2013年3月12日火曜日

SAM前世療法の治癒構造とその検証事例

どんな心理療法であれ、治癒構造の説明というものは絶対的な実証ができるわけではなく、仮説にすぎません。
SAM前世療法においても、その事情は同様です。したがって、ここで述べることも、当然、暫定的な仮説でしかありません。
それでは、わたしが現時点でSAM前世療法の治癒構造をどうとらえているのか、実践者としての実感的考えを述べてみたいと思います。

SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが意識・潜在意識をつくり出している、というわたしあて霊信が告げた作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。

魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして顕現化した前世の人格とセラピストは対話し、クライアントの顕在意識(モニター意識)は、前世人格の訴えるその苦しみや悲しみを共体験しながら傾聴します。

こうした対話によって、前世人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、前世人格とつながっている現世のクライアントは、自分の症状について「ああ、そうだったのか!」という感情を伴った納得(洞察)へと至ります。

こうして、前世人格の癒しに伴ってクライアントの主訴も連動して改善が起こるのだ、というのが、SAM前世療法による治癒の基本原理だと考えています。

このことつまり、こうした治癒原理そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。

したがって、セラピストは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なセッションに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。

セラピストは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に意識体として生き続けている前世の人格と対面する、というわけです。

19世紀末まで生きたラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあり、死後も魂の表層に生きているからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。

こうした検証事実から、魂の表層には今も前世の人格が生きて存在している、という霊の告げた作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューと対話相手カルパナさんの次のようなネパール語会話です。

ラタラジュー人格: Tapai Nepali huncha?
            (あなたはネパール人ですか?)
 
対話者カルパナ: ho, ma Nepali.
           (はい、私はネパール人です)

ラタジュー人格: O. ma Nepali.
           (ああ、私もネパール人です)

この会話のラタラジューと名乗る人格は、カルパナさんに対して、明らかに、ただ今、ここに現れて、問いかけています。
前世人格ラタラジューは、今も生きており、顕現化して現在進行形で問いかけているとしか考えられません。こうした事実から、里沙さんが、ラタラジューという前世の記憶を想起して語っているという説明は成り立たないのです。

それでは、前世人格が顕現中のクライアント自身の意識状態は、どうなっているのでしょうか。これは治癒構造の根本に関わる重要なポイントだと思われます。

既に紹介してきた里沙さんの手記からも分かるように、セッションの進行をモニターしているクライアントの意識は明瞭にあります。
つまり、前世人格の意識と現世人格のモニター意識が、併存状態のままでセッションが進行・展開していくということです。
クライアントの意識は、セラピストと前世人格の間で交わされる対話を聞いている第三者的オブザーバーの立場で、セッションに参加・同席していると理解してよいと思われます。

こうして、SAM前世療法においては、セラピスト対前世人格の間で交わされる対話、そこに同席しモニターしている現世人格の意識という「三者的構図」になっていると言えるでしょう。

カウンセラーの質問に対して発話するのは前世人格です。前世人格は、クライアントの肉体つまり、発声器官を用いて発話することになりますから、モニター意識からすると、勝手に、あるいは自動的に発話がされているという自覚を持つことになります。
それは前世人格が、悲嘆の場面に直面化したときに涙を流すという場合についても同様です。前世人格がクライアントの涙腺を用いて涙を流すことになりますから、モニター意識はそれを自分が流している涙であるという自覚を持てないことになるのです。

ただしここで重要なことは、モニター意識は、単なるオブザーバーではなく、前世人格の苦悩やそれが癒されていく感情を、まさに自分のことのようにまざまざと共感的に理解しているということです。
つまり、前世人格の意識とモニター意識は、完全な分離状態として併存しているわけではなく、分離していると同時に強い一体感も持っている、ということです。

魂の生まれ変わりという視点から見れば、現世のクライアントは前世の生まれ変わりの結果ですから、別人格とはいえ、両者の意識は切っても切れない絆で密接につながっているはずで、同一性の感覚があるのは当然でしょう。

こうして、クライアントのモニター意識が、前世人格の語る苦悩の感情と、語ることによってもたらされる癒しの感情を共体験し、その前世人格の苦悩が潜在意識として現世の自分の意識に流れ込んで心理的諸症状(ときには肉体的症状)を引き起こしていたということ、を洞察するに至ると、それらの症状が改善に向かう、というのが現時点でわたしの考えている暫定的な基本的治癒構造です。

