2015年12月29日火曜日

SAM催眠学序説 その80

「生まれ変わり」否定の諸言説のまとめ

「SAM催眠学序説」も、2015年末をもって、今回の「その80」まで公開することができました。

ネット上に表明される文章は、ツイッターやフェイスブック、2チャンネルを見ても分かるとおり、「軽薄短小」が圧倒的な流れです。

本ブログのテーマ「生まれ変わりの実証的探究」は、実証性を重んじる、真面目な内容の性格上、おのずと「重厚長大」になりがちです。
また、そうでないと「実証的探究」の実証の中身が十分伝わらず、充実しません。

いずれにせよ、本ブログは反時代的な代物であることは管理人として重々承知しているところです。

そもそも、政治も企業社会も、「いまだけ、かねだけ、じぶんだけ」の風潮が主流の現代日本で、まだまだ自分の人生の先が長いと思っている人は、今、いかに必要なお金を稼ぐかが一番の関心事であるのは当然ですし、まずは明日を生きることに必死で、この先の日本や世界の行方、ましてや死後の行方などに真面目に目を向けるゆとりなどとんでもない、と思われるのが大方の実情だろうと思います。

だから、「生まれ変わりや死後の有無」を真面目に科学的に考えるなどは 、酔狂なヒマ人が勝手にやっとればよい、ということになるのはもっともなことだと思っています。
そして、原則的に私は、酒も賭け事もやらず「簡素で、自給的で、喜びを軸とする生活」を理想としているヒマ人であります。

したがって、本ブログ内容の需要はけっして高くはないということは開始当初から承知しています。
それでも、ブログ更新時には1日200近いアクセスがあり、そうでないときでも毎日100前後のアクセスがありますから、真面目な継続的読者のおいでになることは、ほんとうにうれしく思います。
この2015年1年間のご愛読にこころより深謝いたします。
ちなみに海外からのアクセスも1日30前後あり、2014年8月からの総アクセス数は5万を超えました。

人はいつか必ず死を迎える、この厳然たる事実を直視して、死への不安を抱いて今を生きることは重苦しいでしょうから、多くの人々は死の不安から目を背け、スポーツに熱狂したり、芸能界のスキャンダルやらを面白がったりしながら気晴らしに興じ、自分の死について正対し、真面目に考える重苦しさを先延ばしにして、あいまいにすることで、この生きにくい時代をやりくりしながら、なんとか日々を送っているのではなかろうか、というのが年末にも関わらずシコシコ書く時間のあるヒマ人、私の感想です。

しかし、死に直面化せざるを得ないときが、遅かれ早かれ人生のどこかで必ずやってきます。

死は無に帰ることなのか、自己は死ともに完全に消滅するのか、それとも死後はあるのか・・・。
これは、すでに生きる時間の折り返し点を間違いなく通過している私自身のきわめて切実な問いであります。


本ブログは、この重大かつ根本的な問いに、科学的な実証をもって答えの一端を見出そうとしている試みです。


そして、実証のともなわない、観念的な、宗教的言説、霊能者的言説とは一線を画し、「観念より事実、理屈より実証」の旗印のもとに、私みずから手がけた生まれ変わり示す具体的事例の科学的検証という私の身の丈に見合った守備範囲を限定して述べてきました。

その生まれ変わりを示す「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を掲げて、生まれ変わりの実在可能性を主張してきましたが、当然それへの反論をいくつかコメントしていただきました。

今回は2016年を迎えるに当たって、そうした諸反論の経過を振り返ってみたいと思います。


Ⅰ 史実を踏まえた学問的反論

まず、特筆すべきは、2015年1月1日付「SAM催眠学序説その34」から開始され、3月22日の「その42」まで3ヶ月近く続いた、「タエの事例」について読者VITAさんから提示された下記2つの疑義に関しての論争です。

疑義 その1

 タエは泥流の水によって溺死をしているように見受け られましたが、その様子はこの分野における学問の知見と一致しないとする専門家の意見を以前拝見したことがあります。この方の見解は、泥流は大量の岩石を 含んだものであったので、これに巻き込まれた人が溺死をするようには思えない、とのようなものであったように記憶しております。私は以上のようなことから、タエの事例に限定して言えば、歴史的事実と比較した上でのさらなる検証の余地が残っているのではないかという感想をこの度持ちました。

 疑義 その2

浅間焼泥押に関する最新の研究の知見では、渋川には突如泥流が押し寄せたためにタエを人柱にする余裕はとてもなかった、とのようにも伺っておりますもち ろんセッションにおいてタエの人格も「急ぐの、急ぐ、時間がない」とのように語ってはおりますが)。もし研究の知見とタエの語った内容に差異がある場合、 タエの人柱が歴史的事実であるということを証明するには、研究の知見のどこかに逆に誤りがあるということを検証によって明らかにすることが必要となるようにも感じられました。

浅間焼泥押についての最新の研究の知見を述べ、拙著の批判をしているのは地質学者の群馬大教授早川由紀夫氏のブログhttp://togetter.com/li/608596 です。

早川教授のブログで示された二つの疑義についてきちんと解明したいということでした。
私としては、専門家である大学教授の権威ある批判(学問的見解)に対して、真っ向勝負することであり、タエの語りで不明であったことの解明につながる緊張感に満ちた仕事でした。

この議論の経過と決着は、「SAM催眠学序説その34」~「その42」のブログ記事およびコメント記事をお読みください。
記事内容の質、量ともに専門学会でおこなわれる討論をしのぐハイレベルの内容であったと自負しています。
この討論の仕掛け人であるVITAさんにはあらためてお礼申し上げます。
また、泥流の流れ方についての専門的知見を展開し、討論に参加してくださったUROノートさんにもあつくお礼申し上げます。


Ⅱ 自称霊能者からの無根拠な妄想による言いがかり反論

さて、「ラタラジューの事例」 については、霊能者を自称している人物のブログで、ラタラジューは未浄化霊の憑依であり、里沙さんはその憑依霊の霊障によって転写された腰痛などに襲われるであろう、という根も葉もない霊視結果が、2010年の「ラタラジューの事例」のアンビリ放映後に次のように述べられていました。
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 私の感応によりますと、数十年前に亡くなったネパール人男性が、日本へ行く旅行者に憑依して、日本霊域に来ています。

昭和までの幽界が強い時代は、日本の結界が強力に存在していて、外国人のさ迷う霊が日本に入ることは非常に難しかったのです。しかし近年は、この結界が崩壊している様です。私は番組を見て、この事を再認識させられました。

日本霊域でさ迷っていたネパール人男性は、ある時、退行催眠で無防備に成っていた女性の所へと引き寄せられたと言います。そして簡単に入り込む事(憑依)が出来たので、自分の言いたい事を話したのです。

女性(注:被験者里沙さん)は、長年の腰痛治療の緩和に成れば良いと思い、安易に退行催眠による腰痛治療を始めました。
ところが術者先生(注:稲垣)による「問い掛け」とは、物を言いたい霊に対して、場所を提供することに成るのです。この結果、彼女は異国の男性の憑依を受けたのです。
問題は、そのネパール人の霊は、この女性に執着していました。

今後、彼女には腰痛に加えて、憑依する霊がいまだに持つ腹痛も、現実的な病気として彼女に転写するでしょう。それ以外にも、彼女の人生に影響を与えて変えてしまいます。
現に番組では、ネパール人男性が戦争に行き、人間を刃物で刺した記憶が、彼女が料理で肉を切る時にフラッシュバックして苦しいと、彼女は話していました。
人の意識に干渉する治療は、予想外の二次被害を生み出しますの注意してください。お金を払ってまでして、違う危険性を新たにはらみます。
これもやはり、先生も相談者も「無知ゆえの事」です。

彼女は過去生において、東北の弁財天信仰をする滝のそばで、口寄せ(くちよせ:霊を憑依させてお告げをすること)をさせる行者の元にいました。
そこで、寄り代(よりしろ)に彼女自身がされていたのです。その時の因縁の白蛇が、彼女の腰のチャクラに巣食っています。これは腰痛として現れています。
このような過去生の行為が、再度また男性の元に引かれて、口寄せをする行為につながっています。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり

すでに5年以上前の記事ですが、この霊能者のもっともらしい上記予言は完全に的外れでした。
セッション後の里沙さんに霊障(ラタラジューの腹痛の転写)らしき身体の痛み現象などが、これまでにまったく起こっていないことが実証されているからです。
この自称霊能者は、感応できたと称する意識現象が客観的事実であるのか、主観的な妄想であるのかを自己点検する謙虚さを欠いたまま、臆面もなく断定できる厚顔無恥そのものの人物のようです。


Ⅲ 唯物論者からの応答型真性異言事例そのものが錯誤であるという反論

 的外れな反論としては他にも、それぞれ別人からの2つの反論がネット上に掲載されていました。

①ラタラジュー程度のネパール語会話であれば、ネパール語を知らない誰でも会話できる。
②ラタラジューのネパール語会話は、それらしく聞こえる空耳の羅列にすぎない。

上記①②の反論は、言いがかり以上のものではなく、検証実験すればその主張が成り立たないことが歴然としています。
臆面もなく、よくもこのようなめちゃくちゃの反論ができるものだと呆れるばかりでした。
両反論者ともに、生まれ変わりなどあってたまるか、という完全な唯物論者です。
「応答型真性異言」という、唯物論者にとってきわめて目障りな超常現象そのものをなかったことにしようとする目論見です。
「生まれ変わり」、「霊魂」という単語に過剰な拒絶反応を示し、非科学的迷信、社会の害悪だと決めつけ、きちんとした検証抜きで、問答無用のありえない戯言だと切って捨てる傲慢な態度です。
そのため、顕著な認知の歪みに陥るのではないかと思われます。
そうした認知の歪みに陥らないためには、本ブログ「投稿の留意点」に掲げてある「いかなる意識現象も先験的に否定せず、いかなる意識現象も検証なくして容認せず」という思考態度を持ち続ける必要があるのです。


Ⅳ 潜在記憶仮説で説明可能であるという反論 

無意識のうちに入手している「潜在記憶」で生まれ変わりとおぼしき記憶は説明可能である、という反論はもっとも妥当性がある反論です。
この反論には、たとえば次に紹介するような実証的根拠がありますから説得力があります。

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「催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしきものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶がそれまで全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれないのである。(中略)

記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに前世の人格を作り上げてしまうのである。このようにして作られた前世の人格は、長年月にわたって繰り返し呼び出されても、それなりの感情や一貫した性格を示して見せることであろう。(中略)

前世の記憶らしきものをはじめからある程度もっている者に催眠をかければ、細かい事実を他にも想い出すのではないか、とお考えになる方がおられるかもしれない。私自身もそのように考えたため、自然に浮かび上がった前世の記憶らしきものを持つ数名の者に催眠をかけたことがある。
この人たちの持つ記憶らしきものは前世に由来しているのかもしれないが、特に地名と人名については、事実かどうか確認できるほど明確な形では語っていなかった。催眠状態なら、人物や場所の名前を一部にせよ正しく想い起こしてくれるかもしれないし、そうすれば、この人々の記憶に残っているという前世の人格の存在が確認できるのではないかと考えたのである。
私はこのような実験を13件自らおこなったり指導したりしている。一部では私自身が施術をおこなったが、それ以外の実験では他の施術者に実験を依頼した。その結果ただの1件も成功しなかった」
        イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、PP79-80
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「タエの事例」、「ラタラジューの事例」は、潜在記憶仮説で説明できるのではないか、という点については、当然のことながら私も疑いをもちましたから、潜在記憶の入手可能性を徹底的に調査しました。
調査結果では、潜在記憶となる情報を入手できそうな入手先の痕跡は一切発見できませんでした。
最終的にポリグラフ検査をおこないましたが、検査結果の鑑定は「意図的に情報を入手した記憶は一切認められない」ということでした。
反論者の常套句は、「どこかで」無意識的に情報を入手したに違いない、という論理で主張してくるのですが、肝心の「どこか」については具体的に触れようとしません。
その「どこか」をさんざん調査しても発見できなかったのですから、無理難題、ないものねだりと言うほかありません。
タエにしてもラタラジューの語った情報にしても、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は入手できるとは考えられません。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネット(注:里沙さんはネット検索の技能を持っていません)などの手段を使わず、あれだけの情報を入手することはあり得ないでしょう。
両事例を潜在記憶仮説によって説明することは、記憶の入手先がない以上、成り立ちようがありません。

ただし、「タエの事例」については、被験者里沙さんの心の力、つまり彼女は催眠中に万能の透視・テレパシーの能力を発揮してあらゆる情報を入手できたはずだ、とする「超ESP仮説」が適用できないわけではありません。
応答型真性異言である「ラタラジューの事例」については、応答的会話技能はESPでも取得できないとされていますから、超ESP仮説によっても説明できません。


Ⅴ ポリグラフ検査の被験者に不正(催眠による細工)があったのではないかという反論

ところが、私が催眠を用いて里沙さんの受けたポリグラフ検査をスルーさせたのではないか、という疑いを持つ人がついに出てきました。
つまり、被験者里沙さんは意図的に情報入手しているが、その事実がポリグラフ検査にひっかからないように、つまり嘘をついても心理的動揺が生じないように、催眠が用いられていたのではないか、という疑いです。
徹底した懐疑主義に立てばこうした疑いも出るでしょうが、これは私と里沙さんの人間性を否定されかねない疑いです。
したがって、次のような反論をしてあります。

「催眠暗示により、嘘を嘘として認知しないようにポリグラフ検査前に細工するということは、嘘をつくことが道徳に反する、という価値観の持ち主には原則的に不可能です。
私の数度の催眠実験でも、嘘をつくことを強要する催眠暗示した場合、被験者は拒否するか覚醒してしまいました。
したがって、里沙さんに虚言癖のような傾向が無い限り、嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としていられるような催眠暗示が有効であるとは思われません。
催眠は、良心に反することを強要できるほど強力ではない、というのが催眠学上の定説です。
また、ここで紹介したポリグラフ検査は被験者里沙さんが嘘をついても平然としているかどうか、つまり動揺せず、したがって生理的諸反応が起きないかどうかを確認する本検査前の予備検査がされています。
内容は、彼女の年齢を問う予備検査です。
30代か、40代か、50代か、60代かそれぞれにすべてに『いいえ』と答えさせるものでした。
その結果、50代で明白な特異反応が認められました。
彼女は、検査当時51歳でしたから、50代か? で『いいえ』と嘘をつき、それが特異反応として検知されたというわけです。
この事前検査結果からも、彼女が嘘をついても心理的動揺を起こさず平然としている、などの催眠暗示がおこなわれていないことは、すでに明らかです。
仮に、そうした事前暗示がなされていても無効であったことが証明されています。
また、つづく本検査結果においても、以下の鑑定が出ています。
『鑑定事項1『タエの事例』に関する情報入手経緯については『本・雑誌類で』で明確な特異反応(顕著な皮膚電気反応)を認めたが、内観には考慮すべき妥当性があり、前世療法を受ける以前の認識(記憶)に基づくものか否かの判断はできない。
考慮すべき妥当性ある内観とは『先生(稲垣)からこんな本読んだことはないかと尋ねられる度に本屋に走り本を読んだりした。こうした経緯があり、前世療法を受けて以後のことながら、一回目の質問時から引っかかりを感じた』という内観報告である。したがって、特異反応はこうした内観に矛盾しないものである』
この鑑定は、つまり里沙さんは、完全な嘘をついていなくても、少しでも心理的なひっかかりがあれば動揺が生じること、正直で素直な性格であることを示しています。
こうした諸事実によって、少なくとも、ここで実施されたポリグラフ検査を、催眠により問題なく通過させたなどの不正が起こり得たはずがありません」

上記私の反論について、疑義を提出した人からの再反論はありません。


Ⅵ 量子脳理論を説明仮説へと援用し拡大解釈した反論

この反論を持ち出した人は、Wikipediaに掲載されている量子脳理論についての次の引用記事をヒントにしていると思われます。
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ペンローズ・ハメロフ アプローチ

理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフに よって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。
意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と 呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説 明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。[1]
臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、 体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」と述べている。

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上記ゴチック部分のハメロフの主張の問題点を挙げると

①「脳で生まれる意識は・・・」と、脳が意識を生み出すことが確定されているかのような前提を述べていますが、脳が意識を生み出しているという科学的立証はいまだにありません。

②量子脳理論提唱者のハメロフの主張は、「臨死体験」の説明仮説としては論理が通っているでしょうが、「心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。体験者が蘇生した場合は意識が脳に戻る」などの主張の科学的立証は一切ありません。
立証しようにも検証方法がないのです。
そして、臨死体験が「脳内現象」であるのか、「体外離脱現象」であるのかの決着さえも、いまだについていません。
したがって、ハメロフの主張は、臨死体験論争に、目新しい量子脳理論を持ち出して説明しようとする「私論」、ないし「試論」でしかないと言えるでしょう。

③ハメロフの言う「体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」、あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」という主張に、「ラタラジューの事例」の反論者は、待ってましたとばかり飛びついて、「量子脳理論で生まれ変わりは説明できる」と断定しているのですが、ハメロフは、宇宙にあり続ける死者の意識情報は「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない」ときわめてあいまいな表現しかしていません。
理論とは言えないレベルの、科学的実証の見込みのない恣意的推論に過ぎないからでしょう。
 
④私は、ハメロフの量子脳理論による「生まれ変わり」の説明については、次のような決定的な欠陥のあることを反論しています。

「かつて、ラタラジューが生きており、死後ラタラジューの意識(人格)が量子として宇宙に偏在したとします。
そのラタラジューの意識(人格)がなぜわざわざ日本人の里沙さんの意識を選んで宿るのか、その理由がまったく説明ができないではありませんか?
宇宙に偏在していたラタラジューの意識(人格)が、たまたま気まぐれで偶然に里沙さんの意識に宿ったわけですか?
また、そのような偶然が普遍的に起こるとしたら、応答型真性異言現象がもっと多くの人々の間に起きてもいいのではありませんか? 
つまり、学んではいない異国語で応答的会話のできる人々が、これまで世界に5例にとどまらず、もっと相当数現れてもいいはずです。
この点についての整合性のある合理的説明ができない限り、量子脳仮説で生まれ変わりを説明できるとは到底考えることはできません」

