症状が現れます。
(日本リウマチ学会より抜粋 https://www.ryumachi-jp.com/general/casebook/sle/)

 脳 や神経の病変
この部分の病変については、治療手段を決定するのが困難な場合が多々あります。その理由は、以下の項目にあげる症状が、本当にSLE自体によるものか、それとも、併発する他の病気や、薬の副作用によるものなのかを区別しにくい場合が多いためです。

カテゴリーA
上行性脊髄炎・横断性脊髄炎(脊髄の傷害)
脊髄は、脳と体のほかの部分の神経をつなぐ大事な組織です。
ここに炎症が起きて、傷害を受けると、手足が動かなくなり、感覚もおかしくなるなど、重大な障害をひきおこします。

(独立行政法人 国立病院機構 宇多野病院 関西脳神経筋センター リウマチ・関節センター【リウマチ・膠原病内科部門】より抜粋https://utano.hosp.go.jp/html/patient/department/department_04/department_04_01/department_04_01_12.html)


Mさんのセッション内容                             

催眠感受性は良好。
未浄化霊・ご先祖・動物霊を浄霊。

《手の反応》
指(左手)の反応からはじまり、腕全体がゆっくりと動き出す。
左手は、何かを求めて動いている様子。

《セッション中の右手の状態》
私は、「左手」の動きが奇妙に感じ、怨霊が憑依しているのではないか、と考えました。そこで、
「怨霊が動かしていますか?」
と聞くと、左手は反応しました。私は、怨霊を浄霊しました。
怨霊を数体浄霊すると、左手(腕)が全く反応しなくなりました。しばらくすると、クライアントの体越しに何かが動くのが見えます。私は「何が動いたのだろう?」と見ました。

そこには、Mさんの「右腕」がぐっとお腹のあたりまで持ち上がり、ピアノを弾くように指が波打っていました。

私は、
「怨霊が動かしているのですか?」
と聞いてみました。すると、「指」はとても滑らかにピアノを弾くように動きながら、「手首」をグッと曲げる方法を使って反応しました。
私は右手が反応したことに驚き一瞬混乱しました。しかし、今はMさんに憑依している怨霊への対処が先決と判断しました。そこで心を落ち着かせ、浄霊することに集中しました。
それから、セッションが終わるまで右手が応答し動き続けました。


《セッション後》
Mさんは、「体がスッキリした」と言ってから、二週間の前仕事をした現場について話してくださいました。
Mさんは、コンクリートを打つ職人さんでした。
現場は、その昔江戸時代まで「罪人の処刑場」でした。現在は民家は無く、倉庫が立ち並んでいる場所なのだそうです。
Mさんは、ちょっと遠くを見て
「そこから憑いてきたがいね~。」
と一言いわれました。

Mさんは、10日前から体調不良を起こしています。
セッション中、憑依していた怨霊は仕事場から憑いてきたと答えました。
しかも、二週間前Mさんが仕事をした場所は昔「罪人の処刑場」です。
怨霊の仕業で今回の体調不良を起こした可能性があります。

セッションから三か月後、クライアントの奥様に現状を確認しました。
セッション後、「体調も良くなった」と喜んでおられました。


以上が、セッション内容です。

「怨霊」について

「怨霊」も未浄化霊の中に分類されますが、クライアントに説明しやすいように、私は浄霊を望む霊を「未浄化霊」、恨みや辛さを抱え、それを被憑依者に体調不良などを起こして訴えている霊を「怨霊」とわけています。私が「怨霊なのではないか」と考えた理由は五つあります。
**********************************                    怨霊(おんりょう)とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。悪霊に分類される。                      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
***********************************

《「怨霊」と判断した五つの理由》

 腕が、「蛇」のような奇妙な動きをする。                     

 腕の奇妙な動きは、「未浄化霊・先祖」の浄霊後に起こったため、強い恨みを持つ「怨霊」なのかもしれないと考えた。

 Mさんの奥様より「主人は体質上、色んな低級霊に憑かれます。幾度となく神社で除霊してもらっているのですが、今回はそういう類いのものとは少し違うようです。」「食欲も落ち睡眠がとれず、夫婦で睡眠不足で参ってます(^-^;」という内容のメールが届いていた。

4「この手に憑依しているのは、怨霊ですか?」「現場(クライアントが仕事をした土地)から憑いてきたの?」という問いに手が反応した。

 数体浄霊したが、どの怨霊も未浄化霊よりも強烈な痛みと重さを感じる。特に「頭・腰・首」が酷い状態だった。そして、底冷えする霊気に包まれた。(私の体感です)

以上の五つから私は、左手を動かしているのは「怨霊」ではないかと判断しました。

私の体感について

私は、幼少期から「霊感」があり「憑依体質」です。薄っすらと霊の存在を確認する事が出来ますが基本的には、「体」で感じる体質です。
たとえば
・「生霊」を飛ばしている相手がわかる。
・セッション中、前世人格や未浄化霊の体の痛みを感じる。
・セッション中、霊的な存在と直感でコミュニケーションが取れる。
・霊気を体でダイレクトに感じる。
など

個人的な感覚ですので、証拠にはなりませんし思い込みかもしれませんが、私が判断した理由の一つなので書かせていただきました。

「体感」「体の痛み」について

SAM前世療法セッション中に「顕現化した前世人格」や「未浄化霊」たちの痛い場所と同じ所が痛くなります。例えば、頭痛持ちの前世人格なら、私の頭も痛くなります。首を刺された前世人格だと、首が切れたように痛くなります。
生霊が、首を絞める、刺している行為を感じる。

 【筆者注】:宝田さんのような体質はエンパスと呼ばれています。エンパス(empath)」とは、「エンパシー(empathy)=共感、感情移入の力」とも呼ばれる、「共感力、共感力の高い人」という意味の言葉です。 人並みはずれて共感力が高く、生まれながらにして人の感情やエネルギーに敏感な気質の人をそう呼びます。 エンパスには、しばしば近くにいる人と同じ現象がその身に起こると説明されています。宝田さんはエンパス体質に加えて憑依体質のようであり、霊的能力があるように思われます。

 

「直感」について

セッション中、顕現化している前世人格の伝えたいこと(職業や、生きてきた過程、風景)を私の脳裏に直接見せる現象、私の口が勝手に呟く現象が起こります。
私の勝手な妄想では困るので、「本当にそうなのか」顕現化している前世人格に毎回確認を取り話を進めています。

「靈氣」について

セッション中、顕現化させた前世人格に「未浄化霊や怨霊」が憑いていると、周りが底冷えします。ですので、前世人格が訴えなくても「未浄化霊」たちの存在がわかります。

以上が「Mさんの事例」のすべてです。

稲垣先生のご意見をお聞きしたくメールを送りました。
ただ、私のいわゆる「霊感」の部分はなかなか理解してもらえないとわかっていますし、信用してほしいとも言いません。参考程度に見ていただけたらと考えております。

よろしくお願いいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・メール引用終わり

 この宝田昌子さんの質問メールで、思い出したのは、2004年2月に明治学院大学で開かれた第29回日本教育催眠学会の講演で、催眠学者である故成瀬悟策(医学博士)先生の述べられた次のような見解です。

「脳の病変によって動かないとされていた脳性麻痺の動作訓練を催眠暗示でやってみると、動かないとされていた腕が動くようになりました。しかし、脳の病変はそのままです。こうしたことから身体を動かすのは脳ではなく、オレであることに、この歳になってやっと気づきました。私のこの考え方を正当医学は賛成しないでしょうが、21世紀の終わりには、私の言っていることが明らかになるでしょう。・・・脳は心の家来です」        (拙著『前世療法の探究』P.244)

成瀬悟策先生の2004年講演当時の「この歳」とは、75歳くらいだったと記憶しています。

50年間にわたって5000名を越える催眠臨床実験を経て、ついに 「脳と心の二元論」にたどり着かれたことの言明であり、予言だとわたしはとらえています。

この成瀬先生の「脳性麻痺の事例」は、そのまま宝田さんの「Mさんの事例」にも共通することだと言えるでしょう。                              

したがって、「エリテマトーデスリウマチ」の病変によって、わずかしか動かなかったクライアントMさんの腕や指が催眠中に滑らかに動いた超常現象について「こんな不思議な現象は起こるのでしょうか?」という宝田さんの質問に対するわたしの回答は、「催眠中であればまれに起こりうる現象です」ということになります。

 もう一つ「Mさんの事例」で考えねばならないことは、憑依霊とその憑依によって生じる影響の問題でしょう。

このことについて、『 SAM催眠学仮説 その124』の「SAM前世療法の重要仮説用語集」記事の中、「霊体仮説」の項でわたしは下記点線枠内のように述べておきました。

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 霊体仮説

 わたしあて第14霊信(2007年1月25日22:47受信)で次のように告げている。
「霊体は、ある意味においてあなた方があなたという人間であるための意識を独立して持つための役割を担うものでもある。それなくしては、あなた方は個人的意識を持つことはできない」

つまり、霊体(オーラ)には個人的意識が宿っているのである。
「意識」が量子レベルのものであるとすれば、そして、それが脳内に限定して宿るものではないとすれば、「意識が霊体に宿る」という仮説は、非科学的妄想だと一蹴できないであろう。
なにしろ現代科学でも、意識が生み出されるメカニズムも、意識の本体が何であるのかも、今だに一切不明なのである。

「脳が意識を生み出す」という言説は、脳科学研究上の作業仮説にすぎない。そうした前提がないと研究に取り掛かれないのである。
わたしは、脳と意識の密接な「相関関係」を認めているが、それが即「因果関係」だと断定できない。臨床催眠の体験からも、意識が脳の生み出す付随現象だとは考えられない。

そして、未浄化霊や生き霊の憑依する場は、霊体であることが、SAM前世療法セッションの累積から分かってきた。

未浄化霊、生き霊は残留思念の集合体であり、それらマイナスの残留思念が、被憑依者自身の霊体に入り込めば(混在すれば) 、霊体に宿っている被憑依者の思念(意識)に、当然なんらかのマイナスの影響を与えることになる。

