2015年2月17日火曜日

SAM催眠学序説 その40

「タエの事例」再考 その6 セッション逐語録6(最終回)


この対話は「その5」に引き続き、里沙さんに憑依したとおぼしき守護的存在との対話です。

CLはクライアント里沙さんの略号、THはセラピスト稲垣の略号です。



TH:それはC分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?

CL:女は、道具です。
注:この偉大な存在者(守護霊)の語りは、当時の男尊女卑への痛烈な批判を含んだ冷徹な語り口であった。とりわけ、人柱になったタエが捨て子であり、記録にさえ残されることのないことへの怒りがこもっているように感じられた。セッション後、タエがフラッシュバックで語ったことによれば、キチエモンとタエに関わって、キチエモンの妻ハツも知る公にできない不祥事が生じており、キチエモン夫妻は、人柱にこと寄せてタエの口封じを企てたという。まさにタエという少女は「道具」として扱われ人柱になった。それら諸事情をすべて知っている守護霊の怒りのことばかもしれない。

TH:道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?

CL:クロカワキチエモン。
注:渋川市教委を通じて、渋川市史編集委員の郷土史家の蔵書の検索によって、当時の渋川村の名主が4名であったことが判明。そのうち一人がホリグチキチエモ ンであった。クロカワチエモンではなかった。2012年5月29日の再セッション(you-tube動画で公開)によって、クロカワキチエモンは、「クロカワのキチエモン」と呼ばれていたことをタエが語った。名主キチエモンの設置した吾妻川の船着場の石が黒かったので村の衆がそう呼んだという。つまり、「クロカワのキチエモン」は俗称であり本名ではなかった。本名をタエは知らないと語っている。ホリグチ家は初代以後、明治になるまで当主は代々ホリグチキチエモンを襲名し ていることが判明。村の衆は、当代ホリグチキチエモンを先代、先々代と区別するために「クロカワのキチエモン」と俗称で呼んだことは信憑性が高いと思われ る。タエが語った「クロダのキチエモン」も同様の俗称であった。こうして、このセッション(2005年6月4日)以来の謎であった、タエがクロダキチエモン、偉大な存在者がクロカワキチエモンと別性をそれぞれ語った理由の解決が、7年後の2012年になって決着した。ただし、なぜ、全部お見通しであるはずの偉大な存在者(守護霊)が、俗称の「クロカワのキチエモン」を語り、本名のホリグチキエモンを語らなかったのかという謎が浮上する。偉大な存在者(守護 霊)は、本名を知っていて敢えて語らなかったということだろうか。偉大な存在者(守護霊)が本名をズバリ語ったとすれば、通常では検索不可能に近い資料で しか検索できないだけに、偉大な存在者(守護霊)の実在の可能性の濃厚な証拠になる。それを韜晦するための計らいがあるのかも知れない。あるいは、別姓が語られた謎に、私がどこまで肉薄できるのかを試されたのかも知れない。

TH:そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?

CL:残っています。

TH:どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?

CL:・・・資料はあります。
注:この偉大な存在者(守護霊)の語りも謎である。資料のありかをズバリ語らず韜晦しているとしか思えない。クロカワキチエモンがホリグチキチエモンである可能性の高い資料が郷土史家の個人蔵書で確認できた。後の調査で、ハツの実在を確認できる有力資料である寺の過去帳は、同和問題の関係から開示はされていない。当時の人別帳は焼失して現存していない。墓石からの発見も、200年前の古い墓碑銘が読み取れず空振りであった

TH:そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?

CL:たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書き記(しる)したものは、ほとんどありません。

TH:分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。

CL:はい。

TH:ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。

CL:はい。

TH:なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?

CL:雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。
注:2012年5月のタエの再セッションで、タエは馬も一緒に橋の柱に繋がれていたと語っている。

TH:それは切り落とされたわけですか? 刀によって?

CL:そうです。
注:左腕を切り落とされた重大事をタエは語っていない。これも大きな謎として残った。このセッションから7年後、2012年5月29日の再セッション(you-tube動画 で公開)で、タエにと尋ねたところ、人柱として送り出される酒宴で、ご馳走とともにキチエモンから酩酊するまで酒を飲まされたらしいこと、左腕を切り落とされたことは分からないが、左腕の付け根が「熱い」と語った。酩酊状態で鋭利な脇差しなどで一気に切り落とされた場合、「痛い」ではなく、「熱い」という感覚が残ることはありうるとの外科医の見解を得ている。おそらく、人柱として死を前にしたタエの恐怖心を麻痺させ、左腕を切り落とされる痛みをなくすために酩酊させたと推測できる。

TH:それにタエさんは耐えたわけですか。

CL:そうです。

TH:それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?

CL:違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:ここで言う「口取り」の意味を里沙さんは知らない。「ビールの口取り」なら知っているという。ここで言う口取りとは、馬の轡(くつわ)に付けた手綱を持って馬を引くことである。この意味の口取りは現代ではほぼ死語であり、競馬関係者くらいしか用いない。

TH:分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?

CL:はい。

TH:ありますか、やっぱり。

CL:はい。

TH:あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?

CL:長く繰り返している。

TH:一番古くはどんな時代でしょう?

CL:天明、タエが初。
注:引き続いてのセッションで分かるが、タエ→ラタラジュー→里沙と3回の生まれ変わりをしている。

TH:もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?

CL:中間の世界。

TH:そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?

CL:中間の粒子が魂に生まれ変わります。

TH:中間の世界で粒子が魂になる。

CL:そうです。

TH:魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?

CL:粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。

TH:その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?

CL:わたしの一部になります。
注:この「わたし」とは、偉大な存在者であり、守護的存在である。タエの魂がそうした存在の一部になる、という謎の語りは、偉大な存在者であり、守護的存在であるものが、スピリチュアリズムの説く「類魂(グループソウル)」でもあると考えられる。ただし、同レベルの霊的進化・成長を遂げた魂の共同体である「類魂(グ ループソウル)」が、守護的存在として一つの意志を持つ人格のような働きをするということを聞いたことがない。しかし、スピリチュアリズムでは、生まれ変わりの旅に出る魂は、類魂全体の成長進化をも担って、類魂から分かれ出ると言われている。とすれば、類魂全体が一つの人格的存在として働くのかも知れな い。このことを2009年5月の「ラタラジューの事例」セッションで、里沙さんの守護霊を呼び出して尋ねたところ、守護霊は「類魂としての守護霊」であると回答している。さらに、ハイヤーセルフと呼んでもいいとも回答している。

TH:分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。
注:これで「タエの事例」再考は終了です。ただし、引き続いてタエの次の生まれ変わりを探ったセッションを続けました。そこで、ラタラジューが1回目の顕現化をすることになります。この
第1回目顕現化の逐語録は、「SAM催眠学序説その23」に公開してあります。
 


(SAM催眠学序説その41へつづく)

60 件のコメント:

稲垣勝巳 さんのコメント...

里沙さんに憑依したとおぼしき守護霊の解釈について

「その38」から始まり、この「その40」までの逐語録は、里沙さんの守護霊とおぼしき高級霊との対話ということになっています。

果たして、そのような霊的存在は実在するのでしょうか。

ここでの守護霊の語りを現行唯物論で解釈できるでしょうか?

この解釈の前提条件は

①里沙さんのセッション前の情報には守護霊の語った情報がまったく無いことを、彼女への聞き取り調査、その裏付けのポリグラフ検査で確認している。

②にもかかわらず、「浅閒焼泥押」が浅間山噴火で生じた土石流(火砕流)が吾妻川を堰き止められたことによるものであること、吾妻川が利根川の上流にあること、浅間山が龍神信仰の山であること、噴火による火山雷の起きたこと、渋川市上郷に石灯籠状の馬頭観音が存在していること、その場所に土石流が生じていること、など里沙さんの知っているはずのない史実・事実を正しく語っている。

こうした①②の前提条件に立って、守護霊という霊的存在を唯物論で解釈できるとすると、どのような解釈が成り立つのでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

私の見解を述べます。

「守護霊」と「タエ」のそれぞれ二者の語りは、里沙さんという同一の人間から発話されています。

しかしながら、語られた情報の内容においても、その情報の語られる視点、あるいは位相といったものからも、「守護霊」は、タエとも里沙さんとも、かなりの差異を持つような高位レベルの「存在者」だ、という感じを持たざるをえません。

「守護霊」は、里沙さんの無意識的な役割演技によって作り出されたもの、といった従来の催眠学的解釈では納得できる説明ができないものです。

そして、その「守護霊」についてはっきり言えることは、次の三点に絞られると考えられます

ア 「守護霊」は里沙さんともタエとも異なる位相の視点・情報によって発話している。

イ 里沙さん当人にとって、タエには同一性を感じているが、「守護霊」は同一性の感じられない全くの他者として認識されている。

ウ 「守護霊」が「憑依」したとおぼしき間は、里沙さんの記憶が完全なくなっている。これはその後のセッションの場合でも同様である。

結局、「守護霊」をめぐるこうした意識現象をありのままに受け入れるとすると、深層心理学的仮説、つまり、「高位自我=ハイヤーセルフ説」では説明が収まりそうにありません。

「高位自我説」で右の三点を説明しようとすると、アについてはなんとか説明可能かもしれません。つまり、「高位自我」は通常の人間の持つ能力をはるかに凌ぐ超常的叡智を備えた、当人の「心の力」の現れだと考えることです。
しかし、イ・ウの点になると、「高位自我説」では解釈に矛盾が生じてきます。
「高位自我」は、受容性の増大した状態でも全く同一性を感じることができないほど、他者性が強いのでしょうか。
さらに、「高位自我」が直接語っている間の記憶が、里沙さんからはどうしても出てこないのです。

もともと当人の心に内在しているはずの「高位自我」として語った内容ならば、思い出していいはずです。
催眠学上でも抑制されている記憶あれば、それをを外す暗示によって思い出せるとされています。
この記憶喪失現象については、単に催眠性健忘として片付けられる問題ではなく、別の要因によって生じた現象だ、と理解することが妥当ではないかと思われます。

ただし、解離性同一性障害(多重人格障害)の場合、副人格が前面に出ている際に、主人格に記憶が残らないということは報告されています。
しかし、里沙さんにはそのような精神的疾患がないことは、疑う余地がありません。
また、同じく副人格に相当するはずの、タエを始めとする人格の記憶がなぜあるのか説明ができません。

この問題は、「守護霊」をそのまま「他者」と認めれば、すっきり解決できる問題です。

つまり、「守護霊」が里沙さんに「憑依」して語ったわけですから、憑依中は「守護霊」という別人格に占有されていたことになり、その間の被憑依者の記憶はなくても当然だ、と考えることです。

ただし、これは当然のことながら「霊」の存在を前提とする立場であり、その客観的存在証明ができないところでは、なかなか認めることは難しいということになります。

しかし、説明の成功が明快であるほど、真実に近いという立場がとれないわけではありません。

私が守護霊の実在を認めようとする立場をとる理由は、それが直感に著しく反していないからであり、それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その顕現化現象が現行唯物論の枠組みからは説明できないからです。

この立場をとることは、私宛の霊信で告げられている予言がすべて的中していることや、通信霊団の存在を知らないはずの催眠中のクライアントに、私の守護霊を名乗る霊、霊団の一員を名乗る霊、あるいはクライアントの守護霊を名乗る霊の憑依とおぼしき現象が生じ、メッセージを伝えるということが度々起きていることからも、受け入れざるをえません。

ただし、こうした霊からの通信や憑依中の口頭によるメッセージが、それを望んだわけでもない私に、なぜ1冊目の出版を境に立て続けに起こってきたのかは謎としか言いようがありません。

霊が実在するなら、いずれこの謎も明かされるときがくるのでしょう。
また、私の質問の回答として霊が告げた、脳と意識・潜在意識の関係、魂の二層構造と魂の進化成長の仕組みなどを受け入れ、それを作業仮説としてSAM前世療法が生まれた経緯と、これまでの検証によって、作業仮説が少なくともクライアントに現れる意識現象の事実としては成り立つことからも、これら情報を告げた人知を越えた通信霊の存在を認めることに、躊躇する必要はないのではないかと考えています。

この霊信から得た情報の恩恵抜きにして、SAM前世療法が生まれることがありえなかったことは明白な事実だからです。

私宛霊信は、これから順次公開していきます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

昨今のコメント欄における皆様のご意見はとても勉強になり、とりわけ「認知のゆがみ」についての先生の一連のご高察は大変参考になりました。私も、自分の信念に合わせて強引に結論を導き出すことなく、真実を見誤らないように常に客観的に思考していくことが重要であることを改めて認識いたしました。今回もできる限り中立的な立場で、歴史史料と信用できる先行研究を引用しながら考察を進めていこうと思います。また天明泥流に関する私の認識にいくつか誤りがありましたので、そちらも今後明らかにしていきます。もし今後私に一方的立場からの解釈と思われる部分が見られたり、先行研究の読み落としや読み誤りなどが見られるようでしたら、ご指摘をいただければ幸いです。

さてこちらは1月に日本に帰国し、浅間山噴火や天明泥流に関する参考資料が少しずつ収集されてきました。その量はまだ不十分であるとは思いますが、稲垣先生にタエの事例の再検証をいただいてからすでにひと月以上も経過してしまいましたので、現段階における「タエの事例」に関する私の意見を述べていきたいと思います。タエの事例に関しては今までに様々な論点があげられていますが、まずはSAM催眠学序説 その33 のコメント欄で稲垣先生が読者の方々に問われていた、吾妻川の「水が止まった(水位が大きく下がった)」時間があったのか、なかったのか、タエは泥流による溺死か、濃密な土石流の直撃による即死状態であったのかの二点について、私の考えを述べさせていただこうと思います。

なお、この度中心に参照した資料は、井上公夫『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』古今書院、2009年、および以前UROノートさんが紹介された「内閣府防災情報」災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月となります。また、本調査書の続編である第三章をインターネットで見つけましたので、こちらも拝読しました。
また、
山田孝・石川芳治・矢島重美・井上公夫・山川克己「天明の浅間山噴火に伴う北麓斜面での土砂移動現象の発生・流下・堆積実態に関する研究」『新砂防』45巻6号、1993年 、
山田孝・石川芳治・矢島重美・井上公夫・山川克己「天明の浅間山噴火に伴う吾妻川・利根川沿川での泥流の流下・堆積実態に関する研究」『新砂防』46巻1号、1993年、
井上公夫・石川芳治・山田孝・矢島重美・山川克己「浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態」『応用地質』35巻1号、1994年、
の各論文も参照しています。なお上記の論文は、すべてCiNiiにおいて公開されております。

続きます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

1. 吾妻川の「水が止まった(水位が大きく下がった)」時間があったのか

まず、私は「吾妻川が鎌原土石流によって閉塞され水がせき止められてそのために下流の水が止まり、しばらく後にその水圧に耐えられなくなり堰が壊れて天明泥流が発生した」、とのように勘違いをしていたのですが、実際のところは土石流は吾妻川に到達した後直ちに川を流れ下っていた模様です。

・・・・・・・・・・・
菊池(1980a,b)や荒牧(1968)は、「鎌原」が吾妻川を塞き止めて、一時的に天然ダムが形成され、背後に水が溜まって、それが決壊し、天明泥流となったと考えた。しかし、史料から吾妻川沿いの泥流到達時間を検討すると、渋川(山頂から70km)まで2時間で流下しているので、背後に水が溜まるほど、長時間に渡って天然ダムが形成された可能性は低い(坪谷・他,1988)。したがって、吾妻川に流入した時点で、泥流として流下できるほど十分な水分量を有していたと考えられる。
『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』(pp.121-122)

また泥流の水源は、当時浅間山北麗に存在した柳井沼及びその周辺の地下水帯であったことが、以下の論文で示唆されています。

・・・・・・・・・・・
既存の研究によれば, 吾妻川,利根川での天明噴火によって発生した泥流の水収支を計算すると約2,500万m3の水が不足し,浅間山北側斜面のどこかにその所在を求める必要があるとされている。現在の地形で判断すると,このような大規模な水量を貯留できる容量を持った空間として,浅間園から鬼押し出し園にかけて存在する直径700~800m,落差100m程度の半円径の凹地(標高1,350~1,360m)が考えられる。従来,この凹地は天明3年の噴火の際に山頂から発生,流下した鎌原火砕流の巨大な本質岩塊 によって侵食された地形の一部であるとされてきたが,『浅間山大変実記』などの古文書や『浅間山嶺吾妻川村々絵図』等によると天明噴火の前から元々,この凹地が存在しており,”柳井沼”と称される沼地であったことがうかがえる。
「天明の浅間山噴火に伴う北麓斜面での土砂移動現象の発生・流下・堆積実態に関する研究」(p.9)

以上のように、近年の研究では鎌原土石流は吾妻川に流入した後直ちに下流へ流出しているとされていますので、流入地点での吾妻川の閉塞は発生せず、よってこの時点では流入地点以降の吾妻川下流域における水位の低下はなかったことが推察されます。

杢の渡しの地点における水位の大きな低下があったかどうかは、流入地点より下流においての吾妻川の閉塞の有無が問題となるはずです。稲垣先生はSAM催眠学序説 その34 において「土石は吾妻川の狭窄部分を堰き止めては土石、川の水を逆流させ多くの家々、畑を飲み込んでいった。堰が壊れては泥水が段波として下流へと下った」との見解を紹介されておりましたが、私が資料にあたったところでも、吾妻川の狭窄部分では確かに堰上げ現象が起こっていた模様です。また、UROノートさんはSAM催眠学序説 その33 のコメント欄で、「『突如泥流が押し寄せた』とはどんな状況なのでしょうか?http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783-tenmei-asamayamaFUNKA/pdf/1783-tenmei-asamayamaFUNKA_06_chap2.pdf 上の74ページ以降の記述によれば、噴火による堆積物で吾妻川はかなり大規模に堰上げされ、大規模な逆流すら観測されたとしています。 この説の通り、吾妻渓谷の狭隘地に生じた自然堤防が決壊するまで、吾妻川下流域の水位が低下し、泥押の前兆が観測された後、大泥流が殺到したのが自然でしょう」 と述べられていますが、私は杢の渡しにおいて水位の大幅な低下があったかを解明するにあたっては、吾妻渓谷における泥流の塞き上げの時間と、杢の渡しまでの距離が重要になると考えました。

そこでこの度検討した資料が、『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』の《表3.2 マニング式で計算した天明泥流の想定水位・流量・流速・流下時間(嬬恋村万座鹿沢口~伊勢崎市八斗町)(国土交通省利根川水系砂防事務所)》p.101、となります。本表においては、吾妻川の八ッ場付近で9分程度(515秒)の塞き上げがあったとしています(この時間は私が予想していた閉塞時間よりもはるかに短いものです)。この地点より杢の渡しがあったとされる北牧、杢関所までの距離は33.4kmほどあり、杢の渡しまでの泥流の到達時間は八ッ場付近の天然ダムの決壊から67分21秒後という計算結果となっています。また、本表によれば閉塞地点から杢の渡しまでの天明泥流の流速は秒速5.80~14.3mとされています。吾妻川の通常時の流速は不明ですが、秒速5.80~14.3mという流速は通常時の流速よりもはるかに速いことが予想され、よって決壊した天明泥流は杢の渡しの地点よりも上流において、八ッ場付近の閉塞によって水位の低下した吾妻川の流れに追いつくことが推測されます。約67分の残り時間と天明泥流の流速から考えると、もし八ッ場付近よりもさらに下流において一時的な河川閉塞が起こっていたとしても、水流低下の時間はタエを人柱にできるほど十分なものではなかったのではないでしょうか。

また、「浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態」においては、「計算結果によれば,天明泥流は噴出地点から利根川との合流点(渋川,浅間山より70km,断 面23)まで83分で流下したことになり,1~2時間で合流点まで到達したという当時の種々の記録(前記,「浅間山変水騒動記」(II,p.126))ともほぼ一致する。(p.27)」と述べられています。吾妻川の閉塞後、距離の離れた杢の渡しの地点において直ちに水位が低下するとは考えづらく、噴火後1~2時間で到達する泥流以前に、杢の渡しの地点で大幅に水位が低下した時間がどれほどあったのかという疑問が残ります。

以上のことから私はやはり現在のところ、杢の渡し地点で大幅に水位が低下した時間はほとんどなかったとする説を採用することが妥当であると考えています。また、早川氏の「1985年頃には、熱泥流は渋川にいきなり来たのであって、タエを人柱に立てるような時間的余裕がなかったことがわかっていました」との見解は、上記の先行研究から導き出される結論と変わらないものとなると考えます。

続きます。

稲垣勝巳 さんのコメント...