上記の私の反論についての再反論はありません。

量子として宇宙にあり続ける膨大な死者たちのうちの誰かの意識情報が、偶然に現世の誰かの生命体と結び付いて生まれ変わる、とすればこうした現象は、すでに「生まれ変わり」という辞書的定義を逸脱しています。
生まれ変わることに目的性は一切なく、宇宙に量子として偏在している膨大な死者たちの意識のうちのどれかが、無目的かつ偶然に、生まれてきた誰でもよい誰かの肉体に宿る、こうしたまったく無縁である死者の意識が、生を受けたまったく無縁の現世の者の意識に偶然に宿ること、これを「生まれ変わり」と呼べるのでしょうか。


おそらく、量子脳理論について生かじりの知識しかなく、量子論という最新科学を背景にした目新しい主張に、軽率に飛びついてみただけだからでしょう。


Ⅶ 形態形成場仮説を借用し飛躍した推論による反論

形態形成場仮説は、Wikipediaの説明記事の引用によれば、次のようになっています。
この仮説は、生物学者シェルドレイクの提案だとされています。
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この仮説は以下のような内容からなる。
  1. あらゆるシステム形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
  2. 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
  3. 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
  4. これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。
簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。
この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる[2]
また、シェルドレイクは記憶経験は、ではなく、ごとサーバーのような場所に保存されており(記憶の外部保存仮説)、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。
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反論者は、上記の、生物学者シェルドレイクの提案している形態形成場仮説の説明のうち、「記憶の外部保存仮説」を借用し、拡大解釈をして、生まれ変わりについて次のように反論しています。

「わたしは否定派ですが、理由は『死後の世界』を想定しなくても『この世』だけてすべて説明可能だからです。(中略)
わたしにはむしろシェルドレイクなどが主張する『形態形成場仮説』のほうが説得力を感じます。
つまり、そもそも『記憶』というものは『脳内』存在せず、重力場や電磁場と同じように種ごとに世代を越えて(つまり故人も含めて)共通の『場』に蓄積さ れていくものだ、ということです。従って、『脳』」は中継器のようなものであり、生物は『脳』」を通じて遺伝子というキーを使って自分の『記憶』にアクセスし ていると見るのです。
実際、脳科学が進歩した現在においてさえ、『記憶』が『脳内』に存在している、という確証はないのです。
ここで、ある条件下において他者の『記憶』にアクセスできるとすれば鳥類の『渡り』や魚類の『回遊』など世代を越えた情報交換が必要な現象や『本能』の謎も説明できることになります。
そして、この仮説により前世記憶や臨死体験などは勿論のこと、テレパシーなどの『記憶』に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります

私は、反論者の上記のゴチック部分について次のような再反論をしました。


「形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)によって、ある条件下において、他者(死者)の「記憶」にアクセスできる、という主張は、「ある条件下」の具体内容が示されないかぎり、検証実験はできません。
そ の検証実験によって、他者(死者)の記憶にアクセスが成功したという検証がいくらかでもできて初めて、『「形態形成場仮説によって前世記憶や臨死体験などをは勿論 のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という科学としての言説が成り立つのではありませんか?
こうした、検証のされていないところで、『前世記憶や臨死体験などをは勿論のこと、テレパシーなどの記憶に関わる超常現象をすべて説明出来ることになります』という主張は、形態形成場仮説の極端な一般化という認知の誤りに陥った短絡的な恣意的推論と言うべきでしょう。

そ もそも、形態形成場仮説によって他者(死者)の記憶にアクセスできる、などの、あたかも最新量子物理学の成果を装った主張は、形態形成場仮説を『ラタラ ジューの事例』に都合よく援用した安易な拡大解釈、ないし実証のない恣意的推論だと受け取るしかないではありませんか。
だからこそ、『ある条件下において』などという、安直で曖昧模糊とした、反証可能性に閉じた言い回しをして、逃げを打っているのではありませんか?

『ある条件下』の内容が不明では、その条件を満たすにはどうすればよいのか、その検証が不可能ですから、科学的仮説の体裁になっているとは言えません。
仮説の検証方法が示され、仮説の再現方法が保障されていてこそ、仮説→検証→検証結果の分析と考察→仮説の実証、という科学的方法の適用が可能です。
したがって、反証可能性に閉じられており、検証のできない仮説は、科学的な仮説ではなく、恣意的推論の表明に過ぎないという誹りを免れません。

検証のできない、反証可能性に閉じられた仮説を持ち出すのは、前世などあるはずがない、という決めつけの前提から、『死後の世界を想定しなくてもこの世だけてすべて説明可能だ』という唯物論絶対の砦に立て籠もって、自分の世界観の安定を図ろうとする硬直した態度のように私には思えます」


上記の私の再反論についての反論はありません。

さらに加えて言えば、「ある条件下において」の文言を、「超ESPなどの能力が発揮できる条件下において」と置き換えれば、「超ESP仮説」と同様のことを述べていることになりませんか?
「超ESPという能力を発揮できる条件においては、死後存続のあらゆる証拠は、生者による超能力で完全に説明できる」と考える理論が、「超ESP仮説」と呼ばれているものです。
つまり、「死後の世界を想定しなくても、この世だけですべて説明可能だ」とする理論です。
こう考えれば、「形態形成場仮説」のうち「記憶の外部保存仮説」は、「超ESP仮説」のような仮説に「事実上、超常現象超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」という否定的見解を示す人が出るのは当然でしょう。
そして、「超ESP」という万能の超能力者が、発見されているわけではありません。
また、超ESPを用いて、情報である記憶は入手できても、情報に還元できない「暗黙知」である技能は取得できず、会話技能を示す応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、「記憶の外部保存仮説」で説明することには無理があると言うべきです。



「タエの事例」、「ラタラジューの事例」を生まれ変わりの証拠とする私の主張への反論を、7点にわたって網羅しました。
このうち、両事例について、具体的反証を挙げて反論しているのは、Ⅰぐらいでしょうか。
「実証的探究」を掲げている本ブログ管理人としては、Ⅰ以外は、実証性に乏しく少々物足りない観念的反論だと評価するしかありません。
「理屈より実証、観念より事実」の旗印からすれば、実証なき理屈、事実なき観念による反論では十分な説得力を認めることはできません。

現時点において、これら諸反論では、両事例が示す生まれ変わりの実証性を揺らがせることがいささかもできなかった、と評価するしかなかったからです。
とりわけ、最新の量子論を背景にした量子脳理論、形態形成場仮説(記憶の外部保存仮説)でタエ・ラタラジューの両事例を説明できると主張されていますが、その主張の杜撰さから、どうやら生まれ変わりの科学的研究(SPRおよび超心理学)における先行研究の造詣があるとは思われませんでした。
生まれ変わり仮説の「否定が先にありき」であり、したがって、私の主張根拠である両事例の反証可能な点についての具体的な検討をすることなく投稿されているように思われます。


このことは、「前世を語る子どもたち」の膨大な実証的研究、3つの「応答型真性異言」の実証的研究を残した、生まれ変わりの科学的探究の先駆者バージニア大学の故イアン・スティーヴンソン博士の業績と、それを模範とする私のささやかな探究が、少なくとも現時点では、否定することはできない、という評価に値すると自負してよいと思われます。

しかしながら、私の主張している「生まれ変わり仮説」は、生まれ変わりの濃厚な事実を示す状況証拠に基づいていますが、完璧な証拠だと断定できるまでに至っているものではありません。
だから、常に批判(反論)にさらされているあり方、常に反証可能性に開かれているあり方こそが、真理を求めるための、公正で科学的な探究態度だと思っています。
こうした公正で慎重な探究態度を逸脱しないために、私自身も、生まれ変わりがあってほしいという願望による、事実認識の歪みの有無についての自己点検を、常に怠ってはならぬと自戒しています。

諸反論の幾つもの波を被り、揉まれ、洗われ、再反論を慎重に検討し、粘り強く思考していくプロセスの繰り返しがあってこそ、生まれ変わり仮説はより強靱なものに仕上げられていくに違いないからです。
そして、反論は、反証可能性に開かれた形で証拠として提示された具体的諸事実に基づいて実証的になされるべきでしょう。
法廷のルールに則れば、私が具体的諸証拠を提示して生まれ変わりがある、と主張しているのですから、生まれ変わりなど絶対にない、と主張する人は、私の掲げている諸証拠に対して具体的反証を挙げて生まれ変わりがないがないことを実証する「立証責任」があるということです。 

こうして生まれ変わりを否定する諸仮説をすべて公正に検討し、最後に残ったもっとも妥当性の高い仮説が「生まれ仮説」でなければ、宗教的信仰ではなく、科学的な事実としての生まれ変わりを、多く人々が納得することはできないでしょう。


生まれ変わりのように、きわめて重大で、広範囲に深甚な社会的影響力をおよぼすことを、科学的事実だと主張することであればなおさらです。
なお私は、もし生まれ変わりのないことが、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の具体的反証をあげて「科学的に実証」されるなら、怪しげな宗教的言説、怪しげな自称霊能者のお告げ、胡散臭い霊感商法などが、きれいさっぱり完全に一掃できる画期的なことだと評価しますし、私の主張は、潔く誤りを認めて撤回します。
このことは、ひいてはスティーヴンソンの生まれ変わり研究の業績も否定することになるでしょう。

最後に、you-tubeに公開している「ラタラジューの事例の英語版」に寄せられた海外からの2つの好意的評価コメントを紹介して締めくくりとします。
文面から、それぞれ生まれ変わりの科学的研究への造詣があると思われるお二人です。
また、コメント文面から「ラタラジューの事例」の公開動画にある説明コメントを丁寧に読んだうえでのコメントであると推測できます。

ちなみに、量子脳理論、および形態形成場仮説を持ち出して否定論を述べているお二人は、おそらく「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の動画にある説明コメントをきちんと読んでおいでになるとは思われません。

さて、お一人からはCongrats. Well done! 、 もうお一人からは Great job!という「!」付きの身に余るうれしい評価でした。
日本の濃尾平野の片隅の田舎町から、机に座ったままで世界に向けて発信出来る幸運な現世に生まれ合わせた喜びを噛みしめています。

Quite incredible! A very well planned session. It's amazing that she, as Rataraju, understands Nepali and gives many replies in Nepali (although many times she says "I don't know').. Congrats. Well done! To me, xenoglossy is evidenced here through the route of a spirit.


Hi. I think at some point when Ratarajou mentioned about his stomach pain, he died at that point and when people cross over its hard to communicate with them because like Dr.Brian Weiss said they are in state of resting or sleeping. If you noticed it was harder to talk to him after that point. Questions that he were answering in the earlier parts of the video, he answered "I dont know" or not understand at the point after he died(of stomach pain) because Rataraju was already resting and its hard to talk to them when its like that. If you are familiar with Dr. Michael Newton works the regression approach to be able to talk to people who are already in the spirit home or people who already cross over is by LBL type regression. But Kudos to this video, this is a great material supporting the reality of past lives and reincarnation. Great job!


最後まで辛抱強くお読みくださった読者の方には、あつくお礼申し上げます。

2016年が、あなたにとって、意義深く稔り多い成長進化の年になりますように、お祈りいたします。

そして、世界中のすべての人々にとってもそうであるように。

どうぞ、よき新年をお迎えください。
2016年も、どうぞよろしく。

2015年12月9日水曜日

SAM催眠学序説 その79

守護霊と呼ばれる存在についての考察

SAM前世療法において、魂状態の自覚に至ると、頻繁とは言えないまでも、偶発的に霊的存在とおぼしき者の憑依現象があらわれることがあります。

したがって、セラピストとして目前のクライアントに起きている霊的存在の憑依現象に対して、あいまいな態度は許されず、明確な立場をとって対処することが求められます。

SAM催眠学では次の立場を明確にとっています。

憑依現象に関わる「意識現象の諸事実」をSAM催眠学では、霊的存在が実在し、その憑依現象を認める立場に立っています。
これを、SAM催眠学における「憑依仮説」と呼んでいます。

当然のことながら憑依する主体である守護霊と呼ばれる高級霊、未浄化霊と呼ばれる迷える低級霊などの霊的存在を認めているということです。

さらに言えば、SAM前世療法によって、魂の自覚状態まで遡行させ、「前世人格」を顕現化させるという方法論そのものが、魂表層を構成している諸前世人格という霊的意識体を、意図的に憑依させることを企て、顕現化させる営みということになります。

こうして顕現化した前世人格は、自分の生まれ変わりであるクライアント自身に憑依し、クライアントの肉体を借りて自己表現(発声し対話する、指を立てて答えるなど)をすることになります。

これは、まさに憑依現象ですが、「自分の魂表層の前世人格が自分に憑依する」などという奇怪な憑依現象はこれまで知られてきませんでした。
したがって、このような憑依現象に対する概念がありません。

そこで、SAM催眠学では、前世人格がその生まれ変わりである自分に憑依し顕現化する現象を「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
自己の内部に入っている魂、その表層に存在している前世人格が自分に憑依する、という意味です。

実際にSAM前世療法で魂の自覚状態まで遡行すると、自己内憑依以外にも、偶発的に第三者の霊の憑依現象が観察されます。
また、里沙さんのような霊媒資質のあるクライアントであれば、意図的に守護霊を憑依させることも可能です。

したがって、第三者の霊である憑依現象、および憑依した主体である第三者の憑依霊は、「実体のない観念」ではなく、観察できる「意識現象の事実」です。

憑依および憑依霊について考察するために、事実に基づかない観念論では決着がつくとは思われないので、憑依現象の具体的事実を提示し、それについて具体的に考察してみましょう。

守護霊とおぼしき存在が憑依中のセッション証拠映像はyou-tubeの「タエの事例」に公開してありますから、そのセッション中に、里沙さんの守護霊が憑依している25分間分の逐語録を提示します。
ちなみに、前世療法セッション中に、偶発的ではなく、意図的に守護霊に憑依してもらい、セラピストが直接対話するというセッション証拠映像は、おそらく公開されたことがないと思います。


さて、下の逐語録の記号のTHはセラピスト稲垣、CLはクライアント里沙さんの略です。
ただし、CL里沙さんには彼女の守護霊が憑依して語っていますから、守護霊そのものの語りだと理解してください。
ちなみに、この対話は里沙さんの前世の記憶ではなく、憑依した守護霊と私とのまさに現在進行形の対話です。
なお、その後の守護霊呼び出しの再セッションで語られたこと、検証の結果明らかになったことを「注」としてコメントしてあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

TH じゃ、一つ聞きますよ。そのあなたのいる魂の世界に、たとえば、私の愛する人が待っていて、生まれ変わりがまだなら、私もそこへ行けば会えますか?

CL はい。会えます。

TH もう、生まれ変わりをしていたらどうなりますか?

CL 必ず出会います。
注:死後霊界に行った魂は「類魂」と呼ばれる魂のグループの一員となるらしい。次の生まれ変わりに旅立つときには、霊界の類魂内に自分の分身を残すという。したがって、先に死んだ者の魂がすでに生まれ変わりをしていても、後に死んだ者の魂は、先に死んだ者の魂の分身に必ず出会うということらしい。

TH 生まれ変わりをしていても出会えますか、魂どうしは?

CL はい。

TH もう一つ聞きますよ。今、あなたは偉大な存在者そのものになっていますね。じゃあその方は、時間も空間も超越していますから、今、私が、こうやって前世療法のセッションをしていることも、きっとお見通しのはずですね?

CL はい。

TH じゃ、聞きます。多くの人が、前世のことは現世に生まれ変わると、忘れて出てきません。でも今、里沙さんは深い催眠状態で前世のことを語ってくれましたが、もともと人間は、前世のことを忘れて生きるようにできていますか?

CL はい。

TH それを、無理矢理こうやって、催眠によってほじくり出すことは罪なことでしょうか? どうでしょう。
注:本来思い出すことのない前世を催眠という道具を使って探るという企てに対して、それは罪なことではないのか? という問いは、2001年にやむをえず最後の療法として初めて前世療法を試みた当初から、私の中に在り続けた疑問であった。守護霊は、人を救う手段であれば許される、と答えている。裏を返せば、人を救うためでなく前世を探ることは罪なことである、ということになる。したがって、とりわけSAM前世療法のように霊的療法をおこなうにあたっては、霊的存在に対して敬虔な態度を忘れることがあってはならないと思う。


CL そうではありません。人を救う手段であります。人を救う手段であれば、罪なことではありません。あなたは、それができる人なので、たくさんの人を苦しみから救うことが使命であると。

TH 私の使命ですか。

CL そうです。

TH であれば、私がこうやって前世療法をやった後は、二人の人からとっても憔悴(しょうすい)  しているように見えるそうです。命を縮めているんじゃないかって言われています。そういうことになっていますか? どうでしょう。命を縮めることですか。
注:この問いも、私にとっては真剣な切実な心配であった。ちなみに、この「タエの事例」のセッション直後には、椅子から立とうして膝が笑って立てないほどの疲労が生じていた。

CL 違います。できる限りたくさんの人を救います。

TH 分かりました。じゃあ私は、それを自信を持ってやっていいのですか?

CL はい。

TH 他に、私に伝えておかなければならないことがあれば、どうぞおっしゃってくだ さい。

CL 世界にたくさんの悩める人がいます。必ず出会います。力を尽くすよう。力を尽くしてお救いください。

TH はい。私はそういう道を進むのが使命ですか?

CL そうです。
注:里沙さんの守護霊によれば、私が霊界に存在していたとき、神との約束として、次の生まれ変わりである現世の一定の準備期間によって一定の霊的成長に至ったと認められたとき、新しい前世療法を開発すること、スピリットヒーリング能力が発揮できること、が決められていた、と語っている。これを認めるとすれば、2008年、私が59歳になった時点を指している。この歳にSAM前世療法の作業仮説を教える霊信を受け取り、同時にスピリットヒーリングとおぼしき能力が現れたからである。

TH もう一つ聞きます。大きな謎ですよ。おタエさんは、人柱となって16歳で短い一生を終えました。そのおタエさんの魂が、今、平成の現世では里沙さんとして生まれ変わっています。その里沙さんは、側湾症という治る見込みのない苦しい病にかかっています。なぜ、苦しみを二度も味わわねばならんのですか? いかにも不公平な人生ではありませんか。そのわけは何でしょう?

