2015年1月18日日曜日

SAM催眠学序説 その36

「タエの事例」再考 その2 セッション逐語録2

注:THはセラピストの稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。


TH:あなたが人のために犠牲になることをなんて言うんですか?

CL:お供えに。・・・馬も。馬。ばと様。ばと様。・・・馬頭観音様。
注:馬頭観音を「ばと様」と呼ぶことを里沙さんは知らない。里沙さんの周辺地域には馬頭観音を祀ってあることが稀である。なお、渋川市上郷良珊寺の僧侶よ り、現在でも「ばと様」という呼び方が現地に残っていることが確認出来ている。ちなみに、このときの私には、「ばと様」という意味がまったく理解できな かった。

TH:馬頭観音様と一緒に? ふーん。
タエがなぜ馬頭観音のことを持ち出したのか、このときには皆目見当がつかなかった。後の守護霊との対話で、雷神へのお供えとなる馬が暴れて口取りができないので、馬を鎮め守るためにタエの左腕を切り落とし上郷馬頭観音下に埋納したことが語られた。タエの「お供えに。・・・馬も。馬。ばと様。ばと様。・・・馬頭観音様」という語りは、馬頭観音に自分の左腕が埋納されたことを指している。

 
CL:雷神様は馬に乗ります。龍神様はわたしを乗せて行きます。

TH:龍神様というのは吾妻川のことですか?
注:2006年アンビリ放映では渋川市教委文化財保護課小林氏が、吾妻川を龍神に見立てたのであろう、という推測を述べているが、そうではなく、タエの言うように、浅間山に龍神が住まうと当時の村人は考えていたと思われる。吾妻川そのものを龍神と考えていたわけではない。浅間山に龍神信仰のあったことは、浅間山麓嬬恋村住人から確認している。

CL:浅間のお山に住む龍神様です。熱くて、住めないので、川を下ります。

TH:お山が熱くて住めないので、浅間山から川を下る龍神様に、あなたが乗るということですか。じゃ、今あなたはどこにいるのですか? 川の中ですか?

CL:はい。

TH:川の中でどんなふうにされているんですか?

CL:白い着物を着て、橋の柱に縛られています。
注:この橋は現存していない。史実によればタエの人柱以後、橋は架けられることなく渡し舟に代用(杢の渡し) された。当時の街道を結ぶ橋のあったことは事実で、その場所は現地調査で確認している。再セッションでは、雷神を乗せる馬も、タエとと もに橋の柱に繋がれていたと語っている。当然、馬も流されているはずであるが、渋川村の流失人馬の被害の中に、馬の記述はない。流されることが自明のことなので被害として計上されなかったと思われる。あるいは馬は助かった可能性もある。タエも同様に流死することが自明であったはずであるが、さすがに人の流死は伏せることができなかったのであろう。「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」の記録がされている。

TH:それは自分から縛ってもらったのですか?

CL:はい。

TH:じゃ、川岸では誰かあなたを見守ってるでしょ?

CL:行者様。導師様。みんないます。
注:セッション後、現世の稲垣が、このときの「行者様」であったと里沙さんが告げている。2012年には別の男性クライアントのセッションでも、天明3年当時榛名山の樵であったという前世人格から、旅の行者であった現世の稲垣と出会ったと告げられている。不思議な符合であるが検証はできない。

TH:あなたの村では他にも犠牲になった人はいますか? 人々のために。あなたが第1号?

CL:いません。

TH:他の村でも、そういう話を聞きましたか? 人柱って言うんですよ。

CL:知らない・・・。・急ぐの・・・急ぐ。

TH:急ぐ?