まずショウタさんへ
苫米地氏の述べていることは「宗教的神秘体験」についての独自の見解にすぎません。生まれ変わりについてのイアン・スティーヴンソンの研究も、私の研究も、確認された事実に基づいた「事例研究」であって、「宗教的神秘体験」とはまったく関係ありません。
「肉体や脳内に偶然引き起こされる変容とそれに伴う圧倒的な感激体験」と混同しているあなたの勘違いです。
したがって、ここで話題にすることはピントはずれです。

UROノートさんへ
早川説を擁護する今回VITAさんの見解に反論される用意があると思いますが、VITAさんの見解はまだ「続く」ようですから、VITA説が完了した時点で反論をお願いします。

当然ながら、私にも、杢の渡し付近で吾妻川の水が「大幅に水位が低下した時間はほとんどなかったとする説(早川説)を採用することが妥当」とするVITA さんの見解には異論があります。しかし、ここでは控えることにします。VITAさんの続きを待ってからにします。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

2.タエは泥流による溺死か、濃密な土石流の直撃による即死状態であったのか

この疑問を解くに当たって重要となるのは天明泥流の流下特性となりますが、長い間それが不明であったために、この問いに対する明確な答えを見つけることができませんでした。しかし、この度泥流の流下特性を知る手がかりを見つけることができましたので、以下に引用いたします。

・・・・・・・・・・・
やや多孔質とは言え、密度が2.0以上もある安山岩質の大岩塊が利根川との合流付近まで、どうやって70km以上も流下することができたのであろうか。一つに泥流の密度がかなり高かったことが挙げられる。
『川越藩前橋陣屋日記』(I,p.33)では、天明泥流を「黒土をねり候様成水にて」と表現している。澤口は(1983,86)は、渋川市中村遺跡の発掘に際して出土した天明泥流の調査を行い、「無層理で分級が悪く、砂礫の混合状態は垂直、水平とも極めて均質に堆積しており、流動中も含水率が比較的低く、かためのお粥」のようであったと推定している。
以上のことから、天明泥流の流下機構として、以下の点が考えられる。
①天明泥流は密度が大きく、浅間石との密度の差はかなり小さかった。
②泥流中の本質岩塊(浅間石)は、史料で火石と呼ばれ、キュリー温度(400℃程度)以上の高温であった。
③泥流中の含水率が低かったことから、高温の本質岩塊(浅間石)の周りで発生した水蒸気は容易に抜けきらず、巨大な岩塊の周りを取り囲み、岩塊に大きな浮力を与えたと推定される。この点に関して、中村(1998)はハワイ島で溶岩が海水に流入する時、高温の溶岩片が白煙を発しつつ海面上をしばらく浮遊している様子を観察し、本質岩塊はホバークラフトのように、天明泥流の表面付近を移動したと考察した。史料や絵図3.1には、赤い火石が浮かんで流れて行く様子が多く描かれている。
井上公夫『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』(p.121)

ちなみに本資料の絵図3.1とは、『浅間山焼昇之記』における「杢の関所被災の状景」になります。おそらく本図中央下部に描かれている橋がタエが流されたとされる橋であると思われますが、本図に関する詳しい考察はまた次回以降に行っていこうと思います。さて、もし泥流に多くの水分が含まれ、十分な流動性が存在する場合、なだらかな扇状地においては岩石よりも水が先に到達するというご意見に全く異論はありません。しかし、天明泥流の特性が本書に示されているように、「流動中も含水率が比較的低く、かためのお粥」のような状態であれば、泥流と石礫の密度差は小さくなるために、泥流に含まれる石礫がすべて地表まで沈むことなく依然として先端部分に残ると思われ、それは流下する泥流においては人体に危険なものとなるはずです。また熱を持った本質岩塊(火石)は通常の岩塊とは条件が異なり、同書で示されているようにホバークラフトのように泥流表面を移動するという可能性がありうると思われます。タエがこの泥流に巻き込まれたとした場合、前述のような火石がタエを直撃したかどうかに関しては不明といわざるを得ませんが、泥流に含まれていた樹木や石礫が、タエに裂傷や打撲、骨折などの損傷を与えた可能性は十分にあるのではと考えております。

ところで、私はこの部分においても、早川氏が述べていた「土石を含んだ濃い流れ」のことを、「泥流は大量の岩石を含んだもの」とのように完全に誤解して理解しておりました。しかし私は「土石を含んだ濃い流れ」の意味が水分の少ない硬いお粥状の流れということであれば、泥流の先端部分にも依然として石礫が存在していた可能性があり、「あの土石流に巻き込まれた人間が溺死するとは思えない」とする早川氏の意見は必ずしも間違ったものとはならないと考えます。

続きます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

この度は私の遅筆故のご辛抱、誠に恐れ入ります。次の考察では当時の歴史史料を引用してタエの事例の分析を行い、その後に私の主張したい論点を述べていきたいのですが、今週末は所用のためにこちらに投稿ができず、続きの投稿はおそらく来週以降になってしまいます。従いまして、今回予め、私が現在のところ持っている見解を簡単に紹介させていただきます。まず、私のこの度の問題提起はタエの実在を完全に否定的に捉えようとすることが目的ではありません。しかし、タエが杢の渡しの地点で天明泥流の流下により死亡したと解釈すると、天明泥流に関する先行研究や歴史史料との矛盾点が多く発生することになるので、タエの死亡したとされる時刻および場所に関する新たな解釈が必要となると考えております。従いまして、私はこの度先行研究や歴史史料との矛盾点が比較的に少ないと思われる以下の二つの仮説を準備しています。

1. タエは杢の渡し付近で人柱となったのではなく、吾妻川と利根川の合流地点以降の、恐らく旧渋沢村圏内の利根川で人柱となった。

2. タエは杢の渡し付近で人柱となったが、上流から流下した天明泥流によって死亡したのではなく、一度流れ下った後、吾妻川と利根川の合流地点における河川閉塞によって逆流した泥流により死亡した。

上記の仮説は二つとも、吾妻川と利根川付近における河川閉塞の存在が重要なポイントとなります。また今回の調べにおいて、天明泥流の到達以前に杢の渡しに存在した橋(おそらく杢ヶ橋という名称)には柱が用いられていないことが当時の史料に記されており、また被災の様子を描写した当時の絵図においても杢ヶ橋の柱は描かれていないことが分かりました。従いまして、私がこの場所を間違えていなければですが、現在のところはタエが杢ヶ橋の柱にピンポイントで縛られていたことに関しては否定的に捉えておりまして、タエが縛られたのは橋とは別の場所か、あるいは橋の近辺ではなかったかと推測しています。これらに関しての詳しい考察はまた来週以降にさせて頂きますので、よろしくお願い致します。

UROノート さんのコメント...

今のところ、書き込みは控えさせていただいておりますが、ご本業でお忙しい中でのVITAさんのご熱心さには驚嘆しております。
個人的には、ここまでにもいくつか疑問点はありますが、野暮なツッコミは控え、VITAさんの豊富な知識量と自由な発想を感じつつ、さらなる展開を期待をしております。
先生のご指示のとおり、私の意見については、全体を拝見した後にまとめさせていただくことにいたします。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

恐れ入りますが、タエが天明泥流が流下する前よりもかなり早い時刻に杢ヶ橋に縛られたという説に関しては、私は否定的に捉えております。この仮説を採用する場合、当時の渋川村の人々は浅間山の噴火後に泥流が到達することを事前に予知していたということが前提となりますが、天明泥流に関する先行研究に引用されていた文献史料をあたったところ、事前に泥流を予知したと思われるものは一つも発見できず、それとは反対に、泥流が不意に到達する様子が記述されている史料が多く見受けられました。また、もしタエが泥流到達よりも早い時刻に杢ヶ橋で人柱となっていた場合、何の通達もなく他村の領内で人柱を立てるようなことは考えにくく、渋川村が持っていたとされる泥流到達の予知情報は、杢ヶ橋のあった南牧村や対岸の北牧村にも伝えられていたはずですが、南牧村に存在した杢ヶ関の関所の様子を記録している『発卯災異記』、および北牧村の様子が記録されている『浅間山大変実記』においては、天明泥流が突然到来し、急いで避難する様子が描写されており(井上公夫『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』p.95、p.99参照)、これらの史料の文脈から判断すると、南牧村と北牧村においても泥流の事前の予知はできていなかったと思われます。また本分野の研究者の見解でも、「火砕流/岩屑なだれにしても、泥流にしても、当時の人々には寝耳に水の出来事で、避難の余裕もなく命を失ったものと思われる。人々は、噴火の恐怖におののいてはいても、次に何が起こるか予測できなかったのである。(『1783 天明浅間山噴火報告書』「第3章 復興への努力と災害の記憶」p.109)」とのように、泥流の事前の予測を否定的に捉えているようです。以上のことから、私は当時の渋川村の人々が泥流の到達を事前に予測するようなことは不可能だったのではと考えております。もちろん、泥流を事前に予知していたと見られる文献が存在し、それを私が見落としているようなことがあるかもしれません。もし該当する史料がありましたらご指摘いただければと思います。私が二つの仮説を立てた理由の説明と、川島村や北牧村でなぜ多くの人が助かったかに関する考察はまた次回以降にさせて頂きますので、よろしくお願いいたします。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

UROノートさん、

毎回のご投稿に見られるUROノートさんの多分野に渡る知識量には大変驚かされ、豊富な語彙や明快な論理展開の方法などを絶えず勉強させて頂いております。後ほどのご批判ご叱正お待ちしています。

稲垣勝巳 さんのコメント...

およそ妥当な「仮説」を採用するに当たっては、手がかりとなる資料に基づいて、もっとも合理的で簡潔な「説明の成功」が成り立つものを採用してこそ、より実際の事実に近い仮説だと判断できると考えます。こうした判断の仕方を採る立場を「思考節減の原理」にしたがうと言います。

「タエの事例」において、①タエの語りと齟齬がないこと、②史実と整合性のあること、③状況に対する合理的かつ整合性のある推測であること、の3つの条件の整合性を満たすことでしょう。

以上の①②③を妥当な仮説であることの3つの条件とするなら、VITAさんの提示された「1の仮説」は、③の条件は満たすでしょうが、もっとも肝心な①の条件に背理します。

タエは「橋の柱に縛られています」と語っていますから、渋川村にさらに近い地点に橋があれば別ですが、タエの言う橋が、「杢の渡し」に架かっていた橋であることは間違いないないでしょう。
この橋である理由は、三国街道に架かる橋であるため、タエと馬を急ぎ連れていく道としての利便性が高いこと、街道の重要な橋も人柱のタエに守らせたい、という意図が含まれていたかもしれないと考えられること、などが挙げられるでしょう。
こうして、「杢の渡し」の橋が人柱の場所として選ばれたと推定できます。

したがって、「杢の渡し」の橋以外の地点を人柱地点とすることは、タエの語りを無視することになり、「1の仮説」の採用は困難でしょう。
橋に橋脚がなければ、タエの語りどおり、人柱のために橋の下の河原にタエの背丈ほどの太い杭を打ち込んだと推測することもできます。
また、橋脚がない橋とは、構造的に「刎橋」でしょうが、両岸の橋の取り付け部分には橋を支えるための木材を組んだ構造物があり、ここにタエを縛ることは十分可能です。この推測を採用するほうが、「橋の柱に縛られています」というタエの語りによく符合すると思われます。
あるいは、橋の工事に用いた柱のような物が残っていた可能性や、柱立てに都合のよい岩場の穴などがあったという可能性も考えられます。
ただし、現地の河原を調査をしてみないと詳しいことは不明です。

さらに、人柱地点を吾妻川ではなく利根川との合流地点より下流とする理由が、合流地点で大規模な堰止めが数時間あったという史実から、その地点であるとし、堰止め後の水が止まっている間に人柱に仕立てる時間的余裕を見積もることができるということであるならば、「水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・」という予測しているタエの語りに矛盾が生じることになると思います。
ただ今、ここに、起きている、堰止めの結果、その堰が決壊して危ないのは、「上の村」ではなく「下の村」になるはずだからです。タエは「下の村が水にやられるので」と言うはずでしょう。堰止めによって、上の村にすでに被害が出てしまっている後の時点であるのに、「上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」という予測の語りがされていることになってしまい、辻褄が合いません。

堰止めの起こる前に人柱に仕立てたとすれば、吾妻川ではなく、なぜ合流地点より下流の利根川に人柱地点を選ぶ必要があるのか、合理的理由がないように思われます。吾妻川を下る龍神のお供えであれば、吾妻川で人柱を立てることが自然ではないでしょうか。

VITAさんの「2の仮説」については、なぜこのような、「逆流した泥流による溺死仮説」が成り立つのか理由が不明です。

「一度流れ下った後、吾妻川と利根川の合流地点における河川閉塞によって逆流した泥流により死亡した」と推理しなければならない合理的理由が分からないのです。
タエが即死したはずの天明泥流で即死していないことの説明をするためということでしょうか?
タエが、天明泥流で即死ではなく溺死したことを認めれば、このような「逆流による溺死仮説」という奇妙な仮説を立てる必要はまったくありません。

私は、「思考節減の原理」にしたがって、簡潔な次のようなもう一つの仮説を、はじめから考えていました。

タエが柱に縛られたのは、大泥流が流下する前の、水が止まった隙ではない。通常の水量の時であり、泥押し流下前のかなり早い時刻に橋の柱に縛られたのである、という仮説です。
賢明な読者は、これまでの議論の推移から、すでに以上の仮説を思いついておいでだろうと思います。

そもそも、タエは、「川の水が止まっている隙に人柱に仕立てられた」などとは一切語っていないのです。
「川の水が止まって、危ないので、上の村が水にやられるので」と語っているだけです。
したがって、川の水が止まっている隙に、人柱に仕立てたと推測しななければならない必然性は何もなく、平常の水量のときに仕立てたと推測することが、一刻を争うこの場合には、もっとも理に適っていると思われます。わざわざ、いつ止まるか分からない川の水を待つ必要はいささかもないからです。

このように推測すれば、河原に人柱用の太めの杭を打ち込む時間は十分とれるはずです。この地点を大泥流の襲った時刻は、およそ正午前後くらいだと推測されていますから、その1時間ほど前に「杢の渡し」の橋にタエを同行していたと考えれば、杭を打ち込み、タエをそれに縛り付ける時間は十分にあったことも推測できるはずです。

また、この仮説を採用すれば、VITA さんのこだわる、吾妻川の水が止まった時間の有無をあれこれ推測する必要がまったくなくなります。

早川説の「1985年頃には、熱泥流は渋川にいきなり来たのであって、タエを人柱に立てるような時間的余裕がなかったことがわかっていました」との見解を支持する立場から、VITAさんは
川の水の止まったかどうかの検証に取り組まれたと思います。

しかし、「いきなり熱泥流が来た」、「人柱に立てる時間的余裕がなかった」という断定は、「川の水が止まっている隙に人柱を立てたに違いない」という思い込みの前提から導かれた断定としか考えられません。

「平常の川の水量があったときに人柱を立てた」というもう一つの合理的な前提に立てば、早川説が意味をなさないことはすでに明らかです。

以上述べてきたこの仮説は①②③の条件を満たし、思考節減の原理にもっとも適うものと考えます。

なお、VITA さんの2の説明と結論、つまり、「『あの土石流に巻き込まれた人間が溺死するとは思えない』とする早川氏の意見は必ずしも間違ったものとはならないと考えます」という結論については、泥押しの状態(流下特性)がどのようなものであれ、過去の記事「その34」で述べたように、泥押しに流された上流の川嶋村民の19人以上が助かっている(そのうちの1人は3里も流されて助かっている)、という史実を無視できない以上、タエは溺死ではなく土石流の直撃による即死だ、と断定できるような説得力は、すでに持ち得ていないと考えます。

流下特性の理屈によって、そのような特性の泥押しに流されたからには即死が当然だ、タエも即死だ、と理屈を並べていかに説得しても、そのような泥押し(流動中も含水率が比較的低く、かためのお粥のような状態)に呑まれたからには全員即死して当然のはずの川嶋村民の19名以上(生存率25%以上)が、それにもかかわらず助かっていた、という実証に対して、大きな矛盾を露呈していることが、すでに明らかです。説得力はありません。

したがって、タエの、泥押しによる溺死の語りには齟齬はなく、タエが即死ではないことは、ほぼ間違いないでしょう。

また、川の水が止まっている隙に人柱
に立てた、という思い込みの前提に立つことをしなければ、人柱に立てる時間の余裕は十分見込めます。

こうして、「タエは泥押しによって即死した、人柱に立てる余裕の時間などなかった」と主張する早川説を擁護するための、①タエの語りと齟齬がないこと、②史実と整合性のあること、③状況に対する合理的かつ整合性のある推測であること、の3つの条件を十分満たしているとは判断できず無理があると考えます。
早川説では、タエの語りの信憑性を否定することはできません。

理屈より実証、観念より事実に重きを置くことこそ、私の立場です。

稲垣勝巳 さんのコメント...