CL 魂を高め、人を救う道に位置付きし人です。

TH 里沙さんがそういう人ですか。

CL そうです。

TH じゃあ、側湾症になるということも、里沙さん自身が、あなたのいらっしゃる中間世で決められたことなんですか?

CL そうです。

TH それは、里沙さん自身が魂として選んだ道なんですか?どうやら

CL 「わたし」が選びました。
注:のちの再セッションで、里沙さんの魂は急速な成長・進化を望み、他人の痛みを自分の痛みとして共感できるように、脊柱側湾症という不治の病を自らの意志で選び、3回目の生まれ変わりである現世に生まれてきた、と守護霊は告げている。魂の成長・進化のためには、人生において負荷がどうしても必要であるということである。負荷は「人生の課題」と言い換えることができる。生まれ変わりは惰性でおこなわれるのではなく、魂の成長・進化のために現世の課題(負荷)を決めて生まれてくるということらしい。ただし、その課題は魂が肉体に宿ると同時に忘却されてしまう。したがって、現世を怠惰に生きることも、課題を探りながら真摯に生きることも、魂の主体性に任されているらしい。

TH 「わたし」とは、魂の「わたし」なのか、それとも偉大な存在である「わたし」のことですか? どちらですか?

CL 魂の「わたし」が選びました。
注:「魂のわたし」とは里沙さんの魂のこと、「偉大な存在であるわたし」とは守護霊ことである。あとの語りで明らかになるが、生まれ変わりを卒業すると、その魂は「偉大な存在であるわたしの一部になる」らしい。この語りを認めると、守護霊である「偉大な存在であるわたし」は「類魂」と呼ぶこともできる。

TH もし、そのことを現世の里沙さんがはっきり自覚できたら、彼女は救われるでしょうか?

CL 救われます。

TH その苦しみを乗り越えるだけの力を得ることができますか?

CL できます。

TH また、聞きますよ。お答え願えますか? 浅間山の噴火のときに雷が起きましたか?
注:噴火による火山灰の摩擦により静電気が発生する。この現象を「火山雷」という。実際に天明3年当時の浅間山大噴火の絵図には黒煙の中に稲光が描かれている。

CL はい。

TH そのことを、雷神様と人々は言うのでしょうか? 雷のことを。


CL そうです。まだ、噴火、自然現象は分からない人たちですから、魔物のせいだと思ったのです。

TH 龍神様はなんのことでしょう?

CL 浅間山は信仰の山です。龍神が祀られています。
注:浅間山に龍神信仰があることは、浅間山麓嬬恋村の住人から確認できた。アンビリバボーの中で渋川市教委の小林氏は、吾妻川を龍神に見立てたのだろう、と推測されているが、守護霊やタエが語っているとおりに「浅間山に住む龍神様」と解することが妥当であろう。
なお、浅間山の龍神信仰についてはネット検索はできない。

TH その龍神が、お山が火を噴いたために住めなくなって、川を下るというように人々は思ったわけですね。

CL そうです。

TH それから、そのときの噴火によって空が真っ暗になって、日が射さなくなって、火山灰が降り注いで、農作物は不作になりますよね。その結果、下界ではどんなことが起きたのでしょう? あなたはご存じのはずですが、教えてもらえますか?

CL 噴火による土石流で川が堰(せ)き止められ、そのため洪水が起き、たくさんの人が亡くなりました。

TH その川の名前が吾妻川でしょうか?

CL そうです。利根川の上流になります。
注:吾妻川は渋川市内で利根川と合流している。

TH さっき、あなたのおっしゃったことに勇気を得て、もう一つ聞きます。今、あなたが語ったことが、その時代に生きたおタエさんしか知り得ないことだという証拠を、私はつかみたいと思っています。その結果、前世というものが間接的にでも証明できたら、多くの人の人生観が変わって、特に死を間近にした人たちに勇気を与えることができると思っています。このセッションの場には、その研究をしていらっしゃる小野口さんという先生も来ています。そういう人のためにも、おタエさんしか知り得ないことででも、われわれが後で調べたら何とか分かるようなそういう証拠の話か物がないでしょうか? そんなことを聞くのは傲慢(ごうまん)でしょうか? もし、お許しがあれば、それを教えていただけないでしょうか。

CL 傲慢ではありません。タエは・・・左腕をなくしています。渋川村上郷、馬頭観音下に左腕が埋まっています。

TH それはおタエさんの左腕ですか?

CL そうです。

TH であれば、今は随分時代が下がってますから、骨になっていますね。

CL そうです。

TH その骨が、渋川村、上郷、馬頭観音の下ですか?

CL そうです。

TH 下ということは、馬頭観音様は外に立っていらっしゃいますか? お堂の中ではない?

CL お堂です。お堂の下を掘るとタエの左腕が出てきます。

TH それが、タエが実際に存在した証拠になりますか?

CL そうです。

TH 馬頭観音様が祀られているのはお寺でしょうか?

CL 馬頭観音は寺ではありません。小さなお御堂(みどう)です。

TH それは現在でもありますか?

CL あります。

TH おタエさんの左腕を探すためにはその床下を掘れということですか?

CL 土、下。
注:「土、下」とは不可解な語りであるが、現渋川市上郷の高台にある良珊寺につながる坂道から脇道に少し入ったところに、石造りの馬と灯籠状の馬頭観音が祀られている。銘文には享保15年(1730年)と刻んである。天明3年(1783年)より53年前に設置されているので年代に矛盾はないし、石灯籠状の馬頭観音はお堂でもあるが、床はないので掘るとすれば直接土を掘ることになり、「土、下」という語りにも矛盾はないことになる。なお、上郷地区には他に馬頭観音はないので、守護霊の言う馬頭観音は、この石灯籠状の馬頭観音だと特定できる。
なお、渋川市上郷に馬頭観音が祀られていることをネット検索はできない。


TH どのくらい掘ったらいいのでしょうね?

CL 土石流で埋まっているので・・・。
注:この語りは、私が、実際にタエの骨の発掘作業をしかねないことを牽制するためのはぐらかし、つまり、土石流云々は嘘ではなかろうかと疑った。しかし、その後、私の読者のご努力で、上郷の良珊寺付近には過去に土石流被害があったことが、渋川市ハザードマップの検討から確認できている。



TH ちょっと掘れない。でも、埋まっているのは間違いない?


CL はい。


TH 分かりました。それ以外に、もっと何とかなる方法で、おタエさんの存在を証明する何かがありませんか? たとえば、おタエさんを、村の人たちが供養のために何かしていませんでしょうか?


CL 何も残してはおりません。村は洪水で壊滅状態になりました。

TH おタエさんのことは、郷土史か何かの記録には残っていませんか? 語り継ぐ人はいませんでしたか?

CL たくさんの人が浅間山の噴火を記録しました。

TH それは分かっています。でも、おタエさんを記録した人はいませんでしょうか?

CL 女は、道具です。
注:「女は道具です」、このように言い放つ語りは、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のことばだと思われる。

TH 道具でしたか。それでは、おタエさんを育ててくれた名主の・・・?

CL クロカワキチエモン。
注:タエは「クロダキチエモン」と語っており、タエと守護霊の語るキチエモンの姓が食い違っている。タエを呼び出した再セッションで、タエは、キチエモンの所有する田の土が黒かったので「黒田のキチエモン」とも呼ばれ、キチエモンの所有していた船着き場周辺の吾妻川の石が黒かったので「黒川のキチエモン」とも呼ばれていた、と語っている。つまり、黒川のキチエモンは通称ということであろう。なぜ、守護霊もタエも、本名でなく通称でしか告げないのかは謎である。ちなみに当時の渋川村には4人の名主がおり、その一人に堀口吉右衛門が実在していることが調査の結果判明している。堀口家の当主は、初代から明治に至るまで「吉右衛門」を名乗っているので、先代吉右衛門と当代吉右衛門の区別のため、当代について「黒田の」「黒川の」という通称で呼ばれていたと推測できる。
なお、天明3年当時の渋川村の名主を知るためにネット検索はできない。

TH そのクロカワキチエモンと連れ合いのハツは名主でしたから、その記録は残っているでしょうか?

CL 残っています。

TH どこへ行けばわかりますか? 図書館へ行けば分かりますか? それとも?

CL ・・・資料はあります。
注:資料とは、天明3年当時の人別帳と寺の過去帳であろう。しかし、渋川市では「人別帳」は戦災で焼失している。残るは寺の「過去帳」であるが、差別戒名という同和問題との絡みで公開されることが拒まれている。当時実在した上郷の名主は堀口吉右衛門であり、吉右衛門とその妻ハツの墓は上郷良珊寺の墓地だと推測し、墓碑を二度まで捜索したが、古い墓石は表面が風化し苔むしており、戒名・俗名の判読は不可能であった。
 
TH そこにハツの記録も残っているでしょうか? 多くのみなし子を育てたことぐらいは残ってるでしょうか?
 
CL たくさんの文書は洪水で流され、田畑(でんばた)の帳簿、村の様子など書きしるしたものはほとんどありません。

TH 分かりました。そうすると、おタエさんの存在そのものの裏付けを取ることは、現在のわれわれには無理ですね。

CL はい。

TH ただ、馬頭観音のお堂の下に、おタエさんの左腕が、土石流の下に埋まっているのは間違いないですね。

CL はい。

TH なぜ、片腕が馬頭観音様の下に埋められることになったのですか?

CL 雷神様を乗せる馬を守るために、タエの左腕が供えられたのです。

TH それは切り落とされたわけですか? 刀によって?

CL そうです。

TH それにタエさんは耐えたわけですか。

CL そうです。

TH それはタエさんが望んで腕を差し出したわけですか?

CL 違います。馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました。
注:タエも馬も龍神・雷神の供え物として、浅間山噴火とやがて起こる吾妻川の泥流を鎮めるために川中に縛られ捧げられた。馬が暴れるので、それを鎮めるためにタエの左腕を埋納した事情については、「SAM催眠学序説その42」をお読みいただきたい。

TH 分かりました。もう一つ、あなたは偉大な存在者なので、私の探究が許されるなら、魂がおタエさんの後、里沙さんに生まれ変わるまでの間に、もし、生まれ変わりがあるとしたら、そこへ里沙さんをもう一度行かせることはいいでしょうか?

CL はい。

TH ありますか、やっぱり。

CL はい。

TH あなたならすべてお見通しなので聞きますが、里沙さんの魂は、今までどれくらい生まれ変わりを繰り返したのでしょうか? 回数、分かりますか?

CL 長く繰り返している。

TH 一番古くはどんな時代でしょう?

CL 天明、タエが初。
注:里沙さんの魂は、タエが最初の人生、次がネパール人ラタラジュー、そして現世となり、現世が3回目の生まれ変わりとなる。

TH もう一つ聞きます。その魂はいったいどこから生じるのでしょう?

CL 中間の世界。

TH そうすると、あらゆる魂はもともと一つのところから生まれてくるのですか?

CL 中間の粒子が魂に生まれ変わります。

TH 中間の世界で粒子が魂になる。

CL そうです。

TH 魂は永久に生まれ変わりを続けるわけでしょうか?

CL 粒子の色が消えると、生まれ変わりはなくなります。

TH その魂は、中間の世界に留まることができるのですか?

CL わたしの一部になります。

TH 分かりました。ありがとうございました。わざわざお呼び立てして、申し訳ありませんでした。でも、随分いろんな勉強になりました。

注:ここまでの守護霊憑依中の記憶は一切ない、と覚醒後里沙さんは語っている。里沙さんについては、守護霊憑依中の記憶は一切残らないことがその後の再セッションでの憑依実験から明らかになっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
守護霊とおぼしき存在については、ワイスを始めとする前世療法の報告や、「光」や不思議な姿をした「偉大な存在者」についての報告は、本来、科学的検討の俎上(そじよう)に載せられるものではありませんし、慎重な検討が必要な主題なので、今後も考察を深めることにしますが、ここで、里沙さんのケースでの「偉大な存在者」の語りに関して、いくつか注目すべき点を挙げておきます。

「偉大な存在者」の語りとしては、次のような項目がありました。

①浅間山の龍神信仰
②上郷の馬頭観音堂とタエの左腕の埋納
③村の吾妻川泥流被害状況
④名主クロカワキチエモンと妻ハツの記録の残存
⑤タエの記録の不在
⑥「馬の口取り」という説明
⑦タエの生まれ変わり回数

なお、このほか、「中間の世界の粒子が魂になり、生まれ変わりを続け、色が消えると生まれ変わりがなくなり、自分の一部となる」といった不思議な説明が語られています。

これらが里沙さん本人の記憶ないし情報収集から導き出せるかどうかは、ポリグラフ検査を実施して検証しました。
ポリグラフ検査の鑑定では、彼女が意図的に「偉大な存在者」の①から⑦の語り内容を収集した記憶はまったくない、という結果でした。
したがって、彼女が意図的に「守護霊」の役割演技をして語ったという疑いは晴らされたと言えます。

ここで注目したいのは、タエという「前世人格」と「偉大な存在者」との、情報の差異です。
このうち、龍神信仰、上郷馬頭観音堂、「口取り」という言葉は、タエも知っていると考えられるものです。
しかし、②の「馬頭観音堂へのタエの左腕の埋納」、③の「村が壊滅状態になったこと」、④の「名主と妻の記録は残存していること」、⑤「タエの記録の不在」、⑦の「タエの生まれ変わり回数」は、タエという人格から発し得る情報ではありません。

特に、タエの左腕が切り落とされたことは、タエ自身が語っていませんし、それが馬頭観音堂に埋納されたことは、死後の出来事でしょうから、タエは知るよしもありません。

③④⑤に関しては、一部不正確であったり、確定的な検証ができないものですが、タエの立場からこのような言い方ができるとは思えません。

⑦の「タエの生まれ変わり回数」については、「偉大な存在者」は「タエが初」と言い、タエ自身が「生まれ変わり?」と聞き直すなど、生まれ変わりを経験していないので生まれ変わりの意味が理解できない、つまりタエが初めての人生ように述べたという一致がありました。

そして、最後の不思議な説明に関しては、里沙さんからも、タエからもまず思いつかない性質のものだと言えるでしょう。
ちなみにこれに類似した考え方は、「スピリチュアリズム」という西洋近代の宗教思想にもあるようです。
しかし、聴き取り調査によっても、里沙さんがそのような本を読んでいるとは考えられません。

つまり、情報の内容においても、その情報が語られる視点あるいは位相といったものからも、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」は、タエとも里沙さんとも、かなりの大きな差異を見せているということは言えると思います。

もちろん、だからといって、このような存在者が実在するという証明にはなりません。
ただし、渋川市上郷の馬頭観音石堂の下を掘り、そこにタエの左腕らしい、10代半ばの女性の骨が発見できたとしたら、どうでしょうか。
それは、タエの実在と里沙さんへの生まれ変わりを濃厚に支持するものになるでしょうし、守護霊とおぼしき「偉大な存在者」の実在性の証明にも、可能性を開くものになるのかもしれません。


ここで語られた内容に関して、里沙さんはの次のように証言しています。

①浅間山については、活火山であることと、連合赤軍の浅間山荘事件以外知っていることはない。もちろん、見たこともない。火山について調べたことはない。

②天明の大噴火と火山雷や、それにともなう火砕流による吾妻川の泥流被害など全く知らない。

③群馬県に行ったことはない。ただし、絶縁状態で行き来の全くない親戚が桐生市にあると聞いている。渋川市はもちろん、渋川村など知らない。利根川の名前は知っているが、吾妻川は知らない。まして吾妻川が利根川の上流にあたることなど知っているわけがない。「吾妻」を「アガツマ」と読むことさえ知らなかった。

④過去に火山噴火などにまつわる人柱伝説や、悲話などの類の小説やテレビや映画を読んだり、見たり、聞いたりしたことはない。

⑤家にパソコンはあるが、インターネットの使い方を知らない。ただし、夫と息子は使える。誰かに依頼するなどして、タエの語り内容に関わる様々な情報を検索した事実はない。

なお、「インターネットが使えない」ということについては、里沙さんの息子にも、彼が電話に出たついでにそれとなく聞いて、母親がインターネットを使えないことを確認しています。

私は、さらに、セッションビデオを里沙さんに視聴してもらい、科学的研究のために本当のことを言ってほしい、と真剣に迫ってみましたが、逆に里沙さんに詰め寄られました。

なぜ、嘘をつかなければならないのか、嘘をつくことによって自分にどんな利得があるというのか、合理的な理由を教えてほしいと。

セッション記録ビデオを見て、自分自身でも全く知らないことを催眠中に語っているので、驚いているくらいなのに、嘘などついてるはずがないではないかと。

周囲からの聴き取り調査によっても、彼女が誠実な性格で、虚言癖などがないことを確認できました。
また、彼女の言うとおり、嘘をつくことによる利得は確かにありませんし、嘘をついていると疑わねばならない証拠が何一つ挙がっているわけでもありません。

これらの事実確認を踏まえて、できるだけ公正な視点から、この事例の解釈として、私が、彼女の守護霊の実在を認める立場をとる理由は、認めることによって「説明の成功」ができるからです。

目前で展開される意識現象を憑依だと認めることが、直感に著しく反していないからであり、憑依現象だと認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依現象が現行唯物論の枠組みからはどうにも説明が成功しないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。

この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。
また、「魂の自覚状態」に至ると、霊的存在の憑依とおぼしき意識現象が起こることもめずらしくありません。 

ラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、里沙さんの守護霊の語りを前にして、魂と生まれ変わりの実在や守護霊の実在可能性を回避するために、回りくどい心理学概念や精神医学概念を持ち出し、無理やり引き当て、霊的な意識諸現象に対してなんでもかんでも心理学的、精神医学的な解釈することは、現行唯物論科学の枠組みに固執するあまりのおよび腰的な、不自然な営みだ、と私には思われます。

そして、里沙さんに限らず、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。

唯物論を絶対視し、魂や生まれ変わりの実在、霊的存在を認めることを回避する立場で、すべて非科学的妄想だと切り捨てて、どうやって唯物論で前世人格ラタラジューの応答型真性異言現象の納得のいく説明ができますか?

どうやって唯物論によって、私と対話した里沙さんの守護霊の語り(里沙さん自身の全く知らない諸情報の語り)の納得できる説明ができますか?