気分の晴れない鬱状態などが引き起こされることが多いが、嫉妬や恨みの強力な思念を抱いている生き霊や未浄化霊の憑依は、場合によっては自殺念慮や肉体の部分的な痛み、あるいは一時的な人格変換様の心理現象を起こすことがセッションの累積から分かってきた。

また、霊体と肉体の間には、相互影響関係、相互干渉関係があると考えられるので、霊体に宿る思念(意識)が、憑依によってマイナスの影響を受けると、当然肉体にもそれが及び、体調不良や局部の痛みなどが引き起こされることも出てくる。

「未浄化霊はいつも理解を求めている」とわたしあて第9霊信は告げている。     

したがって、未浄化霊は、理解を求めて理解を得られそうな者に憑依することになる。
セッション中に顕現化した未浄化霊に尋ねてみると、彼らは被憑依者の霊体(オーラ)に宿っている意識内容を感知して憑依をするかどうかを判断するらしい。                                  

こうして霊体(オーラ)に宿る意識を感知し、その者が未浄化霊を理解し、受容的な考え方の持ち主であるかどうかを判断し、憑依するかどうかを決めることになるらしい。

したがって、常に自殺念慮などを抱いている者には、それを感知した自殺者などの未浄化霊が、共感と理解が得られると判断し、当然引き寄せられてくることになる。

顕現化した憑依霊に憑依した場所の確認すると、病死者が多い病院、自殺者が多い場所、交通事故死者の多い場所、過去に刑場であった場所などが挙げられる 。          

口頭で話せる憑依霊に、生前の身元や死に方を尋ね、真偽の検証をしてみたが、事実関係の完全な一致に至った検証事例はいまだない。                     ただし、あと一歩まで迫った検証事例が2事例ある。

わたしは、強いオーラであれば、その色が見えるという能力者10人以上の人から同一のオーラの色を指摘されている。 

ただし、オーラを色としては感知できないが、肉体を包み込む輪郭のある透明体として感知する人もいる。
こうした体験から、わたしは、オーラ(霊体)の実在を認めている。

ところでオーラの映像ではないか、と言われているキルリアン写真がある。

キルリアン写真(キルリアンしゃしん、Kirlian photography)とは、対象物に高周波・高電圧を掛けて発生させたコロナ放電による発光現象を撮影した写真のこと。 撮影時には、周波数 3 kHz 前後・電圧 30 kV 以上が用いられる。 対象物から発散する水蒸気の電離・発光現象を撮影するため、撮影対象物は水分を帯びた物体であれば生体・非生体を問わない(握り締めることにより、僅かな汗を帯びたコインでも像を得られる)
【ウィキペディア記事より】

この記事によれば、コインや腕時計のような非生体でも、キルリアン写真が可能であるので、映っている発光体は、物質としての水蒸気である。
したがって、おそらく、物質に還元できないであろう霊的なオーラの写真ではない、と推測できる。

わたしにとって重要なことは、肉体の故障個所周辺のオーラの色が黒ずんで見える、という複数の報告である。

また、オーラの色が澄んできれいな場合には、肉体の健康状態が良好であると分かる、という報告である。

したがって、オーラの色を澄んできれいな状態にすれば、肉体も良好な状態にできるという報告である。

これら報告は検証の結果、事実だと認めてよいと思われた。
こうした事実から、霊体と肉体の間には、相互影響関係、相互干渉関係があると考えるに至った。
したがって、相互影響関係、相互干渉関係があるということは、霊体と肉体の双方に、何らかの共通する要素なり性質が存在していることを推測させる。
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さて、 以上のような「霊体仮説」に照らせば、宝田さんの浄霊によって、Mさんに憑依していた怨霊が取り除かれた結果、体調の改善が起きたという説明が可能だと思われます。

また、『SAM催眠学序説』その115・118・126・135などをお読みくだされば霊的存在の憑依現象の具体事例が掲載してあります。

こうした、SAM前世療法諸セッションにおいて観察された憑依現象と思われる事実の累積から、わたしが、憑依霊など霊的存在の憑依を認める立場をとる理由は、             

霊的存在の憑依を認めることが、直感に著しく反していないからであり、
霊的存在の憑依と思われる現象が、唯物論的枠組みからは説明できないからであり、
霊的存在の憑依を認めることが、不合理な結論に帰着しないからです。


一般に信じられている言説、つまり、心(意識)は脳の随伴現象であり、脳の死滅とともに心(意識)も消滅してしまえば、生前に経験されたことはすべて無に帰するので、前世の記憶をはじめ死後の霊の存在などは妄想であるという言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている「信念」・「主張」をそのまま表現しているものです。

こうした唯物論の言説自体は、科学的に確定された手続きによって、検証・証明されたものではけっしてないのです。

脳とは別個の実在である「オレ (という意識)」を認める「脳と心の二元論」に立てば、脳の死滅後も「オレ (という意識)」や、そうした意識体である「霊」の死後存続の可能性を全否定することはけっしてできないのです。

故成瀬先生の「脳と心の二元論」の予言にならえば、唯物論に真っ向から対立するわたしの考え方は多くの人々には認めがたいでしょうが、21世紀の終わりには真偽が明らかになる、と思っています。 


2022年2月9日水曜日

ワイス式とSAMの意識現象の相違

SAM催眠学序説 その147

ワイス式とSAMを両方体験したヒプノセラピストの体験記

以下はF子さんと名乗る50代女性の体験記です。                   彼女は、ワイス式前世療法を学んだ現役セラピストであり、SAM前世療法との相違を鮮やかに体験した貴重な体験記と言えます。                       

前ページブログ『その146』と同様に注目すべき部分を注の番号を付けてゴチックで示し解説をしたいと思います。

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こんばんは。9月末にSAM前世療法を受けさせていただきましたF子です。その節は、大変お世話になりました。ありがとうございました。

今まで、ワイス式の前世療法を学んできた私としましては、催眠誘導のアプローチの違いに多少の戸惑いはありましたが、もともと被暗示性の高い私は、スムーズにSAM前世療法の誘導に導かれていくことができました。

先生に、魂の側面である過去世のものを呼び出され、どこの国の人ですか?」と問われ、私の中に「イ」という国のイメージが浮かび、先生から「インド?・・イギリス?・・・・「インカ?」とさらに尋ねられ、まさに「インカ」といわれた瞬間に、私自身が、手で顔を覆い、泣き呻き始めたことに驚きました。(注1)そして、左胸を掻き毟るような動作をして「苦しい・・・」と。

そう彼女は、インカの時代に心臓をえぐられて、生贄になって死んだイルという名の20歳の女性だったのです。

10歳の頃に、太陽の力を受けてそれを人々に伝えるような能力を持ち、生贄になったことも「人々のために自分が死ななくてはならない」と受け止めていたイル。         でも、その死は、やはり辛く、悲しい出来事だったに違いありません。          そんなイルの気持ちが、私の中に次から次へと込み上げてきました。

先生に癒していただき、気持ちが次第に落ち着いていくことも感じることができました。

なぜか、ワイス式の前世療法と異なり、視覚的なイメージが浮かばないのに、感覚で全てがわかるのでした(注2)

そして、イルの過去世の後、先生に現世へ誘導されたにもかかわらず、また違う過去世へといってしまいました。それが、イルとは違い笑えました。

まず、男のような声で唸る自分に驚き、続いて鼻を鳴らしたり、また唸ったり、発する声が完全に男になっていたことに本当に驚きました(注3)                        

彼は、ドイツの木こりでした。                           結局のところ彼はどうしてこの場に出てきたのかわからず、「なんでかな~」と唸りながら、首を傾げていました。                             そして、先生から「また今後ゆっくりお話を聞きましょう」といわれその後、私は現世に戻って来ました。

今回の先生とのセッションは、私にとってとても印象深く、ちょっとした衝撃でした。今までワイス式では、どちらかと言うと「自分で作ってしまっているのではないか」という感覚がありました。(注4)                                   

しかし、SAMでは、誘導から一っ飛びに、その人物になってしまったり、明らかに男の声、しゃべり方になっていることを実感できたからです。

となると、魂の表層のものたちが存在すると私は確信せざるをえません。

また、セッションの機会がありましたら、是非ほかの表層のものたちとの出会いもしてみたいと思いました。

メールで先生が尋ねられておりました「前世想起中の意識状態」ですが、過去世の人物でありながら、過去世を語っている自分をしっかりモニターしている現世の自分がありました(注5)

そして、周りの物音や、話声もはっきり聞こえました。

それにもかかわらず、過去世のその人物はその人物自身を語っていました。

前のメールで、私は、ワイス式では、視覚での映像を見ることができ、SAMでは全く視覚的なイメージがないのに感覚でわかったといっておりましたが、ワイス式でも、視覚的なイメージではなく感覚的なイメージが出るタイプの方もおりました。

私たちが習ったところの先生によりますと、10人の被験者がいて、まず3人が視覚的な人で催眠に一番入りやすい、続いての3人が感覚的な人で次に催眠に入りやすい、そして次の3人が聴覚的な人で催眠に入り、最後の一人は、全く入れないということでした。

私は、今回の経験から、ワイス式のように物語風に催眠へ誘導していく上では、視覚や感覚的なイメージの出方が問題になるかもしれないと思いますが、

SAMのように、「ふっ!」と過去世へ入ってしまうと即、その人物になりきっている。(注6) 見えようが、見えまいが、その人自身であることに、イメージの描きようがない感じを受けました。