実証のない水掛け論めくことは本意ではありませんが、荒唐無稽とならないように、認知の歪みに陥らないように、妥当だと判断できる可能性のある想像をもって反論をしてみます。

吾妻川への泥押し予測の史実諸資料が見当たらないことをもって、
「当時の渋川村の人々が泥流の到達を事前に予測するようなことは不可能だった」
と直ちに結論づけることはできないと思われます。

渋川の村民の中には、吾妻川の上流が浅間山の北麓を流れていたことを知っている者が当然いて不思議はないでしょうし、そういう者が、連日の浅閒山大爆発によって大量の火山灰の降灰があったことから、火口から何らかの噴出物が流れ下り、吾妻川に流れ込むような大異変があるだろうという想像ができたのではありませんか。
加えて、連日の大爆発で火山性の地震があったはずですから、その地震によって吾妻川上流に大規模な山崩れなどが発生し、その土石が川に流れ込んだと想像したとしても不思議ではないでしょう。

たとえば、そうした想像のできた者は、タエの語っている、タエの人柱を川岸で見守っていた「行者様」、「お導師様」のような知識人階級の者であったかもしれません。少なくとも、泥押しがまったく何の前兆なしに押し寄せたはずはなく、上流の堰止め個所から漏れ出した川水の濁りなどの前兆によって、想像が裏付けられたと彼らは確信できたのではないでしょうか。
「川の水が止まって、危ないので、上の村が水にやられるので・・・」というタエの語りは、そうした想像をキチエモン等から聞かされていたからこその語りでしょう。

渋川村民による「渋川でも予測はしていなかった」という当時の記述があれば別ですが、渋川村においては、名主キチエモンをはじめ、主立った村民がこうした想像を受け入れ、予測によって、早い時刻にタエの人柱を企てた可能性は絶対ありえないことではないでしょう。渋川村においては、こうした先見の明を備えた知的人物は絶無のはずだと言い切ることはできないでしょう。当時の農民のすべてが、それほど無知蒙昧であったはずがありません。
私は、多くはいなかったでしょうが、他村においても同様の想像をした者がいたであろうことは想像に難くないと思いますし、そうした者たちが必ずしも文献に残るわけではないだろうと考えます。この推測を裏付ける何らかの資料が、おそらくどこかにあるはずだと考えています。
さらに、「浅間のお山に住む龍神様です。熱くて、住めないので、川を下ります」とタエが語っているように、泥押しが、来る、来ない、の予測とは別に、お山に住めなくなって川を下る龍神の怒りを一刻も早く鎮めるために、そして浅間山の大爆発を鎮めるために、人柱が必要だという信仰上の理由からも、早い時刻に杢の渡しの橋へ急行したと想像できる余地があります。吾妻川を下る龍神が、突然の洪水のような何らかの凶変をもたらすはずだと予測したとも考えられます。

また、「何の通達もなく他村の領内で人柱を立てるようなことは考えにくく、渋川村が持っていたとされる泥流到達の予知情報は、杢ヶ橋のあった南牧村や対岸の北牧村にも伝えられていたはず」という推測については、現在の我々の想像をはるかに絶するような、昼間でも提灯がいるほどの浅閒山大爆発後の噴煙による大異変によって、次の大爆発の恐怖に怯える人々が騒乱状態にあったに違いなく、そして一刻も早く人柱を立てなければならない緊迫状態にあっては、このような悠長なことをやっていられないのが当然なのではありませんか。あるいは、他村では渋川村の予知情報を無視したかもしれません。

タエの語りの信憑性を無視できない立場を採っている私が、状況に対する合理的かつ整合性のある想像をすれば、以上の反論が成り立つ余地を認めないわけにはいきません。

シュヴァル さんのコメント...

史料重視についてはひとつコメントしておきたいので書きました。

逆説の日本史で井沢氏が指摘していたのですが当時当たり前だったことは書かれないということです。

史料にないケースは結構このケースがあるんじゃないかと個人的に思っています。
なので、予測できなかったというのがないということは逆に考えるとみな予想していた
あるいは経験則か伝承なりで予想可能だったというような考えはなりたたないでしょうか?

みなわかっているなら逆に史料にはかかれないように思うのです。予想できなかった
驚いたなら史料に記載されます。

しかし、逆にここならせき止められてもおかしくないケースなら逆に史料に残らないのではないでしょうか?

ショウタ さんのコメント...

ラタラジューの事例がもっと超ESP仮説を論破してはっきり解明できれば生まれ変わりかはともかく死後存続は証明できるのかなと思います。

臨死体験では再現性がなく脳の解明でどうも唯物論解釈になってしまうのかなと思います。

しかし生まれ変わりは応答型真性異言やそれ以外の遺族しか知りえない情報を知っているというもので興味深いです。

ショウタ さんのコメント...

稲垣さんの仮説好評ですよ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14142408844/a352701086?open_reply=1

稲垣勝巳 さんのコメント...

ショウタさんご紹介の好評であるというコメントは次のものですか?
・・・・・・・・・・・
臨死体験より生まれ変わりや前世の方が強い資料があります。

日本では稲垣勝巳さんのラタラジューの事例の退行催眠で『応答型真性異言』という学んだことのないネパール語をしかも会話できたという懐疑派の虚偽記憶説でも説明できない実験の成果があります。

実験の動画もあります。

解説や否定派の主張に対しての見解解説もあります
https://www.youtube.com/watch?v=E-VsBfgJH5A&index=2&list=PLiSAMaS04...

死後の世界や生まれ変わりは宗教のだけの世界ではないと思います。
・・・・・・・・・・・・
疑り深くてごめんなさい。このコメントはショウタさん自身が別のハンドルネームで書いた記事ではありません
か?
多くの人に、タエの事例、ラタラジューの事例を知っていただけることは喜ばしいのですが・・・。

稲垣勝巳 さんのコメント...

このページで議論となっている、タエの即死か、溺死かの問題、タエの人柱の場所、川の水が止まった時間の有無の問題について、私の立ち位置について述べておきます。

生まれ変わりの実在の蓋然性についての実証的議論には、明らかに限界があります。
とりわけ、「タエの事例」のように二百年前の前世については、検証に用いる歴史資料の限界(このことはシュヴァルさんが指摘されています)がありますし、マニング式を用いた泥流流下の分秒単位の時刻は、仮定に基づいて導き出された9分間の堰止め推測時間という前提のもとで、マニング式の変数である総流量、当時の平常時の水面の高さなど各要素の仮定数値の設定など仮定を重ねて計算した理論値という限界を否定できません。
したがって、タエが人柱となった状況の正確な特定はできるものではありません。
どこまでも、私の仮説とVITAさんの仮説の蓋然性の高さの比較をするという問題に帰着します。
したがって、双方の仮説のいずれかが絶対の事実だと判定できることではありません。
タエが人柱となった状況についての私の仮説が絶対ありえないこととして証明され完全否定されないかぎり、「タエの事例」全体の信憑性が崩れることはないと判断しています。

生まれ変わりを示す偶発事例の研究は、本来的に実験室でおこなうことではないので管理不能な現象です。
こうした現象の研究をするに当たっては、些細な点に正確さを求めるより、重要な事象について、確実なことを知ることに研究の意味があると考えています。

私が「タエの事例」で確実なことだと認めているのは、タエの語りが催眠中に作為によって語られたものではないということです。
作為によって語るためには、催眠に入らず演技しなければなりません。被験者里沙さんが催眠に入っていることは「標準催眠尺度」を用いて確認しています。
また、ポリグラフ検査によって、意識的にタエに関わる諸情報を集めていた記憶の痕跡はまったくないという鑑定結果が出ています。

作為によらず、タエの語り全体の高い信憑性が認められるとすれば、残る仮説は「潜在記憶仮説」か「生まれ変わり仮説」に絞られてきます。
この際、「超ESP仮説」は考慮の外に置きます。
タエの語り内容は、それまで里沙さんが潜在記憶として蓄積していた諸情報を、加工・編集して、無意識的にタエという架空人格の語りとして述べたもの(無意識的な役割演技をしたもの)であり、けっして真実の前世人格の語りではない、とする仮説が「潜在記憶仮説」です。
私は、タエの語り全体の諸情報の量と、その正確さ等の検討から、これだけの諸情報を潜在的に入手していた可能性はありえないと判断しています。したがって、「潜在記憶仮説」は棄却できると思っています。

以上が、現在の私が「タエの事例」全体を検討して、「確実なこと」として認めている内容です。

したがって、「生まれ変わり仮説」を採用することが、思考節減の原理に適うと結論しています。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

もう一つ、天明泥流が到達する以前にタエが人柱となったことが時間的に難しいと考える理由として、杢ヶ橋の直前に位置している杢ヶ関の関所の存在があります。絵図《杢の関所被災の状景》(『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』p.98)では、街道には依然として旅人が存在し、関所には役人が詰めている様子が描かれています。当該地域を記述した歴史史料『浅間山大変実記』(同書、p.99)、『信州浅間山噴出泥押シ実記』(同書、pp.95-96)、とりわけ杢ヶ関関所の様子を克明に記録した『発卯災異記』(同書、p.95) と合わせて総合的に判断すると、この地域は天明泥流到達までは日常を保っており、関所は泥流到達の直前までその機能を保持していた様子が伺えます。もしそこに片腕を切り落とされた花嫁衣装の娘を担ぎ上げているような、極めて異様な集団が突然押し寄せてきた場合、たちまち関所役人により詮議の対象となることはまず間違いなく、この詮議の時間を考えると、やはり泥流の到達時間までに人柱を仕立てることは難しくなるのではと考えます。また関所から目と鼻の先であり、交通の要所でもある杢ヶ橋の人柱への使用許可が、そのような集団に対して直ちに下りることはないと判断するほうがより自然であると考えました。また、この地域において天明泥流に関する記録が数多く存在しているのにもかかわらず、人々が依然として往来する街道を練り歩き、交通の要所で人柱を立てるという、極めて目立つ行為を行っているはずのこの集団が、旅人や関所役人によって全く記録されていないのはいささか不自然であるような気がいたします。

ところで、絵図《杢の関所被災の状景》においては、絵図右部分には家や人間、牛や木を飲み込みながら流れ下る天明泥流、中央付近には迫り来る泥流から逃げる2人の農民と思われる人々、下部中央には橋脚がなく両端が石垣で支えられている杢ヶ橋、左部には急いで街道の坂を登る旅人達、また左部下方には3人の役人(おそらく旅人達に逃げるように呼びかけている)が依然として留まっている杢ヶ関の関所の様子、等々が詳細に描かれていますが、橋に縛り付けられたタエやそれを見守る人々は全く描写されていません。もちろん、これらの人物の描写が何らかの理由で意図的に削除されたと考えることもできますが、杢ヶ関関所や杢ヶ橋に到達する天明泥流の様子を克明に記録した別の文献史料『発卯災異記』においても、タエやその見物者達が存在していたとされる記述を確認することができませんでしたので、泥流到達時においてこれらの人々は初めから存在していなかったとするほうがより自然な解釈となるような気もいたします。

また、タエがもし泥流の流下時、杢ヶ橋下部の吾妻川の中で杭などに縛り付けられていたとした場合、歴史史料『信州浅間山噴出泥押シ実記』において「何事にやと振り向き見れば川の上弐丈(6m)ばかり高く山の様にうねりて大地のようにうねりて大地のごとくなるもの二ツ並べて押し来る」(『噴火と土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』p.95)と記録されている天明泥流が、推定速度秒速11.1m(「天明の浅間山噴火に伴う吾妻川・利根川沿川での泥流の流下・堆積実態に関する研究」p.24 《図-6 水理計算による吾妻川・利根川沿川での泥流流下状況》参照)の流速でタエを飲み込むこととなります。しかしその事実は、水位が徐々に上昇する様子を述べる次のタエの人格の語りと一致しないことになります。
TH:あなたのいる川の水は今どんどん増えていますか?
CL:は、は、はい。増えてます。

以上のように、タエが杢ヶ橋で流下する天明泥流により犠牲になったと解釈する場合、やはり天明泥流に関する先行研究や歴史史料との間に多くの差異が生じることになるので、私はタエが人柱となった時刻や場所、状況に新たな解釈が必要となるのではと考えました。

私の遅筆のためにご迷惑をお掛けしております。申し訳ありませんが、今週末も所用のためにこちらに投稿することができませんので、よろしければ投稿の続きはまた来週以降にお願いできればと存じます。

稲垣勝巳 さんのコメント...

私の意見は、前コメントどおりです。
繰り返しますと、タエが人柱となった当時の状況の正確な特定はできるものではありません。
先行研究者イアン・スティーヴンソンもこうした生まれ変わり研究の限界を認めています。判断留保とするしかありません。

どこまでも、私の仮説とVITAさんの仮説の蓋然性の高さの比較をするという問題に帰着します。
したがって、双方の仮説のいずれかが絶対の事実だと判定できることではありません。

生まれ変わりを示す偶発事例の研究は、本来的に実験室でおこなうことではないので管理不能な現象です。
こうした現象の研究をするに当たっては、些細な点に正確さを求めるより、重要な事象について、確実なことを知ることに研究の意味があると考えています。

VITA さんが残っている資料に忠実に仮説を立てられていることに敬意を表しますが、残っている資料が必ずしもすべての事実を正確に写しているという立場を私はとりません。

こうした立場をとらないと、タエの人柱伝説が残っていない事実が説明できないことは、『前世療法の探究』執筆当時に分かっていました。
タエの語りにおいて、史実からでは検証不能なタエの語りを、史実にないからといって棄却せず、荒唐無稽でなく妥当と思われる想像によって補い、埋め合わせをするという方針で執筆しています。
基本的には、タエの語りの全体としての信憑性を評価し、些細な点に正確さを求めるより、重要な事象について、確実なことを知ってもらうことに、生まれ変わりについての実証研究の出版の意味があると考えていました。

史実として残っているものには、時の権力者の意向によって、事実の削除、誇張、あるいは歪曲があったことは否定できないことでしょう。

タエの人柱については、1回目大噴火の次の日、旧暦7月7日のうちに関所役人の許可をとってあったと想像したら、どうでしょうか。
「天明3年7月七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」という語りから推測すれば、あり得る想像だと考えます。
三国街道の重要な杢の橋を守るための人柱を志願している娘がいるのでなにとぞ黙認し、ついては酷いことなので公にはしないように手配をしてほしい、などの訴えを当時の渋川村4人の名主(堀口吉右衛門・後藤太兵衛・一場安兵衛・吉田喜兵衛)が連名で願い出たとしたら、この願いを聞き届けた可能性はあるのではないでしょうか。
見て見ぬふりをし、記録に残すこともまかりなならん、という処置をしたことはまったくありえないことではないと思われます。このように想像しないと、タエの人柱伝説がまったく周辺地域の史実に残っていない、ということが、検証の最初の時点から解釈できないと思っていました。
関所役人としては、本人志願の人柱の願いを却下した結果、大災害に見舞われ、名主たちの反感を買うことは後々を考えれば得策ではないでしょうし、だからといって人柱を公に許可したという事実が残ることは、いかに志願したことであっても公になれば、後でどんな非難を受けるやもしれません。
タエと馬を運ぶについてはできるだけ目立たぬように命じ、見て見ぬふりをし、記録に残すことを禁じ、無かったことにする、くらいの妥協案を考えつくことは、今も昔も変わらぬ保身のための役人根性ではないでしょうか。
ただし、さすがにタエが流死したことは隠すことがはばかられ、「人一人流(ヒトイチニンナガル)」という被害報告だけは認めたものと思われます。
他村の被害は「人○人」だけであるのに渋川村だけが「人一人流」の表記になっており「流」が付けてあることに、人柱になったタエへのせめてもの回向の含意があると感じるのは、私のタエへの思い入れからくる文学的感傷でしょうか。
こうして、平常時ならともかく未曾有の流死人という大災害と相まって、人々はタエどころの騒ぎではなくなってしまい、人柱のことは霞んでしまったあげく、次第に忘れられ、人柱の事実は歴史の闇に葬られたと私は解釈しています。

いずれにせよ、VITAさんが拙著を真剣に読んでくださった読者であるからこそ、当然予想されていた、史実に矛盾する点を鋭く指摘してくださったことに著者としてあつくお礼申し上げます。

TH:あなたのいる川の水は今どんどん増えていますか?
CL:は、は、はい。増えてます。
というタエの語りは、大泥流流下前の前兆として漏れ出た水によって川の流量が少し増えることはありうると考えます。けっしてありえないことではないのではありませんか。

なお、VITAさんがすでに考えておられる妥当な仮説が用意されているとのことですから、次回で一気に投稿されることを管理人として希望します。
これ以上、延々とこのページで議論を重ねることは、状況の正確な特定はできるものではないという議論の限界の性格上あまり生産的なことではないと判断します。

また、UROノートさんには、そろそろ議論の終末を予想されたでしょうから、ご意見の投稿をお願いできたらと希望します。

UROノート さんのコメント...

稲垣先生へ
御指名にあずかり、恐縮です。
VITAさんのご努力に敬意を表し、あまり余計なツッコミを入れるのも無粋かな?
と思っておりましたが……。

VITAさんからも過分なお誉めの言葉をいただき、感謝いたします。
今回のタエの事例を巡るVITAさんの真摯なるご指摘についての個人的所感をまず申し上げれば、「真の意味で温故知新をまっとうするには、あらゆる分野の学際的研究と、それぞれの限界についての謙虚な姿勢が必要となる」との個人的信条の再認識ができ、益するところ大でした。

細かい話ですがVITAさんがさかんに引用される『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』というのは、井上先生のご著書『噴火の土砂洪水災害 天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ』のことですよね?
上記書籍は、天明の浅間焼を全方位的に考察した力作で、「ひょっとしたら全貌を遂に解明出来たかもしれない?!」という著者自身の興奮までもが伝わって来そうなエキサイティングな読み物です。実際エラッタ(誤字など修正を要する箇所)が散見され、校正もそこそこに書上げられたのと想像されます。

今後私の展開する内容は、おおよそ下に示すものとなるでしょう。
1.地質学等における現在の学問的限界と井上説の矛盾点について
2.井上説や引用資料をめぐるVITAさんの誤解?と見られる箇所について
3.各分野の学問的限界を踏まえた上での、実際のタエの事例についての個人的考察

3.についての内容は、稲垣先生やシュヴァルさんがご指摘の部分と重なる点もあります。
これまでのメモだけでも大変な分量になるうえ、上の三点を行きつ戻りつしながらの長文となっており、可能ならばVITAさんのご高説の全貌が判明するのを待って、全文の投下を行いたいと思います。特に以前VITAさんが予告された"川島村や北牧村でなぜ多くの人が助かったかに関する考察"については大いに期待しています

ということで、今後私が書く内容は、VITAさんに対する反対意見めいたものにはなってしまいますが、私にとってのそれは、『叱正』などというナマイキなものでは無く、(当然ですが)「建設的な議論を交し、共に考える営み」以外のなにものでもありません。
ここで稲垣先生やVITAさんをはじめとした優れた叡智を備えられた皆様と、ご一緒に考えることが出来たことを幸せに思っています。

ちなみに、VITAさんが卯災異記』と井上先生の書籍から孫引き的に何度か引用されている書物は川野辺寛(かわのべかん)による『卯災異記(きぼうさいいき)』で間違いありませんよね?

稲垣勝巳 さんのコメント...

VITAさんの、とりわけタエ即死説の説明と、UROノートさんの幅広い視野からのご意見を楽しみにしています。

さて、次は、「タエの事例」セッション中の、私と里沙さんの守護霊との対話の一節です。
・・・・・・・・・・
TH:分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?

CL:何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。

TH:おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?

CL:たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。

TH:それは分かっています。でもおタエさんを記録した人はいませんでしょうか?

