2016年6月24日金曜日

SAM催眠学における前世人格との対話現象

   SAM催眠学序説 その93


SAM催眠学のもっとも大胆、奇怪な作業仮説は、「前世の記憶」にアクセスするのでなく、魂の表層に存在する「前世人格」にアクセスするという方法論をとっていることでしょう。

私の知る限り、「魂表層に存在する前世人格にアクセスする」という明確な作業仮説のもとにおこなっている前世療法士は海外を含めて皆無です。

それほど認めがたい作業仮説だろうと思われます。
そもそも、私あて霊信が教示した魂の構造から生み出された作業仮説であり、人間が考えた仮説ではありません。

魂表層に存在している前世人格とは、つまりは死者であり、その死者である前世人格を顕現化させ対話することは、死者との対話をすることになります。

しかし、この作業仮説を裏づけ、顕現化した前世人格の実在が検証できた事例が確かに存在し、その映像と音声の証拠記録が残っています。

それが「ラタラジューの事例」と「タエの事例」にほかなりません。

前世人格ラタラジューは次のような、現在進行形でのきわめて象徴的な対話をしています。
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注:CLは被験者里沙さん、KAはネパール語対話者ネパール人カルパナさん

CL  Tapai Nepali huncha?         
   (あなたはネパール人ですか?)

KA  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)

CL  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)
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この短いやりとりの重要性は、ついうっかり見落とすところですが、現れた前世人格のありようについて、きわめて興味深く示唆に富むものだと言えます。

それは、前世人格の顕現化というSAM催眠学の作業仮説が成り立つことを裏づけるものだからです。

つ まり、前世人格ラタラジューのありようは、ただ今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、 ここで、問いかけ、その回答を求めているわけで、「里沙さんの潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示していま す。

ラタラジューは、前世記憶の想起として里沙さんによって語られている人格ではないのです。
里沙さんとは別人格として現れている、としか考えられない存在です。

その「別人格である前世のラタラジューが、里沙さんの肉体(声帯と舌)を用いて自己表現している」と解釈することがもっとも自然な解釈ではないでしょうか。

前世を生きたラタラジュー人格は、肉体こそ持たないものの、ただ今、ここに、存在している人格(意識)として現れており、現在進行形で会話しているのです。

この現在進行形でおこなわれている会話の事実は、潜在意識の深淵には魂の自覚が潜んでおり、そこには前世のものたちが、今も、生きて、意識体として存在している、というSAM催眠学独自の作業仮説が正しい可能性を示している検証の証拠であると考えています。

ところで、生まれ変わり研究の先駆者、とりわけ生まれ変わりの最有力な証拠である応答型真性異言の研究者であるイアン・スティーヴンソンも、応答型真性異言の実験セッションにおいて次のように述べ、私と同様の見解を示しています。

ちなみにこの被験者女性は、アメリカ人女性で、退行催眠下で学んだことのないドイツ語で応答的会話した応答型真性異言「グレートヒェンの事例」の被験者です。
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私自身は、この被験者を対象にした実験セッションに4回参加しており、いずれのセッションでも、トランス人格たるグレートヒェンとドイツ語で意味のある会話をおこなっている。(『前世の言葉を話す人々』春秋社、P9)

ドイツ人格とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた。そして、それに成功し、この新しいトランス人格は、自分を「Ich bin Gretchen(私はグレートヒェンです)」と名乗ったのである。
(前掲書P11)
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スティーヴンソンも、この事例において、被験者が記憶を想起して会話しているのではなく、顕現化した「トランス人格」自身が会話をした、という解釈をするしかなかったのです。

ただし、彼の用いた「トランス人格」という語は両義性を含んでおり微妙です。

なぜなら、トランス人格とは、退行催眠下のトランス状態で顕現化した人格一般を指すのであり、それが被験者の前世人格であるのか第三者の憑依人格(憑依霊)であるのかは不明であるからです。

慎重・厳密な科学者であるスティーヴンソンは、その判断を留保し、トランス人格という語を用いたと思われます。

穿った推測をすれば、グレートヒェン人格を前世人格だと判断した場合、その前世人格はどこに存在しているのかが問題となることを回避したかったのかもしれません。

いずれにせよ、応答型真性異言現象を目の当たりにした者は、その応答的会話をする主体を、被験者が記憶を想起して語っているのではなく、被験者とは別個に顕現化している人格自身であると認識せざるをえない、ということを私は主張しているのです。

SAM催眠学に基づくSAM前世療法では、魂の表層は生まれ変わりをした前世諸人格によって構成されており、その前世人格を呼び出し、対話するという作業仮説に基づいてセッションを展開します。

ラタラジューもタエも、そのようにして、魂表層から呼び出し、顕現化させた前世人格です。

SAM前世療法の他のセッションにおいても、同様の手続きをして呼び出した前世人格が、応答型真性異言現象を示さないにしても、その前世人格を、すべて被験者の願望や潜在記憶が投影された架空人格(偽造人格)だと切り捨てることはできない、と考えています。

11 件のコメント:

Engu さんのコメント...