そのあたりが、大きな違いのように思えます。

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【解説】

(注1)SAM前世療法の作業仮説では、セッション中の意識は、前世の記憶の想起ではなく、前世人格の顕現化です。したがって、「手で顔を覆い、泣き呻き始めた、「左胸を掻き毟る」ような動作をしている主体は、クライアント自身ではなく、クライアントの肉体を借りて顕現化している前世人格です。                                          こうした感覚の状態は、SAM前世療法に共通してあらわれる現象です。前世人格の語りと、それをモニターしている意識が併存している意識現象は、SAM前世療法独自の意識現象で、前世記憶を想起して語る一般の前世療法にはみられない意識現象です。 

 

(注2)顕現化した前世人格の視覚的なイメージが浮かばないのに、感覚で全てがわかるという意識現象も、SAM前世療法に独特な現象で、おおくの被験者に共通して報告されます。                                     SAM前世療法の仮説では、「魂表層の前世人格と現世人格は、友愛を結び、互いに知恵を与え合っている」、つまり、現世の人格とつながっていますから、前世人格の感覚がそのまま伝わってくるということです。

 

(注3)男のような声で唸る自分に驚き、続いて鼻を鳴らしたり、また唸ったり、発する声が完全に男になっていた」という現象、つまり、顕現化した前世人格の声や素振りに変容するという現象も、SAM前世療法に共通した現象だといえます。           「鼻を鳴らしたり、また唸ったり、発する声が完全に男になっていた」現象は、前述  (注1)と同様に、そのような現象を示している主体は、現世のクライアントではなく顕現化している前世人格だからです。                          

このような現世人格が変容し、前世人格が顕現化している状態を如実に示している証拠映像が、you-tubeで公開している「タエの事例」と「ラタラジューの事例」です。      「タエの事例」時点で被験者里沙さんは48歳でしたが、タエが顕現化すると、17歳のタエの声音に変容していることが確認できます。演技ではないかと疑われて当然ですが、濁流に呑み込まれて溺死する場面で、里沙さんの腹部が苦痛で痙攣を起こしていることを確認しています。                                     このような痙攣は演技できません。

こうした現象をSAM前世療法の独自の術語として「自己内憑依」と呼びます。      「前世人格が生まれ変わりである現世の者の肉体を借りて自己表現する」現象です。   つまり、肉体のない前世人格が現世の者に憑依する現象です。

 

(注4)ワイス式では、どちらかと言うと、自分で作ってしまっているのではないかという感覚がありました」、こうした疑問を覚えて、わたしのSAM前世療法セッションを体験しにおいでなるクライアントは少なくありません。催眠学の明らかにしているところでは、催眠中には創造活動が活発化し、様々な願望が自発的にイメージ化するとされています。

 

(注5)「過去世の人物でありながら、過去世を語っている自分をしっかりモニターしている現世の自分がありました」という意識現象をSAM前世療法では、「三者的構図」と名付けています。                                     

こうした「顕現化した前世人格の意識」と、それを「モニターしている現世人格の意識」という、二つの意識が併存状態になることも、SAM前世療法独特の意識現象です。                                          

つまり、「セラピスト」対「顕現化した前世人格」の対話、それをモニターしている「現世の人格」という意識の三者関係が生じているという構図なのです。                      一般の前世療法では、「セラピスト」対「クライアント」の対話という意識の「二者的構図」で終始セッションが進むわけです。

 

 6(注6):「ふっと、過去世へ入ってしまうと即、その人物になりきっている」という表現は、「ふっと現世の私のモニター意識が気がつくと、前世人格が私に憑依して私の身体を使って自己表現している」とするべきだ、というのがSAM前世療法の仮説の立場からの主張です。

 

【参考】 SAM催眠学序説 その124』より

 「自己内憑依」仮説「前世人格の顕現化」仮説

 
自己内憑依とはクライアントの魂表層を構成している前世人格が、現世の肉体を持つクライアントに憑依をし、自己表現する憑依現象を意味する。

したがって、クライアントが口頭で対話する場合、指で返答をして対話する場合、落涙する場合などの「主体」はクライアント自身の意志ではなく、前世人格の意志なのである

こうして肉体を持たない前世人格は、自己の存在をクライアントの肉体を借りて(憑依して)「顕現化」することが可能になる。

その状況証拠として、前世人格が顕現化中のクライアントの催眠状態を「モニターしている顕在意識」は、勝手に口が開いて喋っている勝手に指が動いて返答している勝手に涙が溢れて泣いている、と認識していたと報告する。
こうした、前世人格の顕現化中の変性意識状態で現れる現象を自動発話自動動作と呼び、前世人格が「自己内憑依」を起こし、顕現化している指標の一つとしている。

要するに、「自己内憑依」が起こった結果、「前世人格の顕現化」が可能になる。

「前世記憶の想起」が前提のワイス式前世療法では、「自動発話」、「自動動作」という現象は起きない。
なぜなら、セラピストの対話相手は終始クライアント自身であり、クライアントは前世記憶のイメージを自分自身の記憶として、想起し、語る。
したがって、語る主体は、終始クライアントであり、前世の人格そのものではないのである。

一般に憑依とは、「当事者以外の第三者の霊が憑依すること」を意味している。
したがって、現世人格の内部(魂表層)に、意識体として存在している前世人格が、生まれ変わりである現世の肉体に憑依する、という意識現象はこれまで知られていない。

SAM催眠学では、これまでの第三者の霊の憑依と明確に区別するために、独自・固有の概念を持つ用語としてあらたに「自己内憑依」と呼ぶことにした。

 

「三者的構図」仮説

三者的構図」とはSAM前世療法セッションにおける、「セラピスト」、「クライアント」、「顕現化した前世人格」の三者関係を意味するSAM催眠学の用語である。

「前世の記憶を想起する」という仮説によっておこなわれる一般の前世療法のセッションにおいては、「セラピスト」対「クライアント」の二者関係(二者的構図)によって終始展開される。
SAM前世療法セッションでは、この「二者的構図」が、前世人格が顕現化した後半から、SAM前世療法の「前世人格を呼び出し直接対話する」という独自の仮説によって起こる、特異な「三者的構図」に移行されるのである。                      
 
セッションの前半では、セラピストのわたしはクライアントの催眠深度を深めるためにクライアントに対して、つまり、二者関係で、「魂状態の自覚」に至るまで徹底して催眠深化をおこなう。                                     「魂状態の自覚」が確認でき、魂表層に存在する前世人格の顕現化に成功した時点で、わたしの意識は、それまでのクライアントを相手にすることから、顕現化した前世人格を相手に対話をすることへと変換する。
 
この変換によって、「わたし」対「前世人格」の対話、それを傾聴している「クライアントの意識」という三者的構図に移行してセッションが展開する。この間、「クライアントの意識」はひたすら傾聴するのみで、わたしと前世人格との対話に干渉することはできない。

 前世人格は、クライアント肉体を借りて自己表現しているのであって(自己内憑依しているので)、対話している主体は前世人格であって、クライアントではないのである。

こうした消息をありのままに報告し実証してくれた、「ラタラジューの事例」の被験者里沙さんの体験報告の抜粋を以下に掲載する
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

カルパナさん(ネパール人対話者)がネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。

ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
前世記憶の想起を前提にしたワイス式前世療法では、このような三者的構図は起こりようがない。ワイス式では、セラピスト対クライアントの二者構図で終始するからである。
 こうして、前世人格との対話が終結したところで、前世人格には魂表層のもとの位置へと戻ることを指示し、代わりに魂表層の「現世の者(人格)」と交代してもらい、解催眠の手続きに入る。

 

以上、前ページ『SAM催眠学序説 その146』と今回の『SAM催眠学序説 その147』で二人のSAM前世療法の体験記録で検証してきたように、SAM催眠学の仮説に反する意識現象の事実は、現時点で確認されてはいません。

 

 


2022年1月13日木曜日

典型的なSAM前世療法体験記

SAM催眠学序説 その146 

ここに紹介するのは、30代後半の女性クライアントの体験報告です。     催眠中の意識状態が克明に報告されており、SAM前世療法の作業仮説の検証事例として貴重なものですので紹介します。                   また、彼女には健全な懐疑精神の持ち主であることが文面から伝わってきますので、信頼に足る報告だと判断しています。                

なお、ゴチック部分と赤字の注は解説のためのものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5月30日に初めてセッションを受けました。                 以来、様々な状況の変化が起こっています。この場をお借りし、報告させていただきます。

SAM前世療法を受けたきっかけは、昨年秋に事件に巻き込まれ、その後遺症にずっと苦しんでいたからでした。

私は催眠にかかりにくいのではないかと不安もあったのですが、先生から催眠感受性は高いとおっしゃっていただき、少しホットしました。                   ただし憑依があると浄霊が必要であるとの説明を受け、イヤな予感がしました。

セッションが始まりましたが、なかなか過去世の人格が出てきません。
意識は普段と変わりなく鮮明なため、焦ってきました。

未浄化霊か?との先生の質問に、指が反応したときには・・・もう恐怖でパニックになりました。ビビリなんです。

先生が、戻るべき場所へ安心して行くよう未浄化霊に諭している間、
「そうそう、行ってちょうだい!!」
と、私は心の中で懇願していました。

しかし、思ったほど怖くないかも・・と冷静になってきました。                        

浄霊が終わったと同時にスーッと肩の力が気持ちよく抜けました。                    

すると一筋の涙が頬を伝いました。私が悲しいわけでは全くありません。       (注1)

実体はよく分かりませんでしたが、魂の存在という意味では私達生きている者と同じであり、同じ悲しみ、孤独を抱えていた魂なのかな・・・。                            

この機会に戻るべき場所に戻れてよかったな・・と思いました。

いよいよ過去世の登場です。

指で反応するか話すか先生に質問されました。                                             

当然指で答えるのだろうと思っていましたが、言葉で話すと首がこっくり頷きました。   

「うそ大丈夫!?」心の中でツッコミました。

先生がヨーロッパ、アジア・・・と質問しますが反応しません。一巡してヨーロッパのところで頷きました。                          次に先生は国名を挙げていきます。                                                           

その時から、唇がもぞもぞ勝手に動き出しました。(注2)                       