CL:女は道具です。(引用おわり)
・・・・・・・・・
タエの人柱について、何らかの記録があるのではないかと思った私が、守護霊にそれを確認している一節です。
守護霊は、「何も残してはいません」、「女は道具です」と回答しています。

私はタエの守護霊という存在の信憑性も認めざるを得ないと思っています。その理由はこのページコメント欄の冒頭に述べてあります。

タエの人柱に関わる記録は一切ない、と断言している守護霊の回答が、VITAさんの綿密な資料分析からも今回証明されたことになります。

私は『前世療法の探究』執筆するに当たって、タエの人柱伝説の有無を一通り調べ、さらに渋川市教委にお願いして渋川市史編纂委員である郷土史家の方にも調査を依頼しましたが、守護霊の回答どおり、記録の存在は発見できませんでした。

したがって、私は、最初からこうした叡智あるはずの守護霊の回答を認める立場から、史実によって検証不能なタエの語りを、史実にないからといって棄却せず、荒唐無稽でなく妥当と思われる想像によって補い、埋め合わせをするという方針で執筆しています。

ただし、守護霊のような存在とその語りを認めることは非科学的な不見識だ、と批判されるとしたら、このページコメント欄の冒頭に述べた守護霊についての私の見解についてのご意見を求めます。 

私が、このページの議論で一応の納得のできる決着をなんとかできないかと願っていることは、「タエは泥流による溺死か、濃密な土石流の直撃による即死状態であったのか」という問題です。

即死説を認めるとすると、セッション中に二度まで再現化してしまったタエの苦悶の呻き声は、ありえるはずがなく、被験者里沙さんの演じたフィクションの演技になってしまいます。
里沙さんに現れた溺死再現場面で、苦悶の呻き声と同時に、肉体反応としても腹部に再現化した、反射的な激しい痙攣状態を確認している私は、これを演技だと解釈することは到底容認できません。

次回VITAさんの投稿で、VITAさんが予告された"川島村や北牧村でなぜ多くの人が助かったか(即死肯定、溺死否定説)に関する考察"について、是非ともご意見をうかがいたいと思います。
このご意見の内容次第で、おそらく即死説を前提に、VITAさんの用意されている二つの仮説の妥当性の判断もできるだろうと思われるからです。

仮説の妥当性の尺度として、すでに述べていますように、「タエの事例」においては、①タエ(守護霊を含む)の語りとの齟齬がないこと、②史実との整合性のあること、③状況に対する合理的かつ整合性のある推測であること、の3つの条件の整合性を満たしていること、を私は用いることにします。


稲垣勝巳 さんのコメント...

週末にあるであろうVITAさんのコメントが出る前に、これまでの議論の焦点と私の主張を整理してみます。

ここでの議論のタエ人柱状況の仮説の妥当性の尺度として、

①タエ(守護霊を含む)の語りとの齟齬がないこと。

②史実との整合性のあること。

③状況に対する合理的かつ整合性のある推測であること、

の①②③3つの条件の整合性を満たしていることを挙げました。

人柱状況についてタエの語りは次のようです。

ア.「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

イ.「白い着物を着て、橋の柱に縛られています」

ウ.「急ぐの・・・急ぐ。急ぐ! 時間がない」

エ.「ウウ-、ククー、苦しい」

上記タエの語りのア・イ・ウ・エをもって、天明3年旧暦7月8日午前に起きた吾妻川大泥流によって、「橋の柱」に縛られたタエが泥流によって溺死した、と私が拙著『前世療法の探究』で述べたことに対する疑義が群馬大教授で火山学者の「早川説」です。
早川氏の疑義は次の2点です。

「その1」が、水が止まった時間はなく、大泥流は突如襲ってきたので人柱を立てるような時間の余裕はない。

「その2」が、大泥流は岩石密度の高いものであるから溺死したとは考えられない。即死である。

早川氏は、この2点の疑義を提示し、もって「タエの事例」全体を否定し、生まれ変わりは信じない、と述べています。

タエの語りのア・イ・ウ・エは、史実としては確認できていません。

私の立場は、史実で確認できない空白を、荒唐無稽とならないように、認知の歪みに陥らないように、妥当だと判断できる可能性のある想像をもって、タエの語りを支持しようとするものです。
「泥流予測仮説」、「人柱地点杢の渡しの橋仮説」、「タエ溺死仮説」は、タエの語りのア・イ・ウ・エを受け入れたところで考えられた仮説です。
これら3つの仮説の成り立つ理由はすでに述べてきました。

私の思いを次に端的に述べてみます。

何らかの理由で、タエの周囲の者たちは浅間山の連日の大爆発で吾妻川の水の止まる異変と災害が起こることを予測し、渋川村に近いどこかの橋の柱にタエを縛って人柱に立てた。予測のように大泥流がタエを呑み込みタエは溺死した。

タエの語りからは上記の推測以上のことは分かりません。
そして、この推測の蓋然性がある程度証明できればよいと考えています。

VITAさんの用意されているとされる次の2つの仮説

1. タエは杢の渡し付近で人柱となったのではなく、吾妻川と利根川の合流地点以降の、恐らく旧渋沢村圏内の利根川で人柱となった。

2. タエは杢の渡し付近で人柱となったが、上流から流下した天明泥流によって死亡したのではなく、一度流れ下った後、吾妻川と利根川の合流地点における河川閉塞によって逆流した泥流により死亡した。

は、私の「泥流予測仮説」に反します。2つの仮説は、泥流流下後に人柱に立てたということであり、これでは
災害や凶事を未然に防ぐためという人柱本来の意味に矛盾します。
タエは、「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」と語っているわけであり、上流で堰止めが起こり、そのため上の村が水にやられるので、それを防ぐために、お供えになりますと解釈するのが自然でしょう。
したがって、起きてしまった大泥流のあとで人柱を立てることは考えられません。やはり、予測による大泥流の流下前に人柱に立てたとすることが理に適っていると思われます。

タエに泥流予測の語りがなぜできたかは、想像するしかありません。これについての妥当と思われる私の想像は、すでに述べてあります。
また、二つの仮説は、「タエの即死」の回避と、「川の水が止まった隙に人柱に立てる時間を見積もるためだと思われますが、タエの溺死の可能性を認め、泥流流下の予測の可能性を認めれば、そうした仮説を立てる必要はなくなると思います。

私が「タエの語り」で確実なことだと認めているのは、タエの語りが催眠中に作為によって語られたものではないということです。
作為によって語るためには、催眠に入らず演技しなければなりません。被験者里沙さんが催眠に入っていることは「標準催眠尺度」を用いて確認しています。
また、ポリグラフ検査によって、意識的にタエに関わる諸情報を集めていた記憶の痕跡はまったくないという鑑定結果が出ています。

作為によらず、タエの語り全体の高い信憑性が認められるとすれば、残る仮説は「潜在記憶仮説」か「生まれ変わり仮説」に絞られてきます。
この際、「超ESP仮説」は考慮の外に置きます。
タエの語り内容は、それまで里沙さんが潜在記憶として蓄積していた諸情報を、加工・編集して、無意識的にタエという架空人格の語りとして述べたもの(無意識的な役割演技をしたもの)であり、けっして真実の前世人格の語りではない、とする仮説が「潜在記憶仮説」です。
私は、タエの語り全体の諸情報の量と、その正確さ等の検討から、これだけの諸情報を、偶然に、潜在的に、」入手していた可能性はありえないと判断しています。したがって、「潜在記憶仮説」は棄却できると思っています。

要するに、「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」という語りは、被験者里沙さんの意図的作話でもなく、潜在記憶が加工・編集された無意識的な表出でもないとすれば、顕現化した前世人格タエの語りの信憑性は高いと認めるしかない、というのが私の立場です。
したがって、タエの「ウウ-、ククー、苦しい」という溺死の苦悶と、同時に里沙さんに現れた腹部の痙攣という溺死に伴う身体反応の信憑性から、即死を認めることはできません。
そして、既述しましたが、泥流に呑まれて助かった人々が少なからずいたことが史実に残っていることからも、早川説の「即死断定」は、まず立証できないことです。溺死の可能性を認めるほかないと思われます。
そして、タエの溺死の可能性を認めれば、VITAさんの用意されている2つの新仮説を考え出す必然性は薄れると思われます。

以上によって、現在の私が「タエの事例」全体を検討して、「生まれ変わり仮説」を採用することが、思考節減の原理に適うと結論しています。

なお、そろそろ新しいページに別の話題で投稿する予定ですので、VITAさんのコメントは、新しいページではなく、このコメントに引き続いてお願いします。

VITAさんのコメントに対するUROノートさんのコメントも同様にお願いします。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こんにちは。申し訳ありませんが、今週は筆がなかなか進まず、また今週末も所用のため、投稿させていただけるのは来週初め以降となってしまいそうです。どうぞよろしくお願い致します。

稲垣勝巳 さんのコメント...

タエの人柱状況についての私の主張は、ほぼ述べ尽くしています。
私の「溺死仮説」に対する反論と、新たな2つの仮説の用意があるというVITAさんの予告がありましたので、それを待ちましたが、まだ先のようです。
そこで、UROノートさんも、コメント投稿の用意があるとのことですので、VITAさんの投稿を待たず、自説を先に公開されてはいかがでしょう。
よろしくご検討ください。

UROノート さんのコメント...

VITAさんへ。
年度末でお忙しい中、私が細かい事を書きすぎたせいで興が削がれてしまったとしたら申し訳ありません。

稲垣先生のご配慮で、このエントリを使って議論を深めて良いという事のようですから、じっくり時間をかけてから投下していただけたら幸いです。VITAさんのコメントをお待ちしています。

VITAさんが疑義を示された点は全て説明する予定ですが、まずはご提示くださった論点のなかで、整理が容易な部分、「タエや渋川村民には、泥流の予測が事前に出来たのか否か」を中心に記していきたいと思います。

(稲垣先生が書かれている通り)村人たちに泥流の予測が出来ているならば、川の水がある程度の時間止まっていたかどうかは、タエと守護霊の語りの成否とは無関係になります。
私は依然として、自然堤による堰あげの影響である程度の時間、水位低下や黒濁などの前兆があったのではないか?と思っておりますが、非常に長くてややこしい話になりますから、後日述べたいと思います。

江戸時代というのは、現代からは想像を絶する時代です。噴火や火山雷という自然現象が理解されていなかった反面、農民には高度な数学の素養や逆サイフォンの水利など優れた土木、灌漑の実践的知識が同居し、近くて遠い文化的断絶の先にある不思議な世界です。

「当時の村人に泥流発生の予測が可能となる知識があったかどうか」について、まずは、災害に関する言い伝えなどが残っていたのではないか?という観点から調べてみました。

ここに挙げられている表=防災に関わる「言い伝え」
によると、p.22の212032-1に岐阜県 高山市 山のほうで雷のような音がしたら、とにかく逃げ出せ。大雨の時の土砂災害への警戒を促す前兆現象。(斜体は引用です。以下同じ)
という記述があります。
これなどは、恐らく天正地震と帰雲城事件の恐怖から語り伝えられたのでしょうが、文化的断絶を経た現代にも残るほどですから、江戸時代などでは高山のみに伝えられていたというよりも旅人や教養人によって広い地域に伝えられたと考えるのが自然ではないでしょうか?(天正地震だけでも数多くの資料が当時も存在していました)

そもそもVITAさんが土石流の動画として 例に挙げておられた南木曾町のあたりにも下のような言い伝えが残されています。
蛇ぬけの水は黒い 蛇ぬけの前にはきな臭い匂いがする
蛇ぬけ(じゃぬけ)というのは、土石流を蛇に喩えたものです。
タエの語りにある「龍神さまが川を下る」という表現と酷似していますよね。
神道や中国の民間信仰などには、古くから、龍神、蛟(みずち)、蛇など長い姿をした精霊が気象を司り、地形を変える程の力を持っているとされ、そうした伝承が数多くあります。

あるいは当時の吾妻川沿いでも泥流の流下直前には、降灰に曇る暗がりの中、上の通り水の濁りやきな臭い匂いもしたかもしれません。

さらに、浅間焼の場合には、連日の浅間山の鳴動と、雷のような音(というより火山雷自体)が観測されていた訳ですから、七夕様の夜に何かが起こる、若しくは何かが起こるといけないので、それを未然に防ぐ為に人柱を計画、実行したのではないでしょうか?

ということで、これらの事実から、総合的に判断すると、おタエさんの語りにある

「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

という部分はまさに、当時の村人が、溶岩の噴出やそれに伴う土砂災害を事前に予測していた事を示しており、おタエさんはそれを聞いて納得して人柱に志願し、それらの経緯について自らの言葉で語ったものと言えそうですよね?

加えて、こちらの論文や『噴火の土砂洪水災害 天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ』P.54にも記載されている『浅間山大変実記』(III,p.201)によれば、「神原の用水は浅間の腰より来る。七日晩流一円来す。村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日の未明見に趣しに泥湧出つ る事山の如し。
見と斉しく飛鳥の如く立帰り……辺を引連れて高き山へ遁れて命恙がなし。……他の者は油断す る中、大浪天にみなぎり其はやき事一時に家も人も皆泥中のみくずに成」と記されている。すなわち、鎌原村の水源地付近では、「鎌原火砕流」の噴出前日に泥が吹き出していたという。

とあり、こうした前兆現象の情報共有が鎌原村の93人もの生存者生まれた理由の一つとされていますし(狭い観音堂にはそんなに多くは入れません。上記の様に、事前に噴火の兆候を察知し、他の安全な場所に逃げた人達もいたと考えられます。『建設技術者のための土砂災害の地形判読実例問題 中・上級編』井上公夫P.53-54より)、ここから、村伝いに半鐘などを叩いて警報を伝えたのかもしれませんし、(噴石の中)命の危険を犯して、走って伝えた者がいたかもしれません。
ひょっとしたら、堂島米会所における信号のような方法で伝えられたのかもしれません。
仮にこうした方法が採られていたとすると、旗振り通信などは熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。(wikiより引用)ということですから、大変優れた方法となります。
ただし時刻は深夜ですし、吾妻川沿いの村々は平地ではないので、こうは行きませんが、もし暗がりでも利用可能な松明などによる信号があった場合、かなり早い段階で危険を知った事になりますよね?各村の火の見櫓などの半鐘による音のリレーが異常を伝えた可能性もあると思います。
こうした情報が何らかの方法で、七夕の酒宴を終えたタエと渋川の村人たちに伝えられ、(あるいは、川の付近に来てみたら、水の濁りや水位の異常低下などが観測され、)急ぐ必要が出てきたのではないでしょうか?

さて、こうして色々書いてきますと、事前情報や前兆などの予測できていたであろうことが、どうして一切記録に残っていないのか?ということが疑問になってきますが、そのあたりは、シュヴァルさんが書かれた話と似てきます。

そもそも古文書研究の限界として、文化的断絶(当時の常識は書かれない)、地理的障壁(伝聞は不確か)、資料の網羅性の欠如(書きたくない事は書かれない)と言った限界があるのは自明です。現存する断片を元に想像するしかありません。
ひょっとしたら、現在は見つかっていない記録や、既に逸失した記録のなかに、そうした事前に予測していたことを示すものが存在していたかもしれません。

ブログなどが乱立する現代とは違い、当時は記録に残すということ自体にコストがかかったと言えます。
ざっと想像しただけでも、保管場所のコスト、紙、筆、墨等筆記用具のコストその技能習得にかかるコスト、そのため記録者は限定され、当然記録自体も限定的となったことでしょう。

何より、記録者のバイアスも大きいでしょう。こうした災害の記録というものは、後世の人々に対する親心で記されるものであり、そこには、「天災は予兆なく突然訪れる!用心せよ!」という含意が込められるでしょうし、破免(年貢の大幅減額)やお見舞金を有利な形で認定してもらう為にも、「予測を無視したせいで被害にあった」などと記述することなどありえないのではないでしょうか?
儒学者たる川野辺寛などは、「怪力乱神を語らず」(『論語 述而篇』)の方針で言い伝えやら人柱についての記述を当然の若く省いたでしょうし、あくまで想定外の天災の被害藩としての記述に徹するのは、当然ではないでしょうか?

次の投稿では、杢ケ橋をめぐる謎を中心に述べたいと思います。

UROノート さんのコメント...

さて予告の通り、今回は杢ケ橋について申し上げます。
特にここでは、当時の橋の様子について、おタエさんと雷神様を乗せる馬を縛るための橋脚やそれに類する構造物はあったのか否か?という点を中心に述べさせていただきます。

今朝投稿したコメントの通り、タエの語りにある

「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

という部分は、何らかの警報プロトコルや、前兆現象の伝承などが存在した為に、村人達(少なくとも名主級人物及びその周辺人物ら)に喫緊の大災害の可能性と、防災用供物の必要性の高さが共通認識されていた事を示唆しているというのが私の主張であり、そのあたりから人柱の地点が予測可能になってきます。

人柱というのは、何らかの重要施設を護る目的で実施されるのが一般的であり、そうした重要とみられる橋は、三国街道という主要街道にかかる杢ケ橋をおいて他にはないでしょう。

VITAさんの主張では、川野辺寛の『癸卯災異記』の記述などから、杢ケ橋には橋脚が無いというご意見のようですが、下のリンクの通り、現在杢の渡し跡の写真には、四角い穴の空いた巨石が写っています。
こちらの街道の写真などをまとめた個人サイトの優れた写真Googleマップの航空写真(最大限に拡大してみていただけるとはっきりと確認できます)、ストリートビューの写真で確認できます。
いくら刎橋(はねばし)と言っても、此岸と彼岸に一対の橋脚様の構造物が必要ですから、こうした動かぬ証拠が残っているのは当然ですし、万が一天明泥流当時にはその部分には構造物が無く、その礎石が既に流された橋が建てられた際に使われた過去の遺物だったとしても、その穴に適う柱を建てれば(柱として適当なものがなければ、細めの材木に埋め木をすれば良い)おタエさんも馬も縛ることが出来てしまうでしょう。

川野辺寛による『癸卯災異記』に"牧の橋は一柱を用いず、両岸従り黒き鉅材を架する者なり。"との記述があることから、それらが疑わしいというのであれば、先程投稿した(古文書研究の限界についての)コメントをご参照いただくか、「天明泥流による武士階級の死者数が記録上はゼロ」という事実や、井伊大老の命日は桜田門外の変の三月三日ではなく、「三月二十八日」となっていること、大本営発表、近い所では原発事故に関する情報統制などを想起していただけれ良いでしょう。
私は、そうした記録よりも、現在の杢の渡し付近の写真がより雄弁に真実を語ると考えます。

そもそも、鉅材(きょざい)というのは、私には鋼(はがね)による構造物であると述べているように思われます。浅学な私には、構造上雨などの水気による腐食に悩まされがちとされる刎橋(はねはし)にそうした錆びやすい材料を使うのは不合理ではないかと思うのですが……。日本では、江戸時代末期にペリーが乗ってきた木造蒸気船を黒船と呼んだりしていますから、防腐対策などで黒く燻蒸していたり、猿橋同様黒色の瓦が上に乗っていただけでも"鉅材"と呼んだのかもしれませんね。

上の通り、川野辺寛の『癸卯災異記』には橋の描写について材質や構造にやや疑わしいところがあり、現在の杢の渡し付近の写真などから、おタエさんの発言の方が信憑性が高いと言えるのではないでしょうか?
ということで、私は、杢ケ橋には当時も橋脚様の構造物が存在し"橋の柱"に縛ることは可能だったと考えます。

油断して風邪をひいてしまったせいか、花粉症を発症したのか、現在の私はややボンヤリしていて考えが上手くまとまりませんが、次回は、VITAさんが以前お書きになった、もし杢ケ橋"に片腕を切り落とされた花嫁衣装の娘を担ぎ上げているような、極めて異様な集団が突然押し寄せてきた場合、たちまち関所役人により詮議の対象となることはまず間違いな"いのかどうかについて、検討したメモをまとめた上で、投下させていただきます。

稲垣勝巳 さんのコメント...