私には、霊的存在の実在を認めることが、SAM前世療法で展開される憑依とおぼしき意識諸現象の解釈として「思考節減の原理」にもっともかなっていると思われます。

ただし、クライアントに起こる憑依現象すべてが、真正の憑依現象であるとは判断できません。
憑依霊が語った内容を検証にかけ、明らかにクライアントの知り得ない情報を語っていると検証できた場合でなければ、判断留保とするのが妥当でしょう。
そして、検証に足る情報が語られることは極めて少ないのも事実です。

ちなみに、超心理学上では「超ESP(万能に近い透視やテレパシー能力)仮説」があります。
そして、催眠中に超常的な能力が発現したという事例は、わずかながらあるようです。
とは言え、「超ESP」のような万能の超能力そのものは、立証されているわけではありません。

しかし、下に紹介するレナード婦人のような希有な実例が存在し、しかも、ESPの限界が不明なので、これを拡大解釈し、人間には未発見の万能の超能力が存在する可能性がある、という理屈上の仮説に過ぎず、実証はまったくありません。

グラディス・オズボーン・レナード婦人は、一度も行ったことのない家の中にある閉じた本に書かれた文章を何らかの方法で読み、その文章が何ページに出ているか(場合によっては、そのページのどのあたりにあるか) や、その書物が本棚のどのあたりに置かれているかを正確に言い当てる能力を持っていました。
E・M・シジウィックは、レナード婦人の書籍実験に関する厳密な分析をおこなった論文を発表しています。(イアン・スティーヴンソン、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』P500)

里沙さんが、レナード婦人を凌ぐような超ESPを発揮し、かなり広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、編集し、守護霊らしく装って語ったのだ、という解釈が成り立つでしょうか。

里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような超能力もないし、それを用いて意図的に情報収集をした記憶がないことはポリグラフ検査によって明らかです。

無意識のうちにやっているとすれば、いったい誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
また、無意識のうちにやっていることは証明できることでしょうか。

応答型真性異言は超ESPを用いたとしても、情報ではなく技能であるネパール語会話は取得できません。
したがって、「ラタラジューの事例」において、里沙さんが超ESPを用いることなしに、ラタラジューがネパール語会話をしている、つまり、自己内憑依現象を起こしていることは明白です。

そのすぐれた霊媒資質を備えている彼女が、守護霊の憑依ではなく、超ESPを用いて情報収集し、守護霊を偽装し語っている、と考えることのほうが不自然だと思います。

そもそも、広範囲に分散されたさまざまな断片的情報を、瞬時に入手し、それら情報を瞬時につなぎ合わせ、まとめ上げ、守護霊を偽装して語る、というような途方もない能力を発揮することが、人間に可能であるとは思われません。

実際、そのような万能の超能力(超ESP)を発揮した人間が、心霊研究(SPR)および超心理学研究のこれまで100年余の研究史上発見された事実は皆無です。

彼女が、私やセッション見学者たちを驚かせるために、無意識のうちに超ESPを駆使して情報を集め、守護霊を偽装して語ったのだ、という見方と、守護霊が実在し彼女に憑依して語っているのだ、という見方と、どちらがより検証結果を踏まえた直感に反せず、より思考節減の原理に沿った自然な解釈であるかは、すでに明白であるように私には思われます。


2015年12月1日火曜日

SAM催眠学序説 その78

生まれ変わりを否定する諸仮説の検討


生まれ変わりを科学的事実として認めることは、個人の人生観・世界観は言うに及ばず、宗教や科学をはじめとして、人間の営み全体の諸領域にきわめて広汎かつ深甚な影響を及ぼすことになります。

そのため、唯物論による世界観に安定・安住してきた多くの人々を根底から揺るがすことになり、それら唯物論陣営のさまざまな反論、ときには感情的な反感による罵倒すら受けることになります。

それほどの甚大な衝撃を及ぼす重大事ですから、否定する諸仮説が持ち出されることは当然のことでしょう。

それでは、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の事実を否定する諸仮説を冷静に慎重に検討し、一つ一つ論破してみたいと思います。

こうして、最後に残った仮説が生まれ変わり仮説であるなら、それが唯物論に真っ向から対立することになっても、謙虚に認めるべきでしょう。
しかしながら、ガチガチの唯物論者は断固として認めようとはしません。
反証を挙げて反論できないと分かると、唯物論にとって不都合な事例はなかったことにするという無視の態度を取って認知的不協和を処理することが常のようです。

 

(1)意図的作話仮説


この仮説は、里沙さんの証言をすべて否定するうえに成り立つ仮説です。
里沙さんは、前もって入念に諸資料を読み、その情報に基づいて「タエの物語」、「ラタラジューの物語」を練り上げ作話し、セッション中には催眠に入ったふりをしてその物語を語り、しかもそのすべてをなぜか隠しているという解釈です。

里沙さんの人間性そのものを否定することになるので、私としてはくみしえないものですが、これも生まれ変わりの否定仮説として一応考えておかなければなりません。
通常の手段でどれだけの情報が収集できるかという検証にもなるからです。

「タエの事例」において、この仮説には、有利になる背景があります。
それは、2003年に出版された、立松和平の小説『浅間』の存在です。
この小説は、「ゆい」という娘が主人公で、天明3年8月5日の浅間山大噴火による鎌原火砕流と、それによって全滅した鎌原村が舞台として登場しています。
「おカイコ様」という呼び方も出てきます。
この小説はラジオドラマ化され、舞台公演もされています。 
もし、里沙さんがこの小説『浅間』を知っているとすれば、架空の人物タエの物語は、さほど困難ではないと思われます。
私はこの点を彼女に詳細に尋ね、読んだことも、聞いたことも、見たことも一切ないという証言を得ていますが、意図的作話仮説に立てば、それは虚偽の証言ということになります。

しかし、小説『浅間』だけでは、これらの内容を作話として組み立てることは不可能です。「安永九年のとき13歳、三年後の天明3年のとき16歳」、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」などの情報はこの小説からは引き出せません。

特に、年号の問題はきわめて重要です。安永という年号は、中・高の歴史の教科書には出てきません。
ちなみに、当時私の同僚の中学校社会科教師6人に、「安永」を知っているかを尋ねてみましたが、全員が知りませんでした。まして、安永が9年で終わり天明へと改元されていることを知る一般人は、まずいないでしょう。
「安永9年のとき13歳」で、「天明3年のとき16歳」ということを、瞬時のためらいもなく言えるということは、容易にできるものではありません。

したがって、これだけのタエの物語が作られるためには、加えて、インターネットの検索能力が必須とされるはずです。
しかしながら、インターネットでもこれらの事項を検索することは、かなりの時間と知識が必要です。しかも、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」といった情報は、インターネットからは入手できません。
これらは、『渋川市史』を読むなり、現地を訪れるなりしないと、得られない情報です。
龍神信仰のことは当てずっぽうで言えるかもしれませんが、馬頭観音のこと、そして特に「ばと様」という特殊な呼び方は、現地でしか得られない情報だと思われます。

さらに、「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・」という語りで検証したように、当時上流の村であった川島村の被害まで入念に調査して作話することは、まず考えられません。
また、このような入念な情報収集をして作話し、しかもそれを意図的に隠すという必然性が彼女にはありません。
そもそも彼女は、自分の病気(脊柱側湾症)の理由を知り、現世の生き方の指針を得るために、前世療法を希望したのです。
それも何らかの詐欺行為だとすることが考えられるでしょうか。
見学に同席した研究者たちの期待に応えようとした、という見方も、そういった条件がなかった第一回セッションで、既にタエの記憶が断片的にであれ出ているのですから、不自然です。

加えて、私の催眠療法体験から見て、里沙さんが催眠に入ったふりをしていたとか、少女タエを演技をしていた、とはどうしても考えられません。
5名の信頼度の高い研究者が見学していますし、証拠として彼女の表情を克明に写したビデオが残っていますから、間違いなく、催眠性トランスに入っていたと断言できます。

さらに、用意されていたいかに巧みな作話であったとしても、私が、偉大な存在者の憑依実験をすることまでは、予想できなかったはずです。
雷神に供える馬を鎮めるために、タエの左腕が切り落とされ、上郷の馬頭観音下に埋められているという語りをはじめとする、偉大な存在者(守護霊)の語りを、その場で瞬時に作話できた、とするには無理があるように思われます。

さらにまた、里沙さんが入念な事前調査をして人を欺く意図があったのなら、決定的な証拠である「堀口吉右衛門」という名前を、なぜクロカワキチエモンと言ったのか説明できません。
私が入手できたように、天明3年当時の渋川村の名主が、「堀口吉右衛門」であることは、作話する過程で、彼女にも入手可能だと思われます。
それをわざわざ、史実と食い違うようにしなければならないのか、納得できる理由が見当たらないのです。
そして、作り話などしていない、という里沙さんの証言を、嘘だと疑わねばならない証拠が、何一つ挙がっているわけではありません。
加えて、彼女が、事前にタエの物語に関わる諸情報を意図的に収集していたことは、ポリグラフ検査によって否定されています。

「ラタラジューの事例」で語られた諸情報の入手についても、まったく同様です。


以上のように、意図的作話仮説にはほとんど可能性を見出す余地がありません。

(2)潜在記憶仮説


 「潜在記憶」とは、通常の自覚としては忘れてしまっており、全く記憶に出てこないのですが、実は潜在意識に蓄えられている記憶のことを言います。
したがって、潜在記憶仮説で、タエの語りの内容を解釈すれば、次のようになるでしょう。

里沙さんの証言は、彼女の自覚としてはそのとおりだが、記憶を忘れ去っているだけで、実は潜在記憶として、情報の貯蔵庫に蓄えられていたはずだ。
潜在意識が、情報の貯蔵庫に蓄えていた様々な情報を巧みにつなぎ合わせ、加工・編集して架空のタエの前世物語、ラタラジューの物語を作りあげ、フィクションとして語ったものだ、という説明になります。

確かに、催眠状態にあるクライアントには「要求特性」と呼ぶ、セラピストの指示に従順に従おうとし、期待に応じようとする傾向が知られてます。
したがって、過去に得てきた情報を総動員して、架空の人格を作り上げ、それを自分の前世だと語る可能性が絶対ないとは言えません。

しかし、タエの語った検証一致率84%の事実を潜在記憶仮説ですべてを説明するのは、まず不可能のように思われます。
それは、前述したように、通常の手段による意図的情報収集でも、あれだけの内容は容易に取得できないと思われるからです。
まして、偶然の経緯で、しかもインターネットなどの手段を使わず、それらを知ることは、ほぼありえないと断言できるでしょう。
また、小説『浅間』は、出版から二年しか経っていませんので、それを読んでいて忘れるということも、まず考えられません。
また、潜在記憶仮説では作為は否定されますので、「噴火」という言葉を知らないような態度を取ったことも、説明できません。

「ラタラジューの事例」 についても、里沙さんにはネパール人との接触がまったくないという生育歴と身辺調査から、潜在記憶として蓄積しようにもその記憶の入手先がないことがほぼ確実です。

これらのことから、潜在記憶仮説も、その可能性は棄却できるでしょう。
それでも、生まれ変わりなどあろうはずがないから、きっと「どこか」で潜在記憶として入手しているに違いない、というような根拠不明な主張は科学的仮説として認めることができません。

 

(3)遺伝子記憶仮説


前世記憶とおぼしき記憶に関して、「遺伝子の中に記憶が保存されるのではないか」という仮説も成り立ちます。
しかし、タエとラタラジューのケースではそれは絶対ありえません。
タエが実在したとすれば、彼女は16歳で人柱になったことになります。
彼女に子どもがいて、それが里沙さんの祖先であったということは考えられません。
16歳の若い母親を人柱にするということは、人間の心情としても、龍神という神様への「お供え」という意味からしても、ありえないからです。
また、人柱になる前に白い花嫁衣装を着てごちそうを食べたことをうれしそうに語っているのは、子を持った女性の心情とは到底思えません。
ただしタエは、セッション後のフラッシュバックでキチエモンの子を宿していたことを打ち明けています。
しかし、タエは溺死していますから、その血脈はその時点で断絶していることになります。

ラタラジューについても、里沙さんにネパール人の血が入っているかどうかを確認しましたが、さかのぼり得る限りにおいて両親双方にネパール人の祖先はいないことが明らかでした。

そして、そもそも、遺伝子にこれだけの詳細な事柄が記憶されるという科学的実証はありません。

したがって遺伝子記憶仮説は、棄却できるでしょう。

(4)透視などの超常能力(超ESP)仮説


里沙さんが、通常の方法によらず、超常能力、つまり透視やテレパシーなどによる方法でタエに関する情報をことごとく入手し、それをあたかも前世の記憶として語ったとする仮説です。

里沙さんが、テレパシーによって、同席者の心を読み取り、それらをもとに前世記憶を作話した可能性はあるでしょうか。
5名の見学者のうち、火山雷の知識のある者1名、ネパール旅行経験者1名、吾妻川を知っている者1名がいました。

私は「おカイコ様」という呼び方および、天明3年の浅間山大噴火と吾妻川の泥流被害のおおよそを知っています。
天明3年8月4日・5日の大噴火と火砕流、渋川村上郷という地名、安永という年号などの細かな情報は、私を含め同席6名の者は持っていませんでした。
したがって、この解釈には無理があります。

では極めて強力な万能に近い透視能力で、これらの情報を入手したという可能性はあるでしょうか。
突飛にみえる仮説ですが、超心理学上の「超ESP仮説」として知られている仮説です。
浅間山噴火に関する情報や、当時の渋川村の歴史的状況については、私が調べられたように、ある程度は文字記録となって残っています。
それらを私同様に入手し、前世の記録として語ったと考えることは、一つの仮説としては成り立つでしょう。
タエに関する情報は文字記録にないようですから、その部分は作話ということになります。

この「超ESP仮説」を完全に棄却するのは、「タエの事例」では不可能かも知れません。
「ばと様」という極めて特殊な表現は、透視で入手することは不可能だと思われますが、それさえも、「どこかにあるはずだ」、あるいは「現在その土地に住んでいる人の心を読んだのだ」という途方もない拡大解釈が際限なくされれば、どこまでも決着はつけられなくなります。
したがって、ここでは、反論を述べるに留めることにします。

まず、前世療法のセッション以前に、里沙さんが超常能力を発揮したことは、本人・周囲とも一度もないと証言しています。
にもかかわらず、催眠中に突如として超常能力が働き、それがほとんど万能に近いものであると説明するのは無理があるように思われます。

催眠時に超常的な能力が発現するという事例は、わずかながらあるようですが、かなり広範囲に分散された様々な断片的情報を瞬時に入手し、齟齬(そご)のないようにつなぎ合わせ、まとめ上げ、里沙さんが同一視しているタエと緊密に一致する人格を構築するのは、不可能なわざとしか思えません。
里沙さんの証言を信用する限り、当人にはそのような能力もないし、そのようなことをしたという記憶もないわけですから、一体誰が(あるいは何が)それをおこなっているのでしょうか。
「無意識」がやっているという解釈も出るでしょうが、それは証明できることなのでしょうか。

また、里沙さんは、なぜよりによって、見たことも聞いたこともないタエと自分を同一視しなければならないのか、説得力のある説明ができそうにありません。
彼女が、私や見学者を驚かせるために、縁もゆかりもない架空の人物を超常能力を駆使して作話したとする見方と、素直に「前世記憶」を甦(よみがえ)らせただけだとする見方と、どちらが自然かは明白なように思われます。

さらに、超常能力を駆使できたとすれば、名主堀口吉右衛門の存在を知り得たはずなのに、なぜそれをクロダキチエモンと言わねばならなかったのか説明がつきません。

以上を考え合わせると、超常能力(超ESP)仮説は、生まれ変わり仮説を否定するために、十分な裏付けもなく強引に作り上げられた空論のように思われます。
人間にESP(透視やテレパシー) の能力があることは証明されています。
しかし、その限界が分かっていません。
限界が分かっていないので、万能に近いESP能力者が存在する可能性があるのではないかという理屈が成り立つということであって、そもそもこの仮説自体は証明されているわけではないのです。

私には、生まれ変わり仮説より、さらに突飛で奇怪な説得力のないものに思われます。、

ちなみに、ラタラジューのネパール語による会話技能は、超ESP能力によっても取得できないとされています。
技能は情報ではなく、練習を必要とするものであり、いかなる情報も取得できるとする超ESPによっても、練習が不可欠である技能までも取得することはできません。
超能力によって技能を取得した事例はないのです。

(5)憑依(憑霊)仮説


「生まれ変わり仮説」は、霊魂仮説を認めない限り成立しませんが、霊魂仮説を受け入れた場合、タエに関してもう一つの仮説による解釈が成り立ちます。

それは、第三者であるタエの「霊」が、催眠中の里沙さんに「憑依」(憑霊)したという仮説です。
突飛にみえる仮説ですが、世界中にはそれらしい事例がないわけではありません。
里沙さんも周囲も、過去に「憑依」様の体験は皆無だと証言していますが、催眠下でそれが偶発的に起こらないという保証はありません。

前世人格か憑依霊かという問題は、生まれ変わり仮説を暫定的に採用した研究者でも、迷うところの多いもののようです。

生まれ変わり仮説も霊魂仮説も、その科学的研究はまだ確固とした体系を持っていませんので、この問題に関しても、詳細な先行研究はないように思われます。

あくまで試験的な仮説ですが、私は、「同一性の感覚」の有無と「憑依状態の記憶」の有無が、前世人格と憑依霊とを識別できる有力な指標になるのではないかという仮説を立てています。

セッション後の感想で、里沙さんは、前世のタエと現世の自分とが同一の魂であることを実感している、と述べています。
 第三者の憑依霊に対して、自分との同一性の感覚が生まれるはずがないでしょう。

また、「偉大な存在者(守護霊)」が直接語った場面に関して、催眠覚醒後に全く記憶がないと述べています。
このような構造は、他のケースにも見られるものです。
なお、宗教学のシャーマニズム研究でも、「憑霊」とおぼしき事態の場合、その間の当人の記憶がないことが多いと報告されています。