たとえば、77歳の男性クライアントの主訴は、端からみれば些細と思われる不誠実な行為に対して、激しい怒りが沸騰し、加齢とともにそれがだんだん激しさを増している、という主訴によってセッションをおこないました。
そこ
で顕現化した前世人格は、信長と敵対していた摂津の20代の若い領主でした。信長に対抗するために同盟を結んでいた大名の裏切りにより謀殺されたという事情を語りました。信頼していた同盟者の裏切りを絶対許すことができない、謀殺されていかにも無念である、と苦悩を訴えました。
魂の表層にあって、この謀殺された領主の人格が現世のものにその怒りを訴え続けていたわけです。
この前世人格の影響を受けて、不誠実な行為に対する怒りの沸騰現象を起こしていることを洞察したクライアントは、セッション1ヶ月後にはそうした怒りの爆発を意識的に抑制できるようになった、との報告をセッションに同席した奥様より報告を受けています。
おもしろいのは、覚醒後このクライアントが、「摂津とはどのあたりですか?」と尋ねたことです。ご本人が語ったにもかかわらず、摂津という語の意味するところが分からないというのです。

このように、前世人格の影響によって起きている様々な意識現象の諸事実の累積は、かなりの事例数にのぼります。

不都合な心理的諸症状や性格特性は、前世人格の持つ体験が多かれ少なかれ影響をもたらしている、という多くのクライアントの示す意識現象の事実を無視することはできません。

こうしたことから、人格の形成には、遺伝と環境に加えて、前世人格の体験という第三の要因を考えるべきではないかという提案は、あながち的外れの誤りではないと思われます。

理由不明な、各種恐怖症、強迫観念、変わった能力、変わった性癖などは、深層心理学的な、精神分析的な、回りくどい唯物論による解釈を持ち出さなくとも、前世人格のそうしたことに関わる具体的状況を探り、それに照らして理解したほうが、すっきりと解釈できることは確かです。
そうして、節減の原理にもかなった説明だと思われます。

実際に、主訴に関わる前世人格の心的外傷を癒すことによって、少なからぬクライアントの諸症状の改善が連動して起こる事実は否定できません。

生まれ変わりを認めることは、人間の性格特性や特異行動を説明するうえで、従来の心理学上の様々な考え方で解釈するよりも、より説得力があるように思われます。
もちろん、現世の不都合な諸症状や特異能力すべてを、前世からの影響に還元することは、安易な、短絡的な一般化として戒めるべきでしょうが。

今後、多くの諸事例をさらに検証し、累積し、分析をしていけば、現行の人格形成の理論的枠組みに、前世人格による要因を加えるなどの検討を迫ることになるかもしれないと思われます。
生まれ変わりの科学的研究の泰斗、バージニア大学精神科教授イアン・スティーヴンソンが、自分の研究室を、「超心理学研究室」から「人格研究室」に改称したというのも、以上述べてきたような考え方によるものかも知れないと思っています。
彼が存命中であるのなら尋ねてみたいものです。

16 件のコメント:

ソウルメイト さんのコメント...

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『「魂」の未完のドラマ』という本を書いたロジャー・J・ウルガーという前世療法家は、ユング派の学統に属する人ですが、ユング派のみならずさまざまな心理療法の技法を試した結果、前世療法ほど、顕著で劇的な症状改善や、症状のよって来る原因についての圧倒的な洞察において、前世療法に比肩しうる心理療法は存在しないと述べていますが、心理療法の実践者の言葉だけに傾聴すべきものがあると思います。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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心理療法家は、とかく自分の依って立つ療法に思い入れを強くする傾向がありがちです。
わたしにしても、自分の創始したSAM前世療法への思い入れは相当なものだと思っています。
恣意的推論、極端な一般化、拡大視、選択的抽出といった認知の歪みの有無を点検し、常に自省することを忘れると、誤認と独善に陥ることになります。
また、心理療法家は、医師、弁護士などと同じく、人の弱みを仕事の糧にしていることを忘れず、謙虚であることを忘れてはならないと思います。

山田俊英 さんのコメント...

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先生のあの映画での試みは文化文政時代に平田篤胤が行った「勝五郎再生記聞」を想起させるものでした。ちなみに勝五郎の件は前世の墓も確認されています。私自身のハイアーセルフは李氏朝鮮王朝粛宗時代の作家「金湖彬(キム・ホビン)」と名乗っています。たぶん金湖彬の意識を呼び出すことに成功すると、古い時代の韓国語が飛び出すかもしれません。

ソウルメイト さんのコメント...