親不知を抜いたときに麻酔で唇が思うように動かない状態と少し似ています。                                               

自分の意志ではなく、小さく唇が歪んだり開いたり準備運動のようなことをし始めました。

すると「グィー・・」と言い始め、都市名のところで「アティッ・・」と言いました。                                                                                                     

先生に「ギリシャのアテネ?」と聞かれ、「その発音じゃないんだけどなあ・・」と私は何となく感じ、過去世の者も何度も正しい発音にこだわるように声を発しました。                                                                                                           

そして先生から質問を受けると・・・・
意味不明な言語を勢いよく話し出してしまいました。
「うわっ!なんじゃこりゃっ!」
自分でも予想外でした。                                                                                              私は都市名の発音も瞬時に忘れてしまっている状態で、「今後も質問に答えられるのだろうか?」と心配になりました。                                                                                          

しかし、先生に再び質問されると「アティッ・・」と自然に口をついて出てきまた。        

  「もう流れに身を任せるしかないなあ・・」と思いました。

 
以後は先生の質問に、異国?の言語で答えるというやりとりだけが続きました。          

よくしゃべるのですが、話の詳細は私には分からないのです。(注3)

 国名や都市もギリシャのアテネとは断定できない感じでした。

前世の人格は女性で子どもがおり黒髪、夫は支配者階級であること、霊能力のため幽閉され殺されたらしいことは何とか分かりました。

先生の質問は理解できるようですが、ただ日本語で答えられないので過去世の人格ももどかしそうでした。

死亡した年齢を聞かれて、私も非常に興味があったのですが、「○※・・」と答えるだけです。                                                                                                   「で・・一体あんたは何歳で死んだの~!?」と、私は心の中でツッコむだけでした。                                       過去世の「だって・・・○※なんだもん・・」と困惑した気持ちだけが伝わってきました。                                 悲しみや怒りの感情は、泣いたり顔をしかめたり、早口になったりするので分かりました。

先生から好きな食べ物や父母兄弟などの呼び方を質問されると答えるのですが、それが見当はずれなのかどうかさえ私には分かりません。                                                                       

ただ、外国語講座のように、必ず二回以上ゆっくり発音するなど正確な発音へのこだわりをみせ、「親切で根気のいい人だなあ・・・」と感心しました。             ついでに自分とそういうところが似ている・・短気なところも・・なんて思いました。

そして、過去世の人生の核心に迫りました。

昨年の事件の加害者から、この時代でも同じ被害を受け、今世はそのリベンジだということでした。                                         先生の質問に強く頷き、感情をあらわにするので、このあたりは分かりました。     時代は紀元前のようで、「2000年以上の時を越え、魂の成長をかけて戦うのか・・・あわわ・・・」と少し気後れしましたが、妙に納得もしました。                霊能力の封印も解かれたようでした。

ヒーリング後、守護霊とのコンタクトでは、いくつか心の中で問いかけると首が頷くという形で反応がありました。                              あんまり頷いてばかり(yes)のため、「いい加減だな・・自分で適当に頷いちゃってるんじゃないの?」と思いましたが、そのうちの一つは反応の通り先月実現したので、その他の質問についても経過を見守っているところです。

そしてSAM前世療法の神髄は、セッション後に日毎に現れてきました。

まず、現在置かれている状況が激変し始めました。

日替わりメニューのように次々と難問に直面もするのですが、思ってもみない人の優しさや協力も得られるようになりました。

その度ごとに動揺もするし、「今回ばかりはそれ、ナシじゃないのか?」と弱気にもなるのですが、2000年持ち越した課題だと思うと・・・半ば開き直りで受けてたつ決心が固まるようになりました。

不思議と後遺症の症状は徐々に減少してきたのですが、やはり自分の心身のコンディションによって大きくうずくときがあります。

「辛いな・・」と思った際に、何気に守護霊とのコンタクトを思い出し、問いかけてみました。すると、

「手を胸に当て癒しなさい。自分を信じ切れないから胸が痛むのです。もう大丈夫です・・・」とメッセージのようなものがありました。                  実際その通りにしてみると、自然と落ち着くようになりました。            

しかし、それで症状が完全に消失したわけではありません。              魂の傷は、癒す過程にこそ成長があると先生の霊信であったように思いますが、確かにそうだと思えます。

守護霊との対話は、想念を感受したと同時に自分が言葉に置き換えているような感じに近いです。                                        こちらが求めなければメッセージはありません。
自分自身に問いかけ自分で答えを出しているようにも思えるため、「本当に守護霊なの?」と疑いました。

異国の言語にしても、「エクソシストみたいになったらどうしよう・・。録音を逆送りにしたら実は悪魔語だったりして・・・。そのうち首がグルグル回りだして緑の液体吐き出すのかな・・。」とビビリまくりです。

セッション後の自分の内なる変化についていけず、猜疑心丸出しの日々が数日ありました。しかし、辛いときに問いかけると常に優しく返答がありました。

「心の言葉が私であってもあなたであってもどちらでもよいではないですか。あなたの内なる声だと思っても良いでしょう。                          異国の言語かどうかも気にすることではありません。                 あなたにそれが起こったことで、人生が急展開している。                  その現実の方に目を向けなさい。                             今、課題にむかって生きていけること、そのために支えてくれる人がいること、孤独ではないこと(目には見えない存在の守護があると感じられること)を実感できる幸せが、今一番大切ではないですか。(注4)                               後は先生の専門分野です。                             心配いりません」

このメッセージは、得にはなっても害はないので、素直に受け入れることにしました。

問いかければいつでも答えは自分の中にある・・・そして守護霊は24時間営業・・・。その状態は贅沢のようにも感じます。                          しかし、すべての人に守護する魂があるはずだと思うと、特別なことではないと思えます。 

SAM前世療法は、魂の自己治癒力を開花させるような無限の可能性を感じます。
そしてその結果、それぞれの魂の持つ独自のパワーを、他者にも還元できるように感じています。

先生のセッションを受けられた幸運に感謝です。
                                          セッションを受けたみなさんにも人生の転機が訪れているのだろうと思うと感慨ひとしおです。そういった方々が今後も多く誕生することを願ってやみません。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【解説】

浄霊が終わったと同時にスーッと肩の力が気持ちよく抜けました・・・私が悲しいわけでは全くありません(注1)未浄化霊の浄霊後、肩の力が抜けた、肩が軽くなったという報告は共通してあるものです。未浄化霊は、霊体(オーラ)に憑依していると言います。霊体にクライアントの意識が存在しており、それに憑依霊の意識とが併存状態になっているので、一筋の涙を流した意識の主体は、憑依霊であろうと推測され、したがって、クライアントの悲しみの意識ではないのです。

 唇がもぞもぞ勝手に動き出しました(注2)SAM前世療法の作業仮説では、前世の記憶の想起ではなく、前世人格の顕現化をめざします。したがって、唇をもぞもぞとさせている主体は、クライアント自身ではなく、クライアントの肉体を借りて顕現化している前世人格です。その感覚を勝手に動き出しと表現しているのです。こうした感覚の状態は、SAM前世療法に共通してあらわれる現象です。前世人格の語りと、それをモニターしている意識が併存している意識現象は、SAM前世療法独自の意識現象で、前世記憶を想起して語る一般の前世療法にはみられない意識現象です。 

3・・・話の詳細は私には分からないのです。(注3)詳細な「話」をしているのは、顕現化した前世人格ですから、クライアントは、前世人格に声帯と舌を貸しているということです。したがって、クライアント自身の話ではないので話の内容が分からないという事態が起きているのです。こうした意識状態は、「ラタラジューの事例」で、ラタラジューの会話しているネパール語の内容が里沙さん自身には分からなかった、という被験者里沙さんの報告と一致しています。

今、課題にむかって生きていけること、そのために支えてくれる人がいること、孤独ではないこと(目には見えない存在の守護があると感じられること)を実感できる幸せが、今一番大切ではないですか。(注4)こうした意識現象が、はたして守護的存在からのメッセージであったか、クライアントの主観かどうかの真偽の判断は留保とするしかありません。そして、わたしのセッション体験では、守護的存在が細々したことを告げることや、あれこれ命令や指示することはまずありません。こうした点で信憑性があるメッセージだと思われます。

さて、付記しておきますと、このクライアントの前世の女性は「ティルソバイ」と名乗っており、古代ギリシャ語らしい異言で、わたしと流暢な会話をしましたが、それが真性異言であるのかどうかの確かな検証はできませんでした。

 

【参考】 SAM催眠学序説 その124より

自己内憑依仮説」と前世人格の顕現化仮説

 「自己内憑依とはクライアントの魂表層を構成している前世人格が、現世の肉体を持つクライアントに憑依をし、自己表現する憑依現象を意味する。

したがって、クライアントが口頭で対話する場合、指で返答をして対話する場合、落涙する場合などの「主体」はクライアント自身の意志ではなく、前世人格の意志なのである

こうして肉体を持たない前世人格は、自己の存在をクライアントの肉体を借りて(憑依して)「顕現化」することが可能になる。

その状況証拠として、前世人格が顕現化中のクライアントの催眠状態を「モニターしている顕在意識」は、勝手に口が開いて喋っている勝手に指が動いて返答している勝手に涙が溢れて泣いている、と認識していたと報告する。
こうした、前世人格の顕現化中の変性意識状態で現れる現象を自動発話自動動作と呼び、前世人格が「自己内憑依」を起こし、顕現化している指標の一つとしている。

要するに、「自己内憑依」が起こった結果、「前世人格の顕現化」が可能になる。

「前世記憶の想起」が前提のワイス式前世療法では、「自動発話」、「自動動作」という現象は起きない。
なぜなら、セラピストの対話相手は終始クライアント自身であり、クライアントは前世記憶のイメージを自分自身の記憶として、想起し、語る。
したがって、語る主体は、クライアントであり、前世の人格そのものではないのである。

