tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post3543125890804179528..comments2024-01-25T12:00:36.544+09:00Comments on 稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究: タエの溺死と人柱についての疑義の検証稲垣 勝巳http://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comBlogger17125tag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-47728099652710630382015-01-13T00:57:28.501+09:002015-01-13T00:57:28.501+09:00orphan elderさん
きっとドーンとびっくりするようなコメントが来るだろうと思っていましたが...orphan elderさん<br />きっとドーンとびっくりするようなコメントが来るだろうと思っていましたが、<br />期待に違わず、ドーンと衝撃的なコメントとをいただき、科学への造詣の深さに敬服するとともに深謝いたします。<br />じっくり読ませていただきます。<br />「円環的時間軸」論から、学生のころに読んだニーチェを思い出しました。<br /><br />まずはお礼まで 稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-46277055786579839442015-01-12T23:56:23.526+09:002015-01-12T23:56:23.526+09:00 さらに続きますが、実は昨今では「時間という概念は本当にあるのか」という議論が科学界で持ち上がったり... さらに続きますが、実は昨今では「時間という概念は本当にあるのか」という議論が科学界で持ち上がったりもしております。確か日経サイエンス2010年の何月号だかは忘れましたが、時間というものは存在しないのではないかという議論が出ていて、先ほどのクラウド・アトラスの稲葉医師のコメントのように、<br /><br />>。原因や結果。過去・現在・未来。それは単純な直線関係ではないようだ。人間の脳の働きの癖でそう理解しやすいだけにすぎなくて。すべては今、同時的に起こっている。頭(理性)で把握する時に直線関係で因果や時間の流れを直線的に並べてしまうだけだろう。『時間』は一つの概念でありコンセプトだ。<br /><br />というようなことを言っていたような気がします。こちらにその簡単な概要が載っておりますが、まさに稲葉医師と似たようなことが<br />書かれております。<br /><br />http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1009/201009_040.html<br /><br /> さらに、別分野の専門家の話も持ち出しますが、広井良典さんという、人口減少社会などの著書がある社会学者さんがいるのですが、彼もまた、「時間は本来円環的なものであり(実は、人々が輪廻思想を信じていた時代では、ほとんどの民族がこの円環的時間軸の中で生きてきた。たとえば自分の尻尾を加えたウロボロスなど、魂の循環をたとえるのに持ち出されていた。あのキリスト教や、イスラムですら、生まれ変わりの思想はあった)、これから先、循環型社会になるにつれ、人々にとって「死後は虚無」という概念が合わなくなってくるだろうというようなことをおっしゃっておりました。現在の閉塞感を見抜いておられたのでしょう。また、死後の世界があるかないかについては、それ自体が「現在の直線的時間軸」の中での議論でしかないのだとも言っておりました。<br /><br /> さらに唯物論においても、生まれ変わりは矛盾するものではないという解釈は、以前にもこちらに挙げた受動意識仮説からの説明で十分です(ただし、私はこの仮説はあまりに人間の意識を受動的なものと決めつけてかかっているので、個人的には懐疑的に見ておりますが)。<br /><br />http://muumu.blog25.fc2.com/blog-entry-218.html<br /><br /> こうしてみると、生まれ変わりというのは、本来「霊魂」という非科学的、非物質的なものを持ち込まずとも、単に我々が「直線的時間軸」を「信奉している」からオカルトじみて見えるだけで、ひょっとしたら社会のその時の状況や変化に応じて見方を変えることで、いくらでも現実のものとして取り上げられるようになるのかもしれません。<br /> <br /> 現に、昔、円環的時間軸の中にいた我々の先祖のあらゆる民族や集団が、転生を信じていたという記録は残っておりますからね。 <br /><br /> いずれにしろ、「別の時代の別の誰かとして生きる」ということが現象として本当にあるならば、まず間違いなく「時間跳躍や空間跳躍」あるいは、「時間や空間に制約されることなく働く情報のやり取り」などが絡んでくる可能性が高いと思われます。タイムトラベルに近い概念なわけですからね。SFにも親和性はあると思います。<br /><br /> 以上、長々と私の考えを述べさせていただきました。あまりまとまっていないので、掲載は稲垣先生のご判断に任せます。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/01753829853913595044noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-36483108129168254332015-01-12T23:33:14.577+09:002015-01-12T23:33:14.577+09:00 ここからの投稿は私の「推測」も混じるので、投稿内容の掲載については、稲垣先生のご判断にお任せいたし... ここからの投稿は私の「推測」も混じるので、投稿内容の掲載については、稲垣先生のご判断にお任せいたします。<br /><br /> 私は、多分「生まれ変わり」はSFの一ネタくらいになっていくのではないかと予測しております。実際、近年公開されたSF映画である「クラウド・アトラス」なども露骨に転生という用語こそ出てこないものの、取り扱っているテーマはまさに輪廻転生です。こちらの一条さんのブログに詳しい内容が書かれております。