CL:急ぐ! 時間がない。
注:天明3年7月8日(旧暦)午前10時頃浅間山大噴火の火砕流(鎌原火砕流)が吾妻川上流部に流れ込み、狭隘部で自然のダムとなり、下流の流れがところどころで一時的に止まっ た。やがてダムは決壊し、未曾有の大泥流が一気に流れ下った。下流の伊勢崎市には午後3時頃に押し寄せた記録が残っている。この史実から計算すれ ば、渋川村辺りに大泥流が押し寄せたのは、7月8日昼過ぎ前後であろうか。この泥流は、その後タエの人柱地点(杢の渡し)からすぐ下流の利根川との合流地点でも自然のダムを作ったと推測されており、一時的に泥流を堰き止めたので、干上がった河床で魚を獲ったという記録が複数残っている。

タエが「急ぐ!時間がない」と語っていることから、タエを人柱にすることは、旧暦7月初め以降に浅間山の噴火が激しさを増した頃から、すでに企てられており、タエを説得し、噴火に関わる何らかの激しい異変が起こったときには、いつでも人柱として送り出す下準備がされていたと思われる。前夜7月7日の大噴火と、翌8日午前に吾妻川の流れが一時的に数回止まる、というただならぬ異変が観測され、村人の狂騒状態の中で、慌ただしく、龍神の花嫁になるタエの酒宴が催されたのではなかろうか。そのあたりの事情を、水が止まっている時間は短いので、「急ぐ!時間がない」と語っているのだろうと思われる。

TH:それで、そうやって人のために犠牲になると、みんなが供養してくれませんか?
お地蔵さんかなにかに祀られませんか?
注:一般に人柱の犠牲者を供養するために、地蔵尊などに祀ることが多い。こうした供養の事実を地元郷土史家に調査していただいたが、タエの人柱供養のための 地蔵尊、供養塔などの言い伝えは渋川市には残っていないとの回答を得ている。上・下流の村々の多数の流死者被害に紛れて、タエの供養どころではなかったかもしれない。ただし、渋川村の流死者だけは「人壱人流(ヒトイチニンナガル)」となっている。他の村々の流死の記述は「人、○人」となっており、渋川村に限って流死者の数の後に「流」が付け加えられている。意味ありげな記述に思われる。

CL:分からない。

TH:あなたは自ら望んで、みんなのために、人柱になったのですね。

CL:(頷く)・・・うれしい。(微笑む)ごちそう食べて、白い着物着て。

TH:その着物って絹ですか?

CL:花嫁衣装。
注:タエは、やがて起こるであろう大泥流から上流の村々を救うために、浅間山から吾妻川を下る龍神の背に乗る花嫁として人柱になるという悲劇のヒロインに表向きには仕立てあげられたらしい。しかし、このセッション後、フラッシュバックして里沙さんにタエが語った内容には、人柱の裏に、義父母キチエモン・ハツには、タエを亡き者にしたいという企みもあったと推測できる。ここでは支障があるのでその事情に触れることができない。

そのタエを人柱に送り出すための酒宴が おこなわれたと再セッションでタエは語っている。そこで、タエはキチエモンに勧められるまま、意識朦朧となるまで酔わされたらしいとも語っている。

TH:花嫁衣装で。あなたは、今、何歳?

CL:16。

TH:16歳ですか。川岸にキチエモンさんの姿見えますか? それで川の水は増えているんですか?

CL:昼間だけど真っ暗で提灯が・・・ 分からない。
注:浅間山から東南東に50km離れている渋川村で、大噴火の噴煙で「昼間でも真っ暗で提灯が必要」というタエの語りは誇張のように思われる。しかし、当時の日記に東に60km離れている伊勢崎市でも「七月七日(旧暦)昼になっても暗夜のようだ」と記述されている。また東南東62km本庄でも「七日、14時 頃にわかに暗くなり闇となった。往来の人は提灯を使う」と当時の記録(『天明度沙降記』)にある。こうした史実に照らせば、タエの「昼間だけど真っ暗で提灯が」という語りが、真実を語っていることに間違いない。ちなみに、7月7日(旧暦)深夜に大噴火があり、吾妻火砕流が起きている。翌8日午前には鎌原火砕流を起 こした大噴火が続いて起きている。

TH:なぜ昼間なのに暗いんでしょう? 分かりますか、そのわけが。

CL:お山が火を噴いてるから。

TH:煙で暗いわけですか。太陽が遮られて。(CL頷く)そういうことですか。それで昼間に提灯がいるくらい暗い。あなたのいる川の水は今どんどん増えていますか?