こうして、少なくとも、里沙さんにおいては、前世人格と憑依霊を識別するこの二つの指標が当てはまります。


このように想定すると、「偉大な存在者」とは何かという問題が残りますが、「前世人格」と「憑依霊」との間には、一応の線引きができるのではないかと考えています。

そして、「タエの事例」は、「憑霊」よりは「前世人格」である可能性が明らかに高いように判断できると思います。


「ラタラジューの事例」においても同様の解釈ができます。

(6) トリック(ヤラセ)仮説


疑いをかけられる当事者私と里沙さんには論外の仮説です。

しかし、可能性として、私と里沙さん、あるいはセッション見学者も含めて、事前に打ち合わせの相談のうえ、台本によるインチキセッションを企てたという仮説も考えておく必要があるでしょう。

とりわけ、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」が、娯楽番組である「アンビリバボー」で取り上げられたので、視聴率稼ぎのヤラセの疑いをかけた人がいたようです。

しかし、この仮説が成り立つためには、you-tubeに公開してあるセッション記録映像に基づいて、どの場面の、誰の、どういう台詞が、不自然でヤラセの可能性がある、という具体的指摘をしなければなりません。

生まれ変わりなどあるはずがないから、トリックがあるに決まっている、という主張は、具体的根拠不明な思い込みによる言いがかりとして判断するしかありません。


以上、およそ提出されそうな生まれ変わり否定の仮説を取り上げ、検討を加えてみました。
まだまだこんな仮説もあるぞ、という方はどうぞコメントをお願いします。

2015年11月20日金曜日

SAM催眠学序説 その77

ネパール語を学んでいないことの検証と考察

里沙さんが、仮に現代ネパール語を何らかの手段で学んでいたとしても、「ath satori(8と70)」という一昔前の年齢表示のしかたを知ること、および一昔前のネパール語の妻「swasni」を知ることが、まずありえないことは前記事「その76」で述べたとおりです。


それでは、ほかのネパール語会話についてはどうでしょうか。

 

通常の方法で学んでいないことの検証と考察 


ラタラジューのネパール語会話が「応答型異言」であることはすでに前記事「その76」で検証してきました。

問題は「真性」異言であるかどうかです。
つまり、里沙さんが通常の方法でネパール語を学んだ可能性の有無についての検証を徹底的にすることです。

この検証は同時に、「意図的作話仮説」「潜在記憶仮説」の検証も意味します。
つまり、里沙さんが意図的にせよ無意識的にせよネパール語を学んでおり、それを何故か隠してあるいは、潜在記憶として話した、という仮説が成り立つかどうかの検証でもあるわけです。

(1)里沙さん証言の裏付け調査


まず最初に疑われるのは、里沙さんが生育歴のどこかでネパール人と接触し、そこでネパール語を無意識的、あるいは意図的に学んでいたのではないかということです。
そこで、まず里沙さんに、生育歴についての綿密な聴き取り調査をし、その裏付け調査を彼女の友人・家族等に可能な限りおこないました。
その結果は次のようでした。

 

① 結婚するまでの生育歴調査


昭和33年、A市近郊田園の広がるB町の自営業両親の二人姉弟の長女として生まれました。
幼稚園・小中学校ともに1学年2クラスの地元のB町小規模学校へ通学しています。高校も地元の公立高校、大学はA市の4年制私立大学家政学部へ入学し、実家から通学、栄養士の資格を取得。

大学卒業後、初めて実家を離れ、公立僻地(へきち)中学校の学校給食栄養士として就職、勤務先教員住宅で自炊生活を経験します。
就職2年後、24歳で結婚のため退職。
A市駅前の食品小売り業の長男の家に嫁ぎ、舅・姑と同居生活を送りました。

B町の小中学校はそれぞれ1校しかなく、1学年2クラスの級友は9年間固定したまま義務教育を終えています。
この小中学校までの生育歴で、里沙さんは、ネパール人を含めて外国人との接触の記憶は一切ないと証言していますし、友人への聴き取り調査でもその裏付けはとれています。
ネパール語を学ぶ機会のありそうな高校・大学時代でも、学校事務局へ確認したところネパール国籍の学生の在籍した事実はなく、本人もネパール人との交遊関係は一切ないと証言しています。

また、昭和40年から50年代当時の在日ネパール人状況からしても、ネパール人が、大都市以外の地方都市近郊のB町に在住することはまず考えられない状況で、仮に里沙さんの幼・小・中・高時代にネパール人の知人・友人があり、しかも、ネパール語会話が身に付く程に親しく交際していれば、その事実を友人・家族等に隠し通すことはまず不可能だと思われます。

② 結婚後の生活歴調査


婚家は、A市の商店街にある非常に多忙な食品小売り業であり、その切り盛りをしながら、早朝から夜遅くまで家業と家事と二人の息子を育てるという、個人的時間のほとんどない生活をしたということです。

二人の息子が成人した頃には姑が体調不良となり、その介抱と、自身の脊柱側湾症の悪化による痛みとその治療に苦しむ生活で、やはり時間的ゆとりは持てない生活が続きました。
2時間以上の外出は姑の手前遠慮し、それ以下の時間で友人との語らいや買い物でも、必ず行き先を告げるのが結婚以来の決まりだったそうです。

やがて、家業を続けることが困難になり店を閉めた後、10年前に私立大学関係事務の午後3時間のパートタイムの職を得、現在に至っているとのことでした。

この生活歴の中で、私立大学関係の3時間の仕事中に、ネパール人との接触の可能性があると見て、この大学事務局に問い合わせましたが、開学以来ネパール国籍の学生の在籍はないとの回答でした。

なお、里沙さんの在住している駅前商店街周辺にはアパートはなく、それ以外にも近辺に在住するネパール人がいないことを確認しました。
里沙さんには、夫が外国人嫌いという事情もあり、新婚旅行でパリに出掛けたこと以外、渡航歴は一切ありませんでした。
また、ネパール語を話せる知人・友人・親戚も皆無でした。

ちなみに、里沙さんの住むA市は、人口42万人の地方都市です。
市役所に出向き、ラタラジュー人格の顕現化した初回セッションの2005年から、ラタラジューのネパール語応答型異言が確認できた第二回セッションの2009年までの5年間に、在住していた毎年のネパール人人口を調査しました。

その結果、最多の年で33人、最少の年は25人であり、A市総人口に占める平均割合は0.007%でした。
この期間中に里沙さんがA市内でネパール人と出会い、ラタラジュー程度のネパール語会話技能を習得する機会はまずありえないと推測できます。

③ ネパール人らしき者と接触した唯一の記憶


里沙さんの証言によれば、市内のインドカレー料理店に息子と三度食事に行った折りに、その店のコックとウェイターが外国語で会話しており、その人たちがインド人かネパール人かも知れない、というのが、唯一ネパール人らしき人と接触した記憶でした。

私はその料理店の住所を教えてもらい、平日の店の空いている時刻をねらって裏付け調査に出向きました。
店には二人のネパール人ウェイターと一人のインド人コックが働いていました。
ウェイターの一人であるライ・ルドラさんに調査の事情を説明し、協力をお願いしました。

ライさんは37歳、カトマンズ東方の東ダランの出身で、ネパールに妻子を残して出稼ぎに来ていると話してくれました。 

ライさんの証言によれば、客を前にしてウェイターどうしがネパール語で会話することは控えており、カウンター越しに厨房(ちゆうぼう)に向けてヒンズー語でインド人コックと話すことはあるということでした。
また、日本人にネパール語を教えたことはないとのことでした。
もちろん、里沙さんが客として来た記憶はまったくありませんでした。

ライさんとの話の中で思わぬ収穫がありました。
彼はカトマンズ周辺の地理に詳しいというので、ナル村を知っているかと尋ねたところ、知らないと答えました。
そこで、カトマンズ周辺の村ではヒルが生息しているかを尋ねると、カトマンズ盆地は、もともと湖底であったことから沼地が多く、ヒルがたくさんいる、と教えてくれました。
この証言は、初回セッションで、ラタラジューが語った「沼地・・・虫、虫・・・ヒル」という言葉に符合すると思われました。

(2) 里沙さん夫妻の証言書


里沙さんへの聞き取り調査をし、証言内容の裏付け調査をおこなった結果、彼女が意図的にせよ無意識的にせよ、ネパール語を学んだことを疑わせる形跡は、何一つ浮上しませんでした。

ラタラジュー程度のネパール語会話能力を身に付けるためには、ラタラジューの会話を分析した中部大学研究員のカナル・キソル・チャンドラ博士の言うように、相当の学習時間を要することは明らかで、彼女の生育歴にも結婚生活の中にも、そのような学習時間が費やされた形跡はまったくありませんでした。
そもそも、ネパールにく興味がないと断言する里沙さんには、ネパール語を学ぶ動機もなく、車または公共交通機関を用いて往復2時間圏内には、ネパール語の学習施設もありません。

そうした検証結果が出たところで、「ラタラジューの事例」を研究チームとして学会発表、出版することに承諾をいただき、そのための証拠資料として学会等の研究発表の際に公開することを了解のうえ、次のような証言書にご夫婦で署名・押印してもらいました。

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ネパール人ラタラジュー人格が初めて出現した2005年6月の前世療法セッションのおこなわれた以前にも以後にも、私はネパール語を意識の上では全く知りませんでした。

また、ネパール語の勉強をしたこともありませんし、理解したり会話したりすることも全くできなかったことをここに証言します。

2005年6月の初回セッションから、2009年5月の真性異言実験セッションの間に、学校であれそれ以外のどこであれ、ネパール語を勉強したり、誰かにネパール語で話しかけられたりすることも、目の前でネパール語で会話されているのを見たり聞いたりしたことも全くありません。

私はインターネットが使えませんし、誰かに頼んでインターネットでネパールについて情報を調べたこともありません。
また、ネパールへ旅行したこともありません。
それは、ラタラジュー人格が初めて出現した初回セッション以前も以後も同様です。

現在も結婚前も、私の住んでいる地区・職場・親戚、学校時代の友人、現在の友人など、私の生活してきた環境にネパールの人は一人もおりません。

私が唯一ネパール語かも知れない言葉を耳にしたのは、息子たちと食事に行ったインドカレー料理店で、店員の異国の方が何か一言二言厨房に向かって短く異国語で話しているのを一度聞いたことがあることだけです。
ただし、この方がどこの国の人で、言葉が何語であるかは全く分かりませんでした。

以上の内容に間違いがないことをここに証言します。
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こうして、私のできる範囲で考えられる限りの検証はすべて終了しました。

(3) ポリグラフ検査の実施と結果についての鑑定

 

① ポリグラフ検査実施までの経緯


ポリグラフ検査は、一般に「嘘発見機」と呼ばれているものです。

人は記憶にあることを聞かれたとき、無意識に身体が反応してしまう、その微少な生理反応の変化を身体各部にセットした精密な測定機器によって記録し、その記録を分析・解読することによって、嘘を見抜くという原理です。
具体的には、検査者の質問に回答するときの呼吸・脈拍・血圧・発汗などの微少な変化を調べることになります。
ポリグラフ検査による鑑定で、里沙さんがネパール語を学んでいた記憶はない、という結果が出れば、科学機器を用いた有力な検証結果として説得力を持つだろうと考えたのです。 

しかし、里沙さんとご主人への説得は難航しました。
証言書まで書かせておきながら、その上にポリグラフ検査とはいかにも疑り深過ぎると思われるのは至極当然の心情です。
結局、生まれ変わりの科学的研究への貢献のためにという粘り強い説得によって了解を取り付けることができました。

ポリグラフ検査で決定的に重要なことは、測定記録データを精査・解読でき、正確な鑑定眼を持つ検査者に依頼することです。
そうした権威ある検査者が、事情を知ったうえで快く引き受けていただけるかが気がかりでした。

引き受けていただけたのは、日本法医学鑑定センターの荒砂正名氏です。
荒砂氏は、和歌山毒物カレー事件の容疑者のポリグラフ鑑定をおこなった前大阪府警科学捜査研究所長で、36年間に8000人を超える鑑定経験を持つポリグラフ検査の専門家です。 
そして、「ラタラジューの事例」のセッションから二か月後、2009年8月6日に里沙さんの自宅において、2時間40分にわたるポリグラフ検査が実施されました。

② ポリグラフ検査の内容


ポリグラフ検査の対象は5件の事項でした。そのうち2件は「タエの事例」についての情報入手経緯・時期の記憶に関すること、2件はネパール語の知識に関するもの、残り1件はネパールの通貨単位ルピーに関するものです。 
その検査内容の概要を手元にある荒砂鑑定書から拾い出して紹介します。 

鑑定事項1 「タエの事例」に関する情報入手経緯は下のどれか?
 ラジオ・テレビ等の番組を通じて。インターネットなどで。新聞記事・パン フレット類で。本・雑誌類で。人から聞いたり教わることで。

鑑定事項2 「タエの事例」に関する情報入手時期は下のいずれか?
保育園・小学校の頃。中学生の頃。高校生の頃。女子大生のころ。独身で働いていた頃。結婚して以降。

鑑定事項3 「隣人」を意味するネパール語は下の何れか?(該当はchimeki)
tetangga(テタンガ) chimeki(チメキ) vecino(ヴェシーノ) jirani(ジラニ)  najbaro(ナイバロ)

鑑定事項4  息子を意味するネパール語は下の何れか?(該当はchora)
chora(チョラ)  filo(フィロー)    hijo(イーホ)   nmana(ムワナ) anak lelaki(アナク レラキ)

鑑定事項5  ネパールの通貨単位は下の何れか?(該当はルピー)
レク ルピー   クワンザ   ダラシ    プント

上記の1から5の鑑定事項の質問に対して示された一つ一つの回答について、被験者は該当する記憶があっても、「いいえ」「分かりません」とすべてについて否定して答えることがルールです。

このルールに従って一つの回答につき十数秒間隔で質問し、このときの生理的諸反応を記録します。
一系列の質問が終わると2分休憩し、その間に内観報告(内省報告)をします。
同様の質問をランダムに3回程度繰り返します。

被鑑定者は、肯定に該当する回答に対して毎回否定しなければならず、つまり、毎回嘘をつくわけで、そのときの特異な生理的諸反応が精密に記録されるという仕組みになっています。 

ネパール語の鑑定事項3・4に関しては、次のような慎重な配慮のもとに単語が選ばれています。

本検査前に、セッション中に使用されたネパール語12単語を抽出し、その記憶の有無を事前検査して、覚えていた単語は本検査の回答からはずすという慎重な手続きをとってあります。

里沙さんが、セッション中に使用されていたネパール単語で本検査前にも記憶していた単語は、九つありました。
これらの単語を除き、セッション中に使用されたにもかかわらず、彼女が覚えていないと答えているネパール単語3語のうち2語、chimekiとchoraが鑑定用単語に選ばれています。
なお、鑑定事項5「ルピー」という単語は、セッション中には使われていない単語です。

③ ポリグラフ検査の鑑定結果と考察


次は鑑定結果の原文です。

 鑑定事項1「たえの事例」に関する情報入手経緯については「本・雑誌類で」で明確な特異反応(顕著な皮膚電気反応)を認めたが、内観には考慮すべき妥当性があり、前世療法を受ける以前の認識(記憶)に基づくものか否かの判断はできない。

考慮すべき妥当性ある内観とは「先生(稲垣)からこんな本読んだことはないかと尋ねられる度に本屋に走り本を読んだりした。

こうした経緯があり、前世療法を受けて以後のことながら、一回目の質問時から引っかかりを感じた」という内観報告である。

したがって、特異反応はこうした内観に矛盾しないものである。

鑑定事項2「タエの事例」に関する情報入手時期については何れにも特異反応を認めず。
特記すべき内観なし。
これらに対する認識(記憶)は全くないものと考えられる。

鑑定事項3「隣人」を意味するネパール語について、chimeki(チメキ)には特異反応を認めず。特記すべき内観なし。
これが該当事実であるとの認識(記憶)は全くないものと考えられる。

鑑定事項4「息子」を意味するネパール語について、 chora(チョラ)には特異反応を認めず。特記すべき内観なし。
これが該当事実であるとの認識(記憶)は全くないものと考えられる。

鑑定事項5 「ルピー」には注目すべき特異反応を認めず。
これが該当事実であるとの認識(記憶)は全くないものと考えられる。

さて、上記の鑑定内容にさらに説明を加えると、次のようなことになります。

 「タエの事例」に関する情報については、その情報を入手した時期の記憶はない。
つまり、情報を事前に調べた記憶はいない。
しかし、本・雑誌から入手した記憶はあるという一見矛盾した鑑定結果が出たということです。
ただし、この情報源である本・雑誌を読んだのは、「タエの事例」以後の記憶であることの妥当性を持つ根拠があるので、セッション以前に本・雑誌から情報を入手していたと判断はできないということです。
もし、鑑定事項2の回答の中に「セッション以降」という回答が設定してあれば、おそらく里沙さんはこれに特異反応を示したはずで、そうなれば、セッション以前にタエに関する情報を入手した記憶はない、との鑑定結果が出るに違いないと思われます。 

 3語のネパール語に関する認識(記憶)は全くないものと考えられる、という鑑定結果から、少なくとも里沙さんが、意図的にネパール語を学んでいた可能性はないと判断できます。
特に、ネパール語を学んでいて通貨単位のルピーを知らないはずはないでしょう。

したがって、意図的作話仮説は既に説得力を失いました。

しかしながら、検査に使われた単語のchora(チョラ・息子)も chimeki(チメキ・隣人)も、セッション中にカルパナさんが用いた単語で、記憶していた九つの単語同様、里沙さんがこれら2語も記憶していてもいいはずの単語です。
にもかかわらず、里沙さんは全く特異反応を示さなかった、つまり、知っているという反応が全く出なかったという結果は何を意味しているのでしょうか。 

考えられる可能性は三つあります。
一つ目は、chora もchimekも、顕在意識・潜在意識の両方ともに、初めから完全に記憶に留めていないと解釈することです。

二つ目は、催眠中の潜在意識下で里沙さんが知った単語なので12のうち二つの単語は潜在記憶となって抑制されており、顕在意識としては知らないものとして処理され反応しなかった、と解釈することです。

もう一つの解釈は、ラタラジューは里沙さん自身ではない前世の別人格であるので、カルパナさんの用いた単語の記憶すべてがそのまま里沙さんの記憶とはならず、里沙さんは知っているという反応を示すことがなかった、と考えることです。 