<br /><br />http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150105/p1<br /><br /> さらに少しばかり引用しましょう。<br /><br />>稲葉さんは、「この映画のベースにあるのは輪廻転生(reincarnation)」と指摘し、以下のように述べています。<br />「転生には性別や時代や人種にも関係がないようだ。僕らの些細な色んな行為は、親切でも悪でも、未来や過去へと同時に複雑に影響しあっているということ。6つの時代のパラレルワールド。原因や結果。過去・現在・未来。それは単純な直線関係ではないようだ。人間の脳の働きの癖でそう理解しやすいだけにすぎなくて。すべては今、同時的に起こっている。頭(理性)で把握する時に直線関係で因果や時間の流れを直線的に並べてしまうだけだろう。『時間』は一つの概念でありコンセプトだ。<br />輪廻転生(reincarnation)のイメージとしては、複数のスクリーンを映画館で同時に上映していることと似ている。 映画のフィルムを伸ばして、そのすべてのコマを同時にみているのに似ている。時間を糸とすると、糸が入り乱れた糸玉全体を見ているイメージ」<br />素晴らしい感想です。<br /><br /> 引用ここまで。<br /><br /> 私も同感です。多分、これから先もクラウド・アトラスのような映画やSF作品は出てくると予測しております。なぜなら、これは十分に今後の理論科学のありようによっては入る余地がありそうだからです。<br /><br /> 生まれ変わり-輪廻転生とは言いますが、それをより科学っぽく表現するならば、<br /><br />「別の時代の別の誰かとして生きる」<br /><br />ことではないでしょうか?<br /><br /> 現在の科学では、量子論の発展により空間飛躍はありうる、というか、最先端では量子テレポーテーションなどの「空間を超越した情報のやり取り」については説明されております。すなわち、先ほどの<br /><br />「別の時代の別の誰かとして生きる」<br /><br />のうち、<br /><br />「別の誰かになる」<br /><br />の部分に関しては、ある意味「空間跳躍」あるいはスピリチュアル派のいう「時間も空間も関係ない」という概念の後半部分が該当します。<br /><br /> また、インターネットの発達により、現在では一般庶民でさえ、「別の誰かに完全になるということまではいかないまでも、別の誰かになりきる(あるいはふるまう)ことができるようになりました。アバター作って架空の人物になりきったり、あるいはネット上で男が女としてふるまったりするなど、「誰かになる(あるいはなりきる)こと」については、もう社会的にそれほど「心理的抵抗感がない」状態になりつつあります。<br /><br /> これが、ネットがない時代ではせいぜいやれるのは俳優とか女優とかごく一部でした。それ以外の人間が他人のふりをしていたら、あまりいい顔はされなかったことでしょう。<br /><br /> つまり、「別の時代の別の誰かになりきり」ということに関して言えば、後半部分については疑似的ではあるにせよ、それほど抵抗なく受け入れられている環境にあるともいえるわけです。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/01753829853913595044noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-61491523500392987812015-01-12T23:15:23.276+09:002015-01-12T23:15:23.276+09:00 さらに言えば、仮に現時点の唯物論の延長で説明されると仮定しても、前に私が上げた天動説と地動説の例か... さらに言えば、仮に現時点の唯物論の延長で説明されると仮定しても、前に私が上げた天動説と地動説の例から、いくつもの「例外事項」や「つじつま合わせ」の要素が入り込む天動説と、より簡便に且つ合理的に説明できる地動説とではどちらの方に軍配が上がるかは明らかでしょうということで、おそらく唯脳論(現時点での過程においては)は、天動説になりうる可能性があるということです。<br /><br /> 誤解を恐れずに言えば、天動説でも一応惑星の運行は計算できます。ただ、それをやるには宇宙の何もないところに周転円なるものを仮定して、さらに数多くの例外事項を設けたうえでという条件が付きます。これよりもならば地動説のほうがはるかに合理的で優れているといえるわけです。<br /><br /> 多分、生まれ変わりも「無理に解釈しようとするならば」唯物論の延長でも説明はできると思いますが、ただ、おそらく私の予測では、唯脳論(先程も書きましたが、現時点の過程に基づく唯脳論であるならば)ではどこまで行っても、私が先ほど上げた事例ついて、説明の、それこそ「どこか」に盛り込まなければならなくなると思います。つまり、やはりどこかに「無理」があるからそうなるわけです。<br /><br /> 私が生まれ変わりがあると思う理由を上げるのであれば、<br /><br />1.少なくとも、検証されている(確かに少数ではあるものの)事例の特異性から考慮すれば、おそらく脳神経学からこれらの現象を説明するのは困難を極める(最終的には私が以前から申し上げている通り、「無意識」「潜在意識」といった要素が入り込む)であろうことが予測できる。それでも無意識や潜在意識がほぼ100%説明できる段階にあるならばまだ話が分かるが、現状ほぼわかっていない以上、説明するのに都合が悪い時に強引にあてはめられる要因が非常に強い。<br /><br />2.前の投稿の冒頭でも書きましたが、果たして生まれ変わりは本当に「非科学的なもの(オカルト)」なのか?ということ。<br /><br /> 次の投稿に続きます。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/01753829853913595044noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-11338145619533646942015-01-12T22:58:50.720+09:002015-01-12T22:58:50.720+09:00 そもそも「生まれ変わり」とは、本当に唯物論に矛盾し、非科学的な現象なのでしょうか?