CL:は、は、はい。増えてます。ウウーククー。苦しいー。ハア、ハア。ググッウー ウウー・・・ハア、ハア・・・。                      

TH:どんどん増えてますか? 大丈夫ですよ。苦しいですか?
注:ここでタエは泥流に呑まれて溺死する。このタエの溺死の苦悶が里沙さんの肉体に再現され、その苦しさ筆舌に尽くしがたいと言う。したがって、タエの再セッショ ンを7年後の2012年5月まで許可していただけなかった。そして、この再セッションにおいても、突然溺死場面に戻ることが起き、その苦悶はすさまじかっ た。このことは証拠映像に撮ってあるので、you-tube(タエの事例第2セッション)の中で公開している。


(その3へ続く)

12 件のコメント:

ショウタ さんのコメント...

昨日『ザ・世界ワンダーX  思わず目を疑うウソ~ンSP』で生まれ変わりについて肯定的な番組が放送されたそうです。

http://tvd.seesaa.net/article/412583920.html

ショウタ さんのコメント...

ラタラジューの事例も今回放送された事例にしてもいいところまでは裏付けられるのに肝心な人物が見つからないのが残念です

稲垣勝巳 さんのコメント...

SAM催眠学の立場で、現時点最強の生まれ変わりの証拠の条件だとするのは、①応答型真性異言を話し、②その話者の前世人格の語った内容が事実であることが証明され、③前世人格の実在が文字情報として確認された場合でしょう。

①②③の条件をすべて満たした事例は、世界中で、まだ発見されていません。
先行研究者のイアン・スティーヴンソン(2007年没)は、①②を満たした事例を3例発見しています。それ以外に、科学者の厳密な検証によって①②を満たした事例が1例あります。
「ラタラジューの事例」も、①②を満たしています。手前味噌になってしまいますが、私は「ラタラジューの事例」の①②を満たしたレベルは、スティーヴンソンの事例より上位に位置づくと思っています。
ラタラジューが実在した文書上の証拠こそ発見できていませんが、実在の濃厚な状況証拠は十分そろっていると考えています。
つまり、なにものかの計らいによって、生まれ変わりを認める人には十分な証拠、しかし、認めたくない人には完全とは認められない証拠のレベルまでしか、現在の人間には与えられることが許されていない、と考えてよいように思われます。
アメリカのSPR会長を務めた心理学者であり、生まれ変わりの研究者でもあったW・ジェームズは、生まれ変わりの証拠を追求していくと、必ず、最後の詰めで、完全な証拠をつかめない事態がいつも起こることを、「挫折の法則」と呼んだようです。「ジェームズの法則」とも言われています。この法則は、21世紀に入っても働いているようです。
したがって、私は、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」という現時点で世界最強の2つの生まれ変わりの証拠を提示されても、生まれ変わりを認めたくない人には説得するつもりはまったくありません。

なお、ショウタさんの紹介している番組に出演している中部大学大門教授は、英語学者で、生まれ変わりの専門的研究者ではないでしょうね。強いていうなら、飯田史彦氏と同様の生まれ変わり事例の紹介者です。「ラタラジューの事例」の見学者の一人ですが、彼は超ESP仮説を無視してよいという立場ですので、私とは相容れない考えを持っています。したがって、今回レベルの生まれ変わりらしき事例に出演したのでしょう。そして、今回レベルの検証事例であれば、私の手元にも、いくつかあります。しかし、厳密な生まれ変わり研究者であれば、超ESP仮説によって切って捨てるはずです。
タエの事例も同様に、超ESP仮説が適用可能ですが、語り内容の情報量の多さと具体性において、それらをすべて超ESPによって入手したとするには相当無理があるように思われます。したがって、①の条件こそ満たしていませんが、生まれ変わりの濃厚な事例だと思っています。

もし、超ESP仮説を無視できるのなら、イアン・スティーヴンソンは苦労しなかったわけで、これまでSPRが累積してきた諸事例や、スティーヴンソンの挙げている事例、「タエの事例」によって、とっくに生まれ変わり仮説や霊魂仮説は、証明されていることになっているでしょう。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

すみません、一つお尋ねしたいのですが、地図で確認したところ、タエが生育したとされる現在の渋川市上郷と犠牲になったとされる杢の渡し跡の距離は現代の道順で約6.5kmほどあり、かなりの距離があるという印象を受けましたが、現在の地図から推察すると杢の渡しは旧渋川村ではなく、旧北牧村に存在していたのでしょうか。

ショウタ さんのコメント...