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稲垣先生が発見されたタエやラタラジューの事例は、古来、魂や霊魂などと呼びならわされてきた人間の主要な精神機能が死後も存続し、異なる歴史的、社会的、民族的背景のもとでいくつもの独自の個性や人格として生まれ変わることを確実に証明しているとわたしは思います。(スピリチュアリストの高森光貴氏の異見は、傾聴にあたいするとしても)
わたしには、これほど実証性の高い事例に、たまたま偶然、稲垣先生が遭遇されたとは思えません。稲垣先生あての霊信にある通り、これは、高次の霊的存在の関与があるものとわたしも思います。
ところで、稲垣先生の創始された「SAM療法」というものは、はあくまで、個人の心を癒すためのものであり、それ以外の霊界からのメッセージを伝えたり、霊的な知識についての啓発を目的とするものではないのでしょうか?その点について、クライアントが「魂の自覚状態」にある時の「守護霊」などの高次の存在が、明確に告げていることがあるでしょうか?あるいは、稲垣先生あての霊信でこのことについての言及があるのでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

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「タエの事例」「ラタラジューの事例」は、里沙さんの守護霊の告げるところによれば、「わたくしより、さらに上におられる方の計画によって贈られたものです」ということになっています。
2007.1.11~2.14のわたしあて霊信には、「霊的真理を広めることが使命である」と告げています。また、「わたくしたちの必要に応じて、あなたの求めに応じて、わたくしたちはあなたに霊信を送るであろう」という霊信が、文字情報としての霊信の最後になっています。その後、その約束は守られ、2~3ヶ月に1回ほど、魂遡行状態のクライアントに、わたしの守護霊、あるいは守護霊団の一員、クライアントの守護霊、ときに神を名乗る存在などを通して、現在も口頭、あるいは指の回答による霊信は継続しています。
昨年前半までは、「霊的存在について懐疑的なものの言い方はやめなさい」、「SAM前世療法の仮説は正しいから自信をもって進みなさい」、「SAM前世療法の後継者を育てなさい」などが定番の霊信でした。
昨年後半になって、「霊的真理を世界に発信しなさい」、「霊的真理を広めることを急ぎなさい」
になり、今年に入ってからは、「上映という形で霊的真理を広めてくれることに感謝している」、
「あなたの仕事はまだ終わっていない。ときを見て次の仕事を伝える」ということになっています。
わたしの霊団が霊的知識の啓発を目的としているとすれば、彼らが告げているSAM前世療法の作業仮説そのものであろうと思います。
心・脳二元論、魂の二層構造、霊体などは、これまでのスピリチュアリズム聖典とされる諸霊信にはない情報だからです。
わたしあて霊信以外に、魂の構造については、シルバーバーチの霊言に、ダイヤモンドのような多面体をしている、ということがあるくらいでしょう。

ソウルメイト さんのコメント...

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>稲垣勝巳さん
ご回答感謝します。
重ねてお伺いすることをお許しいただけるのであれば、高次の霊的存在に対して質問することなどは許されるのでしょうか?かならずしも、興味本位にではなく、自他の霊性や精神的、心理的発達に役立つような指針や導きを求めて真剣にしる質問に答えが得られるものでしょうか?

稲垣勝巳 さんのコメント...

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わたしは通信霊の霊信に対して、質問することはまずありません。
なぜなら、「それより詳細の説明は、ここでは許されないものとする。今のあなたには、それ以上多くのものを与えることは成長を留まらせるものとなる」、「わたしたちが説明を分け与えていくことは許されない。それは、あなた方の世界に存在するものたちがおこなうべきものである」、「それについてはまだ告げることが許されないものなのだと理解しなさい」などの常套句によって、回答を回避・保留することが常だからです。
そして、「信仰を築きなさい」と繰り返し言われています。
したがって、彼ら守護霊団は、必要なときに、必要なことを、タイミングを計って告げてくるものだと感じています。
来るべきときに、来るべきものは来る、これが私の霊信に対する基本的態度です。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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つづき
里沙さんの守護霊は、私に霊界の消息を告げることが使命で、霊界では異例の存在だと告げています。その里沙さんの守護霊が告げるには、
「魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です」
と告げています。
この霊信を信じるならば、守護霊など高級霊が、地上の人間の求めに対して、あれこれ指示や指導することは本来しない、ということでしょう。
霊性や精神的、心理的発達に役立つような指針や導きを求めても、ないものねだりということではないでしょうか。
その回答は、人間たち自ら精進して獲得せよ、ということだろうと思われます。

ソウルメイト さんのコメント...