以前にもこ... そもそも「生まれ変わり」とは、本当に唯物論に矛盾し、非科学的な現象なのでしょうか?<br /><br /> 以前にもこちらに投稿させていただきましたが、結局のところ、ショウタさんや坊さんがことさら取り上げていらっしゃる脳科学者たちも、所詮私が以前に指摘した「それさえあれば何でも説明できてしまえる要素」を抜きにしては語っていないので、はっきり言えば、それは「科学」というよりは「推測」、あるいはもっと厳しい見方をすれば「信仰」でしかありません。唯脳信仰とでもいうべきでしょうか。<br /><br /> たとえば坊さんの指摘された「無意識」についても逆に問いますが、どこまで科学的に「無意識」について判明しているのでしょうか?無意識の作用や性質については、まだ全体の数%くらいしか解明されていないという話を前に聞いたことがあります。つまり、「未知のもの」です。<br /><br /> 結局のところ、「生まれ変わり」という、現時点においてはほぼ未解明(あるのかどうかすらまだ確定していない)ものを説明するのに、これまた「無意識」や「潜在意識」、「脳の未解明領域(確かにまだ脳は全体の20%も解明されていないのは事実なのだが、あまりに安易に使われすぎているような気がする)」という、まだよくわかっていないものを持ち込んで、それで「科学的に説明した」としているだけの話であり、おそらくではあるが、これを主張する当人たちですら、こんな説明では説明になっていないと自覚はしているのではないでしょうか?<br /><br /> 未知の現象を説明するのに、これまたよくわかっていないもの(先程の例でいえば無意識とか潜在記憶など)を持ち出して説明に充てる。これがいかに不毛なことかは語るまでもないでしょう。<br /><br /> 結局、そういった「よくわかっていないもの」というのは、ある意味「万能性」を有しているという点で、科学的説明には本来必要とされないはずなんです。<br /><br /> たとえば、この件に関しては「偶然」だの「錯覚」だの「虚偽の情報」だの「未解明領域」だの「無自覚のうちに情報取得した」だのこういうのを持ち込んでしまえれば、はっきり言ってなんでも説明できてしまえるんですよ。そういう意味で、これらの概念は「万能性」を有しており、これは科学的な説ではなく、単なる推測やあるいはもっときつい言い方をすれば、信仰と一緒だということです。<br /><br /> 彼らの著作をすべて読んでいるわけではありませんが、大体大まかな彼らの意見を少し拾ってみると、必ず文章のどこかに上記の「万能性を有した概念」が出てきております。本来は、科学にこういう要素が入り込むこと自体おかしいわけで、結局それは、第一人者自身が「この分野のことはなんもわかっておりませんよ」と白状しているようなものなのです。<br /><br /> 科学がこういった「万能性を有するもの」を可能な限り排除するのは、本来当たり前のことなんです。たとえば、科学が未発達な時代においては、天災などは「神の怒りである」と説明されてきました。これは現在では通用しません。なぜならこの説明には、「神」という、それさえあれば何でも説明できてしまえるものが入り込んでいるからです。さらに言えば人知を超えた存在なので、「未知」ともいえるでしょう。でも昔の人々はこれで納得していたわけですが、現代人なら、こんなものは説明ではなく単なる信仰だよと小ばかにするでしょう。<br /> <br /> こういうことなんです。すなわち、現時点の多数派の科学者が提唱する説というのは、はっきり言って説というよりは単なる推測です。「多分無意識のうちに技能を習得しているんだろう」というのを一般人には難解な専門用語を持ち出してそれらしく体裁を整えているにすぎません。<br /><br /> 少なくとも、否定派の意見や説明に中には、私が上記に挙げた要素を抜きに語られているものなど(私が知る限りでは)ほとんどありません。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/01753829853913595044noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-1288329517232534552015-01-11T14:08:13.241+09:002015-01-11T14:08:13.241+09:00坊さん
SPR(サイキカルリサーチ)および超心理学の現在まで100年余の先行研究史では、学んでいない...坊さん<br />SPR(サイキカルリサーチ)および超心理学の現在まで100年余の先行研究史では、学んでいないこと(練習していない技能)が科学的検証によって確認され、なおかつその「技能」を超能力や無意識のうちに獲得できたという実証事例は現時点で皆無です。<br />もし、そうした検証事例が、1例でも発見されれば、画期的発見になるでしょう。<br />ビリーミリガンに現れた副人格が「独特の言語を持っていたりした事例」とは、「朗唱型異言」の類いではないでしょうか? また、科学者による、副人格の異言に対する検証があったのでしょうか?<br />通俗的な本の内容を信じ込むことは危険です。あなたが尊敬していると思われる脳科学者T氏がどういう人物であるかは、http://www.brain-book.com/report/noukino-1.htmlを読めば、綿密な検証に基づいて、正体が暴かれています。