ラタラジューの事例を始め前世の記憶は全て偶然だったという偶然説はどう思いますか?

昨日の『ナニコレ珍百景』の番組で結婚した二人のカップルが生年月日から、学校、生まれた病院も同じと言う天文学的偶然の奇跡の話が紹介されていました。

これを考えると前世の記憶も偶然は排除できないと思います。

それに前世の記憶を持っている人のすべての人が記憶の半分以上が事実と一致していなければ信憑性が難しいと思います。人類史上何億というケースのあるなかでの数例では難しいのではないでしょうか。

また前世の記憶の事例において現実とかみ合わない記憶もあるのはなぜか、また現実とかみ合う記憶を見る条件は何かを科学的に検証できましたらご示教ください。

もちろんだからと言ってラタラジューの事例が偶然と言う証明もないのも事実です。

稲垣勝巳 さんのコメント...

杢の渡しについては
http://www.geocities.jp/ikoi98/photo/mikunikaidou/200810/348.html
をご覧ください。渡し跡の写真下の説明を読めば、杢は牧のことで、天明年間渋川村の対岸が北牧宿のあった北牧村のはずです。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

恐れ入ります。杢の渡しについて私もインターネットで調べてみたのですが、杢の渡しが位置していたのは旧北牧村と旧渋川村の間ではなく、旧北牧村と旧南牧村の間ではないでしょうか。現在の地図を拝見したところ、北牧の対岸の地名は南牧となっており、また群馬県信用保証協会のホームページのコラムでは次のように紹介されておりました。

・・・・・・・・・・・
北牧宿は、かつての三国街道の宿場町で、規模は小さいながら、古い建物が残っており、まっすぐに延びる道の中央には水路が走り、往時の雰囲気を伝えています。宿場内を進むと吾妻川に突き当り、広場を見ながら川沿いを東へ進むと、「杢の渡し」の碑が立っています。かつて北牧宿は、川の対岸の南牧と橋や渡し船でつながっており、南牧には杢ヶ橋関所がありました。
http://gunma-cgc.or.jp/column/201005.htm

また念のために渋川市のホームページで確認したところ、やはり南牧村は明治期以前、現在の渋川市内に存在していたようです。
http://www.city.shibukawa.lg.jp/shisei/profile/gappeinohensen.html

稲垣勝巳 さんのコメント...

杢の渡しの地理については、VITAさんのお調べになった記述が正しいでしょう。簡単にネット検索でお分かりになることをわざわざ私にお聞きになる意味は何でしょう?

なお、渋川市上郷(良珊寺)と杢の渡しまでの距離は、下記の地図で分かります。VITAさんのおっしゃる6,5キロもないはずです。下記の地図では4,3キロになります。
https://www.google.co.jp/maps/dir/36.5246902,138.9868068/36.4956431,138.9905625/@36.5062364,138.9958693,13z/data=!4m14!4m13!1m10!3m4!1m2!1d138.9856412!2d36.5241655!3s0x601e6130aa559b5f:0x9e6bcb3eb06ca645!3m4!1m2!1d138.9961361!2d36.4976208!3s0x601e61abd9537b8f:0xc6bee08ce8797afe!1m0!3e0

VITA ÆTERNA さんのコメント...

今回杢の渡しがあった場所についてお聞きした理由は、この場所のできるだけ正確な情報を知りたいという理由からで、また稲垣先生はすでに杢の渡しの当時の位置関係についてご存知ではないかと考えたからになります。またその後のネット検索で南牧の情報に辿り着いたのは全くの偶然で、決してこの情報がネット検索で簡単に分かったというわけではありません。この度の質問は前世の実在の検討の中から生じたものですが、もしお気に障られるようなことがありましたら何卒お許し願えればと存じます。

また渋川市上郷と杢の渡しまでの距離ですが、私は上郷から吾妻川対岸の北牧までの距離で検索しておりましたので、計測距離が若干長くなっていたようです。

稲垣勝巳 さんのコメント...