今日は。

厳密には転生ではないので余談の類なのですが、
非常に興味深いテキストを見つけましたのでシェアします。


 霊界通信集 (A)
http://www.takemoto-shozo.com/

そのものずばりです。
何と戦前のものです。


新樹の通信  「霊界通信集」A


 浅野和三郎『新樹の通信』の現代文訳を載せるにあたって


 浅野和三郎先生(1874-1937)は、英文学者として、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』等の翻訳をはじめ、多くの著作を残されて著名ですが、それだけではなく、それ以上に、大正から昭和の初期にかけて、日本の心霊研究の草分け的存在として、大きな足跡を残されました。

 東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍機関学校の英語教授をしていましたが、三男三郎氏の原因不明の熱病を契機にして心霊研究に傾倒するようになりました。その後、海軍機関学校を辞職して「心霊科学研究会」を創設し、1928年には、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議にに出席して、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演したりしています。

 この『新樹の通信』は、若くして急逝した次男・新樹氏から父へ、霊能者の母・多慶子女史により伝えられた珠玉の霊界通信で、昭和の初期に心霊科学研究会から出版されました。その復刻版は、現在も、潮文社から刊行されています。ただ、原文は80年前の古い文体でやや読みにくいと思われますので、この際私が現代文に訳してみることにしました。これから随時、その要点を、このホームページに載せていく予定です。

 この現代文訳の末尾には、原文である復刻版の該当ページと、他の現代文訳の「引用」ではないことを明らかにするために、あえて現代文訳者として私の名前もつけておきます。一人でも多くの方に、この貴重な霊界通信を読んでいただきたいというのが、私の願いであり現代文訳の趣旨であることを、ご理解いただければ有難く存じます。(2013.07.01)

国内にこんな堂々たる交信記録があったとは・・・。
真偽については読者各人の所感にお任せしたいと思います。

堕天使 さんのコメント...

私は唯物論、一般論を捨てきれません

家族にラタラジューを紹介したら、マインドコントロールや心霊写真や映像の裏側の暴露番組を持ち出し疑っていました

稲垣 勝巳 さんのコメント...

堕天使さん

私が「ラタラジューの事例」の全セッション証拠映像をyou-tubeで世界に向かって(英語版も公開中)堂々と公開しているにもかかわらず、この事例の信憑性を疑う人には付ける薬がすでにないと思っています。

また、この事例はフジTV『奇跡体験アンビリバボー』で2010年8月に60分にわたって放映されています。
アンビリは娯楽番組という評価が一般的で、だから視聴率稼ぎのためにインチキやトリックがあると疑惑の目を向ける人がいるでしょうが、それが一切ないことは当事者の私が名誉にかけて断言します。

ショウタ さんのコメント...

水掛け論ですね~

http://tsutsui-takeo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-f068.html

シュヴァル さんのコメント...

ショウタさんは先生のコメントを引き出すのを楽しんでいるようにしか私には見えませんね

前回も申し上げたようにそろそろ断固した措置をとるべきだと思います

堕天使さん
あなたの言っているのは自分が○○と思いますという話をしているだけです
疑念があるのでしたら、応答型真性異言を否定する科学的実証を行えばいいのです
疑念がありますといってるだけでは求める答えはえられませんよ

あなたは何がほしいのですか?思ってるだけでは何も変えられないのではないでしょうか?

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

私の提示している「ラタラジューの事例」による生まれ変わりの証明の信憑性と、あなたの提示しているブログの生まれ変わり否定論者とが水掛け論ということですか?

ということであるなら、あなたの認識の誤りです。

私は反証可能性にひらかれたセッション映像という具体的証拠にもとづいて主張しています。

ショウタさんの紹介している否定論者は、私の主張の裏付けとなっている具体的証拠に対して反証をあげて否定論を展開することができないまま、自説の抽象論・観念論をグダグダ述べているだけではありませんか?