<br /><br />「ラタラジューの事例」を語った里沙さんが、ネパール語、ネパール人との<br />接触が一切ないという検証のうえで、無意識的にネパール語会話「技能」を学ぶにしても、学び先、情報源がないのに、どのようにしたら無意識的に学べると思いますか? <br />練習の不可決な会話「技能」は、ESPでも獲得できません。<br />ただし、会話のやりとりではなく、一方的に異言を話すだけなら「朗唱型異言」であり「応答型真性異言」ではありません。これは会話「技能」ではなく、「情報」ですから、情報であればESPで獲得できるとされています。<br /><br />学び先が無いところからでも、無意識的に練習の不可欠な「技能」が学べるはずだ、という科学的実証は一切ありません。それでも「どこかで」学んでいるに違いない、と強弁するのなら、その「どこか」を指摘しないと説明にならないでしょう。<br /><br />私は、2009年に「ラタラジューの<br />事例」に出会ってから、生まれ変わりの科学的研究者として評価を受けているイアン・スティーヴンソンの方法論と先行研究に倣って、被験者里沙さんが、「どこかで」通常の方法でネパール語会話技能を学んでいないか、を徹底的に疑って検証を重ね、生きている人間の諸能力では、学んだことのないネパール語会話技能を獲得できないことを確認してきました。<br />そうして、現在考えられるあらゆる仮説を検討した結果、最後に残る仮説として、「生まれ変わり仮説」を認めるしかないだろう、という結論に至ったのです。生まれ変わり仮説を簡単に認めたわけではありません。また、生まれ変わりは必ずある、という先験的な「生まれ変わりの信念」から検証をスタートしたわけではなく、唯物論的懐疑からスタートしているのです。生まれ変わり仮説を認めているのは、検証の結果論です。そこを取り違えないでくださいね。<br />「何事も先験的に否定せず、何事も実証なくして認めず」という姿勢を忘れたことはありません。<br />あなたは先験的に、唯物論はすべて正しい、唯物論ですべて説明できる、と思い込んでいるのではないでしょうか。そうした先験的バイアスがかかっている人には、「ラタラジューの事例」を虚心坦懐に検討することを期待してはいません。<br /><br />なお、「棚に落ちない」は不適切であり、「腑に落ちない」が適切です。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-8370117769667040282015-01-11T02:26:57.999+09:002015-01-11T02:26:57.999+09:00自分ご自身の意見も述べないといけないのですね。
私もこの事例が生まれ変わりを本当に裏付けるならテ...自分ご自身の意見も述べないといけないのですね。<br /><br /><br />私もこの事例が生まれ変わりを本当に裏付けるならテレビや新聞等のメディアで取り上げている科学者にも注目されないのが棚に落ちないです。本当に唯物論で説明つかないのでしょうか?<br /><br /><br />私は石川幹人著書の『「超常現象」を本気で科学する』を読んで現代科学は超常現象の殆どは唯物論で説明付くと書いてありました。<br /><br /><br />それに技能や会話は本当に無意識で習得できないのでしょうか?<br /><br />多重人格のビリー・ミリガンも特定の人格に限り出きる力や手先の技術や独特の言語を持っていたりした事例もあります。<br /><br />また知りえない史実と一致することについてもずっと前テレビでお笑いコンビの二人がコンビの一人が寝て夢で相方の行動を当てるという実験をやったという番組がありました。<br /><br />夢の内容は男性が「西の狸」と喋りそして人がビルから飛び降りるという夢を見たらしいです。その後相方が帰ってきて何の行動をしたと聞いたら何と遊園地で西のほうにある狸の乗り物のジェットコースターに乗っていて更にエレベーターみたいな落ちる感じの乗り物に乗っていて夢と似ていたという。<br /><br />しかしそれはあくまでも夢と現実を当てはめただけで史実ではないと言っていた。<br /><br /><br />ラタラジューの事例ももしかしたら上記のような本当に真性異言は無意識では取得できないのか、史実と一致は単に催眠の言葉と現実を当てはめただけでないか疑問です坊noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-32285766127914400702015-01-11T00:26:38.970+09:002015-01-11T00:26:38.970+09:00ショウタさん