ショウタさん
繰り返しますが、私は、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」という現時点で世界最強の2つの生まれ変わりの証拠を提示されても、生まれ変わりを認めたくない人には説得するつもりはまったくありません。

「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の中で語られた諸事実が、偶然の一致で語られたかもしれないという途方もない想像力は、私にはまったく働きようがありません。ありえないことが明白だからです。これまで、「偶然の一致」説のような奇説は提出されたことはありません。
また、あなたは偶然の一致で、「記憶」ではなく、「技能」であるネパール語で意味の通じる会話ができると思うわけですか? 
あなたの論理は、ある犯罪の容疑者が、犯した犯罪の事実を細々と語り、事実確認の結果、語られた事実が本当であったと確認されても、それは「偶然の一致」であるからこの容疑者は犯人とは認められない、と主張していることと同じことになります。このことは「その34」ですでに述べたはずです。同じ説明の繰り返しですよ。

こういう奇妙な論理がまかりとおるとすれば、なんでもかんでも「偶然の一致」で済まされることになります。これでは説得力のある科学的説明には到底ならないと思いませんか? 
あなたは過去に、「本能の錯覚」説という奇説を持ち出して、生まれ変わりを否定できるような投稿しましたが、さすがにあほらしくて私は削除しています。今回の「偶然一致」説も同様に検討の余地のない奇説だと思いますよ。

二人のカップルの生年月日から、学校、生まれた病院も同じと言う天文学的偶然の一致という奇跡の話と、そこからどうして、前世の記憶までもが偶然の一致である、という論理に飛躍して、結びつけることができるのか、あなたの思考の常軌を逸した飛躍が私にはどうにも理解できません。

また私は、「タエの事例、「ラタラジューの事例」に限定して検証した結果、生まれ変わり仮説を支持するしかない、と主張しているわけで、そのことをもって、人間すべてに生まれ変わりがある、などと「極端な一般化」を主張しているわけではありません。

したがって、私にはこれ以上、あなたの論理の飛躍に対して、お答えすることはできません。

稲垣勝巳 さんのコメント...

http://www.hayakawayukio.jp/volcanoes/asama/asamasiryo/negisi.htm
早川氏のサイトに被害状況の一覧表があり、そこに川島村の次に南牧村が挙がっていますから、VITAさんのおっしゃるとおり江戸時代にも南牧村はあった模様です。渋川村はその一つ下流の村になると思います。
これによりますと、南牧村は101人中5名流失死しており、8頭所有していた馬が全頭流失したという被害になりそうです。

これは、下のURLにより
http://pringles.blog23.fc2.com/blog-date-200802.html
大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』
幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門『浅間山焼に付見分覚書』
の両資料の照合資料だと思われます。

下は金物屋さんの店舗から架橋地点までのグーグルマップです。
https://goo.gl/maps/TSbKY
金物屋とはキチエモンが営んでいたであろう店舗です。タエを人柱に送り出す酒宴は、上郷ではなく、ここでおこなわれたかもしれません。あるいは、杢の渡しにもっと近い渋川村有力者の家かもしれません。

私が検証で重視したことは、酒宴の地点から杢の渡しまでの距離であり、その距離が駆け足程度で30~40分で着けるかどうかでした。そうした計算が成立しないと、1~2時間の吾妻川の流れが止まっている間に、タエを人柱に仕立てた、とする語りの信憑性が疑われるからです。
いずれにせよ、4キロ程度の道のりであれば、おそらく左腕を切り落とされていたタエを、輿のようなものか戸板、あるいは馬に乗せて急げば、1時間以内に杢の渡しに着き、橋脚に縛り付ける時間的余裕があったと推測できることになります。

VITA ÆTERNA さんのコメント...

こちらも天明三年当時の杢の渡しの位置関係が把握できたことにより、一つ成果がありました。先に紹介させていただいた論文「天明の浅間山噴火に伴う吾妻川・利根川沿川での泥流の流下・堆積実態に関する研究」の24ページ、《図-6 水理計算による吾妻川・利根川沿川での泥流流下状況》にある泥流の流量計算結果によれば、泥流は北牧に噴火後1時間17分30秒後に到達し、その水位は35m、流速は秒速11.1mとのことでした。