水掛け論に決着をつけるのは具体的証拠です。
具体的反証があげられない、しかし生まれ変わりは認めることができないので抽象論に逃げ込んでうやむやにするしかないのです。

「人格(b)は誕生と共に創造され、発達し、死によってその機能(f)も構造(s)も消滅します。あの世は無い、有るとすれば虚として有るのです」というようなショウタさん紹介の論者の弁
を私は抽象論・観念論だと言っているのです。「あの世は無い、虚としては有る」、なんですかこれは?

この論者が帰無仮説を証明したかったら、「ラタラジューの事例」について具体的反証をあげて、応答型真性異言ではないことを論破すればいいだけのことです。
そうすれば、生まれ変わりの有無の決着は簡単につきます。

この私のコメントをコピペして否定論者に送付することを禁じます。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん

以前にも苦言を呈しておきましたが、あなたの投稿に対して私が誠実に回答したことに一切の反応を示さないという態度は礼儀を欠くとは思わないのですか?
匿名性をさいわいにそうした不誠実な態度をとり続けることは、常識ある社会人として認めることはできないと私は思います。

ちなみに、私は「ラタラジューの事例」によってラタラジューという前世人格の顕現化(自己内憑依)を認めていますし、したがって、必然的に「生まれ変わり」と「霊魂」の実在を認めざるを得ないという立場に立っています。
私が具体的検証の結果として断言できることはここまでです。
「あの世」の実在については、検証不能ですから判断留保です。

ただし、「あの世は無い、虚としては有る」などという禅問答のようなはぐらかしには与するわけにはいきません。
この論者の論法でいけば「応答型真性異言は無い、虚としては有る」という、奇妙な論法になるのでしょうか。
まさか、「ラタラジューの事例は無い、虚としては有る」などと言えば、この論者がまともな論理的思考力の所有者であることを認める人はいないでしょう。

自説を論証したければ、「ラタラジューの事例」の証拠映像が「有る」のですから、これが「虚」であることを具体的反証をあげて証明すればいいだけのことです。
それができないので、回りくどい観念論・抽象論で取り繕うしかないのです。
あるいはどこかにトリックがあるはずだという非論理的思い込みによって、無視しようと企むことになるのです。

この論者のブログ「新しい科学」をきちんと読んでみましたが、「ラタラジューの事例」の真偽についての具体的言及は一切なく、「あの世」についての空疎な観念論的否定論の羅列でしかないと評価しています。

私が求めるところは、「観念より事実、理屈より実証」であることを再度確認しておきます。
検証事実を軽視・無視して、観念や理屈を論じる人を相手にすることは徒労だと思っています。

ショウタ さんのコメント...

改心してきたみたいです。
http://tsutsui-takeo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-8eaf.html

稲垣 勝巳 さんのコメント...

ショウタさん紹介の研究者らしき論者が、「改心してきたみたい」というブログ紹介記事(『新しい科学』)を読んでみましたが、これではとても「改心」とは評価できませんね。

この論者は、ワイスの「キャサリンの事例」を取り上げていますが、ワイスは生まれ変わりについてのきちんとした科学的検証事例を持っていません。
「キャサリンの事例」もそうです。
したがって、この事例は生まれ変わりの科学的研究の研究資料とはなりえないのです。
つまり、ワイスの諸著作は、生まれ変わりの科学的研究書として研究者は評価していません。
前世療法についての通俗本としての扱いです。
このことだけでも、この論者は的外れを犯していますが、そもそも、前世療法で語られる前世の内容と、その前世存在の科学的検証の有無の区別がついていないと思われます。
おそらく、応答型真性異言の先行研究や、それが生まれ変わりの証拠とされている科学的意味についても分かっていないと推測されます。
分かっているとすれば、ワイスの事例を取り上げて、生まれ変わりの真偽を検討するような的外れを犯すことはないはずです。

この事例を取り上げた論者は、次のようにきわめて通俗的な唯物論的解釈を述べ、その解釈を前世療法全般に適用できる説明原理であるかのような浅薄な見解を示しています。

「これと同じように、キャサリンは、漱石のように、作家として自分の奥深く隠された病理を描くことはできなかったが、精神科医ワイス氏の催眠誘導という援助の力を借りて、自己の奥深くに隠されていた作家的能力を発揮して、前世という架空の世界での困難な人生を描くことによって、自己を肯定することが出来、人への真の信頼感を獲得することが出来た、こうして日常的に彼女を脅かしていた恐怖心を克復(注:「克服」の誤り)することが出来たと考えることができるのです」