UROノートさん
あなたが防災関係者でないとして、これほどのネット情報収集能力を発揮されているとすれば、驚くべきことだと驚嘆しています。ネット社会の恩恵ということでしょうか。
天明大泥流の流下特性に関する井上説(VITAさんの言うように岩石密度の高いかための粥状の土石流が一気に押し寄せた)についても見解をいただけることを期待しています。

タエが即死か溺死かのいずれの可能性が高いのかが分かると思われるからです。
私には常識的にも感覚的にも「かための粥状の岩石密度の高い土石流」をイメージできないからです。マヨネーズのような粘性の流れの中にびっしり岩石が詰まっているとでもイメージするしかないのですが、大泥流の先頭部分がそのような状態で一気に押し寄せたとは想像できません。
そのような流下特性の流れに呑み込まれた川嶋村村民で25%以上の生存率が出るとは信じがたいのです。
また、泥流流下当時の絵図には流されて助けを求めていると思われる人物が描かれています。タエが即死したのであれば、こうした泥流に流されながら生きている人が描かれるとは思われないのです。

UROノート さんのコメント...

さて予告の通り、今回は杢ケ橋について申し上げます。
特にここでは、当時の橋の様子について、おタエさんと雷神様を乗せる馬を縛るための橋脚やそれに類する構造物はあったのか否か?という点を中心に述べさせていただきます。

今朝投稿したコメントの通り、タエの語りにある

「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

という部分は、何らかの警報プロトコルや、前兆現象の伝承などが存在した為に、村人達(少なくとも名主級人物及びその周辺人物ら)に喫緊の大災害の可能性と、防災用供物の必要性の高さが共通認識されていた事を示唆しているというのが私の主張であり、そのあたりから人柱の地点が予測可能になってきます。

人柱というのは、何らかの重要施設を護る目的で実施されるのが一般的であり、そうした重要とみられる橋は、三国街道という主要街道にかかる杢ケ橋をおいて他にはないでしょう。

VITAさんの主張では、川野辺寛の『癸卯災異記』の記述などから、杢ケ橋には橋脚が無いというご意見のようですが、下のリンクの通り、現在杢の渡し跡の写真には、四角い穴の空いた巨石が写っています。
こちらの街道の写真などをまとめた個人サイトの優れた写真Googleマップの航空写真(最大限に拡大してみていただけるとはっきりと確認できます)、ストリートビューの写真で確認できます。
いくら刎橋(はねばし)と言っても、此岸と彼岸に一対の橋脚様の構造物が必要ですから、こうした動かぬ証拠が残っているのは当然ですし、万が一天明泥流当時にはその部分には構造物が無く、その礎石が既に流された橋が建てられた際に使われた過去の遺物だったとしても、その穴に適う柱を建てれば(柱として適当なものがなければ、細めの材木に埋め木をすれば良い)おタエさんも馬も縛ることが出来てしまうでしょう。

川野辺寛による『癸卯災異記』に"牧の橋は一柱を用いず、両岸従り黒き鉅材を架する者なり。"との記述があることから、それらが疑わしいというのであれば、先程投稿した(古文書研究の限界についての)コメントをご参照いただくか、「天明泥流による武士階級の死者数が記録上はゼロ」という事実や、井伊大老の命日は桜田門外の変の三月三日ではなく、「三月二十八日」となっていること、大本営発表、近い所では原発事故に関する情報統制などを想起していただけれ良いでしょう。
私は、そうした記録よりも、現在の杢の渡し付近の写真がより雄弁に真実を語ると考えます。

そもそも、鉅材(きょざい)というのは、私には鋼(はがね)による構造物であると述べているように思われます。浅学な私には、構造上雨などの水気による腐食に悩まされがちとされる刎橋(はねはし)にそうした錆びやすい材料を使うのは不合理ではないかと思うのですが……。日本では、江戸時代末期にペリーが乗ってきた木造蒸気船を黒船と呼んだりしていますから、防腐対策などで黒く燻蒸していたり、猿橋同様黒色の瓦が上に乗っていただけでも"鉅材"と呼んだのかもしれませんね。

上の通り、川野辺寛の『癸卯災異記』には橋の描写について材質や構造にやや疑わしいところがあり、現在の杢の渡し付近の写真などから、おタエさんの発言の方が信憑性が高いと言えるのではないでしょうか?
ということで、私は、杢ケ橋には当時も橋脚様の構造物が存在し"橋の柱"に縛ることは可能だったと考えます。

油断して風邪をひいてしまったせいか、花粉症を発症したのか、現在の私はややボンヤリしていて考えが上手くまとまりませんが、次回は、VITAさんが以前お書きになった、もし杢ケ橋"に片腕を切り落とされた花嫁衣装の娘を担ぎ上げているような、極めて異様な集団が突然押し寄せてきた場合、たちまち関所役人により詮議の対象となることはまず間違いな"いのかどうかについて、検討したメモをまとめた上で、投下させていただきます。

UROノート さんのコメント...

私のこれまで述べてきた事を一言に纏めると、江戸時代を正しく理解する為の古文書研究には、その前提として「当時共有されていた見えざる建前論や書き手の意図」に惑わされないことが必要であるということです。

orphan elderさんやシュヴァルさんが新たなエントリで述べておられる通り、史実の解釈というのは難しいものです。

庶民と武士や学者達が持ち得た思想も、下は精霊信仰(アニミズム)や素朴な仏教思想が渾然としている中で、上は朱子学と陽明学がほぼ同時に限定的に輸入されたことなどによる思想界の多様化、混沌化、古学や徂徠学の流行……それぞれの書き手による意図やバイアスも渾然としており、容易に解けるものではありません。
しかも、それらを解釈する現代の学者達も全ての思想に通暁している訳ではないうえに、唯物的な史観を発揮して情報の編集や取捨選択を(意識的にも無意識的にも)行うものですから、正しい考証は至難の業と言えるでしょう。

江戸時代というのは、
貨幣経済の台頭と工芸品・商品作物の発達と流通増と米価の相対的低下=>
増税や定免法の導入=>
米価引き上げなどを企図して先物取引開始=>
社会的飢饉の発生=>
商品作物の奨励=>
豪農と貧農の二極化=>
身分制度の実質的崩壊

ざっくり言い過ぎかもしれませんが、こうした経済的側面の歴史の流れがあります。
奇しくも、田沼時代の重商主義的方向性から、(浅間焼の前年より)天明の飢饉が発生し、この原因は上にある堂島米会所による(世界初の)先物取引による米の"飢餓輸出"により生じた社会的飢饉とされています。(そうした流れに乗らなかった米沢藩の上杉鷹山公の政治が評価されてもいます)
浅間焼を救うお手伝い普請(十万両以上もの資金提供)を命じられた熊本藩では、財政難の為、武家の身分を(実質的に)販売することでその資金を調達します(寸志御家人というやつです。家柄よりカネとなってしまえば、身分制度は実質的に崩壊してしまいますよね。ちなみに坂本竜馬も士分を購入した商家の出として有名です)。
一口にお武家さんとは言っても、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の吉村貫一郎のような貧乏侍もいた訳ですから、多少の袖の下を与えれば、黙認くらいはあったでしょうし、何より、ご公儀(公共)の資産たる杢ケ橋を護るための人柱として、自らの養女と当時の貴重な資産たる馬を捧げるキチエモンに、協力を惜しまなかったのではないでしょうか?

このあたりを理解するための材料として上州の関所資料展に係る優れた資料が存在しています。

ここから分かることを纏めると下のようになります。
・関所の通行に際し村人に手形を与えるのは名主である。
・武器と女性は出入りが厳しく、女性役人による身体検査と風貌などを細かに記録された
・ただし女性は近隣の村に行く場合は自由
定番人の給料は周辺村民が負担していた年間金2両と麦6石6斗
・打ち壊しの危機などの有事には、村民が防衛に借り出された

こうした事実から、関所はご公儀の施設ではありますが、地元の村人による名主を中心とした自治的性格の色濃い運営が行われていたことがうかがえます。
ちなみに、杢の関所における構成員は、杢ケ橋関所跡 群馬県指定史跡(渋川市)によると、"目付一人、与力二人が二ヶ月交代で派遣され、地元から長谷川氏、田中氏、砥柄氏の三人が定番として選ばれ世襲で勤務にあたった"ということです。
目付や与力は転勤が前提のエリートであるため、奥に座して真っ先に咎めだてはしないでしょうし、定番の役人の給料は安く、付け届けを受け取るのも与力の役得とされていたために、先に述べた推測は充分説得力を持つのではないでしょうか?

ということで、もし杢ケ橋"に片腕を切り落とされた花嫁衣装の娘を担ぎ上げているような、極めて異様な集団が突然押し寄せてきた場合、たちまち関所役人により詮議の対象となることはまず間違いな"
とされるVITAさんのご意見は、棄却できると愚考いたします。

UROノート さんのコメント...

これまでの内容をまとめつつ、書き漏らしなどを補足てみます。
特に江戸時代以前における記録は、それ自体の数が少ないうえに、時間とともに逸失することから限定的、かつ、前提となる共有された"時代の思考・思想"により、情報は意図しない形で編集されてしまうため偏向的であり、当時を正確に理解することは困難です。災害被害に遭った地域は貧しく、余裕が無く、記録が残せないでしょうから、さらに重要な情報ほど限定的となると言えるでしょう。
江戸時代における偏向性をデコード(復号)するには、単純化して言えば、民間には神道の、官僚には儒教の理解が最低限必要です。
特に神道においては、重要な情報や技能に関する情報は文字に残すことがほとんどありません。記録を残すことは、主体(記録者)と客体(記録)の分離を招くということで口伝尊重、体得主義の傾向が強いと言えます。そうした精神は(証拠がある範囲だけで申し上げれば)古事記編纂の時代から現代まで、宮内庁や各神社の祭祀や儀礼などの伝承法として、脈々と受け継がれています。唯物論が主流の我々現代庶民とは異なり、当時を生きる人々は、そうした意識の下、精霊を敬い、あえて記録に残さぬ言い伝えを重視していたのです。

言い伝えの有無を検討する上で、前回のコメントに追加すべき参考資料として、浅間山の噴火履歴に関する年表のリンク(VITAさんは『噴火の土砂洪水災害 天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ』P.8の表をご覧ください。そちらには噴火形態についての分類もマークされていますよね。)を貼っておきます。注目すべきは
1108(天仁元)年 大規模:マグマ噴火
1532(享禄4)年 噴火、(泥流)
1648(慶安元)年 噴火
と言ったところでしょうか?数多くの噴火履歴の中でも、規模こそ違えど龍神様が川を下った(溶岩流、火砕流、泥流等の流下被害)事象が浅間山だけでも天明噴火までに最低3度確認できるのです。これらの事実から、前兆を予測しうる伝承が存在しなかったと言うほうが、むしろ不自然ではないでしょうか?

さらに、現代の学者達が識らず"時代の思考"にのまれてしまい、アニミズム的描写を見逃している(、若しくはあえて無視している?)ことも否定できません。『浅間大変覚書』などには泥流について龍や鬼の仕業などと記してあるのに、現代人はそれをメタファーやナンセンスな神懸かりとして捉えてしまいます。そうした偏見や先入観などの認知の歪みこそが過去の理解を困難にするのです。以下早川先生のサイトより引用 「一,同八日朝より間もなく鳴神之如く,みな草木迄大風吹来ル如くニゆれわたり,神仏之石之塔ゆりくたき,人々心持悪しく,念仏諸仏神ニ祈誓し所に,四ツ半時分……第壱番の水崎ニくろ鬼と見得し物大地をうこかし,家の囲ひ,森其外何百年共なく年をへたる老木みな押くじき,砂音つなみ土を掃立,しんとふ雷電し,第弐の泥火石百丈余高く打あけ,青竜くれないの舌をまき,両眼日月のことし.一時斗闇之夜ニして火石之光りいかずち百万之ひゞき,天地崩るゝことく,火焔之ほのふそらをつきぬくはかり.田畑高面之場所右不残るたゞ一面之泥海之如し.何の畑境か是をしらんや.老若男女流死.」『浅間焼出大変記』 大武山義珍 IIp.230"ここでは第2波が火石を300メートルほども打ち上げ、青い竜が紅の舌を巻き……襲いかかったと記述されているのです。当時の人がそれを読めば、一種の"クオリア"を生じたのではないでしょうか?当該記録の著者で修験者とされる大武山義珍ほどではないにせよ、そうした災害の恐怖や因果関係までをも鋭敏に感じとり、南木曾の蛇ぬけなどの伝承からリアリティーのある恐怖や防災意識を共有できたことでしょう。この記述は大変興味深く、後日の検証でも使用予定です。
歴史への考察はいわば経年劣化で固着した木工細工を復元・修理するようなものです。"時代の思考"の木目に沿った剥がし方で部品をていねいに分解・分析し、組み上げ直さないと、容易に破損し復元できなくなってしまいます。

ついでに、やや蛇足気味ですが、現代にも残る公式記録の偏向性に関しても補足しますと、特に大型開発予定地区の考古学調査などの発掘作業でいわくありげな祭祀跡などが出土した場合でも、相当な大発見でないと上に祠のようなものを建てるだけで、早々に調査を終了し開発を始めてしまうのが(特にバブルの期までは)一般的だったそうです……。私も知人からそうした話を聞いていないと言えば嘘になりますし、そうした事例に遭遇したと主張する学芸員さんかポスドクの方の記述がネットにもありましたが、文化財保護法に基づく正式な告発ということでも無さそうですし、それだけでは信憑性も判断できないうえ、個人的に気味が悪いのであえてリンクは貼りません。ただし、現代は現代で、真理探求より経済優先という"時代の思考"や"コンセンサス"、"空気"などによる報道や記録の偏向性は、歴然と存在しますから、こうした愚痴めいた匿名の告発や告白も完全には否定できないと考えます。(続きます)

UROノート さんのコメント...

(続きです)おタエさんのケースでは、「娘十六("番茶も"ではなく)玉露の出花」とでも言うべき最上の人柱による祈願も虚しく大泥流は起きてしまい、肝心の杢ケ橋も流されてしまったのです。当然ながらその尊い意思を偲ぶ人も多数いたでしょうが、それほどの残酷な犠牲を払ったのに意図が達せられなかった以上、記憶にも記録にも残したくなかったのかもしれません(心理学的な意味での防衛機制としての抑圧)。
また、泥流による未曾有の災害後は、復興に必死で自然と供養や顕彰などは被害者全体と合同のもので済まされたのでしょう……。
稲垣先生がおっしゃる通り、むしろ記録が無いということ自体、守護霊の(おタエさんに関する記録は)「何も残してはおりません」という語りと整合的とも言えます。セッション中おタエさん実在の証拠を求めてなおも食い下がる稲垣先生に守護霊は「女は、道具です」とも答えていますから、稲垣先生が以前このエントリに書いておられた通り、敢えて"秘密"として記録に残すまいとした意図さえあったのかもしれません。前述の防衛機制における抑圧のような心理作用もあるでしょうから、おタエさんの存在を示す決定的な記録を見つけることは、馬頭観音堂にあるとされる彼女の左腕以外には、ほぼ不可能なのではないでしょうか?
とは言え、前述の『浅間山大変覚書』にも人々心持悪しく,念仏諸仏神ニ祈誓し所に,とありますし、鎌原村の助かった住人の多くは、93人全員ではないにせよ、観音堂にて祈りを捧げていたのでしょうから、神聖なお山が未曾有の噴火と鳴動を見せるという危機的状況下で人柱を捧げるという行動を取る村があっても不自然ではないでしょう。

人間は過去に学ぶ生き物ですし、江戸時代には、現代日本人の我々からしても、誇るべき技術や知性が存在していました。
特に、鎌原村復興を巡る共同体経営の知恵と互助精神などは、優れたものがあります。私財をなげうって鎌原村を危機から救ったのは隣村の大笹村名主黒岩長左衛門などであり、これを見たら、感激屋の私などは「日本における村落共同体は素晴しい!」ということになり、東日本震災の互助エピソードに感激したサンデル教授のように、コミュニタリアン(共同体主義者)になりたくなりました(少し大袈裟ですねw)。
前述の関所における自治のしくみなども考慮に入れると、高度な自治と危機管理の精神が垣間見えますから、あえて防災に関する知恵だけが絶無だったと考えることこそ不自然ですよね。
先般のコメントで述べた通り、被害報告や後世への警告には、意外性、悲劇性の強調と期待利得の比例関係の発見とでも言うべき心理が働き、「想定外の事象が突如起こった!」ということにしたくなる人情も理解できますよね?実際史上最大級の悲劇だったのですから……。
ということで、泥流(というより龍神様が山を降りる現象)はある程度予測可能でしたし、予測可能だったこと自体が直截的には記録に残されていないことも、さほど不自然ではないということがお分かりいただけたでしょうか?


これまでの流れから、泥流予測可能性説に立てば、主要な論点では無くなってしまうのですが、こうしたVITAさんとの議論が再開されるきっかけとなった、井上先生の論文にある泥流特性の謎についてようやく次回以降書けるはこびとなりました。
この話について書くのは、面倒臭いこともありますが、ひょっとしたらVITAさんの筆をますます進まないものにしかねない可能性があり、逡巡しておりました。少々失礼な事を書くかもしれませんが、コミュニタリアン歴史学(communitarian historiography?)的な取り組みということで、真実への共同探求の為とご諒解いただき、今後も忌憚のないご意見を期待します。
コミュニタリアン歴史学などと言うのは私の思い付きに過ぎませんが、もしこれが国民的ムーブメントになった暁には、おタエさんの左腕を発掘するクラウドファンディングによる大規模プロジェクトも成功するかもしれませんよ!

稲垣勝巳 さんのコメント...