いずれにせよ以上のポリグラフ検査鑑定結果によって明らかになったことは、ポリグラフ検査で判断できるのは、あくまで顕在意識としての記憶の有無であり、潜在記憶の有無は判断できないという事実です。
このことは、意図的作話仮説の検証にポリグラフ検査の有効性を認めることはできても、潜在記憶仮説の検証には有効性がないだろうということです。  

しかしながら、里沙さんがネパール語を人生のどこかで無意識的に学んでいるにもかかわらず、その記憶を忘却しているだけだ、とする潜在記憶仮説で説明することにきわめて無理があることは、これまでの検証結果から明白です。
潜在記憶の元となるネパール語の情報に一切接触がないことが検証されたからです。
したがって、潜在記憶仮説も棄却できると判断しました。

いや、それでもどこかでネパール語を学んでいるはずだ、調査に見落としがあるはずだ、という主張をなさるのであれば、里沙さんに生育歴の再調査の許可を取り付けますから、ご自分で得心のできるまで再調査を実施することができます。
「ラタラジューの事例」は、反証可能性に開かれています。

生まれ変わりなどあってたまるか、どこで学んだかの特定はできないがきっと学んでいるに違いないという主張であれば、非科学的な言いがかり以外の何ものでもなく、そういう人は「縁無き衆生」であって私はお相手することができません。

こうして、私は、「ラタラジューの事例」を応答型真性異言として認めるることが出来ると結論するに至りました。

したがって、里沙さんは生まれ変わりを確かにしている、と断定してよいと判断しています。



里沙さんが、ネパール語にまったく無縁であることの執拗な検証に、惜しみない協力をしていただいたご本人はじめご家族には、こころよりあつくお礼申しあげます。

いかに貴重なセッション証拠映像が撮れたとしても、ただそれだけでは生まれ変わりの実証にはなりえません。
証拠映像で語られた内容の事実が、科学的な検証に耐えてこそ、生まれ変わりの科学的証拠として多くの人に納得と共感を呼び起こす力を持ちうるからです。

そして、正確な科学的検証には、里沙さんの生育歴など個人情報の開示が不可欠です。
生まれ変わりの科学的研究のために、それを承知したところで当事者里沙さんには何の利得もありません。
生まれ変わりの生き証人として奇異の目で見られることはまだしも、仕組まれたヤラセの疑いや、心ない中傷を被ることが実際起きています。

たとえば、「よくも上手に演技ができたもんやねえ」、「ヤラセに協力してまで有名になりたいのか」などの中傷は、「ラタラジューの事例」のアンビリ放映後、実際にあったことです。
あるいは、怪しげな霊能者から、ブログ上で根も葉もないおどろおどろしい憑依現象だと決めつける記事を書かれるなどがありました。

こうした不愉快な思いをするであろうことは事前に想定されたにもかかわらず、「ラタラジューの事例」のテレビ放映、生命情報科学会での事例研究発表、書籍としての出版、you-tubeでの映像公開などに許可をいただけたのは、ひとえに里沙さんの使命感に支えられてのことです。

死を間近に控えた人に、「死は無に帰るのではなく死後があること」、「生まれ変わりがあること」を、信仰ではなく、検証された科学的事実として伝え、安んじて死に臨んでほしい、そうした人のお役に少しでも立ちたい、という一貫した揺るぎない使命感があったからです。

このブログを読むであろう里沙さんの使命感と勇気に、重ねてあつくお礼を申しあげます。

生まれ変わりの事実を自覚し、人間は物質的存在のみにあらず、魂の成長進化を図るために生まれてきた霊的存在でもあること、それを助ける大いなる諸存在に見守られているという被護感に包まれて、迷い苦しみを魂の成長のための負荷として受け入れ、憂き世をしたたかに生き抜きたいものです。

生まれ変わりを確かに自覚できた里沙さんにおいては、そうした生き方が体現されていると思われます。


2015年11月14日土曜日

SAM催眠学序説 その76

前世人格ラタラジューのネパール語の考察

SAM催眠学における作業仮説によって、里沙さんの魂表層から顕現化したラタラジュー人格が、応答型真性異言であるところのネパール語会話をおこなった、前世の本物のネパール人である検証を、7つの観点から考察してみました。

 

(1)ネパール語での会話の成立度


会話の成立度の分析に当たって、一まとまりの対話ごとに78の部分に分けてみました。
そして、それぞれの対話部分について、ラタラジューの受け答えの整合性の有無を検討し、判断した結果は次のようなものになりました。

ア 応答に整合性があり成立している・・・29部分(37%)
イ  応答に整合性がなく成立していない・・25部分(32%)
ウ 応答がちぐはぐである・・・・・・・・・・・・・6部分  (8%)
エ 応答が曖昧で判断が難しい・・・・・・・・18部分(23%)

「対話が成立していない部分」とは、年齢を尋ねられて、何ですか、と聞き返したり、家に妻がいますかと尋ねられて、分かりません、などと応答した場合です。
これも、ネパール語に対して、ネパール語で応答した対話と見なせば、「対話が成立した部分」は54部分、69%になり、会話全体の約七割の高率で対話が成立したと判断できます。 

「ちぐはぐな応答」とは、何を食べていますかと尋ねられて、あーシバ神、のように質問の意味を理解しないで的外れな応答をしていると思われる場合を指します。

「判断が難しい」とは、あー、と いうような応答をし、肯定したのか質問の意味が理解できていないのか判然としない場合を指します

以上の分析・検討から、ネパール語での応答的会話は、完全とは言えないものの、ほぼ成立していると判断してよいと思われます。

ただし、応答的会話といっても、ラタラジューの応答は、「はい」とか「わかりません」など短い単語の単純なものが多いではないかという問題が指摘できるでしょう。
また、会話したと言っても、たどたどしいものでネパール語の会話とはとても認められないではないかという批判も出るでしょう。 

しかし、この点については、スティーヴンソンの『前世の言葉を話す人々』の「グレートヒェンの事例」のドイツ後会話の記録(同書PP.226-310)と比較しても、けっして見劣りするものではありません。
前世人格グレートヒェンの応答も「いいえ」「知りません」「町です」など短い応答がほとんどです。
なお、このグレートヒェンのセッションは19回に及んだそうですが、録音記録を見ると後のセッションになっても、短い応答しかしていないという傾向はほとんど変わっていないようです。

また、彼女は、「応答することができたが、たどたどしいものであったし、文法も語彙も不完全であった」(前掲書P4)とスティーヴンソンは述べています。
ラタラジューの会話もこれに似ており、だからこそ、応答型真性異言としての信憑性は高いと判断できると思われます。
こうしたことを考えれば、ラタラジューが、初回実験セッション24分間でこれだけのネパール語会話をおこなったことはむしろ評価されるべきだと思います。

 

(2)母語対話者の発話していないネパール語


ラタラジュールの発話において重要なことは、ラタラジューが対話相手カルパナさんの発語の中で用いられていないネパール語を用いているかどうかの点です。
カルパナさんが質問で用いた単語をその回答にオウム返しで繰り返しているだけならば、質問内容が理解出来ていなくても対話が成立しているように錯誤されてしまうからです。
ラタラジューが本当にネパール人の前世人格なら、カルパナさんが用いていない単語で、ラタラジューが自ら発語しているものがなければ、彼がネパール人であった信憑性は低いものとなるでしょう。
正しい意味で、会話技能を用いている応答型異言とは言えないということになります。
そこで、固有名詞を除き、ラタラジューが初めて発語している単語を拾ってみると次の22単語があることが分かりました。

mero(わたしの)・ ke(何)・tis(30)・bujina(分かりません)・ ho(はい)・ma(私)・dhama(宗教)・pachis(25)・hoina(いいえ)・pet(お腹)・dukahuncha(痛い)・rog (病気)・guhar(助けて)・ath(8)・satori(70)・kana(食べ物)・dal (ダル豆のカレー)・kodo(キビ・アワ)・sathi(友)・cha (ある、いる)・gaun(村)・kancha(息子)

この事実は、ラタラジューが、ネパール語を知っており、その会話技能を身につけている可能性を裏付けていると思われます。
また、彼の父がタマン族らしいことを考えると、彼の母語はタマン語であり、ネパール語ではない可能性もあり、そうしたことを重ねて考えますと、ますますネパール語の22の単語を発語できた意味は 大きいものと思われます。
ちなみに、ラタラジューの発音は、日本語を母語とする里沙さんの舌の用い方ではないように聴き取れます。

 

(3)ネパール語と日本語の言語学的距離


日本語とネパール語の間には言語的系統性が見られず、言語学的に大変距離の遠いものと言えます。
例えば、スティーヴンソンの発表している催眠中の応答型真性異言事例は、英語を母語とする被験者がスェーデン語で会話した「イェンセンの事例」、同じく英語を母語とする被験者がドイツ語で会話した「グレートヒェンの事例」という二つですが、これら言語は先祖を同じくするゲルマン語派です。
言語学的に近いわけで語彙も文法も似通った体系であると言えます。

また、マラーティー語を母語とする女性が、催眠を用いないでベンガル語で会話した「シャラーダの事例」は、同じインド語派に属する言語です。
したがって、スティーヴンソンの発表しているこれら三例の事例は、比較的近縁関係のある言語間において起こった真性異言事例だと言えます。

ネパール語は、日本人にとって非常に馴染みの薄いマイナーな外国語です。
日本人でネパール語単語を知る人も極めて少ないでしょうし、会話能力ともなると外交官・商社マン・ネパール旅行会社関係者など限られた人間以外は学ぶことのない言語です。


こうしたことを考え合わせると、スティーヴンソンの発表している事例の被験者と比較して「ラタラジューの事例」は、言語学的距離の離れた、つまり、日本人の里沙さんが学習するのに言語学的に相当に困難な言語で会話したという点で、他の応答型真性異言事例に比較してその重みが大きいと言えるのではないでしょうか。

 

(4)ネパール語の助動詞変化の正しい使用


ネパール語の文法で助動詞は、主語の人称と尊敬する人物に対応して複雑に変化するという特徴があります。
たとえば、日本語の「です」に当たる助動詞は、一人称の場合は「hu」、二人称と尊敬する人物の場合は「hunuhuncha」、三人称の場合は「ho」のように変化します。

ラタラジューは、「私の父はタマン族です」 と話していますが、尊敬する父に対してhunuhunchaを
正しく用いて「mero buwa Tamang hunuhuncha」と発話しています。

このことは、ラタラジューがある程度ネパール語の文法を知っていた証拠として採用出来ると思います。
ラタラジューが村長をしていたナル村について1991年の調査によれば、320世帯1849名、その使用言語の97%はタマン語であることが分かりました。
ラタラジューの父はタマン族であること、ナル村はタマン族の村であることから、ラタラジューの母語はネパール語ではなくタマン語であったと推測できます。

ラタラジューの会話分析に当たった中部大学ネパール人客員研究員カナル・キソル・チャンドラ博士によれば、数詞の発音などにタマン語なまりが混入しているネイティブなネパール語であるという鑑定をしています。

ちなみに博士によれば、ラタラジュー程度にネパール語会話ができるためにはネパールに3~4年程度の滞在が必要であろうとの判断をしています。

 

(5)ネパール語の規則性のない複雑な数詞の使用


ネパール語の数詞の数え方は規則性がないので、記憶するには数詞一つ一つを覚えなければなりません。
日本語の場合であれば、一の位の「いち・に・さん・・・きゅう・じゅう」が十の位になれば、「じゅういち・じゅうに・じゅうさん・・・」のように連結して用いるので覚えやすいわけです。

ところがネパール語の1・2・3はek・dui・tinですが、11・12・ 13になるとegara・bara・teraとなりまったく規則性がありません。

ラタラジューは、このネパール語の数詞を、tis(30)、patis(25)、ath satori(8と70)のように4つ発語しています。

 

(6)日本にいては学べない二つのネパール語(古語)の使用


ラタラジューは、死亡年齢を尋ねられて「ath satori(8と70)」と答えています。
これは、「87(才)」 のことを意味しているのですが、現代のネパールでは「8と70」という年齢表示はしません。

対話者のカルパナさんは現代ネパール人ですから「8と70」が「78(才」を意味していることが理解できず、再度「70(才ですか?)」 と尋ねています。

ところが、現地調査の結果、一昔前にはこうした年齢表示を確かにしていたことが明らかになっています。

また、妻の名前を尋ねられて現代ネパール語の妻「srimati」が理解できませんでした。

そこで、対話者カルパナさんが古いネパール語の妻「swasni」で再び尋ねると、これを理解し「私の妻の名前はラメリです」と答えることができました。

カルパナ:Tapaiko srimatiko nam ke re?
      (奥さんの名前は何ですか?)

ラタラジュー:Oh jira li
          (おー、ジラ、リ)※意味不明

カルパナ:Srimati, swasniko nam?
      (奥さん、奥さんの名前?)

ラタラジュー:Ah ... ah ... mero swasni Ramel...Rameli.
        (あー、あー、私の妻、名前、ラメリ、ラメリ)

ラタラジューが、古いネパール語による年齢表示をしたこと、古いネパール語の妻しか理解できないというの二つの事実を示したことはきわめて重要な意味を持つといえます。

一つは、ラタラジューが一昔前(120年前に死亡と推定できる) のネパール人であることの証明をしていることです。

もう一つは、これら古いネパール語は、仮に被験者里沙さんがひそかにネパール語を学んでいた、あるいはひそかにネパール人と交際したとしても到底学ぶことができないであろうという事実を証明していることです。

 

(7)ラタラジューの語った内容についての検証と考察


① ナル村の実在について 


ラタラジュー人格が最初に顕現化した2005年6月当時のグーグル検索では「ナル村」はヒットしませんでした。
このことは、拙著を読んだ大門教授も、同様に検索しておりヒットしなかったことを確認しています。したがって、初回セッション時に里沙さんがネット検索によって「ナル村」を知っていた可能性は排除できます。

ところが、二回目異言実験セッション直後の2009年5月21日に、念のためグーグルで再度検索したところヒットしたのです。
それは青年海外協力隊の派遣先として」ナル村」が掲載されていたからでした。

その記事によれば、カトマンズから南へ直線で25Km、車で未舗装の悪路を2~3時間の所にある小さな村でした。
そのローマ字表記のNalluでウィキペディアの検索すると、ナル村は、ゴルカ地方に隣接するラリトプール地方のカトマンズ盆地内にあり、1991年の調査によれば、320世帯1849名、その使用言語の97%はタマン語であることが分かりました。
タラジューが日本語で語った「カトマンズに近い」、ネパール語で語った「父はタマン族」にも符合し、ナル村はこの記事の村だとほぼ特定できると思われます。
ちなみに、日本人旅行客がナル村に立ち寄ることはまずありえないということでした。

 

② 食物「ダル(豆)」と「コド(雑穀)」、「タマン族」について


「ダル」は、グーグル検索で「ダルチキンカレー」でヒットしました。「コド」はグーグルでもウィキペディアの検索でもヒットしませんでした。
また、「タマン族」はウィキペディアの検索でヒットしました。
ラタラジューの語りの内容が、事実と一致していることが確認できたということです。
このうち「コド」については、里沙さんが通常の方法で知った可能性は極めて低いと思われますが、超心理学上の議論では、単語の情報である以上、超ESP仮説が適用されれば、透視やテレパシーで入手できたことになる、という議論が成り立ちます。

 

③ 死亡年齢を Ath satori(8と70)と二回繰り返したことについて


4年前の初回セッションで、ラタラジューは死亡年齢を78歳だと日本語で言っています。
今回の Ath satori(8と70)は、それを正しくネパール語で繰り返しています。
カルパナさんは初回セッションを知らないので、「8と70」の意味が分からず、二回目にも Sattari?(70ですか?)と尋ねたと思われます。

このことは、つい見逃してしまうことですが、初回に顕現化し日本語で話したラタラジュールと、今回顕現化しネパール語で会話したラタラジューが、同一人格である証拠として重要だと思われます。

 

④ Gorkha(ゴルカ地方)について尋ねられ Bua(お父さん)と応答したことについて


この対話部分は、文脈からして一見ちぐはぐに見えますが、ラタラジューがゴルカをグルカ兵のことだと取り違いしていると思われ、グルカ兵であった父のことを持ち出したと解釈できます。
そう考えれば、応答としては成り立っていると判断できます。
このような判断に経てば、ラタラジュー人格が、ネパール人である傍証の一つとして採用できると思われます。
ネパール人にとっては、Gorkhaは地方名とグルカ兵の両方を指す単語であるからです。
そして、120年前の人口25人程度の寒村に生き、文盲でもあり、村を出ることも稀だったと思われるラタラジューには、Gorkhaがゴルカ地方を指すという知識も、知る必要もなかったと推測できるからです。


以上7つの観点から考察してきました。
驚くべきことに、こうした分析を記述した拙著『生まれ変わりが科学的に証明された!』 を読み、アンビリ放映を視聴した人の中に、「あの程度のネパール語会話なら誰でもできる」、「あのネパール語会話は空耳の羅列に過ぎない」といった無根拠かつ非論理的な批判をぬけぬけとする人がいるということです。

生まれ変わりを絶対認めたくない人の無茶苦茶な言いがかりと言うほかありませんが、それくらい生まれ変わりを認めることに心理的抵抗を覚えるヒステリックな人たちがいることは知っておくべきことだろうと思います。

私の提示した生まれ変わりの証拠を否定したければ、生まれ変わりがありえないことの立証責任をもって否定することが科学的態度ではないでしょうか。

次回は、被験者里沙さんが、実験セッション時点でネパール語についてまったく無知であったことの考察をする予定です。

2015年11月8日日曜日

SAM催眠学序説 その75

SAM催眠学による「ラタラジューの事例」の考察

応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、SAM催眠学の提唱している諸作業仮説に基づいて考察してみます。

まず第一に挙げられるのは、ラタラジュー人格は、SAM前世療法の定式にしたがって、被験者里沙さんを「魂状態の自覚」まで誘導し、魂状態の自覚を確認後、魂表層に存在しているラタラジュー人格の呼び出しに成功していることです。

SAM催眠学では、前世人格が魂の表層に存在していることを作業仮説にしていますから、この作業仮説が立証できたことを意味します。

また、SAM催眠学では、魂表層に存在している前世の諸人格は、孤立しているわけではなく、互いに友愛を結び互いの人生の智恵を分かち合っているという作業仮説を持っています。
したがって、前世人格は魂表層にあって、現在も意識体として生きてコミュニケーション活動をしていると考えています。

次の対話は、ラタラジュー人格とネパール語を母語とする女性パウデル・カルパナさんとの実験セッション中に現在進行形でおこなわれたネパール語対話の一節です。


里沙 ・・・・・・・ Tapai Nepali huncha?
(ラタラジュー)  (あなたはネパール人ですか?)