あなたは、「その31」12月7日のコメントで、「動画全て見ました。素晴らしいです。エン...ショウタさん<br />あなたは、「その31」12月7日のコメントで、「動画全て見ました。素晴らしいです。エンターティーメントとして扱ったことに申し訳なく感じました」<br />と書いています。<br /><br />1ヶ月経った今日のコメントには、「人間の命の価値観にもかかわる問題なので公の場や真面目な話や生活の価値観には持ち出せないので実質上ではエンターティーメントと見ています」と書いています。<br /><br />こういうのをチャランポランと言います。<br /><br />私は、「人間の命の価値観にもかかわる問題」をブログという「公の場で真面目な話として」取り上げていますから、基本的にエンターテインメントとして書いているはずがありません。<br />そこのところを取り違えないでくださいね。情けなくなります。<br />あなたが「理性で生まれ変わりを信じたいと思っている」のなら、理性的に真面目に、私の示している生まれ変わりの事実としての証拠に正対して考えてみてください。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-55676938881674533892015-01-10T20:44:26.267+09:002015-01-10T20:44:26.267+09:00ショウタさんは、「その33」のUROノートさんの次のコメントを読んでいますか。
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世...ショウタさんは、「その33」のUROノートさんの次のコメントを読んでいますか。<br />・・・・・・・・<br />世の中には、コンピューターサイエンスの専門家に過ぎないのに脳機能科学の権威と名乗りつつ、怪しげな脳にまつわる言説を流布しておられる方もいらっしゃるようです(http://www.brain-book.com/report/noukino-1.html)し、小保方さん事件や、ヘンドリックシェーン事件、ソーカル事件などアカデミックスキャンダルすらも存在していますから、専門家とされる方の言説を無根拠に鵜呑みにすることは大変危険ですよね。<br />・・・・・・・・<br />貼ってあるURLを開いてよく読んでくださいね。<br />「ラタラジューの事例」について私は学会で2度発表していますし、映像証拠はyou-tubeで公開し、どなたにも見ることができるようにしてあります。<br />唯脳論者に反論があれば、どうぞと開かれています。<br />「ラタラジューの事例」が生まれ変わりの証拠として現時点最強だと思っています。イアン・スティーヴンソンの『前世の言葉を話す人々』を読んでみれば、このことが分かるはずです。どうも読んでいないようですね。<br />「ラタラジューノ事例」を弱いと思うのなら、いったいどういう証拠であれば納得しますか? 「ラタラジューの事例」の具体的個所をもとに具体的なご意見をどうぞ。<br />反証可能性に閉じた観念論なら不要です。<br />たとえば、まだ我々が検知できない脳の領域があるに「違いない」、などの実証の伴わない想像論を観念論と言います。<br />「ラタラジューの事例」のここが怪しい、唯脳論で説明できる、といった具体的指摘をしてください。<br />どうやら、あなたはこれまでのブログコメント記事も読まないで、思いつきで投稿しているとしか思われません。<br />関連学会発表も2回行っていること、主立った研究者にはDVDを送付していることを書いています。そもそも立花・茂木・苫米地のような各氏は、生まれ変わりの研究者ではありません。<br />今後、すでに記事にして回答してあることを読まないで、投稿したと判断できた場合には掲載をしません。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-39004007902475954622015-01-10T11:22:47.088+09:002015-01-10T11:22:47.088+09:00私は稲垣さんの上記のあげた①の立場です。
なぜ正当と思ったのは小保方さんの例ではないですが霊魂と生...私は稲垣さんの上記のあげた①の立場です。<br /><br />なぜ正当と思ったのは小保方さんの例ではないですが霊魂と生まれ変わりの誰でも納得できるような証拠や発見ではないからです。<br /><br />確かに稲垣さんの研究やラタラジューの例は興味深いですが「生まれ変わりの証明」というのは弱いと思います。<br /><br />Hollow Manさんは理系の方で科学の固定概念が強いのだと思います。<br /><br />私的には稲垣さんが本当にラタラジューの事例で生まれ変わりを語るなら唯脳論者の茂木健一郎さんや苫米地英人さんや養老孟司さんや立花隆さんなどにも情報を提供して議論してほしいです。<br /><br /><br />ちなみに会社の人との雑談をしているときラタラジューの事例を紹介したら「本気でこれを信じているのか?マインドコントロールの証拠だぞ」と言われました。<br />。<br /><br />私は一昨年や去年祖父母を亡くし人の死について深く考えるようになり死後存続に興味があり宗教ではなく科学的な視点に追及しています。<br /><br />私は稲垣さんの研究を科学研究として支持派ですが人間の命の価値観にもかかわる問題なので公の場や真面目な話や生活の価値観には持ち出せないので実質上ではエンターティーメントと見ています。<br /><br />人は必ず死にます。果たして死とは終わりなのか新たな旅立ちや始まりなのか?<br /><br />私は後者を理性で信じたい立場です。<br /><br /><br />この研究をアカデミー学会でも研究されるのに期待しています。ショウタnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-55229720558605414442015-01-09T18:19:16.146+09:002015-01-09T18:19:16.146+09:00ショウタさんのこれまでの投稿からして、本ブログを2チャンネルのような基本的にエンターテインメントとし...ショウタさんのこれまでの投稿からして、本ブログを2チャンネルのような基本的にエンターテインメントとして扱っていることはほぼ間違いないと推測しています。<br />私は、今回の「生まれ変わりが無い」というHollow Manさんの記事を貼り付けたのは、<br />①この記事の内容を正当な論理だと評価し、稲垣がどう反論するかを試す。<br /><br />②この記事の内容が論理的破綻をしていることをすでに読み取っているが、それを稲垣がどう突いてくるかを楽しむ。<br />のいずれかだろうと推測しています。<br /><br />①であれば、ショウタさんの読解力が未熟であることを他の読者の衆目の前に晒すことになったでしょう。<br /><br />②であれば、少々姑息なショウタさんの嫌みな性格が知られることになったことでしょう。<br /><br />匿名性をいいことに、自分の意見を開示せず、他者の意見を貼り付けて、火の粉をかぶらない高見から見物人を決め込むというやり方はエンターテインメントとしては楽しいでしょうね。<br />私はそうしたブログ投稿の楽しみ方を目くじら立てて怒るほど非寛容ではありませんが、もう少し知的レベルの高いエンターテインメントとして楽しめる投稿をしてほしいと思います。<br />ただし、①の推測が当たっているとしたら、それをショウタさんに期待することは無いものねだりかもしれません。<br /><br />稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-44214933018492615342015-01-09T09:11:26.989+09:002015-01-09T09:11:26.989+09:00以前も投稿したのですが
ショウタさんの考えみたいなものが見えないのは同感ですね。
自分の考えってお...以前も投稿したのですが<br />ショウタさんの考えみたいなものが見えないのは同感ですね。<br /><br />自分の考えってお持ちなんでしょうか?<br />あるならご提示していただければ議論しやすいと思うのですが<br /><br />こういう単なるコピペ的なやりかたって<br />2chでよく見るやりかたですね。<br />一方的な貼り付けになって議論にならないように思いますシュヴァルnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-10946121266778161412015-01-08T11:05:57.221+09:002015-01-08T11:05:57.221+09:00
坊さん
あなたの投稿したコックリさんなどの話題は、本ブログの「投稿ガイライン」を逸脱していますので...<br />坊さん<br />あなたの投稿したコックリさんなどの話題は、本ブログの「投稿ガイライン」を逸脱していますので削除しました。<br />本ブログのテーマは「生まれ変わりの実証的探究」です。<br /><br />また、ご自身の意見を一切述べず、他者の意見を貼り付けるだけ、というやり方は「コメント」とは見做しません。安直で怠惰なやり方だと思います。自分は意見を一切述べず、だから火の粉はかぶらないので、高見の見物を決め込むというやり方です。このページでショウタさんがやっています。だから、ショウタさんの紹介した<br />記事への私の反論に対して、彼は知らんぷりをしています。坊さんにも同じやり方はとおりません。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-2557047557674480932015-01-07T22:53:05.181+09:002015-01-07T22:53:05.181+09:00補足です。
「その31」のorphan elder さんのコメントは、示唆に富む優れた内容ですから...補足です。<br /><br />「その31」のorphan elder さんのコメントは、示唆に富む優れた内容ですから再掲してみます。<br />・・・・・・・・・・・・<br />ただ唯物論といっても、現時点での説は「説になっていない説」ですからねえ。<br /><br />結局、生まれ変わりにしろ、臨死体験にしろ、胎内記憶にしろ、唯物側が以下の要素を抜きに反論することはできていないので、それを検証したところで、あまり意味がないように思うのですよ。<br /><br />1.どこかで本人が知らないうちにその情報を把握していたに「違いない」<br /><br />2.単なる錯覚にすぎず、それをあたかも自分自身が経験したと思い込んでいるに「違いない」<br /><br />3.偶然でしかないものをことさら取り上げて未知の現象にしようとしている「だけに過ぎない」<br /><br />4.人間は実は、脳だけでなく、細胞レベルやひょっとしたらDNAに記憶情報が取り込むことができるに「違いない」(胎内記憶が特にそういう批判を受ける)。<br /><br />5.