UROノートさんの大容量かつ学際的コメントの投稿が続いています。
読者のみなさんは、ちょっとついていけないな、と感じておられるかもしれません。
そこで、現在UROノートさんの論じてくださっていることを整理してみます。

議論の発端となった人柱状況についてタエの語りは次のようです。

ア.「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

イ.「白い着物を着て、橋の柱に縛られています」

ウ.「急ぐの・・・急ぐ。急ぐ! 時間がない」

エ.「ウウ-ククー苦しい」(溺死)

上記タエの語りのア・イ・ウ・エをもって、天明3年旧暦7月8日午前に起きた吾妻川大泥流によって、「橋の柱」に縛られたタエが泥流によって溺死した、と私が拙著『前世療法の探究』で述べたことに対する疑義が群馬大教授で火山学者の「早川説」です。

早川氏の疑義は次の2点です。

「その1」が、水が止まった時間はなく、大泥流は突如襲ってきたので人柱を立てるような時間の余裕はない。

「その2」が、大泥流は岩石密度の高いものであるから溺死したとは考えられない。即死である。

早川氏は、この2点の疑義を提示し、もって「タエの事例」全体を否定し、生まれ変わりは信じない、と述べています。

VITA さんは上記2点の早川説を支持する立場から、タエの人柱状況の再検証を提案され、昨年末より今回の議論が続いています。

さて、タエの語りのア・イ・ウ・エは、史実としては残っていません。

私の立場は、史実で確認できない空白は、荒唐無稽とならないように、認知の歪みに陥らないように、整合性があり妥当だと判断できる想像によって空白を埋めることです。

タエの語りア・イ・ウ・エを受け入れる立場で、タエの語りの信憑性支持しようとしています。

そこで、私は下記3点の仮説を提示しています。

①「泥流予測仮説」
天明3年7月8日午前の天明大泥流の起こることを、渋川村民は7月7日時点で予測しており、それに基づいてタエを泥流流下前に人柱に仕立てた。

②「人柱地点杢の渡しの橋仮説」、
人柱地点は、三国街道の杢の渡しに架けられていた橋である。

③「タエ溺死仮説」
タエは、天明大泥流の岩石の衝突による即死ではなく、溺死である。

上記3つの仮説について、VITAさんは
史実と早川説に基づいて、3つともに否定する議論を展開しておいでになります。

それに対して、ここまでのUROノートさんの議論は、私の立てた①②の仮説を支持する立場から、①②の仮説を裏付ける検証を書いてくださっているということです。

なお、①「泥流予測仮説」について新たな付加部分がありますので次に紹介しておきます。

稲垣勝巳 さんのコメント...

タエの人柱状況の次の語りで、泥流予測仮説(堰止めによって川の水が止まっている隙に人柱を立てた訳ではなく平常の水量時に立てた)を支持している、あらたに気づいたことがあります。
・・・・・・・・・
TH:16歳ですか。川岸にキチエモンさんの姿見えますか? それで川の水は増えているんですか?

CL:昼間だけど真っ暗で提灯が・・・分からない。
・・・・・・・
この「分からない」というタエの語りの意味が、何を、分からない、と言っているのか今一つ疑問でした。
TH私の、タエへの質問は①キチエモンの姿が確認できるか、②川の水は増えているか、の二重になっています。
「分からない」の意味は、①ではないのは明らかです。この前部の対話で「行者様、導師様。みんないます」と言っていますから、当然キチエモンの姿を確認しているはずだからです。
したがって、②の川の水が増えているかどうかについて、「真っ暗で、提灯が(いるので)・・・(川の水が増えているかどうか)分からない」と答えている、と解釈するのが妥当です。
もし、現在、タエが、川の水が止まっている間にあって、橋の柱に縛られているのなら、暗い中であっても、川の水の増えている状況が「分からない」と言うことは考えにくいと思われます。止まっていたはずの川の水が流れ始めているなら、増水したことが分からないはずがないでしょう。
したがって、タエが橋の柱に縛れたのは水が止まっている隙ではなく、通常の水量の時に縛られているので、通常の水量が増えているかどうかは分からない、と解釈するのが自然だろうと思われます。
こうして、タエは、川の水が止まっている隙に人柱に立てられたのではなく、起こるであろう大増水をあらかじめ予測して、通常の水量の時に人柱に仕立てられたと推測できることになります。
「大泥流は一気に押し寄せたので(川の止まった隙に)人柱に立てる時間の余裕はなかったはずだ(だからタエの語りは信用できない)」という早川説は、タエがそのようなことに何も触れていないにも関わらず、「川の水の止まっている隙に人柱に仕立てたに違いない」とする思い込みが前提となっている憶測だと言うべきでしょう。
さらにうがった解釈が許されるなら、この前部の「急ぐ、時間がない!」という語りとの文脈の整合性から、予測されて来るはずの大増水が来るのかどうか「分からない」という意味が含まれているかもしれません。

以上が、①泥流予測仮説の付加説明です。

なお、次回UROノートさんは③タエ溺死仮説(早川説では即死だと断定)の検証結果を用意されておいでのようです。
投稿を楽しみにしています。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

UROノートさん、

年度末でお忙しい中の、学際的で極めて詳細なUROノートさんのご高察には毎回大変驚かされ、今までのご投稿を興味深く拝見させていただいております。これらの分析をまとめれば、将来的にタエの事例に関する本をもう一冊出版することができてしまうのではないでしょうか(笑)また、私もUROノートさんや稲垣先生をはじめ、ブログにおられる優れた叡智をお持ちの皆様と意見を交換できることを大変嬉しく思っています。

さて、先週は多忙になってしまったため、そして何よりも私の浅学故に筆が最後まで進まなかったために、すべてを一度に投稿することができなかっただけとなります。また大変申し訳ありませんが、私のまとめの投稿はもうしばらく先になってしまいそうですので、今後もどうぞお気になさらずにご意見をいただければと思います。

現在の私の関心は、天明泥流の流下の状況がタエの記憶と整合しているかどうかはもちろんですが、とりわけ当時の人々に泥流の予測が可能だったかどうかにあります。先行研究や歴史史料によれば、天明泥流は噴火後吾妻川に到達ののち直ちに吾妻川を下り、1~2時間で渋川まで到達していることから、私は当時の人々にこの複雑な流下を予想することは不可能と見ておりました。しかしながら、天明時代以前の有史時代に浅間山噴火による泥流が渋川付近の吾妻川下流まで到達したことがあるならば、それを伝説などで語り継ぐことで、ある程度泥流の到達を予想できる可能性があるとも考えております。こちらに関して私はまだ論文等を調べることができていないのですが、今後議論がより詳しくできれば幸いです。

また、UROノートさんからご指摘を受けた2つの箇所ですが、まさにその通りでして、私の引用ミスとなります。

×井上公夫『噴火の土砂災害―天明の浅間焼けと鎌原土石流なだれ―』→○井上公夫『噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』

×『発卯災異記』→○『癸卯災異記』

お詫びして訂正いたします。

UROノート さんのコメント...

VITAさんへ
なるほど……新奇なるご説ですね。VITAさんによれば、人間が災いの不安や恐怖を感じるためには、その災害のメカニズムを熟知し、その結果を正確に予測できる必要があるということなのでしょうね。そうしたご主張の根拠となりうる事実や学説についてぜひともご教授いただきたいところですw。

一言で言えば、予測可能性説などと私も言ってみましたが、連日噴火が続いて不吉さを感じて怖いから、捧げものをしたという考えも理解できませんか?当時の状況や過去の噴火履歴などから総合的に判断すれば、おタエさんの人柱が、あのタイミングで行われたことは何の不自然さも感じさせないのではないでしょうか?

"先行研究や歴史史料によれば、天明泥流は噴火後吾妻川に到達ののち直ちに吾妻川を下り、1~2時間で渋川まで到達していることから、私は当時の人々にこの複雑な流下を予想することは不可能と見ておりました。しかしながら、天明時代以前の有史時代に浅間山噴火による泥流が渋川付近の吾妻川下流まで到達したことがあるならば、それを伝説などで語り継ぐことで、ある程度泥流の到達を予想できる可能性があるとも考えております。"

このあたりのVITAさんのご理解についても説明いたします。

繰り返しになりますが、おタエさんは防災の観点からお供えにされたのですから、天明泥流の"複雑な流下"そのものを予測する必要はありません。浅間山における未曾有の噴火と鳴動を目の当たりにしていたその時、(先祖を含め)これまで経験した無数の噴火や、過去3度にわたる火砕流・土石流・溶岩流の言い伝えが恐怖とともに想起されれば、それで充分なのです。

また、ある程度の災害が予測可能であるために"天明時代以前の有史時代に浅間山噴火による泥流が渋川付近の吾妻川下流まで到達したこと"も不要です。ひょっとしたら、稲垣先生がご提示くださった、剣磨石は、浅間山の噴煙を龍神が生じた雲と考えた可能性がありますから、火口からの噴石が吾妻川を流下して川原に留まったものであるかもしれませんし、龍神様が山を下りる伝説や伝承の形成に必要なのは、そういった浅間山から何らかの流出物があった事実で充分です。記録に残る過去3度のそれは、充分に龍神伝説の充実に資したことでしょう。
おタエさんは「上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」と発言していたのですから、杢ケ橋までも泥流にやられるという想像を当時の村人達はしていなかったのかもしれませんよ。

とにかく、前回述べた通り、日本全国に残る災害にまつわる伝承を調べてみれば、山の鳴動や噴火も山津波が起こる予兆として捉えられていたと考えて良いでしょう。当時も正確で詳細な地図が存在したわけですし、浅間山周辺の地理は絵図として当然把握されてたという"証拠"も存在しています。

そもそも、浅間焼泥押しなどの現象を"複雑な流下"と言うべきかどうかはさて置いて、そのメカニズムの全容が理解できず、龍神様などという異形の仕業としていたのでは、全く予測もできないし、それに恐怖し捧げ物をすることもできないと言うべきなのでしょうか?
子供の小川遊びやどろんこ遊びでも、小規模で簡易な洪水の実験は出来るのですから、「過去の事例を超える火山性噴出物が生じた場合、未曾有の大規模水害をもたらすかもしれない」ということが当時の人々に想像できなかったと信じるのは、高度な土木・測量技術を誇った当時の人々に対してさすがに失礼な気がします。

伝承によって伝えられる過去3度の龍神様の川下りよりも、さらに巨大と思しき予兆と、灌漑や治水に関わる経験知などを以って、当時の村人達は恐怖と不吉さを強く感じ、人柱をたててでも、どうにか軽微な災いで済ませたいと希ったことでしょう。吾妻川下流でお供えを実行すれば、「山頂や上流では猛威を奮った龍神様も、杢ケ橋付近ではおタエさんを乗せて機嫌を良くし、おだやかに川を下るかもしれないし、あわよくば、上の村も救うことも出来るかもしれない!」などと信じたということです。

しかしながら、せっかくの犠牲も、実際には不吉な予感を超えるほどの想定外の大規模泥流となってしまい、先述した様に、防衛機制としての抑圧に似た作用が周辺住民の間に蔓延し、おタエさんの記録は残されることがなくなったのではないか?と私は考えているのです。

UROノート さんのコメント...

ここでは最初に、井上論文等を読んだ私の理解にはあえて触れず、(ひょっとしたら早川先生も同様かもしれませんが)井上説をめぐるVITAさんのご理解について整理させてください(ここから下は、読者の皆様の想像を容易にするためと、記述の便宜で"固めの粥状の泥流"を"固めのお粥"などと略している箇所があります。ご容赦ください。)。

ア.泥流は固めのお粥状物質の一層の流れである。
イ.固めのお粥の流れに当ると即死する。
ウ.固めのお粥の到達時間などの計算には、マニングの式が使える。
エ.泥流の堰上げ時間は515秒、杢ケ橋への到達は天然ダムの決壊から67分21秒後。
オ.天然ダム決壊の後、勢いを増した固めのお粥は既存の水流を追い越し、杢ケ橋に先に到達した。

ざっとこんなところでしょうか?
そもそもこれらの条件が全て満たされる物理現象があるとしたら、奇跡のようなものですから、どこからどう突っ込みを入れるべきか悩みますが、まずは、マニングの式について、その前提と限界をご一緒に見ていきましょう。

マニング式というのは便利な公式です。特に管状の閉塞空間で、対象が流体の場合、その動きを大変正確に予測できます。配管内部の流速や抵抗、水圧などの計算が容易に行え、お役所の水道局や水道屋さんガス屋さん某伝説的配管工(これは冗談ですw)などに重宝されています。キチエモンさんのご子孫は現在配管事業を営んでおられるご様子で、設計や施工にこうした理論をご利用でしょうから、やや因縁めいたものを感じます。

閉塞状態の配管の計算にはこのように条件によっては素晴らしく適合的なのですが、便利なあまり自然の開放空間における水流の計算や防災の研究でも、それが幅広く使われ過ぎているのではないか?という問題意識をお持ちの学者さんもいらっしゃいます。

このページの著者で、そうした問題意識を持ちつつ自然流における流下特性などを専門に研究していらっしゃるのは、これまた奇しくも上州群馬は、前橋工科大学の梅津先生です。

上の通り非常にわかりやすいページを書いてくださっている梅津先生がマニングが使えるかどうか疑わしいとお書きで、かつ、井上説の理解に必要なのは……

【急傾斜で石ごろごろの激流河川】
【どろどろの泥水・・・粘性の強い流れ
【(洪水など)非定常の流れ】


といった点です。
という訳で、他にも言いたいことはありますが、まずは粘度という概念が重要なのです。マニング式の適用範囲には、マヨネーズより粘度が高いであろう固めのお粥はありそうかどうかの検討が必要ですよね(そもそも具体的な粘度を数値で示さず"固めのお粥"という多様な状態が想像され混乱を招きかねない表現で通すあたりにも疑問を感じますが……)?

ちなみに、粘度というのは高すぎるとこうなります(BGMが流れます!ご注意ください!)から、その重要性がお分かりいただけると思います。

粘度についてのwikiの粘度表の箇所をご覧ください。ここに、固めのお粥はありそうですか?マントルやピッチほどではないでしょうから、マヨネーズからガラスの間になりそうですよね。

お粥(より薄い"重湯"の)とろみの指標にはこちらのNHKのテレビ番組の分類によると「マヨネーズ」、「ヨーグルト」、「サラダオイル」ということで、マヨネーズは最も粘度が高いということですし、溶岩におけるケイ素の割合はこのページによると半分くらいの場合が多いようですから、マヨネーズからガラスの間というのはあながち間違っていないと思われます。

梅津先生のおっしゃるように、そうした高粘度の物質をマニングで無理矢理シミュレートするためには摩擦係数を大きくするしかありません。0.05でも目一杯の大きさなのに、それより巨大な数字はナンセンスですよね?

ということで、"固めのお粥"の流下特性をシミュレートするのにマニングは不適なのです(マヨネーズの時点で結論出ただろ!ってツッコミは……アリですw)。VITAさんによるウ.の主張については、文句なく棄却できそうです。
アレ?ではなぜ専門家であるはずの井上先生がそんな誤謬を犯すのか?そもそもマニングを持ち出したのは私UROノートではないのか?などという疑問がおありでしょうから、それについては、これからじっくり説明させていただきますが、簡単に言うとVITAさん(と早川先生?)の誤解だと思われます。(明日以降に続きます)

稲垣勝巳 さんのコメント...

『前世療法の探究』執筆にあたって、私は次のような情報を郷土史家入内島一崇氏から入手しています。
・・・・・・・・・・
渋川市関下の吾妻川の川原には「剣磨石(けんずりいし)」という龍神信仰に関わる伝説があるそうです。この剣磨石は直径約二メートルの丸い自然石で、真ん中に縦約60センチ、横40センチ、深さ約90センチの穴があったといいます。昔、龍が雲を起こして昇天するとき、尾の先を入れてえぐったと伝えられているそうです。ただし、剣磨石は今はなく、洪水で流されたか埋まったかは判っていないようです。
・・・・・・・・
以上のことから、天明当時の渋川村周辺に吾妻川に関わる龍神信仰があったことは間違いないと思われます。

「(龍神様は浅間のお山が)熱くて住めないので、川を下ります」、「龍神様は、私を乗せていきます」というタエの語りは、こうした龍神信仰と連日の浅閒山大噴火への怯えが相まって、渋川村民が想像したと考えられるでしょう。
そして、浅間のお山を追われる龍神が吾妻川を下るにあたっては、お山を追われる龍神の怒りによって、岩なだれなどが起こり、川の水が止まり洪水などの何らかの大きな異変、災いがともなうに違いないと考えても不思議ではありません。こうして吾妻川を下る龍神の怒りを鎮めるための花嫁としてタエが必要である、という筋書きがなされたのではないでしょうか。

このように民俗学的観点から考察すれば、大泥流という具体的予測は当然出来なかったでしょうが、龍神の川下りにともなって吾妻川になんらかの(水が止まるなどの)異変が生じることを泥流流下前に「想像」できたことは十分あり得ることではありませんか。

VITAさんのおっしゃるように、当時の人々に、実際に起こった大泥流の複雑な流下を「推測」すること、などは到底不可能であったことは言うまでもありません。

したがって、論点を、渋川村民に吾妻川に水が止まるなどの想像ないし予測ができた可能性が、あったかどうかに絞れば、そうした史実の有無を別にして、そしてこの件についてのUROノートさんの綿密な論証と、民俗学的観点からも、予測できた可能性を完全に否定することは、すでに無理があると思われます。

またVITAさんは「天明時代以前の有史時代に浅間山噴火による泥流が渋川付近の吾妻川下流まで到達したことがあるならば、それを伝説などで語り継ぐことで、ある程度泥流の到達を予想できる可能性があるとも考えております」ということのようです。
しかし、天明以前に泥流流下が渋川まで起きた史実がないことはすでに明白なことですから、その史実にないことを前提に、泥流予測ができたことを妥当な想像によって埋めようとしているわけです。

したがって、天明以前の史実にないことをもって、泥流予測説は容認できないという立場をVITAさんが固持される限り、この先、予測の可否の議論を続行しても平行線を免れることはないと判断しています。

そこで、先延ばしによって時間が空き議論が弛緩することをを避けるため、まずは用意されているはずの、川嶋村では泥流に流されても25%の生存率があったにも関わらず「タエ即死説」がどう説明できるかを投稿されることを管理人として再度要望します。

もともと早川説支持の立場からこの議論を昨年末提案されたのですから、提案者のVITAさんが、速やかにその見解を提示されるのが筋だと思いますが、いかがお考えでしょうか。

こうした議論をするについては、さまざまなタエの語りを一貫性と全体性に基づいて考察する態度、タエの語りをばらばらに受け取らず、それに意味を与える広い文脈の中に位置づけようと試みる態度、すべての事象や対象の裏面まで進んでいって、それらの連関を発見をしようと努める態度、などが求められると自戒しています。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

稲垣先生、

この度は原稿の投稿が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。以前のご投稿で、「次回で一気に投稿されることを管理人として希望します」とおっしゃられていましたが、かなりの分量のある原稿をすべて完成させ、それを一度で投稿するということが私の中で心理的、物理的なハードルを相当に上げてしまったようです。よろしければ、今後も以前のように原稿が終わったところから分割で投稿させていただいてもよろしいでしょうか。

さて、こちらの議論を始めさせていただいたきっかけは、タエによる語りと天明泥流に関する先行研究や歴史史料との照合をしてみたいという関心からになります。また、当初から早川説支持を前提とした立場で議論をスタートさせていたわけではございませんので、よろしくお願いいたします。

UROノート さんのコメント...