一般に憑依とは、「当事者以外の第三者の霊が憑依すること」を意味している。
したがって、現世人格の内部(魂表層)に、意識体として存在している前世人格が、生まれ変わりである現世の肉体に憑依する、という意識現象はこれまで知られていない。

SAM催眠学では、これまでの第三者の霊の憑依と明確に区別するために、独自・固有の概念を持つ用語としてあらたに自己内憑依と呼ぶことにした。

 

2021年12月2日木曜日

生まれ変わり証拠映像公開の困難性

SAM催眠学序説 その145

 

わたしのもとへ、覚醒中に異言らしきことばを話せるので検証してほしい、という依頼がたまに舞い込みます。
わたしは、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。

また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言で応答的に会話するのでなく、単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。

また、実際の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例で、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
こうした事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国語のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。

こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学的検証対象になりません。

さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえませんし、そうした事例は発見されていません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は「暗黙知」と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。

しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
わたしの知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」のみです。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと認めてよいと思っています。

しかし、「ラタラジューの事例」の検証とセッション映像の公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。

①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。

②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。

③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。

④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。

⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。

⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。

⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。

⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。

⑨学会発表、出版、TV出演および、you-tube公開などを、本人・ご主人・子どもたちから許可を得ること。

⑩TV出演に対する心ない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。

ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの費用がかかりました。
応答型真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。                           科学的検証のために先立つものはまずはお金なのです。

また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。

また、アンビリを視聴したご近所の人たちから、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセや売名行為だという陰口が聞こえてきたということです。

また、アンビリを視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが今後不幸にさらされるようなことを予言しています。

これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。

「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公開されることはなかったのです。

さて、「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、明らかになってきた「諸意識現象の事実」を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとするものです。つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです。

ここで述べている「意識現象の事実」とは、「生まれ変わりを示している意識現象の事実」を指していますが、その実証的根拠こそ、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」の両事例です。

もし、この両事例に出会うことがなかったなら、わたしは、生まれ変わりは科学的事実だ、などという大胆な主張は到底できなかったでしょう。

当然のことながら、「生まれ変わりの事実」を、「一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試み」である「SAM催眠学」、つまり、唯物論に真っ向から対立する主張もできなかったでしょう。

したがって、とりわけ超ESP仮説を打破する応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの事実を探究する「SAM催眠学」の構築とその展開にとってまさに生命線です。

「ラタラジューの事例」について、唯物論側からの数々の反論・批判に対して、「SAM催眠学」からの再反論の応酬をしてきました。
そのまとめが『SAM催眠学序説その117』に掲載してあります。

ただし、諸反論のほとんどは、わたしの提示している一次証拠(具体的事例で示した証拠)に一切触れない、実証なき観念論(「仮説」でもなく単なる「憶説」)です。      したがって、独断的に反論できたつもりでも、説得力はまったくありません。

ぜなら、否定されていない一次証拠は、肯定されていると見做され、生まれ変わりの科学的証拠として、相変わらず存在し続けているからです。               。

 ところが、「ラタラジューの事例」の、事例そのものの客観的事実を認めない、つまり、なんらかの作為によるでっち上げではないか、という疑いをもつ人が少なからずいるようです。

たとえば、「SAM催眠学序説その99」の前の記事である「おことわり」の記事のコメント「習っていない別国の語学が話せるというような現象も、ネス湖の怪獣問題のように何かの少しの嘘脳機能の評価不足などの間違いなどではないでしょうか!!人は利害などでよく偽りがそのつもりがなくとも出てもきます」などに類する主張です。

こうした批判者はネット上の匿名性をいいことに、無責任で、言いたい放題をやっている輩ですからまともに相手にするのも大人気ないと思うのですが、両事例の当事者である里沙さんの名誉のためにヤラセ疑惑を払拭する確認をしておきます。

両事例を、生まれ変わり仮説を支持する科学的諸検証の結果から導かれた結論である、と主張していること、つまり、反証可能性にひらかれた形で、セッション記録映像のyou-tubeでの提示と、2冊の拙著『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』の文字記録によって具体的に提示しているので、それらの提示された具体的諸証拠によって他者に対して、「反証可能性」にひらかれているのです。
 

反証可能性(はんしょうかのうせい、: Falsifiability)とは、

「科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説実験観察によって反証される可能性があることを意味する。
ある仮説が反証可能性を持つとは、その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性があることを意味する。
例えば、「明日、太陽から昇る」という仮説は、「明日、太陽が東から昇らない」という観測によって反証されるかもしれない。
これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ」
 

というわけですから、「タエ」、「ラタラジュー」の具体的両事例にもとずく「生まれ変わり」の実証的主張は、生まれ変わりを示す映像記録と文字記録の具体的諸証拠の提示によって反証可能性にひらかれています

したがって、わたしの主張に対して、ヤラセや欺瞞であるという反論をするからには、わたしの提示した具体的諸証拠に正対し、ヤラセや欺瞞があることを立証しなければ、正しく反論たりえないのです。
正当な反論とは、そのような立証責任がともなうというのが反論のルールだということです。

にもかかわらず、反証抜きでヤラセや欺瞞を主張することは、単なる言いがかりに過ぎません。
おそらく、生まれ変わりの科学的事実を認めることに、強い恐怖、あるいは不安に駆られているのか、唯物論信仰にヒビや動揺が生じ、いわゆる「認知的不協和」による強迫的観念に怯えるからだと思われます。

あるいは、アンビリは娯楽番組であるから、おもしろおかしくヤラセを演出しているに決まっている、という偏見による先入観からの短絡的感想・主張かも知れません。
しかし、ヤラセの主体が、フジTVのアンビリ制作スタッフであるとするなら、見当違いも甚だしいと言わねばなりません。

「タエの事例」が放映されたのは2006年10月ですが、研究のために、この実験セッションの映像が撮影されたのは2005年6月です。
翌2006年5月に、「タエの事例」を収載した『前世療法の探究』が出版され、それを読んだアンビリ制作スタッフから、セッション記録映像提供の依頼が来たのが、2006年7月です。
つまり、「タエの事例」の映像撮影時点で、アンビリがヤラセなどに関与できるはずがなく、アンビリ制作スタッフによるヤラセの可能性は100%ありません。

ただし、わたしの提供したセッション記録映像の音声に1個所、わたしの了解なしにタエの音声を削除した部分があります。
タエは人柱になった理由を、「水が止まってあぶないので、上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」と語っていますが、「上の村が水にやられるので」の音声が削除されています。


おそらく、タエの人柱がタエの住む渋川村を洪水から守るためのものという筋書きのほうが視聴者が分かりやすいという判断があってのことでしょう。

「ラタラジューの事例」も同様の経緯があり、アンビリ制作スタッフによるセッション記録撮影時点のヤラセなど関与の余地は100%ありません。
なぜなら、「ラタラジューの事例」の実験セッションの撮影がされたのは2009年5月であり、その後にセッション映像提供のオファがあり、アンビリ放映は翌2010年8月です。

この事例がアンビリ放映に至ったのは、真性異言研究チームの末武信宏医師が知り合いの学研編集者に「ラタラジューの事例」を紹介し、2010年3月、学研の雑誌『ムー』によって「ラタラジューの事例」が特集掲載され、それを読んだアンビリスタッフからセッション映像提供の依頼が同年7月にあり、2010年8月に放映に至ったという時系列の経緯があるからです。

したがって、「ラタラジューの事例」のセッション記録撮影時点で、アンビリ制作側が、ヤラセなどの関与ができる余地はまったくありえません。

ただし、「ラタラジューの事例」の映像編集されたナレーションの中に、アンビリスタッフの依頼によって、フラッシュバックするナル村風景を里沙さんにスケッチしてもらった、というくだりがありますが、これは事実と異なります。

フラッシュバックするナル村風景のスケッチを里沙さんに依頼し、それ保管していたのはわたしです。
アンビリ制作スタッフが、ナル村の現地取材に入るというので、それならこのスケッチ風景に該当するナル村風景の有無を検証してほしい、とわたしがスタッフに預けたというのが真相です。

というわけで、アンビリ制作側からヤラセを企てることは事実関係から、一切ありえません。

とすれば、残るヤラセの可能性は、わたしと里沙さんが共謀して、タエの人柱物語を作話した、また、ラタラジューのネパール語会話の特訓をし、台本をもとにネパール語対話者カルパナさんとのネパール語のヤラセ会話セッションを捏造したという疑いになります。

しかし、こうした疑惑、つまり、被験者里沙さんは、実験セッション以前にタエに関する諸情報やネパール語についての諸情報を入手していたのではないか、という疑惑については、詳細な生育歴調査と、ポリグラフ検査鑑定によって明確に否定されています。

また、「タエの事例」では、岐阜県多治見県病院消化器外科部長医学博士酒向猛医師、市川千秋皇學館大学教授、小野口裕子可児市教育委員長、「ラタラジューの事例」では、大門正幸中部大教授、同大学岡本聡准教授、医学博士末武信宏医師などが、見学者として同席しています。

社会的地位のある複数の人たち全員が、ヤラセを納得し加担する可能性は、常識的にありえるはずがないでしょう。

そのように受け取ってもらえるように、後々このセッション証拠映像にヤラセや欺瞞の疑惑をかけられないように、社会的地位のある複数の見学者の同席を許可したという意図があるのです。

ここまで説明しても、ヤラセ疑惑を払拭していただけないとすれば、いったいどのような説明や証明をすれば疑惑が晴れ、生まれ変わりの可能性を認めるのですか、とお尋ねしたいと思います。

もはや「縁なき衆生」と言うべきでしょう。

わたしが、生まれ変わりの実在を認める主張をしている理由は、

①これまでのクライアントにあらわれる霊魂に関する「意識現象の事実」を、魂の実在や生まれ変わりの証拠として認めても、直感に著しく反していないからであり、            

②霊魂の実在と生まれ変わりを事実として認めることが、不合理な結論に帰着しないからであり、                                     

③前世人格の顕現化という霊的現象(とりわけ応答型真性異言現象)が、唯物論的枠組みからはどうしても説明できない、

からです。

 