まだ我々が検知できない脳の領域があるに「違いない」<br /><br />これらに共通する点はただ一つ「そうに違いない」という推測とそれに基づく解釈だということであり、実証ではないということです。<br /><br />第一、生まれ変わりにしろ臨死体験にしろ胎内記憶にしろ、その現象を説明するのにここまで「偶然性」「錯覚」「虚偽の情報」「潜在記憶」「無意識のうちの情報取得」というそれさえあれば何でも説明できてしまうような要素を持ち出さなければ説明できないというのであれば、果たしてそれを「科学的説明」と呼んでいいものかどうかという疑問があります。(引用終わり)<br />・・・・・・・・・・ <br />さて、Hollow Manさんの次の思考は全くそのとおりです。<br />「本人が知らないはずの過去の出来事に関する記憶がある。その過去の出来事は、第三者が資料や証拠品で確認できる事柄であった。資料や証拠品で確認できなかった言動は、それが事実かどうか判断できない。第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である」そして、「第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である」これもそのとおりです。<br />問題は、前世の諸事実(情報)を語った当の本人が、そうした諸事実を通常の方法では入手していないことが検証された場合なのです。そういう事例をどう説明するかです。<br />Hollow Manさんは、「それでもどこかで本人が知らないうちにその情報を把握していたに『違いない』」と無根拠で実証のない断定をし、したがって、「前世などない」と短絡した結論を出しています。<br />これは、超心理学の生まれ変わり研究で、生まれ変わり否定論者の打ち出した「超ESP仮説」と同様の思考構造です。ただし、否定論者たちは、通常の方法で前世の情報を入手した痕跡がなければ、超常的な能力(透視・テレパシーなどESP)を発揮して入手したに違いないと主張したわけです。ESPという超常能力が人間にあることは、研究者には周知の事実ですから、「超ESP仮説」は全く実証のない無根拠な仮説だと棄却できません。この意味で、Hollow Manさんのような無根拠に単純に「前世はない」という断定をする粗雑な論理ではないと言えます。<br />粗雑な論理と言えば「本人がそう言っているというのは証拠になりません」<br />という断定も不可解です。犯罪を犯した本人が、自分の犯した罪の内容を語り、事実関係が確認されても、それは「本人がそう言ってるだけだから犯罪の証拠になりません」ということなのでしょうか。こんな馬鹿な論理がとおるなら、自白は証拠にならない、ということになります。<br /><br />Hollow Manさんの論理で、超ESP仮説が適用できない「ラタラジューの事例」を、どう説明(強弁)できるのか知りたいものです。 稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-26705661817444716712015-01-06T21:33:44.585+09:002015-01-06T21:33:44.585+09:00Hollow Manさんの「認知の歪み」の1例を示してみます。
その1
「本人が知らないはずの事...Hollow Manさんの「認知の歪み」の1例を示してみます。<br /><br />その1<br /><br />「本人が知らないはずの事を語ったなら、無自覚かも知れないがその記憶を持っているという事である」<br /><br />綿密な調査、ポリグラフ検査などの検証によっても、語られた前世記憶の入手された痕跡がないことを問題にしているのであって、それを「無自覚かもしれないがその記憶をもっている」という根拠のない断定は「恣意的推論」です。「霊魂など無い」という恣意的推論と同様の認知の歪みです。<br /><br />その2<br /><br />「それじゃあどうしてそんな事が起きるのか。前世の記憶でないなら何なのかと聞きたいでしょうが、それは分かりません。その記憶がどこから来たかを示す証拠が無いので分かりません」<br /><br />このように「分かりません」と述べたにもかかわらず、「前世がない」という飛躍した断定へなぜ結びつくのか、論理の破綻が明らかです。<br /><br />「霊魂はない」「生まれ変わりはない」という「根拠のない思いつき、空想」という恣意的推論が大前提になっているので、こうした認知の歪みが生じていると思われます。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-64011076669928249122015-01-06T17:19:14.480+09:002015-01-06T17:19:14.480+09:00次がショウタさん紹介の「ラタラジューの事例」の反論者のコメントなんだそうです。