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人間というものは、あれこれ規則や命令で縛りつけたりしないで、自由に、自主的にしたいと思うことをさせてやれば、嫌でも成長し発達するものだとわたしは思っています。それが、魂というものの性質であり、本性だからだ、というように理解しております。たとえ、その結果が失敗や挫折であったとしても、人間は成功よりは、失敗や挫折からより多くを学ぶものだと思いますから、無駄な経験などというものは、ないのだろうとも思っております。
この物質世界において、人間として生きるということは、あらゆる体験と選択に開かれた「場」であって、そのことを通して、魂は自ずと成長し、発達するという理解と認識は、心理学や宗教のもっとも高度な洞察と一致するもので、高い精神の格調を感じさせます。人間というものをよく知っている、わかっているなぁ、と感心させられます。
優れた匠や禅のお師家さんが弟子を鍛え、育てようという場合、まず、稲垣先生への霊信にあるような基本姿勢をもって臨むにちがいないでしょう。自ら自覚体認することでしか、ほんとうの成長と発達はありえないでしょうし、魂が何度も異なる条件のもとでいくつもの異なった人生を送るのは、人生というものは、その全局面を実際に生きてみないことには、ほんとうのところはわからないからだろうと思います。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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「この物質世界において、人間として生きるということは、あらゆる体験と選択に開かれた『場』」であって、そのことを通して、魂は自ずと成長し、発達するという理解と認識」こそ高度な洞察である、というソウルメイトさんのお考えにまったく同感です。
それは、これまでのSAM前世療法で得られた知見にぴったり一致しています。
付加するなら、物質世界で人間という器を持った魂は、霊界(中間世)で決めてきた「現世の宿題」をすべて忘却する仕組みのようです。
したがって、宿題を果たすために精進する生き方も可、宿題を忘却したままで怠惰に生きることも可、であって、それは魂に与えられた主体性のようです。
私は霊信によれば、369回の生まれ変わりをしていることになっています。
これを信じるならば、おそらく私の魂は、生まれ変わりの半数以上に怠惰な人生を送った前世があるのだと思っています。あるいは、志なかばで死んだ前世が相当あるのでしょうね。
いずれにせよ、失敗や挫折の人生であったとしても、人間は成功よりは、失敗や挫折からより多くを学ぶ、というソウルメイトさんのおっしゃるとおり、そうした前世のものたちに支えられて、現世の私がある、という確かな実感があります。
第15霊信で次のような謎のことばを告げています。
「あなたの魂が、そしてあなたとともにあなたの魂から生まれた多くのものが存在し、同じものを見つめていくのだと理解しなさい。それらのものの協力を求めるのだ。友愛、それは自身の魂によるものこそ真の友愛である。あなたは、自らの魂の側面であるものたちと友情を築くのだ」
※「魂の側面」と「魂の表層」とは同じ。霊信では2つの用語を用いている。「側面」という用語法は、シルバーバーチの「魂はダイヤモンドのような多面体」という表現に近似している。

ソウルメイト さんのコメント...

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>稲垣勝巳さん
第15霊信の「あなたとともにあなたの魂から生まれた多くのものが存在し……」というのは、間違いなく真実だと思います。わたしたちは、自分が想像する以上に多次元的で多重な存在なのだろうと思います。
バーバラ・ハナーというユング派の心理学者は、「アクティブ・イマジネーションの世界」という著作の中で、神経症によって半生をだいなしにされたかに思われた女性の内面の「グレート・マザー」が「人生というものは、ことごとく生きられています。たしかにあなたは神経症を生きていたけれど、その間私がかわって、神経症の背後に隠されたあなたの人生を生きていました。あなたはそれを知らないから、自分の人生を失くしてしまったように感じるのです。しかし、あなたの人生は生きられています。私によって。……」と語ったことが記されています。
人間には、自分が意識する自分より、はるかに高度な高次元の自分というものがいて、ともに人生を生きているのだろうと思いますし、それゆえ、いかなる人のどんな人生も、無駄と呼べるような人生は、ただの一つもないと思います。
稲垣先生は、ご自分の「生まれ変わりの半数以上に怠惰に生きた人生を送った前世がある……」と書いておられますが、ご謙遜に過ぎのではないか、と思います。今生の先生のお働きからして、先生の魂が相当なレベルで成長と発達を達成してこられたことは、まず間違いないとわたしは思います。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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私の魂が、相当なレベルで成長と発達を達成している、その結果が、「簡素で、自給的で、喜びを中心とした生活」を理想にしていることでしょうかね。
「タエの事例」も、「ラタラジューの事例」も、たまたま遭遇したので、徹底的に検証しようとしたまでで、それも、生まれ変わりがあることを確信して、安心立命を得たいとする己のためにしたことなのです。
こうした私の生き方は、高貴な魂の持ち主とは思えませんし、難行・苦行によって悟りを求めるなどにはまったく無縁の平凡な人生です。
ただし、そのことを恥じてはいませんし、誇りにすることもありません。
今日、晴天の木曽川べりのサイクリングロードをスポーツサイクルでゆったりと走りました。
梅のほのかな香りが混じる早春の大気を味わい、ウグイスの声を聞きながら、今日も元気で走れることよとうれしくなる、それが「喜びを中心とした生活」の一つの典型です。