【追記】                                    you-tube公開の「タエの事例」「ラタラジューの事例」の映像編集はSAM催眠塾生Y氏、「ラタラジューの事例」の英語版編集はY氏の妹さんに全面的なご協力をいただきました。 ご両人のご協力がなければ、you-tube公開はできなかったでしょう。           

この場を借りてあつくお礼申し上げます。

2021年10月18日月曜日

わたしの生まれ変わり探究の原点

 SAM催眠学序説 その144


2005年の「タエの事例」から16年、2009年「ラタラジューの事例」から12年を経て、セッション当初は謎であったことを少しずつ解いてきました。

わたしは、この両事例の徹底的検証の結果をもって、現時点で少なくとも被験者里沙さんには、生まれ変わりが科学的事実として認められる、と宣言してよいと思っています。
生まれ変わりは、「信仰」などではなく「科学的事実」である可能性が高いのです。
そして、被験者里沙さん一人に起きている生まれ変わりが、他の人たちにも起きている蓋然性も高いと考えていいと思っています。

なぜなら、他の人たちのSAM前世療法セッションにおいて、ラタラジューを呼び出したと同様の手続きによって、ラタラジューと同様の前世人格が顕現化するからです。
つまり、魂状態の自覚に至れば、魂の表層に存在する前世人格の顕現化が間違いなく起こるからからです。

これまで20名を越える医師・大学教員など知的レベルが高く、容易にSAM前世療法の作業仮説を認めることはなさそうなクライアントであっても、作業仮説どおりの意識現象の事実、つまり「魂状態の自覚」と「前世人格の顕現化」、および「守護的存在との出会い」などが起こっています。
こうして、SAM前世療法セッションを体験された国立大1名、私立大2名の大学教授がわたしの主宰している催眠塾に入塾しSAM前世療法の作業仮説と技能を学ばれました。

この意味で、SAM前世療法には、その作業仮説と技能を学び、同様の手続きによれば、同様の結果がだれにでも得られる、という「再現性」があります。

しかしながら、検証可能な具体的内容を語る前世人格は、きわめて稀であることも事実です。
とりわけ、催眠中に起きた応答型真性異言は、イアン・スティーヴンソンの公表している2事例を加えても、世界で3事例しか在りません。
しかし、検証できないからといって、顕現化した前世人格がフィクションであるという断定は、「ラタラジューの事例」を前にしては、できるとは思われません。

こうした、幾多のセッションに現れた意識現象の累積から、わたしが、魂と生まれ変わりの実在を認める立場をとる理由は、

それが直感に著しく反していないからであり、

それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、

その霊的現象が唯物論的枠組みからは説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、わたしの守護霊団を称する通信霊の告げた、魂と意識の所在の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。

ラ タラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが、ネパール語の真性異言で会話した証拠映像を前にして、魂や生まれ変わりの実在を 回避するために、心理学的概念を駆使してクライアントの霊的な意識現象に対して唯物論的解釈をすることは、現行唯物論科学の知の枠組みに固執し束縛された不自然な営み だ、とわたしには思われるのです。 

そして、クライアントの示す意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂や生まれ変わりの実在を認めることを回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって顕現化した前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得できる説明ができるのでしょうか。

ち なみに、生まれ変わりの科学的研究者イアン・スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をも う一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』P11)と解釈し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書P9)と呼んでいます。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法におけるわたしと同様のとらえ方をしています。

おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。

「タ エの事例」と「ラタラジューの事例」は、わたしにとって、まさに掌中の珠であり、わたしのセラピスト人生で遭遇した僥倖でした。
イアン・スティーヴンソンが世界中を二十数年かけて探し求め、わずか3事例しか発見できなかった応答型真性異言を、わたし自身のセッションで直接自分の手で確認できるなどということは想像すらできなかっ たことでした。
しかも、「ラタラジューの事例」は、応答型真性異言発話中の世界初の映像証拠を残しています。
ただし、「タエの事例」にしても「ラタラジューの事例」にしても、当の前世人格の実在が文書等の記録ではどうしても確認できませんでした。

生 まれ変わりを裏づける科学的証拠のような重大な問題においては、完璧なもの以外は証拠として受け入れられないと批判されるのであれば、この問題がきわめて重要であ るからこそ、不完全なものであろうが可能性を示す証拠については、科学として検討するべきだと考えます。
細部が不明、不完全であるという欠陥があろうと、 重要なことについて確実なことを示す事実にこそ意味があると考えます。
そして、不完全であっても、重要なことについて確実なことを示す生まれ変わりの証拠は、これまでの海外の事例の諸研究によって、その証拠を根拠に生まれ変わりを認めることが自然ではないかと考えられるだけのものが蓄積されています。

さて、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、それぞれ2006年、2010年にアンビリバボーに取り上げられ、証拠映像が部分的に放映されています。
セッションの全容でなく部分的放映であったがゆえに誤解が生じ、様々なご意見をいただきました。
そこで、両事例の全セッション映像を、ほぼ1年かけてyou-tube公開用に制作してきた仕事が完成しました。
 
わたしは、自分では、けっして「生まれ変わり研究」オタクではないと自認しています。
わたしをとりまく政治・経済の問題、原発問題、国家の安全保障問題等の諸問題について人並み以上の関心を寄せています。
そして、現状の日本と世界の先行きに不安と危機感を抱いています。

生まれ変わりが事実であること、霊的存在が実在することを証明し、発信することは、こうした現実の諸問題と無縁な、一見浮き世離れした暇人の仕事に思われるでしょ うが、生まれ変わりを事実だと認めるならば、人間の生き方に対する見方、考え方は言うに及ばず、自然界のあらゆるものに対する見方、考え方も根本的な変更を迫られ るはずだと思っています。
 

生まれ変わりを事実だと認める人々が、必ずや当事者性をもって、自分が生まれ変わるはずの地球、世界、日本の未来を真剣に考え、「生まれ変わる自分のために」、必要な政治的諸行動や経済的諸活動、諸学問研究活動をおこなうだろうと期待をしています。

そして、何よりも、死後は無に帰するわけではなく、魂と呼ぶ意識体は死後も存続し、時を経て新しい肉体を得て再び生まれ変わることを、科学的事実として認めることは、わたし自身の救いでもあります。
 

わたしは小学校6年生の冬に、可愛がってくれた祖父の遺体が焼かれていく有様を遺体焼却炉の覗き穴から目前で見てしまって以後、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に出会うまで、死ぬことに対して極端な恐怖を抱いて生きてきた情けないほどの臆病者でした。
わたしは、「死ぬことなんか怖くない」と公言出来る人をどうしても信じられない臆病な人間です。
「帰無仮説」によっては、人間は、少なくともわたしは、けっして救われることはないと思い続けていました。
死があるからこそ生を充実する、などの言辞は、現実の死を目前に突きつけられたことのない、死を観念的にしかとらえていない人間の戯言に思えたのです。

死んだら最後、愛する者たちと永遠に別離しなければならないと考えることは、まさに寂寥と悲痛の極みであり、ニヒリズムに落ち込むこと、鬱状態に落ち込むことを繰り返してきました。
その悲痛を忘れるために、大型バイクをすっ飛ばしたり、疲労の極まで泳いだり、足腰が立たないほど山に登ったりしたのだろうと思います。薬物が手軽に手に入れば、やっただろうと思います。

だからと言って、わたしは宗教に救いを求めるという心性を持てない人間です。
「生まれ変わり仮説」の科学的・実証的探究を続けているのは、自分の手で確認し、何よりもわたし自身が納得でき、悲しみから救われたいからです。
だからこそ、生まれ変わりという重要な問題を科学の方法を用いて執拗に真剣に探究することが続けられるのだと思っています。

生まれ変わりなど絶対に認めたくない人は、生まれ変わりを否定する証拠をもって反論する以外に方法はありません。
「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を、生まれ変わりの証拠として絶対に認めたくない人のために、具体的反証可能性にひらかれているという意味をこめて、セッション全容の証拠映像の公開が必要であると思ってきたところです。その思いがやっと叶いました。

生まれ変わりについて真面目に考えている、できるだけ多くの人に見ていただきたいと思っています。

公開動画は http://samzense.blogspot.jp/p/blog-page_21.html です。

2021年9月23日木曜日

比較:SAM前世療法と一般の前世療法

SAM催眠学序説 その143


前世人格と対話する「SAM前世療法」には、前世記憶を想起する一般の前世療法と比較して、いくつかの特徴が指摘されています。

前世の記憶を想起させる一般の前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。
両方の前世療法を経験したクライアントは数十名にのぼります。

この両方を経験したクライアントによって報告される共通項は次のように二つあります。

①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAMの場合、一般の前世療法と比べて、明らかに深いレベルの意識状態に入ったという自覚がある。

②前世の記憶を想起する前世療法では、セラピストの質問に対して口頭で答えられるのに、SAMの場合に魂状態の自覚に至ると口頭で答えることができなくなる。


さて、①について、一般の前世療法では、心理学系催眠法の「標準催眠尺度」によって確認されることなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至って前世記憶の想起がおこなわれているのかが不明です。

かつて、わたしが前世の記憶想起をねらう一般の前世療法でおこなっていたときでも、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策医博の「標準催眠尺度」を用いて確認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行してもらい、「子宮に宿る前の記憶がもしあれば、そこへに戻ります」という暗示をしていました。

しかし、わたしの知る限りにおいて、催眠深度の確認がされない一般の前世療法体験者の意識の体験内容からは、「記憶催眠」より浅い催眠深度でセッションがされている印象を受けます。

一般の前世療法の体験者報告では、SAM前世療法のほうが明らかに深い意識状態だという報告が相次いでいるからです。

ちなみに、かなり著名な、一般の前世療法女性セラピストが、SAM前世療法を初体験して、こんなに深い催眠状態は初めて体験したと自身のブログで語っています。

催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されるようになります。
つまり、五感のさまざまな知覚(幻覚)を、暗示によってつくり出すことが可能です。