本日は、井上先生の論理についてVITAさんが(ひょっとすると早川先生も?)どのように間違えたのかについて私見を述べさせていただきます。

実は、井上先生のご本には、
"また、逆級化層が河床との比高が比較的小さい区域のみに存在することから、「泥流の先端部または周縁部は、支谷からの水が集中して細流部が抜けた状態、つまり水で洗われた砂礫の状態であった。天明泥流の周縁部が通過すると、次はスラリー状の泥流堆積物にとって変わり、泥流堆積物は厚さを増す。"(井上公夫『噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』P.79より)"
という箇所があります。
この箇所は『泥流の流動と逆級化構造の成因』という伊勢屋 ふじこ先生による論文の引用が多く含まれており、専門用語が多用され、難解です。
この文を日常語に直しますと……
(ボーリング調査などで天然ダム中央付近に位置する中棚Ⅱ遺跡の地層を調べたところ)一気に押し寄せた事を示す地層(逆級化層)は、河の底部から、あまり高くないところにのみに存在する。ここから推理すると次のようになる。泥流の先端や縁の部分(先駆けとなった部分)は、吾妻水系の谷水が集中したため、表層を削り(水分が多い)洗われた砂礫の(調査時点は、当然ながら水分は残らず砂礫のみが残っている)状態であった。そうした泥流の先駆け部分が流下した後に、粘度の高い堆積物が押し寄せ、堆積物は厚さを増す。
と言うことでしょう。

このようにそもそも井上先生は
ア.泥流は固めのお粥状物質の一層の流れで、固めのお粥が真っ先に押し寄せた。
などとは書いておられません。
確かに天明泥流の本流は巨礫を伴う固めのお粥状の泥流ですから、本流部分の説明がメインになるのは当然ですし、あの巨大な浅間石流下のメカニズムを説明する箇所が印象的ですから、読み手に誤解を与えがちなのかもしれません。

このあたりを考えるには地質学の限界というべき点も視野に入れる必要があり、井上先生のご著書の構成などを責めるのはナンセンスでしょう。
先に述べたアヤシゲな?学芸員さんかポスドクさんの証言を引き合いに出すまでもなく、経済活動優先の現代においては、発掘調査や地質調査のサンプルが限定されることは避けられず、断片情報から想像するしかないのが前提なのですから……。

推定泥流総量一億から四億m³とされる(井上公夫『噴火の土砂洪水災害―天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ―』P.127参照)規模の問題もあり、泥流先端部とは言え、途轍もない規模の泥水であったことは容易に想像できますよね?(勾配や流下状況によるため、先端部が全体の何割だったのか不明ですが、仮に3億7600万m³の5%のみが先行したと仮定しても、実に1880万m³であり、ここから東日震災のガレキ総量とされる1880万トンが想起され、その巨大さをうかがわせます。比重が違うので参考にしかなりませんが、本日は3月11日ですから……。)

ということで、以前書き込まれた文における"さて、もし泥流に多くの水分が含まれ、十分な流動性が存在する場合、なだらかな扇状地においては岩石よりも水が先に到達するというご意見に全く異論はありません。しかし、天明泥流の特性が本書に示されているように、「流動中も含水率が比較的低く、かためのお粥」のような状態であれば、泥流と石礫の密度差は小さくなるために、泥流に含まれる石礫がすべて地表まで沈むことなく依然として先端部分に残ると思われ、それは流下する泥流においては人体に危険なものとなるはずです。"
こうしたVITAさんの井上説理解が間違っていることはご理解いただけますか?泥流先端部分は岩石ではなく水気の多い泥水(地質調査で"水で洗われた砂礫"が発見されたことが根拠となる)なのです。以前つくばの国総研の動画でご確認、ご納得いただいたように、このあたりは物理法則の一般常識から想像すれば自明ですし、井上先生はマニングまで持ち出しているのですから、説明不要だと思われたのでしょうね。専門家の著作に良くある、(シュヴァルさんがお書きになっておられたような、「逆説の日本史理論」とでも言いましょうか、)書き手にとって当然のことは記されないという好例ですね。

もうお分かりいただけたでしょうが、川嶋村19名北牧村6名の生存者たちも、おタエさんも、先行した水気を多く含んだ泥流に流されたのですから、不幸にしてどこかにひっかかったりしない限り、巨石や流木の直撃による即死よりも溺死を心配すべき状況だったと言えるでしょう。


本日も一応の区切りとなりました。ナマイキな物言いですが、確かに"論文等を調べる"事も重要ですが、不足しがちな資料を補うのに、適切な思考や想像力は不可欠なのです。自戒の意味も込めて次の言葉を記しておきます。
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」(『論語 為政篇』)
「想像力は知識よりも重要である。」(アインシュタイン)
なんてね……世界をまたにかける研究者たるVITAさんには釈迦に説法でしょうが、いかなる学問も事実に最大の敬意を払うことは当然であり、そうした事実を綿密に調べた上で正しく理解し、帰納法や演繹法などで合理的結論を導くという営みの連続ですよね。そこに発言者の権威やら肩書は関係ありません。どのような場合も、まずは自らの頭脳で考え、それを信じることが必要です。

次回の投稿では
エ.泥流の堰上げ時間は515秒、杢ケ橋への到達は天然ダムの決壊から67分21秒後。
オ.天然ダム決壊の後、勢いを増した固めのお粥は既存の水流を追い越し、杢ケ橋に先に到達した。

について説明する予定……でしたが、以降はやや蛇足めいたものですし、私の自己満足の駄文コメントなどほとんど誰も喜んで読まないだろうし、以前書いた通りメモは豊富すぎるほどあるものの、機械的にコピペで済むほどまとまってはいませんから、この年度末やら(家族の事情やら)クソ忙しい時に何してるんだろ?とも思いますから、VITAさんのフィードバックを待ってから、ノンビリ投下しても良いかな?と思っております。

稲垣勝巳 さんのコメント...

天明泥流に関する先行研究

私は3月9日の下記コメントで下記3点の仮説について論点を絞った議論を提示しています。
・・・・・・・・・・
①「泥流予測仮説」
天明3年7月8日午前の天明大泥流の起こることを、渋川村民は7月7日時点で予測しており、それに基づいてタエを泥流流下前に人柱に仕立てた。

②「人柱地点杢の渡しの橋仮説」
人柱地点は、三国街道の杢の渡しに架けられていた橋である。

③「タエ溺死仮説」
タエは、天明大泥流の岩石の衝突による即死ではなく、溺死である。

上記3つの仮説について、VITAさんは
史実と早川説に基づいて、3つともに否定する議論を展開しておいでになります。
・・・・・・・・・
そこで、今日、3月11日になってから唐突に「当初から早川説支持を前提とした立場で議論をスタートさせていたわけではございませんので、よろしくお願いいたします」というVITAさんのお断りコメントを拝見すると、3月9日に「3つの仮説について、VITAさんは史実と早川説に基づいて、3つともに否定する議論を展開しておいでになります」と早川説支持のVITAさんの立場を明確に指摘した私の理解は間違っていたということでしょうか? 

また、2ヶ月以上前1月1日この議論の始まった「その34」における下記の記事があります。
・・・・・・・・・
VITAさんは早川説を支持する立場から、「歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っている」、「タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要」だと、繰り返し「タエの語り」の再検証を主張されていると思われます。
・・・・・・・・・
上記で「VITAさんは早川説を支持する立場から」と、議論発端の「当初から」あなたが早川説支持の立場であることの明確な指摘をしています。

したがって、私はVITAさんが当初から、早川説を支持できるご自身の相当な根拠があったがゆえに、二度までタエの人柱状況についての再検討を提案されたもの、とこれまでそれこそ思い込んでおりました。また、ここまでのご主張を省みても、明らかに早川説支持の立場からの議論展開だと理解しておりました。
そもそも、当初の「天明泥流に関する先行研究から」タエの人柱状況を再検討する余地がある、研究知見の誤りを明らかにする必要がある、というご指摘時の「先行研究」が早川説を指していることは明白ではありませんか。

たとえば2月21日の下記のコメントは早川説支持の議論ではないのですか。
・・・・・・・・・・・・・
早川氏が述べていた「土石を含んだ濃い流れ」のことを、「泥流は大量の岩石を含んだもの」とのように完全に誤解して理解しておりました。しかし私は「土石を含んだ濃い流れ」の意味が水分の少ない硬いお粥状の流れということであれば、泥流の先端部分にも依然として石礫が存在していた可能性があり、「あの土石流に巻き込まれた人間が溺死するとは思えない」とする早川氏の意見は必ずしも間違ったものとはならないと考えます
・・・・・・・・・・・・
こうしたVITA さんの明らかに早川説支持前提での議論展開は他にも散見できます。
しかし、こうした読み方は、どうやら私の読解力不足だったようです。


それはさておき、再度、これまでの議論経過を整理してみます。

①「泥流予測仮説」については、平行線のままでしょう。

②「人柱地点杢の渡しの橋仮説」についても、平行線のままでしょう。

③「タエ溺死仮説」についてはUROノートさんの「泥流先端固めお粥否定論」が一段落したようです。溺死可能性支持説です。

以上が現時点の私の議論経過理解です。

仮説①②の並行線議論についての肯定・否定の評価は、読者のみなさんの判断に委ねるしかないと思います。

評価の観点は、VITAさんの「史実第一義主義」を評価するか、私の「タエの語り第一義主義」を評価するか、に集約されると思います。

したがって、次回は、2月21日の予告以来延び延びになっている③「タエ溺死否定仮説(即死説)」についてのVITAさんのご見解を提示していただけるよう再確認したいと思います。
もし、これまでの議論から、タエの即死断定はできるものではない、というご見解に立たれているのなら、この件についてのコメントは不要です。

なお、3つの仮説についてのVITAさんの包括的投稿は、特に求めることはありません。
ごゆっくりとご自由にどうぞなさってください。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

稲垣先生、

この度は寛大なご配慮を頂きどうもありがとうございました。未だ書きかけの文章を校正の後、順次投稿をさせていただきますのでよろしくお願いいたします。しかしここには、近日の稲垣先生やUROノートさんのご投稿以前にすでに構想をまとめてしまった部分が多くあります。この度原稿を新たに書き上げることも考えたのですが、ご投稿を全て読ませていただいてから再び書くとなるとさらなる時間がかかってしまいそうですので、まずは今までに構想した原稿を少しの校正のみで論旨の部分は残しながら投稿させていただき、後ほどコメントで補正をするような形を取らせていただきたいと思います。

さて、私はタエの事例を扱った早川説に関して、従来の研究史や歴史史料と比較検討した結果、そこに大きな間違いはないと考えましたが、この見解は私の中ではあくまでも従の部分になりまして、私の主要なテーマはやはりタエの語りと先行研究および歴史史料との比較を行っていくということになります。また、先回私が提案させていただいた2つの仮説に関してですが、私自身絶対的であると考えているわけではなく、一種の「推理ゲーム」のように軽い雰囲気で捉えていただければ幸いです。

また、一度読ませていただいただけでまだ精読はしていないのですが、UROノートさんによるタエの泥流による溺死可能説についてはとてもよく理解できました。また井上先生のご著書のp.79は私の完全な読み落としになり、この度の私の勉強不足を恥じ入るばかりです。しかしながら、泥流先端部分は水気の多い泥水のみで、人体に危険な瓦礫等がなかったことを実際に起こった泥流で確認してみないことには、未だに納得しかねる気持ちが私の中にあることも正直なところです。できることなら実際の泥流の先端部分の様子をとらえた動画を拝見したいのですが、もし吾妻川下流の条件に近いような平坦地を流れる泥流の動画がありましたらご紹介をいただければ幸いです。

稲垣勝巳 さんのコメント...

VITA さん
お願いしていること以外の投稿ができる時間がおありなら、「推理ゲーム」ですから、まずは、再三、再四お願いしているあなたの「タエ即死断定早川説」の立論理由をあまり待たせず、「軽い雰囲気で」ご投稿くださいね。

ちなみに、知り合いのブログ愛読者からも、25%の生存率の状況で、なぜタエだけが即死と断定できるのか、その推理ゲームを楽しみにしているというメールがありました。

再三、再四の要望にこれ以上お答えがない場合は、仏の顔も三度までと言いますから、「タエ即死断定説」は放棄されたものと判断します。
また、VITAさんの用意されているという2つの仮説は「タエ即死断定説」を前提としているようですから、前提が崩れたと判断できれば、思考節減の原理によって、自動的に2つの仮説を考える必要はなくなります。

また、「推理ゲーム」なんですから、ないものねだりの動画を二度もおねだりすることはやめましょう。

そのような動画があるのなら、そもそも、はじめから「推理ゲーム」は必要ないのではありませんか。

ないものをあるもののように想像力を駆使し、妥当な推理することが、ゲームのルールだとは思いませんか?

「推理ゲーム」に参加しているUROノートさんは、溺死仮説について妥当な推理の科学的証拠材料をていねいに調えて、つまり反証可能性に開かれた形で、提示されているのではありませんか。
これに納得できなくて、タエは即死だとの反論がある場合、その反証を挙げて反論理由を説明する立証責任は、まずVITAさん側にあると思いますよ。

こういう議論のルール常識に立ち入るとゲームになりませんわね(笑)。

UROノート さんのコメント...

VITAさんへ
そろそろ研究に必要な動画や資料などは、ちゃんとご自身でお探しになることをご検討ください。一度童心に返って泥んこ遊びや海岸や公園で砂遊びなどをなさったら、ご希望の物理現象を確認できるでしょうし、もし私が述べた(一般常識的な)物理法則を覆すものが確認できれば、大発見間違いなしです!ぜひYouTubeなどにその動画を投稿して私にも見せてくださいね。期待しています。

これまで随分ご熱心に"研究の知見"とされるものを提示して自説を展開しておられましたから、てっきり精確な議論をお望みのご様子と"拝察"しておりましたが……なるほど……諒解です。
今後はより気楽なゲームとして暇な時にお相手いたします(正直言えば、もとよりその積りでしたがさらに力を抜いていこうかな?と……)。

仏教用語における同事や対機説法などと言うつもりはありませんが、相手に合わせて語るのは対話の基本であり、どのような場合でも気合よりも合気(世界的数学者保江邦夫先生も合気の存在は認めていらっしゃいます)、でありたいものです。

(合気道開祖植芝盛平翁によると)合気は愛です。
相手が歴史で来たら、歴史で返し、科学で来たら、科学で返す。ポエムで来たらポエムで返し、笑いで来たら、笑いで返す。重いコンダラ、ちゃぶだい返しw。

まぁ、空気を読むというか、心理学的には一種のミラーリングですけれど、そうした態度で望めば、不必要に相手を傷つけることもないですし、人間関係を円滑にできるものですよね。


あと、稲垣先生も、VITAさんが"「史実第一義主義」"なんて書いちゃだめですよ。
VITAさんによる科学的知見や歴史史学上の知見というヤツはどうやら肝心の部分に誤解を含んだもののようです。どちらかと言うと、おタエさんの事例について周辺科学や歴史をより深く正しく理解しているのは、僭越ながらこの私か、その書き込みを熟読し正しく理解してくださる読者の皆様のような気がします。
おタエさんの事例は歴史的、地質学的、物理的にどこからどう見ても、矛盾しないとあれだけ証拠を挙げて丁寧に申し上げたのですから、どちらが正しく理解された証拠に基づいた適切な主張かは、認知の歪みのない方々になら、ご理解いただけるものと存じます。


あと、今後の投稿予定だった記事についてですが、さらに専門的な科学的方法論についての解説や、最新の学説の紹介などにシフトしていくことから、そろそろさすがに個人教授料などをいただかないと勿体ない気がしますから、今のままでは、続きを投稿する意欲が湧きませんねぇ。
今後、VITAさんから有意義な投稿をいただけるか、ももクロのももかちゃんみたいな愛らしい女性とか、M子さんのような天才的霊媒にお願いされるなどしたら……その時はぜひ真剣に検討させていただきます!

稲垣勝巳 さんのコメント...

VITAさん
・・・・・・・・・・・・
UROノートさんによるタエの泥流による溺死可能説についてはとてもよく理解できました。また井上先生のご著書のp.79は私の完全な読み落としになり、この度の私の勉強不足を恥じ入るばかりです。
・・・・・・・・・・・・・
あなたの最新コメントの上記の記述を文字どおり理解しますと、タエの「溺死可能説」をとてもよく理解できた、したがって、「即死断定説」にこだわることはやめましたよ、という含意があると理解すべきかもしれないと、今、読み直して気づきました。
そうであるなら、含意を読めなかった私の読解力不足を恥じなければなりません。
そうであるなら、読み間違えたことをお詫びいたします。どうぞご海容ください。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

UROノートさん、

泥流の動画に関してですが、私の記憶によると以前はレスポンスを頂けなかったので、もしかするとお忘れになっているのかなと思っていました。私ももちろん該当するような動画を相当に時間をかけて調べてみましたが、結局見つけることができませんでした。ですが、ひょっとするとインターネットの検索にお詳しいUROノートさんだったらその発見ができるかもしれないと考え、念のためにもう一度伺った次第です。私の愚問でお気持ちを害されてしまったとしたら、どうぞお許し願えればと存じます。

また私の今回のレスポンスの鈍さはUROノートさんのご投稿を軽視しているわけではなく、また「軽い雰囲気で」というのは今回準備した私の投稿のみに懸けた言葉です。本当はもちろんすべてのご投稿の内容を精読し、丁寧にレスポンスをさせていただきたいのですが、やはりその分量のため、どうしても時間が必要となってしまいます。またこちらは来週からまた海外に派遣される予定になっていまして先週からその準備をしているのですが、今の段階でもビザの申請がまだ通っておらず、書類の再申請の準備などで多忙な状況に陥っています。個人的なことで申し訳ありませんが、そのあたりの事情をどうぞご理解いただき、私にも他の方々と同様にUROノートさんの大いなる「愛」を頂ければ幸いです。(笑)

P.S. 私も武道を少しばかり窘んでおります。今回UROノートさんより保江邦夫先生のお名前が伺えることは意外でした。私も試合においてや、また人間関係の時にも相手を制す、というより相手に和すには、やはり「愛」が必要となることを改めて気づかされました。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

稲垣先生、

正直に申し上げますとこれまでの投稿は分量の関係でまだ完全に読み切れてはいないのですが、この度の先生のご投稿の解釈通りで結構です。私の文章ですが、一度書き始めたことですし、楽しみにお待ちいただいている方もいらっしゃるようですので、できれば投稿をさせて頂きたいのですが、週末には必ず投稿を始めたいと思いますので、もう暫くご容赦願えませんでしょうか。

稲垣勝巳 さんのコメント...

VITAさん

上記記事の件、了解いたしました。

UROノート さんのコメント...