上記のような唯物論的解釈、すなわち、「自己の奥深くに隠されていた作家的能力を発揮して、前世という架空の世界での困難な人生を描くことによって、自己を肯定することが出来、人への真の信頼感を獲得することが出来た」という治癒構造の解釈は、ナラティブセラピイ(物語療法)として前世療法すべてを理解できたつもりになって、要するに、自ら信奉する唯物論の砦に立て籠もって安住を守ろうとしているに過ぎません。

ナラティブセラピイで説明できそうな「キャサリンの事例」を都合よく「選択的抽出」し、その説明をもって前世療法全般の説明へと「拡大視」し、前世などは「クライアントの作り上げた架空の世界」だ、という「恣意的推論」による「極端な一般化」をして自己満足するという、典型的な認知の誤りに陥っているのです。

応答型真性異言であることが検証されている「ラタラジューの事例」が、クライアント里沙さんの作り出した架空の物語として説明できる道理があるはずがないがないではありませんか。
架空の物語中の人格であるラタラジューが、里沙さんの知らないはずのネパール語で、なぜ応答的会話が可能になるのか、この論者には、真剣に検討し思考する能力が欠落しているとしか思えません。

せいぜい、どこかにトリックが必ずあるはずだという程度の思考レベルなのでしょう。
なぜ、突きつけられている生まれ変わりの科学的証拠である応答型真性異言「ラタラジューの事例」に正対して、唯物論で解釈する努力をしようとしないのでしょうか。
答えは単純です。
この論者には、唯物論によって説明することがまったくできないからです。

あるいは、生まれ変わりの科学的探究についての本ブログ『SAM催眠学序説』、および私の2冊の著作やイアンスティーヴンソンの著作を読んでいないか、読もうとしないかです。
生まれ変わりについての先行研究の無視は、研究者としてあるまじき怠慢でしょう。

このような論者であるからこそ、「ラタラジューの事例」に正対した具体的言及は一切できず、「あの世」についての空疎な観念論的否定論の羅列しかできないと評価していますし、生まれ変わりの検証事実を無視して、いたずらに観念や理屈を論じる人を相手にすることは徒労だと思っています。

この論者に、凝り固まった唯物論からの「改心」を期待することはないものねだりでしょうね。

匿名 さんのコメント...

稲垣先生。心を閉じた懐疑論者を説得する試みは即刻やめるべきです。
あなたの人類への貢献を、馬鹿の屁理屈に利用させては駄目だよ。
>>http://www.victorzammit.com/archives/index.html
ここでも同じ。心を閉じた懐疑論者には何をしても無駄。
説得しようとか無駄な労力を注がない下さい。
ただ、粛々と基礎を積み重ねるその態度でいいんです。
子供は自由にさせときましょう。
いずれその時は来るんですから。

稲垣 勝巳 さんのコメント...

匿名さん

ご投稿ありがとうございました。

我が意を得たり、というべきうれしいお考えを投稿していただきうれしく思います。

「ただ、粛々と基礎を積み重ねるその態度」を堅持してここまでやってきましたが、ご理解くださる読者がおいでになることが確認できました。

私は、これまでにも硬直した唯物論者たちを相手にしてきましたが、説得できるとは思っていません。
私にしたところで、2005年に出会った「タエの事例」以前は、唯物論側に与している立場でしたから。

生まれ変わりや霊魂のような重大問題は、 観念や理屈では決定的な説得力がないことはうんざりするほど体験しています。
万の観念論や屁理屈より、たった一つの動かせぬ証拠(事実)こそ、決定的な説得力をもつものだと思っています。
ただし、そうした生まれ変わりを示す動かぬ証拠(事実)を提示しても「心を閉じた懐疑論者」には、糠に釘、暖簾に腕押し、であることも十分承知しています。

それでも、私の提示している生まれ変わりを示す事例(証拠)に対する無根拠な言いがかりや、明らかな事実認識の間違いを、あたかも正論のごとく述べている論者を知ったからには、その論者にではなく、その論者のブログ記事を支持する読者に対しても、本ブログの読者に対する奉仕のためにも、言うべきことはキチンと言っておく必要があると思っています。