また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
それで、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が意図的にイメージをつくり出しているという自覚をもつことはありません。
つまり自発的なイメージが架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた前世の真実の記憶がイメージ化して見えてきたという錯覚をもつ可能性を排除できません。

こうした事情はSAM前世療法でも同様でしょう。

クライアントに顕現化した前世人格とは、クライアントの願望が投影された架空の人格であり、そうした架空人格の役割演技としての語りである可能性を排除できません。

ただし、SAM前世療法では被験者リサさんに顕現化した「タエ・ラタラジュー」の両前世人格の語りを検証して、語り内容の事実の信憑性が極めて高いという検証結果を確認しています。

こうした催眠中に現れる自発的イメージ体験の性格を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶はセラピストの暗示と、その期待に応えようとするクライアントの無意識的努力によって引き起こされた「フィクション」である、と口をそろえて主張します。
催眠中のクライアントが、セラピストの期待を察知し、その期待に無意識的に応えようとする心理的傾向を催眠学では「要求特性」と呼んでいます。

わたしの敬愛してやまない故成瀬悟策先生もこうした立場をとっておられます。
わたしの遭遇した「タエの事例」は、要求特性によって語られた前世のフィクションだととらえなさい、さもないと危ういですよ、という戒めのコメントをいただいています。

SAM前世療法では、催眠深化の誘導プロセス中に必ず「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを標準催眠尺度を用いて確認します。
知覚催眠レベルに至ることができない深度で、魂状態の自覚まで遡行できないことが明らかになっているからです。
そして、知覚催眠に至れば、次の深度レベルである「記憶催眠」に至ることがほぼ確実です。
したがって、SAM前世療法では記憶催眠レベルの深度確認はおこないません。
記憶催眠の確認を省いて、さらに深度を深めていきます。
これまでの標準催眠尺度にはない「魂遡行催眠」とわたしが名付けている深奥の催眠レベルにまでひたすら深めます。
身体の自発的運動と自発的発話は完全に停止し、リラックスによる筋肉・関節の完全な弛緩状態へと誘導してしていきます。

SAM前世療法ではこうした最深度の催眠状態にまで誘導するので、したがって、当然ながら一般の前世療法より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。

②については、その解明は容易ではありません。
 
SAM前世療法の魂の自覚状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は、およそ20人に1人、5%程度しか口頭で話せません。20人のうち19人までが、どうしても口頭で答えることができないと指の応答によって答えます。
一般の前世療法ではこうした声が出ない、音声化できないことは起こりません。
一般の前世療法体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。

この口頭で話せないという現象は、SAM前世療法の催眠深度が一般の前世療法よりも深く、したがって、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も舌も弛緩し切っているので発音できないのではないか、という推測できそうですが、これはどうも的外れのようです。
SAMの作業仮説に理由を求めることができるのではないかと考えています。

一般の前世療法では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが「前世の記憶」を想起し報告するのです。

SAM前世療法では、「顕現化した前世人格が、クライアントの身体を借りて対話する(自己内憑依する)」という作業仮説でおこないます。
前世人格は、当時のままの感情を持ち続けて、肉体のない意識体として魂の表層に現在も死後存続している、霊的存在だと想定しているのです。
こうして、多くのクライアントは、顕現化した前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンが現れず、感情のみの共体験で終わる場合もあります。
療法としての改善効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、それでいいと思っています。

わたしの対話相手は現世を生きているクライアントではなく、肉体をもたない前世人格という死者なのです。
死者である前世人格のほとんどが、肉体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「長い時間を経ているので、生まれ変わりである現世の者の発声器官の操作を忘れているから、どうしても声に出すことが難しくてできない」という回答でした。
指を起こす、うなづくという単純な操作なら、現世の肉体を借りてその動作で回答することが可能である、ということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。

ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。

わたしは、クライアントの意識の中に顕現化した(自己内憑依した)死者である前世人格と、声帯にしろ指にしろ、現世のクライアントの肉体を借用して自己表現をする前世人格と対話するという形をとっているのです。
つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。
前世人格は、現世の肉体を媒介にして、現在進行形でわたしと会話をしている、これがSAM前世療法のセッション構図になっているということです。

そして、このような信じがたいセッションの構図は、「ラタラジューの事例」によって証明されたと思っています。

そしてまた、わたしあて霊信の恩恵によるSAM前世療法は、わたし以外に誰も発想できるはずのない療法でしょう。
正しくは、わたし独自の発想によるものではなく、霊信からの教示によるものです。

里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。

里沙: Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)

カルパナ: ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

里沙: O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)

つまり、前世人格ラタラジューは、今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、今、ここで、問いかけ、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。
このラタラジュー は、現世の里沙さんの肉体(声帯)を借りて、現在進行形で会話をしている前世の人格です。

里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。
それは、このラタラジューのセッション直後に書いてもらった次の点線内のセッション体験記録からも確認することができるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
 
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、私の守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。

なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。

悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。

ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 
ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。

(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした」、「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」、霊媒的役割をまさに果たしていた、ことを如実に語っていると思います。

イアン・スティーブンソンは、退行催眠中に現れ、検証を経て信頼できる、応答型真性異言を2例あげています。ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語)」です。

ちなみに、スティーヴンソンも、わたしと同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」(催眠下のトランス状態で現れた前世の人格)と呼んで、真性異言の話者を、クライアントとは別人格の顕現化による応答的会話だ、ととらえています。(『前世の言葉を話す人々』春秋社、P.9)

つまり、クライアントが前世の記憶として応答型真性異言を語ったとは考えていません。
それでは、そうした死後存続しているトランス人格の所在しているところはいったいどこなのか、についての言及は一切ありません。

 「ラタラジューの事例」を含めても、催眠下で偶発し科学的な検証済みの応答型真性異言事例は、世界にこれまでたった3例の発見しかありません。
ほかに覚醒中に起きた偶発事例が2例あります。 

しかも、すべて20世紀中の発見であり、21世紀になってからは「ラタラジューの事例」(2009年)が最初の事例です。

付言すれば、この事例は、応答型真性異言の発話中の撮影に成功した世界初の事例です。

 生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話せないのか、これは、ほんとうに大きな謎です。

スティーヴンソンが存命中なら、「ラタラジューの事例」を自ら調査にくるだろうと、スティーヴンソンの著作の訳者であり、彼と親交のあった超心理学者笠原敏雄氏は述べています。
わたしも、かなわぬ夢ですがスティーヴンソンに、この謎解きの見解を尋ねてみたいものだと思います。  

 

さて、最後にSAM前世療法のセッションに特徴的な「霊的意識現象の事実」を3点述べてみます。

その一つが、クライアントに憑依していると思われる、残留思念の集合体である「未浄化霊」と呼ばれている霊的存在が顕現化してくる意識現象が珍しくないことです。

この「未浄化霊」との対話がSAM前世療法では可能です。

「未浄化霊」は、理解と救いを求めてクライアントの霊体(オーラ)に憑依してくると語ります。

この「未浄化霊」を浄霊して取り除かないと、魂状態の自覚に到達できず、したがって、前世人格が顕現化できないのです。

直近の浄霊事例では、魂遡行を妨げていた「未浄化霊」は10歳に満たない少女でした。

東北大震災の津波に呑まれて命を失い、両親を求めて浮遊していたところ、自分を理解してくれそうなクライアントに出会い、救いを求めて憑依していた、と語りました。しかも、他にも複数の「未浄化霊」が憑依していると教えてくれました。

こうして、すべての 「未浄化霊」を浄霊したのち、首尾よく求める前世人格の顕現化に至りました。

二つ目は守護霊と呼ばれる霊的存在が、求めに応じてクライアントに憑依し、必要なメッセージを告げるという「意識現象の事実」が生じることです。

直近の事例では、魂状態の自覚まで到達できたにもかかわらず、魂表層に存在しているはずの前世人格が求めに応じて顕現化してこないので、そのわけを知るために守護霊に憑依を求めてみたところ、その守護霊と思われる存在の憑依が起こりました。

憑依し顕現化した守護霊のメッセージによれば、当該クライアントが前世を知る時期にまだ至っていない、今、前世を知ることは害が大きいので、クライアントを守るために禁じざるを得ないが、いずれ時期が至れば直感あるいは夢で許可する、ということでした。

三つ目は、「魂状態の自覚」に至ると、守護霊との出会いとテレパシーによる対話という「意識現象の事実」が必要に応じて起こり得ることです。

ただし、守護霊との出会いを果たす割合は70~80%程度で、望めば誰もが守護霊と出会え、メッセージを受け取れるわけではありません。

守護霊との出会いのイメージは、①白いガウン状のころもに身を包んだ人間的な姿で現れる、②白い光など光のイメージとして現れる、③姿や形は無く温かい気配を感じ、ラップ音が伴う、というように三通りに類別できるようです。

また、メッセージ内容はテレパシーによって伝わるようで、その内容は抽象的であり具体的な指示はない、という共通点が指摘できます。

 たとえば、質問すると、「このことについては、あなたが胸に手を当てて考えればおのずと解答が出てくるでしょう」、「あなとの直感にしたがって進めばよいでしょう」というように、簡潔かつ一種曖昧な言い回しで告げられることがほとんどのようです。

一般の前世療法においても、守護的存在との出会いや接触があることを耳にしたことがありますが、かなり具体的な内容のメッセージであるようです。

SAM前世療法において「魂状態の自覚」に至ると体重の感覚がなくなると報告されます。

これは肉体につながっている魂の、肉体とのつながりが消滅し、魂が肉体と分離した状態になった結果ではなかろうかと推測しています。

SAM前世療法の定義では、「霊」が肉体に入っている状態を「魂」と呼び替える、としていますから、魂が肉体から分離した状態とは、つまり肉体を持たない「霊」と同様の次元にあり、そのため守護霊という霊的存在との出会いが容易になっていると推測されます。