・・・・・・・・・・...次がショウタさん紹介の「ラタラジューの事例」の反論者のコメントなんだそうです。<br />・・・・・・・・・・・・・<br />前世など無い(3) ~ そもそも霊魂など無いんだから。<br />投稿日: 2014年12月23日 投稿者: Hollow Man<br /><br />私が前世など無いと言いきる理由は単純です。<br />生まれ変わるとされている「霊魂」とやらが存在しないからです。もともとそんなもの無いので、生まれ変わりも前世も無いと言えるのです。(注:存在しないものなので、名前もその定義も曖昧ないい加減な代物で、それを何と呼べば良いのか不明なので仮に「霊魂」と言うことにします。)<br /><br />しかし、「霊魂など無い」ことの証拠をここで言っても過去の投稿の繰り返しになってしまうので、また別の角度から考えてみます。<br /><br />もしも、あなたが「前世があるかも」と思っているなら、よく考えてみて欲しいのですが、その前世があると考える根拠は何でしょうか。いわゆる前世を探求・研究しているという話を聞くと、その証拠とされているのは、「本人が知らないはずの昔の事を語る人がいて、その話が事実であるかどうか確認してみたら確かに史実であった」という話ですね。それが生まれ変わりの証拠だと言う。<br /><br />いや、ちょっと待ってください。何故、それが霊魂や生まれ変わりの証拠になるのでしょうか。実際のところそれは何の証拠にもなりません。これから言うことをよく聞いて考えてみて下さい。<br />その証拠といわれるものが証明できるのは下記の事柄になります。<br /><br /> 本人が知らないはずの過去の出来事に関する記憶がある。<br /> その過去の出来事は、第三者が資料や証拠品で確認できる事柄であった。<br /> 資料や証拠品で確認できなかった言動は、それが事実かどうか判断できない。<br /> 第三者が確認できる事実であれば、本人や他の第三者も同様に確認可能である。<br /><br />本人が知らないはずの事を語ったなら、無自覚かも知れないがその記憶を持っているという事であり、そして第三者が事実と確認できる内容であれば、当の本人や別の第三者がそれを知ることも論理的に可能なのである。分かりやすく言えば、本人しか知らない事実は、それが事実であることを証明できないが、証明できる事実なら誰でも知ることができるのである。<br /><br />いずれにしても、ここで確認されているのは記憶(情報)の信憑性であって、それは霊魂や生まれ変わりの証拠にはならない。その記憶が本人の頭の中に無自覚で記憶されているにしろ、あるいは、どこか別の場所から通信で送られてくるにしろ、その情報の発生源や経路については、何も確認されていないのだから、これを以って生まれ変わりだ前世だと言うのは、根拠のない思いつき、空想に過ぎない。本人がそう言っているというのは証拠になりません。<br /><br />前世の記憶と言われるものをいくら調べて事実確認をしても、それによって前世があるという証明はできない。信じている人にはいくら理屈を言っても無駄だろうが、論理的に実りがないと分かっているだけに気の毒に思います。<br /><br />それじゃあどうしてそんな事が起きるのか。前世の記憶でないなら何なのかと聞きたいでしょうが、それは分かりません。その記憶がどこから来たかを示す証拠が無いので分かりません。合理的に考えれば、本人がどこかで知覚した情報なのでしょうが、それを確認することは出来ないでしょう。私が言えるのは、仮に前世の記憶であってもその証明はできないという事です。それはいくら探求しても無駄なのです。存在を証明できないという論理的な意味においても「前世など無い」のです。<br />・・・・・・・・・・<br />この反論者は、冒頭から「私が前世など無いと言いきる理由は単純です。生まれ変わるとされている霊魂とやらが存在しないからです。もともとそんなもの無いので、生まれ変わりも前世も無いと言えるのです」と断定しています。この断定はそもそも根拠がありません。証拠を挙げないであることを信じ込み、独断的に思いつきで物事を推測し判断することを認知療法では「恣意的推論」と呼び、認知の歪みが生じる思考の始まりとされています。<br />そもそも「ラタラジューの事例」についての反証もないのに、「ラタラジューの事例」の「反論」とは言えません。<br />今後、こうした独断論や印象論は、このブログにはそぐいませんから、投稿されても掲載しません。稲垣 勝巳https://www.blogger.com/profile/16232260953490209907noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7548750843777970344.post-29232064705325274722015-01-06T11:50:36.988+09:002015-01-06T11:50:36.988+09:00ラタラジューの仮説の反論者のコメントです
http://yamabeer.wordpress.co...ラタラジューの仮説の反論者のコメントです<br /><br />http://yamabeer.wordpress.com/2014/12/23/%e5%89%8d%e4%b8%96%e3%81%aa%e3%81%a9%e7%84%a1%e3%81%843-%e3%80%80%ef%bd%9e%e3%80%80%e3%81%9d%e3%82%82%e3%81%9d%e3%82%82%e9%9c%8a%e9%ad%82%e3%81%aa%e3%81%a9%e7%84%a1%e3%81%84%e3%82%93%e3%81%a0/ショウタnoreply@blogger.com