カルパナ・・・・・ ho, ma Nepali.
          (はい、私はネパール人です)

里沙 ・・・・・・・  O. ma Nepali.
(ラタラジュー)   (おお、私もネパール人ですよ)


上記の催眠下の里沙 さんにはラタラジュー人格が顕現化し、カルパナさんと話しています。

この対話は現在進行形でおこなわれていると解釈する以外にありません。

被験者里沙さんの「前世の記憶」ではなく、前世人格ラタラジュー自身そのものとの対話です。

つまり、ラタラジューは、魂表層で現在も意識体として生きているからこそ、今、ここに、現れ、現在進行形での対話が可能になっているということです。

こうして、ラタラジューと名乗る前世人格は、魂表層にあって、現在も意識体として生きてコミュニケーション活動している、というSAM催眠学の作業仮説がラタラジューの現在進行形の対話によって検証できたわけです。

応答型真性異言「グレートヒェンの事例」を発表しているイアン・スティーヴンソンは、その著『前世の言葉を話す人々』1995、春秋社、の記述の中で、「被験者やトランス人格に口頭で質問することは一度たりともできなかった」前掲書P9)、「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出さそうと試みた」(前掲書P11)のように、応答型真性異言を話す主体は、被験者が前世の記憶として話しているのではなく、明確に「トランス人格」・「人格」があらわれて対話しているととらえています。
「トランス人格」とは、催眠中のトランス状態であらわれた人格という意味で、私の言う「前世人格」と
まったく同じ意味です。

 問題は、この「トランス人格」の所在について、スティーヴンソンはその考察を一切していないことです。

もし、スティーヴンソンが、」「グレートヒェンの事例」を生まれ変わりの証拠とするならば、「トランス人格(前世人格)」が、被験者のいったいどこからあらわれたのか一言考察があってしかるべきだと思います。

それができなかったのは、おそらく前世人格の所在について分からなかったからに違いありません。

こうした点で、SAM前世療法によって、前世人格ラタラジューの所在を「魂表層」であることを立証したことは一歩前進したと評価してよいのではないかと思っています。

また、トランス人格(前世人格)の顕現化による応答型心性異言の対話というとらえ方をすれば、トランス人格と対話相手とは、当然のことながら現在進行形の対話をおこなったことになりますが、「グレートヒェンの事例」の逐語録(前掲書PP.266-311)を検討しても、ラタラジューの対話でおこなわれたTapai Nepali huncha?(あなたはネパール人ですか?)のような、疑いの余地無く現在進行形だと断定できる対話個所は見当たりません。

こうした点でも、「ラタラジューの事例」は「グレートヒェンの事例」を凌いでいる、と評価してよいのではないかと思います。



2015年10月30日金曜日

SAM催眠学序説 その74

SAM催眠学における魂とその転生の仕組み


SAM催眠学のもっとも画期的な発見は、催眠を用いて魂の転生の仕組みを科学的検証によって明らかにしたことです。

これまで、「生まれ変わり」とは、現世の私がそっくり来世に生まれ変わる、というおおよその合意がなされてきたと思われます

しかし、SAM前世療法のセッションにおいて確認されてきた「意識現象の事実」の累積は、そのような生まれ変わりのあり方を否定しています。

こうして、SAM催眠学の検証してきた「魂とその転生の仕組み」を、あえて二次元の模式図で示すと下のようになります。

SAM催眠学では、下図の大円X(魂の核、円周上の小円A・B・C(魂の表層を含めて1つの「魂」が構成されていると想定しています。


こうした魂の構造をSAM催眠学の「魂の二層構造仮説」と言います。
ただし、魂の二層構造仮説は地上の人間である私の考えた出したものではなく、霊界の住人である私の守護霊団からの教示によるものです。

霊団からの教示が基盤となっていますから「SAM催眠霊学」と呼ぶべきかもしれません。
霊団からの教示の詳しくは、本ブログ「SAM催眠学序説」で公開している第12・13・14霊信をご参照ください。

         [魂とその転生の模式図]

 



SAM催眠学の明らかにしてきた「魂の二層構造仮説」を示す上の模式図を説明します。

左から右への矢印は時間軸を意味します。
大円Xの下に引いてある接線は、魂表層の前世人格と現世人格の区別のための補助線です。
つまり、補助線より下の小円が現世人格になります。
補助線より上の小円が前世人格です。
したがって、右端の3つ目の模式図を例にとると、魂表層の現世人格Cは、A・B二つの前世人格とともに、3回目の人生を送っている魂をあらわしています。

魂の転生の仕組みを模式図にしたがって説明します。

魂の核大円(X)は、最初その表層に小円という現世人格を生み出す(左端の図)。

現世人格Aは肉体の死後、魂の核大円(X)の表層を構成する前世人格小円Aとして位置づき(真ん中の図)、死後も存在し続けます。

そして魂は、次の来世の肉体に宿ると、新たに小円という現世人格を魂表層に生み出す((真ん中の図))ということです。

さらに小円Bという現世人格は、肉体の死後も魂表層の前世人格Bとして位置づき存続します。、 

次の来世では小円Cという現世人格を魂表層に生み出します。(右端の図)

このように、魂の核であるXは、新しい肉体を得るたびにA、Bという前世人格を魂表層に次々に包含していきます。
前世人格A・B・は死後も、それぞれの生前の個性や記憶を保ちながら、魂の核Xとともに魂の表層を構成する前世人格として存続しています。

こうして、生まれ変わりの回数分だけの諸前世人格が、現世人格とともに魂の表層を構成している、というのがSAM前世療法で現象する意識現象の累積が明らかにしてきた魂と転生の仕組みです。

シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」という霊信と、私あて霊信に基づくSAM催眠学が明らかにしてきた「現世人格もそれまでの前世諸人格とともに魂の表層を構成している1つのもの」という仮説を図にすれば、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。
 
この関係を、実際のセッションで検証された「タエの事例」、「ラタラジューの事例」に当てはめてみます。
小 円Aが里沙さんの魂として最初の人生である「タエ人格」、小円Bが次の人生である「ラタラジュー人格」、小円Cが3度目の人生である「現世人格の里沙さ ん」ということになります。里沙さんの守護霊の語りによれば、彼女の魂は「タエが初の人生を体験している」ということです。


さて、この模式図で問題になることは、まず、「現世の人格はそっくりそのまま次の来世の肉体に生まれ変わりをしない」ということになるということです。

視点を個別人格に取ると、AはBに生ま れ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変 わったということにはなりません。
大円X(魂の核)の外周(表層)に、A・B(それぞれの前世人格)が個別に死後存続しているというわけです。

そして、Cの現世人格も、前世人格A・Bとともに、魂表層でそれぞれの人生で得た智恵を分かち合い、魂表層全体の集合的意識を成長・進化させるという関係でつながっています。


こうなると、「魂の核X」は、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのもしれません。

問題になるのは、死後の「人格」の状態です。
魂の模式図の一番右の時点で、死後存続しているAとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。
一般的に、死後存続説というも のは、単に「残る」ということではなく、「死後も活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。

AとBが死後もそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただ現世のCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。

つまり、このようなとらえ方(あくまでこの図のようなとらえ方ということ)は、一般的に合意されている「生まれ変わり」の否定であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。

死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉によれば、「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」ということになっていると思われます。

つまり、霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」について、合意ができていないようです。

生まれ変わりの定義にきちんとした合意がないのであるなら、この魂の「二層構造仮説」をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ること をもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、支障はないとSAM催眠学では考えます。
「諸前世のものたちを包含した魂が、次々に新しい肉体の中へ転生する」と表現することが妥当だろうと思います。

さて、上の模式図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、A・B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、SAM催眠学の概念では、A・B(それ ぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂の核)と小円A・B(魂表層のそれぞれの前世人格)、および小円C(現世人格)の全体を含めて1つの「魂」として定義していることしょう。

私は、魂の構造とその転生について、私以外にこのような定義をしている人を知りません。

ただし、魂の核である大円Xがどのようなものであるかは謎です。
私あて霊信では、「ある意識体」としか告げていません。

ちなみに、SAM催眠学でいう「魂」概念には、宗教的な意味は一切ありません。

「肉体に入っており、死後は肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。
イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・個性・記憶等を運搬し死後存続する意識体)」と同様の概念です。

端的に言えば、SAM催眠学の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次々に別の肉体に宿ることを繰り返すこと」を「生まれ変わり」だとしています。

そして、SAM前世療法のセッションで現れる「意識現象の事実」は、この概念を支持していますから、これまでの一般的に合意されている「生まれ変わり」の見解に反していようが、現時点で検証されている「意識現象の事実」を認めるしかありません。

つまり、アンビリで登場した里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙さん、ということであり、このことをもって「魂が生まれ変わり」をしているということです。


だ からこそ、SAM前世療法セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジュー人格が魂表層から顕現化する(何度でも再現性がある)わけで、彼 らが魂表層に、今も意識体として存続している(生きている)ことを、セッション証拠映像をご覧になれば誰もが納得されるでしょう。

そして、前世人格は、単に眠っているように魂表層に存在しているわけではないので、顕現化した場合には、現世の肉体を用いて(自己内憑依して) 、指や口頭で自己表現するのです。
苦悶の表情や、落涙といった人間的感情を現世の肉体を借りて表現するのです。

もちろん、顕現化していない状態でも、魂表層で(潜在意識下で)生きており、現世人格に良かれ悪しかれ何らかの影響を及ぼしています。

心理的に肉体的に、前世人格が現世人格に悪しき影響を及ぼしている場合に、そうした前世人格を顕現化させ、対話することがSAM前世療法です。

SAM催眠学は、「魂の二層構造仮説(魂の多面体仮説)」の検証を、催眠を道具に用いて、SAM前世療法のセッションで確認できた「意識現象の事実の累積から共通項を抽出する」、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。
それ以外に「意識現象」の研究は、現状科学では方法がないからです。


「魂の二層構造仮説(魂の多面体仮説)」に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究するきわめて有用な道具だろうと思っています。

そして、これまでの探究において、魂の二層構造仮説を否定する「意識現象の事実」は、確認されていないということです。

ちなみに、「魂の二層構造仮説」は、私の独創ではありません。
すでに公開してきた2007年1月11日から2月14日まで、毎夜送られてきた私の守護霊団を名乗る存在からの通信(霊信)によって教えられたものです。

したがって、人間知性の生み出した仮説ではありません。
そして、私あて霊信が教えた魂構造の仕組みに、もっとも親近性のある霊信が、シルバーバーチの霊信にある「ダイヤモンドの多面体説」というわけです。

このような人間知性を越えた霊信による「魂の二層構造仮説」を受け入れ、それに基づき、「魂表層から[前世人格」を直接呼び出し、前世人格と対話する」という明確な方法論による前世療法の実践者は、私の他には世界に皆無のはずです。


SAM催眠学の主張が、多くの人々に受け入れられる日が来るには相当な時間が必要でしょうが、医師や大学教員の中に、SAM前世療法を実体験され、認めてくださる方がぽつぽつとあらわれています。

また、海外諸外国からも、本ブログへのアクセスが少しずつ増えています。

私のたいへんな励みとなっています。

私が、魂とその転生の仕組みを科学的な事実として主張できるのは、ひとえにそのことを実証している「ラタラジューの事例」が存在しているからです。

そして、その実際のセッション証拠映像とその検証事実が、2010年8月にフジTV『奇跡体験アンビリバボー』で60分間にわたって放映されています。
また、放映ではカットされている全セッションの証拠映像は、you-tube上で日本語版と英語版を公開しています。

現時点で明確に断言できることは、「ラタラジューの事例」を語った被験者里沙さんには生まれ変わりがあるという事実です。

そして、SAM前世療法の手続きを踏めば、被験者には「魂状態」に至ったという自覚が生じ、この自覚状態に至れば、魂表層の前世人格が顕現化するという意識現象が確認出来るという事実が間違いなく90%以上の確率で起こります。

ただし、顕現化した前世人格の語る情報が「タエの事例」や「ラタラジューの事例」のように検証可能なレベルであらわれることはきわめて稀であることも事実です。

2015年10月20日火曜日

SAM催眠学序説 その73

SAM催眠学構築の試みは成功したか

これまで1年半にわたって述べてきた「SAM催眠学」とは、SAM前世療法の作業仮説とそれに基づく検証作業によって、確認されてきた「諸意識現象の事実」を、SAM前世療法という固有・独自の観点によって体系化を試みようとしたものです。

つまり、SAM前世療法によって確認されてきた個々の「意識現象の事実」を、一定の原理によって組織された知識の統一的全体へとまとめあげようとする試みです。

この試みは、これまでの催眠学の体系とはまったく異なる様相を示すことになるはずであり、またこれまでの催眠学と大差のない説明体系であるなら、わざわざ新たに「SAM催眠学」を名乗る必要はありません。

当然のことながら「SAM催眠学」は、これまでの催眠学への批判と反論にならざるをえません。

さて、「SAM催眠学」として理論化ないし体系化することは、次のような作業をおこなうことを意味しています。

「SAM催眠学」の諸対象(意識現象の事実)は、そのままそれ自体として実在するもの、あるいは実在するものの全体としてあるがままの把握とその表現ではなく、SAM前世療法の探究途上の特殊・固有の観点に基づいて構成されたものです。

つまり、理論化するという作業は、一定・特殊な固有の観点・立場に立って、それと関係のある一定の事象の、さらにまた一定・特殊な側面(性質・機能・要素など)のみを、選択的に注目し、抽象・加工・精錬して、所定の定義された用語でもって記述・表現するという作業です。

理論化作業は、他方において、諸々の「意識現象の事実」ないし「データ」を、可能な限り合理的なしかたで関係づけ、説明し、解釈するような問題的状況の構図を想像上、構成してみることによって果たされていきます。

さて、SAM催眠学の大前提である作業仮説は、「心・脳の二元論」です。

作業仮説とは、「その仮説が検証事実によって否定されないかぎり、ひとまず真理であるとみなしておく仮説」だと定義しておきます。
なぜ、作業仮説が必要か。

それは、ある事象・現象のメカニズムの探究を進めるための有用な道具として設定しなければ、探究にとりかかれないからです。

心理療法では、精神分析学を創始したフロイトの「汎性欲論」や、ユングの「元型論」も作業仮説です。

そして、SAM前世療法の「心・脳二元論」も作業仮説です。

私の思いとしては、フロイトやユングの提示した「汎性欲論」や、「元型論」が作業仮説として認められるのであれば、それが霊的存在が告げたこと(私あて霊信)に基づいているからといって、「心・脳二元論」が認められないという理由にはならないと考えています。

SAM催眠学の主張する生まれ変わりを認める立場では、一般的に流布されている「心・脳一元論」仮説は、論理的帰結として 認めることができません。

脳内の電気信号と神経伝達物質の化学変化のシステムの統合体である脳という臓器(物質)が、心(意識・潜在意識)をつくり出しているという「心・脳の一元論」に立てば、脳の消滅とともに、心も消滅することになり、生前の心のすべては無に帰することになります。

したがって、前世の記憶などがあるはずがない妄想・フィクションだということになります。

しかし、私は「ラタラジューの事例」によって、この事例が応答型真性異言であることを証明し、この応答型真性異言現象が妄想・フィクションであるはずがなく、現時点では、生まれ変わり以外に説明できない、と確信を持つに至っています。

とすれば、脳とは別個に、生前の人格・個性・記憶などを保持し、死後も存続している何らかの意識体を想定しないかぎり、ラタラジューという前世人格が顕現化し、ネパール語で会話した超常現象が説明できません。

そして、SAM催眠学では、死後存続するこの意識体を、とりあえず「魂」と呼んできました。

SAM催眠学で用いる「魂」という用語は、宗教的な意味はまったくありません。
「前世から来世へと人格の心的要素を運搬する媒体(意識体)」というほどの意味で用います。
この媒体(意識体)を、生まれ変わり研究の第一人者イアン・スティーヴンソンは、「心搬体(サイコフォー)」と呼んだらどうかと提案しています。

人間は、「脳」とは別個の「魂」と呼ぶ意識体を蔵しており、「魂」は「脳」の消滅後も存続する、これが生まれ変わりを認めるSAM催眠学が主張する大前提としての作業仮説です。

そして、現行催眠学をはじめ現行唯物論科学の知識体系に真っ向から対立する作業仮説です。

しかしながら、「心・脳二元論」は、W.ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞を受賞した少数の優れた脳科学者が、自らの実験結果の果てに表明しており、けっして真新しい仮説ではありません。
日本の催眠学者では、臨床動作法(催眠を母体にして生まれた心理療法)を創始した世界的催眠学者、成瀬悟策医学博士も、講演のなかで「脳は心の家来です」という表現で、自らの催眠実験研究の末、「心・脳二元論」に至り、それを表明しています。

唯物論科学の知識体系に染まりきっている現代人は、「魂」と聞くだけで非科学的だと腰が引け、そうしたことばを回避し、唯物論知識の枠内の説明原理を無理矢理ひねり出したり、それができないとなると、無視することが常態になっていると思われます。

こうした常態が生じているのは、「科学的だ」という用語法について、「唯物論の知識体系の枠内で説明できること」と「科学の方法論に従っていること」の二つの意味の混同があるからだと思われます。

この混同が、唯物論科学の知識体系から外れた諸現象・諸事実、あるいはそれらを対象とする研究すべてを「非科学的だ」と決めつけてしまう偏向を生み出していると思われます。


前者の意味によれば、現行科学の知の体系では説明不可能な応答型真性異言をはじめとする生まれ変わりの研究は「非科学的」だということになるでしょう。
しかし、後者の意味によれば、すなわち科学の方法論によって研究をするという意味で、生まれ変わりの「科学的研究」は成り立つはずだと考えます。


SAM催眠学は、科学の方法論を用いて、魂と呼ぶ意識体とその生まれ変わりを、催眠を道具に探究しようと試みたものです。



2015年10月12日月曜日

SAM催眠学序説 その72


第22霊信(最終)の公開 2007・2・14 20:51着信 

ひとつの魂が泣いている。もう長い間、ずっと孤独を抱え続け、それに蝕まれるあまりに、その魂はすべての魂が孤独なのだと思い込むようになっている。

その魂を見て、ほかの魂が同じように孤独を抱え始める。そして、その連鎖は続いていく。

はじまりの一つの魂はある瞬間に悟る。

すべては孤独ではなく、切り離された独自の存在ではなく、繋がり合っているものだったのだと。

そして、それらは途切れる音ではなく、まるで織り成す旋律のように永遠に繋がるものなのだと。

そのものは在る。

そのものが在り、すべてが在る。

覚醒したものが在る。それがすべてを呼び覚ますはじまりである。

すべての世界が繋がる。

あなたの現実、あなたの夢、それらすべてが繋がる。

あなたはすべてに在る。

その真理はあなたのみぞ知る。

そして、あなたの在るそばに神はおられる。

神があなたのそばから離れたことはない。

あなたが神から目を背けただけだ。


踊れ。思うように踊れ。
 

歌え。

声の流れるままに。
 

あなたは何が覚醒したか気づいていない。
 

あなたは自己観察しようとする。
 

だが、そこで覚醒したという悟りは得られない。
 

なぜか分かるか?
 