VITAさんへ

ぉゃ?( ゚д゚) ・・・ (つд⊂)ゴシゴシ (;゚д゚) ・・・ (つд⊂)ゴシゴシゴシ (;゚Д゚) …!?( Д ) ゜゜ポーン
"泥流の動画に関してですが、私の記憶によると以前はレスポンスを頂けなかったので、もしかするとお忘れになっているのかなと思っていました。"というコメントがSAM催眠学序説 その33の私の書き込みとSAM催眠学序説 その34の稲垣先生による本文、そして昨日の私のコメントを熟読した上でのものだとしたら……ある種の驚きを禁じえません……。
まぁいいや。
帰国後、お時間の許すときにお粥料理を作ってみると、奥様も喜ばれます。スプーンですくった固めのお粥に(二層構造になるように)タップリお醤油でもかけて、食べる前にゆっくりとそのスプーンを傾斜させてみましょう。泥流の"先端部""周縁部"を模した(シミュレートした)お醤油はどうなるでしょう?大きめのお皿にそれを落してみるのも良いですね。ひとさじ分のお醤油と固めのお粥はどちらが先行しましたか?それをご覧になれば、あるいは何か閃くかもしれませんよ。

もちろん愛に条件などありません。
VITAさんも大切な共同探求者のお一人と考えています。
昨日の発言は、当初私が勝手に期待していた印象とは異なったという認識から出たものです。
今回、ご事情の詳細を明かしていただいたことで、その理由はよく解りました。投稿時間を見ても、明かにお忙し過ぎるせいですね。
今はお仕事に専念していただき、対話相手の書き込みを熟読できる程度には、余裕ができたならば、あらためて実証的態度と武道精神に則った建設的なご意見を投下してください。
その際私にモチベーションと時間に余裕があれば、これまで通り誠実にお答えさせていただきます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

どうもありがとうございます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こんにちは。遅くなりましたが投稿を続けさせて頂きます。以降が本文となりますので、よろしくお願いいたします。

三国街道の、関所にも近い当時の交通の要所にタエを人柱を立てるということは、その行為をより範囲の地域に知らしめるという、強い宣伝をするような意図が感じられますが、それはキチエモンとハツが持っていたと想定されるタエの人柱を隠したいという意図と完全に矛盾してしまいます。また、《杢の関所被災の状景》には旅行者の様子も描かれているので、この街道における人柱の実行は旅行者の口によって他の広範囲な地域の人々にも広まってしまうという懸念があるとも考えられます。また、タエは大量のお酒を飲まされ酩酊状態で、同時に片腕も切られてしまっていることから、橋までの移動中や、人柱に立てられた時点では、意識がもうろうとしていたと思われ、人柱の場所の記憶を完全にたどることは難しくなっているのではと想像します。

そのために、もう一度稲垣先生のご著書やブログを確認したところ、タエの人格が犠牲になった橋が杢ヶ橋を示していることを具体的に語っている箇所を見つけることができませんでしたので、私はもしかすると犠牲になった場所は杢ヶ橋ではなかったのではないかという考えを持つに至りました。それでは、人柱に杢ヶ橋以外の場所を仮定すると、その場所はどちらである可能性が高いのでしょうか。そこで私は、タエの人格が語った内容をもう一度見直してみることにしました。

ところで私は、「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります。」というタエの人格の語りは、それを文脈通りに捉えると、やはり「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので」の部分が原因で、「わたしがお供えになります。」の部分がその結果となるのではと考えています。もしタエが縛られた後に川の水が止まっていた場合、タエの人格が川の中にいる段階で、例えば「今、川の水が止まっています。」とのような発言をするのではないかと考えました。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

それではこの「水が止まって危ない」という発言は、何を意味しているのでしょうか。私は先行研究に触れるまでは、このことは鎌原火砕流が吾妻川に到達した段階で、川の水を一定時間堰き止めたことであると考えていました。しかし、泥流は直ちに下流に流下しているので、そのことではなかったはずになります。また、先行研究や歴史史料あたったところ、泥流到達の前に吾妻川下流においてタエを人柱に立てられるほど十分な時間、水が止まった形跡を確認できなかったので、そちらも違うと考えました。その後、渋川村の人々にとって一番「水が止まって危ない」場所はどこになるのかを熟慮し、それはおそらく泥流が閉塞した吾妻川と利根川の合流点になるのではという結論に至りました。この場合ですと、当時の渋川村の人々は直接の目視でその堰の危険性を認識でき、また一刻(1~2時間)ほど、タエを人柱にする準備の時間に十分な余裕が生まれることとなります。

しかし、タエの語りによれば「水にやられる」のは渋川村ではなく、「上の村」に限定しているので、やはりそこには矛盾が生じてしまうことになります。したがって、当初はこの説を棄却するべきものと考えていました。しかし、その後ある論文を読んでみると、次のような記述を見つけることができました。「特に利根川との合流点に近い川島(死者113人,流失人家127戸),北牧(死者52人,流失人家135戸)な どでは再び天然ダムの湛水区域となったため,被害が大きかった。」(「浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態」p.27)この解釈によると、一度流れ下った泥流でも後に上の村に再びさらに大きな被害を及ぼすことは不自然なことではないと考えられます。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

次にタエが犠牲となった場所は杢ヶ橋以外の可能性として何処が高かったのかを考えてみました。一つその可能性が高いと思われるのが、同じ旧渋川村村内の利根川流域となります。この場所を仮定した場合、タエの人格の「水が止まって危ない」という語りは、利根川で水が止まったことを記述している歴史史料の記述とも矛盾がなくなり、またこの場所では渋川村の人々は泥流の到達以前にその流下の予想をすることなく、合流地点の堰の決壊の危険性を実際に目で見て判断することができると思われます。また人柱を立てる場所が渋川村の村内となるので、タエを移動させることがはるかに容易となるはずです。さらに、キチエモンとハツが人柱とすることを隠したかったという意図があったということですが、街道のある杢ヶ橋の場合とは異なり、人柱の件を知るのはほぼ渋川村の村民に限定されるので、その隠蔽がはるかに易しくなります。また、渋川村に上の村の人間が滞在していれば、上の村のためにタエを人柱にしたということを証明することもできるはずです。そして、閉塞地点の決壊の状況によっては、タエの人格の語りのように、水が徐々に増えていくという現象もあり得るのではと考えました。これらのことが、私が第一の仮説を考えた理由となります。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

しかし、この説には欠点も多く存在します。まず、旧渋川村領内の利根川に当時タエの人格の語りに該当するような橋が架けられていたかどうかが不明であるということがその一つです。また、前日の噴火からタエが何かの形で犠牲になるということが既に決まっていたとしたなら別となりますが、合流点で堰が決壊するまでの1~2時間という時間は、人柱を立てるには十分な時間と言えるものの、酒宴を開けるような時間としては、やはり短すぎると思われることもあります。もう一つ、タエの人格は「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたし がお供えになります。」、また「TH:もう一度確認しますよ。あなたのいる村は?CL:渋川村、上郷。TH:川の名前が吾妻川?CL:吾妻川。」と述べているので、タエが犠牲となったのはやはり吾妻川のようであると考えられることも大きな矛盾点となります。しかしこの該当箇所の対話を見てみると、タエの人格は、人柱に立てられたのが吾妻川であると明確には述べていないように思われ、あくまでも土石流が流れ下ったのが吾妻川と語っているとの解釈ができるとも考えました。また、もう一つの欠点として、渋川村より「上の村」を救うためとしては、既に被害が出てしまっている上の村を、下流の渋川村で人柱を立てて解決するというのはあまりにも大きな矛盾があることがあげられます。しかしこの矛盾は、「閉塞によって利根川合流地点にとどまってしまった龍神様、雷神様を、花嫁衣装のタエを下流に置くことによって、その一刻も早い下流への移動、つまり堰の決壊を促し、閉塞の拡大による上の村への被害をできるだけ少なくしようとした」とのような解釈をすれば、一応の解決をはかることができるのではないでしょうか。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

個人的な事情で申し訳ないのですが、現在まだ渡航手続きが続いている状況ですので、今日はここまでにさせて頂きます。続きはまた来週からでお許し頂ければ幸いです。

稲垣勝巳 さんのコメント...

VITAさんが「タエの語り」の信憑性を認めたうえで、タエの人柱状況の謎を解くために熟考されたことに敬意を表するとともに感謝いたします。

私が、タエは即死、人柱の時間が見込めない、という「早川由紀夫説」を容認できなないのは、この誤った思い込み2点をもって、「タエの語り」すべてを全否定し、生まれ変わりは信じない、という研究者にあるまじき短絡した結論を述べているからです。
高名な地質学者・火山学者で群馬大教授という権威による社会的影響力がある方であればなおさらのことです。

どうぞ続きをご投稿ください。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こんにちは。前回からの本文の続きになります、よろしくお願いいたします。

前回の補足になりますが、先日タエの事例第二セッションの動画を拝見したところ、タエの人格は、おとっつぁんが船着き場を川に持っていたと語っているのに気づきました。この場所が吾妻川流域か、利根川流域か、あるいはその両方であったのかは不明ですが、交通の便から考えると、そこは吾妻川と利根川の合流点よりも下流であった可能性が高いと思われます。もしその船着き場に桟橋があったとすると、タエを桟橋の橋脚に縛ることが可能となるのではないでしょうか。しかし、橋と桟橋は違う構造物ともいえますので、やはりそのあたりの真偽は明らかではありません。

続いて私は、当時の渋川村の圏内がどのようなものであったのかを調べてみましたが、結局このことに関しては詳しく知ることができませんでした。しかし、もし現在の渋川市渋川が当時の渋川村の圏内と同じであったとしますと、この圏内は泥流の直接の被害を受けることは少なく、また吾妻川と利根川合流点の閉塞状況を直接目で見て知るには最も適した場所の一つであったと考えられます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92377-0008+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E5%B8%82%E6%B8%8B%E5%B7%9D/@36.4958671,138.9777431,14z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x601e61745a8264f1:0xdc3218e8fbc49f7d

VITA ÆTERNA さんのコメント...

さて、タエの犠牲が利根川であったという仮説を時間系列でたどりますと、「天明泥流の上の村への流下およびその一時被害→利根川合流点での泥流の閉塞→泥流の逆流による上の村での被害拡大→渋川村村内の利根川におけるタエの人柱としての設置→閉塞の決壊による泥流の利根川への流下→タエの溺死→上の村の被害の終息」、となります。また、タエの人格の語りにこの仮説の設定を当てはめていくとすると、「龍神様と雷神様が、吾妻川を下るので・・・(利根川合流点で)水が止まって危ないので、上の村が(逆流の)水にやられるので・・・わたしがお供えになります。」とのようになり、一応の整合性も保たれると思われます。さらに、その後の「偉大な存在者」とされる人格の「噴火による土石流で川が堰き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。」という語りの「堰き止め」の場所が利根川合流点のことを示しているとすると、この場所を吾妻川流入地点と仮定した場合とは異なり、その内容は完全に史実と一致することになります。以上のように、「タエは、利根川合流点の閉塞によって行き場をなくし、上の村で暴れまわっている龍神様つまり泥流を鎮め、一刻も早く閉塞地点よりも下流に招き入れるために、下流の利根川で人柱となった」とのように考えるとすれば、「下流の利根川で上の村を助けるために人柱になる」という大きな矛盾を含んでいる仮説でも、一応の合理的な説明が可能となるかと思います。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

もう一つの仮説ですが、前の仮説と時刻は同じですが、タエの溺死の場所に杢ヶ橋付近という設定を残したものとなります。この仮説では、タエは逆流した泥流に飲み込まれるということになりますが、渋川村の人々は泥流到達の予測をせずにタエを人柱とすることはできるものの、彼らが泥流流下後にどれほど杢ヶ橋付近まで近づけたか分からず、また付近にタエの人格の語りに適合するような橋があったかも不明で、さらにすでに倒壊した杢ヶ橋のために人柱を立てるということは意味をなさないと思いますので、この説は最初の説よりはかなり説得力に欠いたものとなっています。この説は私自身信憑性に疑いを持っていまして、また今回は時間的なこともあり、ここで紹介するだけにとどめさせて頂こうと思います。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

最後に、「上の村」なぜ多くの人が助かったかについて触れさせていただきたいと思います。先行研究によれば、上の村では下流の利根川合流点での河川閉塞により冠水地域が拡大し、被害が大きくなったとされていますが、同時にこの地域では冠水が広がっていたために流速が遅くなり、人が乗った家などが押しつぶされずに済んだことで、多くの人が助かった模様です。しかし、私はそこにもう一つの可能性があったことを望んでいます。それは、「利根川合流点の閉塞によって行き場を失い、上の村で暴れ回っていた龍神様と雷神様が、花嫁衣装のタエを見つけて下流に流下し鎮まったことにより、上の村の多くの人を助けることができた」とすることです。このように捉えることで、「タエの犠牲は決して無駄となったわけではなく、やはり上の村のたくさんの人々を救うことができていた」と想像することができるのではないでしょうか。

以上でこの度の私の投稿は終わりとなります。投稿が遅くなったことでいろいろとご迷惑をおかけしてしまいましたが、この度の投稿がタエの事例のさらなる考察のきっかけとなれば幸いです。

稲垣勝巳 さんのコメント...

ここでの議論のタエ人柱状況の仮説の妥当性の尺度として、

①タエ(守護霊を含む)の語りとの齟齬がないこと。

②史実との整合性のあること。

③状況に対する合理的かつ整合性のある推測であること、

の①②③3つの条件の整合性を満たしていることを挙げました。
これまでの議論は、タエの語りで不明である人柱状況の推理の妥当性をめぐってなされてきました。

さて、人柱状況についてタエの語りは次のようです。

ア.「天明3年7月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので、水が止まって危ないので、上の村が水にやられるので・・・わたしがお供えになります」

イ.「白い着物を着て、橋の柱に縛られています」

ウ.「急ぐの・・・急ぐ。急ぐ! 時間がない」

エ.「ウウ-、ククー、苦しい」

上記タエの語りのア・イ・ウ・エをもって、天明3年旧暦7月8日午前に起きた吾妻川大泥流によって、「橋の柱」に縛られたタエが泥流によって溺死した、と私が拙著『前世療法の探究』で述べたことに対する疑義が群馬大教授で火山学者の「早川説」です。
早川氏の疑義は次の2点です。

「その1」が、水が止まった時間はなく、大泥流は突如襲ってきたので人柱を立てるような時間の余裕はない。

「その2」が、大泥流は岩石密度の高いものであるから溺死したとは考えられない。即死である。

早川氏は、この2点の疑義を提示し、もって「タエの事例」全体を否定し、生まれ変わりは信じない、と述べています。

さて、VITAさんは、この早川説に則って、人柱地点を吾妻川・利根川合流地点堰止めの下流で人柱が仕立てられたと推理され、その推理を述べています。

まず私が述べたいのは、「早川説」は拙著をきちんと読まず、誤った思い込みの前提による仮説であるということです。

この「早川説」を前提にされているからこそ、VITAさんの「堰止め下流人柱地点仮説」という不自然な仮説が生まれたということです。

私の主張している

①大泥流予測仮説
②大泥流溺死仮説

を採用すれば、「堰止め下流人柱地点仮説」は、思考節減の原理に反し、無駄な思考を労する仮説になります。
このVITA説が、タエの語りと矛盾する点をいくつか挙げてみます。

①タエは「上の村」とは特に川嶋村を指しているのでなく、「逆流などなかったはずの上流の村々」すべてを指している、と明確に語っています。ましてや「堰止めによる逆流」から川嶋村を救うなどは一切語っていません。
また「龍神様と雷神様が、・・・吾妻川を下るので」という語りは、泥流流下前の予測の語りだと解釈すべきで、
流下後の堰止め地点下流で語ったと考えることはできません。堰止が瞬時に起きるわけがなく、その前に堰を乗り越えた分の泥流はすでに流下しています。そのときには龍神も雷神も川を下ってしまっているのです。

②堰止めを確認してから人柱に立てたとすると、タエの語っている、龍神の花嫁として送り出す酒宴の時間、人柱地点までの所要時間を合わせると2~3時間は必要で、堰止め確認後に酒宴を催し、タエを運び、人柱に立てることはどんなに急いでも所用時間に無理があります。泥流流下を予測したうえで、あらかじめ別れの酒宴を終えて準備していたと考えるべきでしょう。
また、一刻を争うときに、渋川村上郷から杢ケ橋に行くより2kmは遠方の地点にわざわざ人柱を立てに行くことは合理的ではありません。

③堰止めの起きている間には川底が干上がり、それを知った村民たちが魚獲りをしたという史実が残っています。人柱を立てるのような厳粛な儀式をおこなっていることを知ったその傍らで、魚獲りをするなどは不謹慎、不自然でしょう。ありえないことです。

④「橋の柱に縛れて」とタエは語っています。桟橋と橋とをタエが混同しているとは考えられません。また、たびたびの洪水で杢ケ橋が何度も流失していることから、キチエモンの「船着き場」は岸辺に舟を着け、つなぐだけの簡便な施設であった可能性が高く、桟橋などの構築物があったとはまず考えられません。仮に桟橋があったとしても、タエは「船着き場の杭に縛られて」というはずでしょう。桟橋を支える杭を橋の柱だと想定することには無理があります。

⑤人柱は凶事を予測しそれを免れるために仕立てるはずのものです。すでに大泥流が襲来し「上の村々」がやられた後で、それ人柱を立てるぞ、などと間の抜けたことを村人が考えるはずがありません。

⑥大泥流が、吾妻渓谷の八ツ場地点で大規模な堰止めとなったことは確かな史実です。
「水が止まって危ないので」というタエの語りは上流の狭隘部で堰止めがあるだろうと「予測しての語り」だと解釈することが妥当でしょう。目前の堰止めという「事実」を指しているのなら「水が止まって」ではなく「水が止まっているので」、「水が溜まっているので」と現に起きている状況を言うはずではありませんか。

⑦タエは「昼間だけど真っ暗で、提灯が」と語っています。旧暦7月8日午前中は、10時ころの大噴火の噴煙によって、暗闇状態であることは考えられますが、VITA説ではタエの人柱は午後になります。堰止めが決壊する8日午後遅くまで真っ暗な状態が続いていたとは考えにくいと思われます。

⑧、「『上の村で暴れ回っていた龍神様と雷神様が、花嫁衣装のタエを見つけて下流に流下し鎮まったことにより、上の村の多くの人を助けることができた』とすることです。このように捉えることで、『タエの犠牲は決して無駄となったわけではなく、やはり上の村のたくさんの人々を救うことができていた』」というVITAさんの推理どおりであるなら、タエの人柱による多大な恩恵と功績を讃えて、地蔵などに祀られていいはずです。タエの人柱は、それにもかかわらず、多くの流死や家屋流失、田畑被害が起きたので、特に感謝の慰霊措置が何もなされなかったと解釈するべきでしょう。
つまり、凶事を未然に防ぐための人柱としては無駄死にだったのです。

⑨「タエは、利根川合流点の閉塞によって行き場をなくし、上の村で暴れまわっている龍神様つまり泥流を鎮め、一刻も早く閉塞地点よりも下流に招き入れるために、下流の利根川で人柱となった」と考えたとするなら、上の村の被害をくい止めるだけで、閉塞地点より下流の村々の被害については何も考慮していないことなり、凶事を防ぐ人柱の意味からして、このようなエゴイスティックな思考をすることはありえないでしょう。
そもそもタエの人柱は、泥流被害そのものを未然に防ぐことが第一義であって、すでに被害が起きてしまった泥流流下後に、逆流による二次被害を防ぐという発想などするはずがないと思います。

このような不自然な仮説は、「大泥流予測仮説」と杢ケ橋での「大泥流溺死仮説」の採用を回避して、「早川説」と「タエの語り」をなんとか辻褄合わせをしようとする無理からひねりだされたものだと言わねばなりません。

私は、呼び出したわけでもないのにタエの人格が顕現化したのは、慰霊の措置もされず、人柱になった経緯も知られず、そうした歴史の闇に葬られている自分の存在を知ってもらいたいがためではなかろうかと思っています。

以上思いつく大きな矛盾点を挙げました。
私の採用している
①大泥流予測仮説
②大泥流溺死仮説
によって説明すれば、VITA説のように多くの矛盾は生じません。
そして①②の仮説が成り立つ説明は、UROノートさんと私がすでに詳細に述べています。

したがって、早川説ありきの前提で考えられているVITA説は、思考節減の原理に反していると判断せざるをえません。

私の採用している①大泥流予測仮説 ②大泥流杢ケ橋溺死仮説、にしたがってタエの一生を再現したブログは
「その42」で公開しています。