2017年3月19日日曜日

「タエ・ラタラジューの事例」のヤラセ疑惑を払拭する

   SAM催眠学序説 その100


2014年4月から掲載し始めた「SAM催眠学序説」が、3年後の今(2017年3月)、「その100」を迎えることができました。

「SAM催眠学序説その2」で、私は、

「『SAM催眠学』とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、明らかに示されてきた『「諸意識現象の事実』を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとするものです。つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです」

と意気込みを述べています。

ここで述べている「意識現象の事実」とは、「生まれ変わりを示している意識現象の事実」を指していますが、その実証的根拠こそ、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」の具体的両事例です。

もし、この両事例に出会うことがなかったなら、私は、生まれ変わりは科学的事実だ、などという大胆な主張は到底できなかったでしょう。

当然のことながら、「生まれ変わりの事実」を、「一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試み」である「SAM催眠学」、つまり、唯物論に真っ向から対立する試みもできなかったでしょう。

したがって、とりわけ超ESP仮説を打破する応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、生まれ変わりの事実を追究する「SAM催眠学」の構築と展開にとってまさに生命線です。

「ラタラジューの事例」について、事例そのものの客観的事実を認める前提での、唯物論からの批判に対して、「SAM催眠学」からの反批判の応酬をしてきました。
そのまとめが「SAM催眠学序説 その80」に掲載してあります。

ところが、「ラタラジューの事例」の、事例そのものの客観的事実を認めない、つまり、なんらかの作為によるでっち上げではないか、という疑いをもつ人が少なからずいるようです。


インタネット上で検索していたところ、アンビリで放映された「タエの事例」および、「ラタラジューの事例」について、ヤラセ疑惑がある、という感想・主張が少なからずあることを知り、愕然としました。

たとえば、「SAM催眠学序説その99」の前の記事である「おことわり」の記事のコメント「「習っていない別国の語学が話せるというような現象も、ネス湖の怪獣問題のように何かの少しの嘘や脳機能の評価不足などの間違いなどではないでしょうか!!人は利害などでよく偽りがそのつもりがなくとも出てもきます」などに類する主張です。


こうした批判者はネット上の匿名性をいいことに、無責任で、放埒な、言いたい放題をやっている輩ですからまともに相手にするのも大人気ないと思うのですが、両事例の当事者である里沙さんの名誉のためにヤラセ疑惑を払拭する反論をしておきます。

両事例が、生まれ変わり仮説を支持する科学的諸検証の結果から導かれた結論である、と主張していること、つまり、反証可能性にひらかれた形で、全セッション記録映像のyou-tubeでの提示と、2冊の拙著『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』の文字記録によって提示しているので、それらの提示された諸証拠によって他者に対して、「反証可能性」にひらかれているのです。

したがって、私の主張に対して、ヤラセであるという反論をするからには、私の提示した諸証拠をもとにヤラセであることを立証しなければ、正しく反論たりえないのです。
正当な反論とは、そのような立証責任がともなうというのが反論のルールだということです。

反証可能性(はんしょうかのうせい、: Falsifiability)とは、

「科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説実験観察によって反証される可能性があることを意味する。
ある仮説が反証可能性を持つとは、その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性があることを意味する。
例えば、「明日、太陽から昇る」という仮説は、「明日、太陽が東から昇らない」という観測によって反証されるかもしれない。
これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ」

というわけですから、「タエ」、「ラタラジュー」の具体的両事例にもとずく「生まれ変わり」の実証的主張は、生まれ変わりを示す映像記録と文字記録の具体的諸証拠の提示によって反証可能性にひらかれています。

にもかかわらず、反証抜きでヤラセ疑惑を主張することは、単なる言いがかりに過ぎません。
おそらく、生まれ変わりの科学的事実を認めることに、強い恐怖、あるいは不安に駆られているのか、唯物論の土台にヒビや揺らぎが生じ、いわゆる、「認知的不協和」による強迫的観念に怯えるからだと思われます。