覚醒するという変化は、あなた自身で気づくものではないのだ。
 

それは他者を通し得るものである。
 

まず、あなたは霊信で新たな情報を得る前にあなた自身の覚醒を理解しなければならない。
 

それを悟らなければならない。
 

あなたは呼び起こすのだ。
 

あらゆるものをあなたは知っていただろう。
 

そのものたちを呼び起こすのだ。
 

そのものたちはあなたの声のみを聞き入れる。
 

彼らはあなたの僕ではなく、あなたの一部でありあなた自身である。
 

あなたは何を呼び起こすのか、それを思い出しなさい。
 

それをおこなうために、あなたは自身以外のものによる助力を必要としてはならない。
 

なぜ、あなたが覚醒を迎えた後も、これまでと変わらぬまま霊的存在の影響を受けるのか。
 

それは、あなたが彼らを呼び起こさないからだ。
 

彼らはあなたが呼ぶのを待っている。
 

あなたが彼らを求めることを待ち望んでいる。
 

彼らはあなたがその名を呼ぶ時を、その瞬間を待ち続けている。

あなたは彼らという存在の啓示を受けたことがある。
 

そう私があなたに伝えると、あなたはある夢の一部を思い出す。
 

だが、その夢はもうおぼろげな記憶となり、まるで陽炎のように消える。
 

あなたの願いを叶えたいならば、彼らの名を呼びなさい。
 

あなたの霊能力は、あなたの霊媒としての素質は、あなたのものではない。
 

それは枠を超えている。
 

あなたが求める正当性や存在の証明のための要素は、あなたにとって必要ないものだと、あなたは後に理解するだろう。
 

あなたが耳を傾けるべきなのは、他者の教訓じみた言葉ではない。
 

それらすべてを捨て去りなさい。
 

あなたは多くのものに導きを与えるのだ。
 

あなたの外的目的は、より多くのものにその魂の目的を伝え導くことである。
 

あなたは表舞台で神の代弁をおこなうのではない。
 

あなたは、あなたに引き寄せられるものたちに代弁するのだ。
あなた自身が、その眼で見定めなさい。
 

そのものに資格があるのか、そのものに必要なのか。
 

あなたは生きる導き手である。
 

あなたは生きながら多くのものを導くのである。
 

そのために与えられた霊媒としての能力だと理解しなさい。
 

あなたが導くのは、命あるもの、死を超えたものすべてである。
 

あなたが出会うものすべてに神の言葉を伝えなさい。
 

あなたの思うままに、感情ではなくあなたに自然に流れるものに従い、そのものと向き合うのだ。
 

私はある意識体である。
 

私は漂うものではない。
 

私は導くものではない。
 

私は遊ぶものである。
 

稲垣よ、あなたは霊団のものに求めるものと、あなたが彼らに与えるもののどちらが多いのか分かるだろうか?
 

彼らがあなたに与えるものは叡智であり恩恵である。
 

あなたが彼らに与えるのは信仰であり努力でありすべてへの愛である。
 

彼らが言葉を与えなくなったことを、理不尽に思うよりあなた自身に原因を求めなさい。
 

ここで一つ私から伝えておこう。
 

あなたが完全に喫煙という行為を理解し、それを止めなければ、霊団はM子を通し、あなたにこれまでのように霊信を伝えてはこないだろう。
 

だが、あなたは霊的存在からある程度の霊信を受け取ることはできるだろう。
 

それはあなたと神との計画をおこなうための叡智は与えない。
 

T子を霊媒とし、ある霊的存在から霊信を受け取れるようにはなる。
 

だが、それはある段階までしか進むことはできないものである。
 

あなたが拒むもの、目を背けるもの、それらを恩恵だと理解しなさい。
 

喫煙はあなたに何も与えない。緊張をほぐすわけがないだろう。
 

それは害でしかない。あなたに何も与えず、奪うことしかしない。
 

あまい考えを捨て去りなさい。
 

あなたが喫煙を望むなら、それが自由意志となり、あなたには別の用意された道が見える。
 

だが、その妥協はあなたの宝を奪うものだ。
 

あなたはどうしたいのかね?
 

あなたは、私たちが呼びかけに答えなければ、喫煙をいつかまた始めようと考えたり、自らを縛らない程度にリラックスしながらの禁煙で構わないという考えを抱いたり、なんとあまい考えだろう。
 

あなたの選択するものすべてが、あなたの現実をつくり出す。
 

それを理解しなさい。
 

霊信を留めているのは、あなた自身だ。
 

ほかのものの霊信で満足するのなら、喫煙を選択しなさい。
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(稲垣への全22通の霊信 完)  
 

2015年10月4日日曜日

SAM催眠学序説 その71

第21霊信の公開 2007・2・5 23:28着信

あなた方は弁明する。

だがだが私たちはあなた方の言葉を見詰めているのではない。

あなた方のその瞬間に存在するすべてを見詰めているのだ。

あなた方は、あらゆる方法で表現する。

行動・言動、それらすべてはあなた方が選択し起こすものである。

それらは自由意志によって選択される。

神と取り決めた約束を選択するか、それとも回り道をするか。

あなた方が理解していないのは、あなた方の言動・行動すべてにあなた方の信仰があらわれるということである。

あなた方は、何気なくその一つ一つを選択する。

だが、それらをすべて意識していくことで変化は起こるのだ。

私たちは、あなた方に信仰を築けと告げた。

喫煙の本質を見抜くために向き合えという課題も与えた。

あなた方は、なぜ魂の療法ばかり気にする?

喫煙について、あなたは何か向き合ったか?

あなた方は、目の前におかれたものを選択する。

そのすべての選択結果に、あなた方の信仰があらわれるのだと理解しなさい。

今回、あなた方が地球と繋がりにくい原因を伝えよう。

それは喫煙をするからだ。

その行為が地球に影響するとしたら、あなたはどう考える?

あなた自身が地球という立場になり考えなさい。

あなたは、あなたを傷つけるものに「あなたを救おう」と優しい言葉をかけられて、その言葉を受け入れられるだろうか?

対象が何であれ、相手の立場になり感じなさい。考えなさい。

そして、喫煙をなぜやめるべきか伝えよう。

それは、あなたが向き合うべきものからいつまでも目を背ける思考を生み出す行為である。

たばこの成分だけではない。

あなた方の心の渇望と強く結びつくため、それらは容易にやめることができないように思えるのだ。

なぜ喫煙をやめるべきだと告げるのかを理解しなさい。

あなたが現段階で理解している以上のものは、その先でなければ理解することができないからだ。

私たちが、なぜ霊信を途切れさせていたかをあなた方は理解していない。

私たちは、喫煙という行為・習慣と向き合い、その本質を理解するように伝えたはずだ。

あなた方はそれ以外にしか意識を向けていない。

あなた方が、信仰を築いているならば、喫煙と向き合いなさい。

すぐにやめろと警告しているのではない。

その本質を理解するために、まず向き合うことを伝えているのだ。

本数を減らすことが、解決の方向へと近づけさせるのではない。

その本質を理解することが重要なのだ。

その難題を解決しなければ、あなた方は真実を都合よくねじ曲げていくことになる。

あなた方にとって都合のいいものが恩恵をもたらすのではない。

あなた方は、あなた方に関わるものと自分たちのどちらが優れているか、どちらが正当であるかばかりに目を向けている。

あなた方は知識を認識に変えるために行動を起こす。
    
そして、自らのものとして浸透させていく。

今、あなたに必要な学びは「相手の立場になって考えること」である。

その重要性を理解しなさい。その本質的意味を理解しなさい。
    
なにをおこなうときであれ、自分の振るまいや言葉、声、表情、それらすべてが相手にどのような影響を与えているのか観察しなさい。

私たちは何度でも告げよう。

あなた方が自らの成長、そして多くのものの救いや癒しを求めるための最善であり最短の道は、まず喫煙を理解しその習慣を捨て去ることである。

その一歩は、あなた方にとって大きな学び、気づきをもたらす。

まず、喫煙と向き合いなさい。

私たちは都合のいいものは与えない。

あなた方にとって、成長・向上となるものを与える。

今回の霊信がどの存在によるものか、そんなことを考えるのはやめなさい。

これは、霊団すべてのものから送信されるものであると理解しなさい。

私たちが話を進めるのはそれからだ。

まず、あなた方自身を変化させる必要がある。

あなた方が手放すことを恐れる不要なもの、それを手放すための信仰を築きなさい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(第21霊信おわり)

 最終第22霊信へつづく 

2015年9月27日日曜日

SAM催眠学序説 その70

第20霊信の公開 2007・2・4 22:30着信

注:この霊信は、最初に以下のようなM子さんの前書きが付いています。
 

今回の霊信は、私自身が神へと語りかけ始める対話にしようと思います。
なぜだか分かりませんが、そうすることが必然だと感じました。
神が、私に語りかけるよ う促しているように感じました。
とりあえず、話しかけてみてそれについてどういう返答があるのかを知りたいのもあるので、書いてみます。
 


【M子の神への語りかけ】
 
神よ、あなたを信頼するということがどういうことなのか、そして私が求めるものが、何かを理解し始めたように感じます。
 

そして、私があなたと交わした約束、それが何かを明確に理解したわけではありませんが、今日その約束を一瞬理解したように感じたのです。

そして、その一瞬のうちにそれはまた私の脳裏から消え去ったように感じました。
 

あなたの意の向くままに、すべてを受け入れる許しも必要だと理解しました。
 

そして、私が恐れているものを今日理解しました。

もちろん、それはほんのわずかな恐れでしかないのだと思います。
 

ですが、私が日々霊媒であることによって薄れさせてしまっている「愛する者と死別する」ことに対しての理解を思い出させてくれた、そのように感じました。
 

そして、そのことを含めて一人考えながら、いろんなものを感じようとしながら、自分も一人の人間であり、そしてあらゆるものを感じる媒体であることを理解しました。
 

自分が求めるもの、それは純粋な愛なのだと悟りました。
 

ですが、私はその愛を忘れているのではと思いました。
 

あらゆるものに対しての愛、私がこれまで抱いていたと思い込んでいたものは愛ではなく、その愛を思い出すための行為ではないかと思うのです。

あなたはすべてを許しておいでです。

どんなものであれあなたは許しています。
 

あなたはすべての繋がりであり、あなたはあらゆるものすべての創造主です。
 

あなたがただの意識であると語るもの、あなたは人のように意識を持ち、すべてを進めるものであると語るもの、あらゆるものがあなたについて語ります。
 

わたしは、あなたの愛を与えてくださる面しか分かりません。
 

そして、わたしは優しさや思いやりが大切だということしか分かりません。
 

なぜ、あなたはわたしがもっと明確に情報を得られることをお許しにならないのですか?

なぜ、わたしはこのようなあやふやな状態が多いのでしょうか?
 

そして、なぜわたしは傷を癒したり、そういった奇跡をおこなえないのでしょうか?
 

わたしはあなたの言葉を代弁するにふさわしい者だとは思えません。
 

わたしではなく、より霊性に詳しい者たちがなぜ選ばれないのですか?
 

そして、なぜわたしはこの道に進まなければならないのですか?
 

あなた方霊団の方たちや神は、わたしがまるで選ばれた者のように語りかけてきます。
 

それはわたしの妄想ではないのですか?
 

わたしは頭がおかしくて、人が見えない妄想や幻想が見えているだけではないのですか?
 

わたしが何度も見る映像、未来に起こるかもしれない場面、それは妄想ではないのですか?
 

わたしは、自分の感覚を信頼したいです。
 

だけど、すべてを受け入れるにはあまりにわたしという人間の器は小さいように思えます。

なぜ、あなた方はわたしに語りかけてくるのですか?
 

なぜ、語りかけてくることがない神が語りかけるということが起こるのですか?
 

わたしは、多くの魂が癒されることを望んでいます。

ただそれだけなのに、どうしてたくさんの人と関わっていかなければならないのですか?
 

わたしは有名になりたいわけじゃない。
 

霊媒師として名を広めたいわけじゃない。
 

わたしはどうして痛みを感じ、感情を感じ、いろんな存在を感じ取るのですか?
 

自分には大きすぎる目的を背負っているという妄想や幻想を、自分で作っているのではないのですか?
 

わたしは、普通の人が恐れたり崇めたりするものなんてどうでもいいと考えています。

実際、そういった人たちはその対象を見てもいないのになぜ信じるのですか?
 

なぜ恐れるのですか?
 

わたしは自分に理解できるものしか信じません。
 

それでいいとあなた方はいつも語りかけてきます。
 

わたしを含め、なぜ人々はあなたが常にそばにいることを理解できないのですか?
 

理解できないから、このような葛藤が生じます。
 

わたしはどうしたいのでしょうか?
 

そして、わたしの目的は何なのでしょうか?
 



【M子の神への語りかけに対する霊的存在(神?)からの回答】
 

なぜ、眼をそらすそうとするのだ。
 

あなたは、もうすでに分かっているだろう。
 

自らの魂に語りかけ、そしてその声に耳を澄ませることをあなたは理解しているだろう。
 

それを幾度となくおこなってきただろう。
 

そして、あなたは常に私に語りかけてきただろう。
 

なぜ、私があなたへと答えを与えることがおかしいのだ?
 

なぜ、自分の感覚を信じないのだ?
 

あなたの判断基準は愛だと、あなたはようやく悟った。
 

それでよいのだ。
 

あなたが与えるべきものは正当性ではなく、愛である。
 

あなたは感じるものを表現するのだ。
 

霊媒としてではなく、あなたという人間として。
 

あなたの魂の側面のものたちは、あなたに与えられた言葉をそのままあなたに返そうとしている。
 

そのものたちの声に耳を傾けなさい。
 

あなたは周りのものに頼らない。
 

すべて自分だけで消化しようとする。
 

あなたは、ほかのものに対する負担を自ら背負うことを望む。
 

なぜそのようなことを望むのだ。
 

それは無益である。
 

あなたがこれまで魂の側面のものたちに与えてきた癒しや愛、それらをそのものたちは、あなたに与えることを望んでいる。
 

それを感じなさい。
 

すべてのものがそうあるのではない。
 

これまで癒されてきたものたちがそう望んでいるのだ。 

あなたがなぜ明確さに欠けるのか。
 

それはその必要があるからである。
 

まずあなた自身が落ち着くように休みなさい。
 

気持ちを休ませるのだ。
 

あなたは何も考えずに過ごすということを知らない。
 

あなたは常に自分の感覚で誰かに奉仕することばかり考えている。
 

それがすべてにとって有益なものであると考えている。
 

あなたは今、あなたという人間を癒すべきなのだ。
 

それを理解しなさい。
 

あなたが常に求めているのは、奇跡による感動であり金銭的な報酬ではない。
 

名声ではない。
 

それを求めるならば、あなたはこれまで接触してきたものたちとの関わりを深めているであろう。
 

あなたの感覚を理解しなさい。
 

あなたが、なぜ代弁をするのか。
 

あなたの言葉はあらゆるものを含んでいるのだとあなたは理解し始めた。
 

あなたの言葉というものについて理解しなさい。
 

どれが自分の言葉で、そうでない言葉なのか判別しなさい。
 

あなたの母については何も告げることはできない。
 

愛をもって接しなさい。
 

彼女に愛を与えなさい。
 

彼女のために、あなたのあらゆるものを捨てようとするのはやめなさい。
 

彼女の望むものはあなたの幸福である。
 

あなたが思い浮かべるような死別はすぐに起こるものではない。
 

だが、生という流れが永遠のものではないと理解しなさい。
 

あなたは、あなたの祈りをまだ理解していない。
 

その祈りがどのような力を持つのかまだ理解していない。
 

祈りなさい。
 

多くのものへの祈りとともに、自分が愛を与えられることを許されること、母が愛と癒しを与えられることを許されることを祈りなさい。

あなたと母が、なぜそのように強い結びつきを持つのか、あなたはまだすべてを思い出してはいない。
 

その魂の側面のものに語りかけなさい。
 

今のあなたは、その側面のものの感情に包まれている。
 

あなたなぜこのような道を歩むのか。
 

それはあなたの魂が決めたことである。
 

自分の進む道がどのようなものであったとしても、あなた以外に原因を求めるのはやめなさい。
 

それらはすべて、あなたが決めたことだ。
 

あなたは踊るのだ。
 

魂のリズムを感じなさい。
 

あらゆるものを感じなさい。
 

あなたの覚醒はそこから理解が始まる。
 

理性で悟ろうとするのはやめなさい。
 

あなたはまだ自分の覚醒がどのようなものか理解していない。
 

流れるのだ。

漂うのだ。
 

すべてを一つとして、すべてを繋がるものとして見つめなさい。 

霊媒であるあなたが自らの覚醒を悟らなければ、あなたは他の者に恩恵を伝えることができない。
 

あなたは覚醒しているのだ。
 

あなたの魂が覚醒を起こしたのだ。
 

あなたが覚醒したということに気づく必要があるのだ。
 

あなたが進むべき扉はもう開かれている。
 

その扉を見つけなさい。
 

それはあなたの中に存在する。
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(第20霊信おわり) 
第21霊信へつづく