「魂状態の自覚」を体験したクライアントの中には、それをきっかけに、その後ある種の霊能力と呼ばれている能力が覚醒したと思われる事例がまれではなく起こるようです。

守護霊との対話を望めば覚醒状態でも可能になる、予知能力があらわれる、直感力が鋭くなり当たるようになる、ヒーリング能力があらわれる、霊媒能力があらわれる、などです。

海外の交霊会の体験者にも種々の霊能力、とりわけ霊媒能力などがあらわれた事例が少なからずあります。

 こうして「魂状態の自覚」に至り守護霊と対話する体験とは、言わば交霊体験ですから体験者に前述のような霊能力が覚醒しても不思議ではないと言えます。

 SAM前世療法は、先行研究皆無のまったく新しい前世療法で、これまで手探りで探究を進めるしかありませんでした。

そこにあらわれる「意識現象の事実」は、謎に満ち満ちています。

さらに実直に探究を深め、生まれ変わりを実証していく、持続する志を忘れないで進みたいと思います。

2021年8月25日水曜日

イアン・スティ-ヴンソンから学ぶ

SAM催眠学序説 その142

2005年の「タエの事例」、2009年「ラタラジューの事例」において、タエの人生とラタラジューの人生が、被験者里沙さんの「前世記憶の想起」ではなく、「タエの人格・ラタラジュー人格そのものの顕現化」したものだとすれば、そのような前世の人格は、いったいどこに存在しているのでしょうか。

これが「タエの事例」以後、「ラタラジューの事例」の遭遇まで、4年以上にわたってわたしを悩ませることになった大きな謎でした。

この謎について言及した先行研究は、生まれ変わりの科学的研究の先駆者イアン・スティーヴンソンに求めるほかないと思われました。

以下は、イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989、からの抜粋です。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。

この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。

私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。

そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返さ れた過去世の人格に由来する「個性」なのである。

人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているの に対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる。

したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出するこ とのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含まれているのである。
(前掲書PP.359-360)
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イアン・スティーヴンソンの言う「中間的媒体」、あるいは「心搬体(サイコフォア)」は、いわゆるわたしの言うところの「魂」と同義です。
厳密な科学者スティーヴンソンは、「soul(魂)」という語にまとわりつく宗教臭を払拭し「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体」という科学的定義を明確にしたのだと思われます。
 

ただし、わたしは、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、新しい概念でもないのに「心搬体」などの新しい造語を用いることは不要だと思っています。
 

さて、前世人格の所在についてのスティーヴンソンの結論は、「心搬体(サイコフォア)」=「魂」が、前世人格の所在であるということになるのでしょうか。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、SAM前世療法の作業仮説を設けるときの重要な参考となっています。
 

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持する見解だと言えそうです。

ただし、スティーヴンソンは、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。

「魂は二層構造になっており、その表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格たちは互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・ 進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学における作業仮説です。

つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、その後の、SAM前世療法のセッションで顕現化した前世人 格の語りから確かめています。

さらに、「一つの『人格』がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない」というスティーヴンソンの見解は、そのままSAM催眠学が主張する見解と同様です。

「現世の私」という一つの人格が、その死後、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層を構成する一つの前世人格として生き続けるのであって、「表層を構成する前世諸人格を含めた一つの魂全体が新しい肉体に宿ることを生まれ変わりと言うのだ」というのが、SAM前世療法セッションで示される生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する『個性』なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの見解も、わたしのSAM前世療法で得た知見にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層に位置付いている前世人格たちのそれぞれの人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、わたしが、スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「前世の記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」、つまり、魂を想定していたことに照らせば、間違いありません。

わたしの期待したのは、彼の言う「心搬体(魂)」と、「前世の記憶」および「脳」との関係についての考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、それとも記憶ではなく、前世の人格の顕現化であるのか、いずれなのでしょうか。

しかし、スティヴンソンの著作は、この問いについてはなにも解答を与えてくれませんでした。

わたしが求めた解答を与えてくれたのは、人間ではなく、わたしの守護霊団を名乗る霊的存在でした。
 

わたしの守護霊団を名乗る存在の教示した内容の要約は次のようです。

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脳は意識を生み出してはいない、脳と意識は密接な相互関係、対応関係にあるが、本来別物である、とする立場を「意識と脳の二元論仮説」という。

脳が意識を生み出すという因果関係を否定する仮説である。                              大脳生理学者でノーベル賞学者の、ペンフィールド、スペリー、エックルズ、催眠学者の成瀬悟策などが実験研究の末に晩年になって唱えている。

しかし、彼らは、それでは意識どこで生まれるのか、という根本問題については一切述べていない。彼らにも分からないのである。
 

SAM催眠学では、わたしあて霊信の告げている「魂の二層構成仮説」を採用し、意識を生み出しているのは、魂表層を構成している前世の者たちである、と考えている。
魂の二層構成」を理解しやすいように、円を用いて二次元モデルの単純化した模式図にしたものが下図である。

 

  「魂の二層構成とその転生の模式図]


左から右への矢印は時間軸を意味している。
大円、魂の核Xの下に引いてある接線は、魂表層の死者である「前世の人格」と、肉体を持つ「現世の人格」の区別のための補助線である。
つまり、補助線より下の小円が肉体に宿る現世の人格になる。
補助線より上の小円が、死者であり肉体のない前世の諸人格である。
したがって、右端の3つ目の模式図を例にとると、魂表層の現世人格小円Cは、小円Aと小円B二つの前世人格とともに、3回目の現世の人生を送っている魂をあらわしている。

意識は魂表層の小円A、小円B、小円Cなどの前世人格たちと現世人格が生み出しているというわけである。

魂の転生の仕組みを模式図の時間軸にしたがって説明してみる。

魂の核大円(X)は、最初の肉体に宿ると、その表層に小円という現世人格(の意識体)を生み出す。(左端の図)

現世人格(の意識体)はその肉体の死後、魂の核大円(X)の表層を構成する前世人格(の意識体)小円Aとして位置づき、死後も魂表層に存在し続ける。(真ん中の図)

そして魂は、次の来世の肉体に宿ると、新たに小円という現世人格(の意識体)を魂表層に生み出す。(真ん中の図)

さらに小円Bという現世人格(の意識体)は、肉体の死後魂表層の前世人格(の意識体)小円Bとして位置づき、先に位置付いている前世人格小円A(の意識体)とともに魂表層を構成し死後存続する。(右端の図)

次の来世では小円Cという現世人格(の意識体)を魂表層に生み出し、先に表層に位置づいている前世人格小円A(の意識体)・B(の意識体)とともに魂表層を構成する。(右端の図)

このように、魂の核であるは、新しい肉体を得るたびに諸前世人格(の意識体)を魂表層に次々に位置づけ魂表層の構成単位として包含し、転生していく。
現世人格であった(の意識体)・B(の意識体)・・・は死後も、それぞれの生前の人格、個性、記憶を保ちながら、魂の核とともに魂の表層を構成するそれぞれの諸前世人格(の意識体)として死後も存続している。
これを「魂の二層構成仮説」と呼ぶ。
つまり、「核となる意識体」と、その「表層を構成している諸前世人格(の意識体)」の二層を合わせた全体を「魂」と呼ぶ。

こうして、生まれ変わりの回数分だけの前世の諸人格(の意識体)が、現世人格(の意識体)とともに魂の表層を構成しながら意識体として死後存続している、というのがSAM前世療法で確認できた意識現象の累積によってが明らかなってきた魂の構成とその転生の仕組みである。
なお、肉体を持たない魂を「霊」と呼び、肉体という器に宿る霊を「魂」と呼ぶ。

そして、魂は、表層を構成する前世の諸人格のすべてのものがつながり持ち、友愛を築き、与え合うことを望んでいると霊信は告げているので、当然現世の人格は、多かれ少なかれ、また良かれ悪しかれ、前世の諸人格の智恵(意識体)の影響を受けていることになる。

また、転生するたびに、魂表層に現世人格が 新たに位置付き、前世諸人格の智恵が分かち合われるので、魂表層を構成している現世人格と前世人格たち全体の集合的意識は、転生することによって変化していくことになる。
より完全な存在へと向かう方向性、志向性に支えられたこうした魂の変化を、「魂の成長・進化」と呼んでいいのではないかと思っている。

ちなみに、魂の核である意識体Xについて、わたしあて霊信では「ある意識体」とだけ告げており、その実体については謎のままである。
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SAM前世療法では、「魂遡行催眠」の誘導技法によって、「魂状態の自覚」まで誘導し、魂表層を構成している前世人格たち「小円A」や「小円B」を、現世の肉体を用いて顕現化させ(憑依させ自己表現させ)、この「自己内憑依」によって顕現化した前世人格と対話する、という仮説と方法論によってセッションを展開していきます。

2021年の現時点で、SAM前世療法のこれらの仮説に反する事例は出ておりません。

you-tubeに公開している動画「タエの事例」「ラタラジューの事例」がなによりの実証です。

タエもラタラジュー も被験者里沙さんを魂状態の自覚まで催眠誘導し、彼女の魂表層から呼び出した前世人格の語りなのです。

そして、両前世人格の語りの詳細はでたらめではなく、歴史的事実と照合したところ重要な点に誤りはなく、また、語り内容について里沙さんが事前に情報を入手していないことがポリグラフ検査によってよって証明されています。

唯一、両前世人格の実在していた文書上の証拠記録だけが、どうしても発見することができなかったということです。

このことについては、スティーヴンソンの次のような、生まれ変わり研究上の見解を妥当だと支持しています。

前世人格の実在していた文書上の証拠記録が発見できないことを、もし些細な点だと考えるならば、

些細な点に正確であるよりは、重要な事象について確実なことを知ることのほうが意味があると私は考ている」(イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1989、P.26)