それとも、アンビリは娯楽番組であるから、おもしろおかしくヤラセを演出しているに決まっている、という偏見による先入観からの短絡的感想・主張かも知れません。
しかし、ヤラセの主体が、フジTVのアンビリ制作スタッフであるとするなら、見当違いも甚だしいと言わねばなりません。

「タエの事例」が放映されたのは2006年10月ですが、研究のために、この実験セッションの映像が撮影されたのは2005年6月です。
翌2006年5月に、「タエの事例」を収載した『前世療法の探究』が出版され、それを読んだアンビリ制作スタッフから、セッション記録映像提供の依頼が来たのが、2006年7月です。
つまり、「タエの事例」の映像撮影時点で、アンビリがヤラセなどに関与できるはずがなく、アンビリ制作スタッフによるヤラセの可能性は100%ありません。

ただし、私の提供したセッション記録映像の音声に1個所、私の了解なしにタエの音声を消去した部分があります。
タエは人柱になった理由を、「水が止まってあぶないので、上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」と語っていますが、上の村が水にやられるので・・・の音声が消去されています。

おそらく、タエの人柱がタエの住む渋川村を洪水から守るためのものという筋書きのほうが視聴者が分かりやすいという判断があってのことでしょう。

「ラタラジューの事例」も同様の経緯があり、アンビリ制作スタッフによるセッション記録撮影時点のヤラセなど関与の余地は100%ありません。
なぜなら、「ラタラジューの事例」の実験セッションがおこなわれ、その撮影がされたのは2009年5月であり、これのアンビリ放映は翌2010年8月です。

この事例がアンビリ放映に至ったのは、真性異言研究チームの末武信宏医師が知り合いの学研編集者に「ラタラジューの事例」を紹介し、2010年3月、学研の雑誌『ムー』によって「ラタラジューの事例」が特集掲載され、それを読んだアンビリスタッフから映像提供の依頼が同年7月にあり、2010年8月に放映に至ったという時間的経緯があるからです。

したがって、「ラタラジューの事例」のセッション記録撮影時点で、アンビリ制作側が、ヤラセなどの関与ができる余地はまったくありえません。

ただし、「ラタラジューの事例」の映像編集されたナレーションの中に、アンビリスタッフが、フラッシュバックするナル村風景を里沙さんにスケッチしてもらった、というくだりがありますが、これは事実と異なります。

フラッシュバックするナル村風景のスケッチを里沙さんに依頼し、それ保管していたのは私です。
アンビリ制作スタッフが、ナル村の現地取材に入るというので、それならこのスケッチ風景に該当するナル村風景の有無を検証してほしい、と私がスタッフに預けたというのが真相です。

というわけで、アンビリ制作側からヤラセを企てることは事実関係から、一切ありえません。

とすれば、残るヤラセの可能性は、私と里沙さんが共謀して、タエの人柱物語を作話した、また、ラタラジューのネパール語会話の特訓をし、台本をもとにネパール語対話者カルパナさんとのネパール語のヤラセ会話セッションを捏造したという疑いになります。

しかし、こうした疑惑、つまり、被験者里沙さんは、実験セッション以前にタエに関する諸情報やネパール語についての諸情報を入手していたのではないか、という疑惑については、詳細な生育歴調査と最終的なポリグラフ検査によって明確に否定されています。


また、「タエの事例」では、医学博士多治見県病院消化器外科部長酒向猛医師、市川千秋皇學館大学教授、小野口裕子可児市教育委員長、「ラタラジューの事例」では、大門正幸中部大教授、同大学岡本聡准教授、医学博士末武信宏医師などが、見学者として同席しています。

社会的地位のある複数の人たちが、ヤラセを共謀し加担する可能性は、常識的にきわめて考えにくいでしょう。

そのように受け取ってもらえるように、後々このセッション証拠映像にヤラセの疑惑をかけられないように、社会的地位のある複数の見学者の同席を願ったという意図があるのです。

ここまで説明しても、ヤラセ疑惑を払拭していただけないとすれば、いったいどのような説明や証明をすれば疑惑が晴れるのですか、とお尋ねしたいと思います。