2013年12月22日日曜日

SAM前世療法の成立 その40

総括 その1 教育催眠研究から前世療法研究へ
私と催眠との出会いは、小学生期にまで遡ります。
祖父に催眠の心得があり、離れの和室に訪ねてくる人に施療していた姿をしばしば見て育ちました。
祖父は、名古屋市の裕福な和楽器問屋の長男として育ち、若いときから風流な趣味人として生きてきた人でした。
八卦、姓名判断、手相・人相、華道、茶道、催眠とそれぞれ免許を持ち、晴れの日は農作業、雨の日は注文を受けた鍬やツルハシの柄を樫材を削って作る毎日を送っていました。
夜は、お茶と生け花の師匠をし、依頼があれば催眠治療をするという生活でした。
今で言うボランティアで、依頼に応じては施療していたようです。
祖父の催眠技能がどれほどであったかは小学生の私が知る由もありませんが、車酔い・吃音・悪癖で悩む大人・子どもの訪問者が結構ありましたから、ある程度の腕前はあったのでしょう。
当時小学生だった妹が祖父に車酔いを治してもらったと自慢していたのを聞いて、催眠術なんてインチキくさいよ、とからかったことを覚えています。
やがて中学校教員になった私は、学級の子どもたちの車酔いや、学習指導に催眠を活用できないかと考えて,祖父に催眠の伝授を頼んでみました。
明治生まれの頑固な祖父は、「おんしは、人間がまだできておらんから断る」と素っ気ない返事でした。
それでも、85歳を過ぎて寝込むと、私を枕元に呼び、「あの本棚に催眠の秘伝書が二冊ある。おんしに譲る。催眠術は自得するものである。精進せよ」と遺言を残して逝きました。
私が29歳のときでした。
催眠の本格的研究に取り組んだのは、35歳のときに上越教育大学大学院修士課程へ現職教員の身分で研修派遣され、二年間学んだときのことでした。
A・Hマズローの自己実現論の研究に取り組み、その研究過程で、マズローがその人間観に反発・批判したフロイトに触れることになりました。
フロイトの精神分析理論の根幹である「無意識」の発見の端緒が、催眠にあったことを知り、ここから催眠理論と誘導実技の本格的研究に取り組むことになっていきました。
垣間見られる潜在意識(無意識)の謎の深淵は、催眠研究をライフワークとして取り組ませるだけの大きな魅力に満ちた世界でした。
その後、37歳で中学校の教育現場に戻った私は、岐阜県教育センター研修主事として催眠療法の研究歴を持つ大澤功校長(故人)に仕え、大澤校長のスーパーバイズとバックアップを受けて、当時岐阜県ではまったく先行研究のなかった、学校での教育相談の一環として教育催眠の研究に傾倒していくことになりました。
同時に、日本教育催眠学会へ入会し、学会発表を通しながら、自らの教育催眠の理論と実践の研鑽を積み重ねました。
この学会に所属した縁で、学会の生みの親であり、日本の催眠学の泰斗、九州大学名誉教授成瀬悟策医学博士のスーパーバイズを受けるという幸運に恵まれることになりました。
やがて、児童生徒への教育催眠の実績を聞いて、親や、知人からの催眠療法の依頼が舞い込むようになり、大人への催眠療法にも守備範囲を広げていくことになりました。 
大人への催眠療法も手がけていく中で、それまで学んだ催眠技法では歯の立たない19歳女性のリストカットの事例に出会いました。2002年のことでした。
この事例で、最後の手段として私がが初めて用いたのが、当時一世を風靡していたワイス式前世療法です。
それまで、科学としての催眠療法を標榜し、唯物論科学を信奉していた私にとって、いまだ立証されてもいない「前世」をかぶせた「前世療法」は、心理学として位置付いた催眠療法を、再び非科学的なニュアンスの濃厚な催眠療法へと逆行させる、目障りで怪しげな療法でした。
また、それまでの教育催眠にはまったく用いる必要のないものでした。
こうして初めておこなった前世療法は、予想に反して意外な著効をもたらしました。
クライアントの女性が、前世の影響からリストカットに陥っていた気づきを得たことで、それまで執拗に繰り返され、しかもその間の記憶がないというリストカットが改善に向かうという、まことに不思議な成果を挙げることができたのです。
この最初の前世療法の事例は、その3年後に出会うことになる「タエの事例」の前駆的事例となりました。
私の抱いていた前世療法への反発は影をひそめ、試す機会を得ては前世療法を用い、その改善効果を検証することへと研究を傾注することになっていったのです。
(その41に続く)

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