ソウルメイト さんのコメント...

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>稲垣勝巳さん
禅のお坊さんは、「柳は緑、花は紅」というようなことを言うんだそうですが、「柳が紅で花が緑」だったら、これは、異常事態で大変ですけど、「柳が緑で花は紅」なら、当たり前のことで、わざわざ口に出して言うほどのことでもないと思います。その「当たり前」のことを「当たり前」にというところが肝心なところなんでしょうね。稲垣先生は教職にあられた方で、生徒の学習指導や生活指導のご経験から、その辺りのことはよくお分かりかと思いますが、わたしはつくづく「当たり前」のことを「当たり前」にすればいいだけのことが、なんと難しいことかと慨嘆させられる毎日を送っております。
べつにとりたてて、偉大なことなんてしなくてよろしい、だだ、「当たり前」のことを「当たり前」にすればそれでよろしいということが実は、魂の成長と発達のバロメーターなのかな、などとしみじみ思う、今日この頃です。
人としてごく当たり前に自分自身と他者を等しく愛し、共感と理解と赦しを与えて抱きしめられるかどうかということは、偉大な業績をあげたかどうかに関係なく、そう簡単にできることではないと思いますが、それこそが魂の成長であり発達なんだと思います。きっと。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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ソウルメイトさんの当たり前のことを当たり前にするということは、私の心がけに置き換えると、仏道でいうところの「六波羅蜜」を行じて生きていこうということになります。六波羅蜜を行じて得た知を、私は「行的認識」と呼んでいます。実践によって獲得した揺るぎない知のことです。
そうして、六波羅蜜に生きようとすれば、必ず負荷(困難)が生じます。その負荷に向き合い、乗り越える過程で、魂は成長すると思っています。
実は、当たり前に、平凡に生きることは、どの時代にあってもたやすいことではないのでしょう。
であるからこそ、魂の成長のために、この現象界に繰り返し生まれ変わる必要があると思われます。

ソウルメイト さんのコメント...

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>稲垣勝巳さん
稲垣先生は、あえて公言はなさいませんでしたが、やはり、東洋の伝統的な「霊的知」を実践される方だったのですね!うすうすとは、たぶんそうかな?とは思っていましたが。
仏教に限らず、難解な哲学的思惟なんてのは、ほんとうは、どうでもよくて、だれにでもわかるけれど、実際に行うのは簡単ではないということが実は、肝心なところなんだというようなことは、わかっているつもりなんですが、この「わかっているつもり」というのが、くせ者で、ほんとうにわかっているか?というとはなはだ心もとないないわけでありまして、常々、慚愧に堪えないというような経験をしております。
魂の成長と発達というのは、はるかかなたを目指す、なかなかに困難な道なんですね。

ソウルメイト さんのコメント...

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「西洋の知」というものは、デカルトに代表されるように主体と客体を分ける「二元論」ですが、あらゆるものをあれかこれかに分ける二元論というものこそ、「西洋的知」の特徴のように思います。
「スピリチュアリズム」は、「霊」と「肉」の一種の「二元論」だと思いますが、東洋における宗教や哲学、神秘思想は、「霊」と「肉」の分離をよしとせず、統合を目指す「一元論」であろうかと思います。そこにこそ、西洋の精神の行き詰まりや閉塞を打開する活路があるとして、探求に乗り出した西洋の偉大な知性もありましたし、ユングもその一人だったと思います。
ユング派の心理学者、老松克博さんは、自著「漂泊する自我」の中で、東洋人の心は、西洋人の心のありようとは異なり、ごく自然に心の深層領域、神秘的、超越的次元に開いているのではないかと提議しておられますが、何気ない日常に神や仏のなにごとかを感じるなどというのは、東洋人ならではの心性と言えるのではないかと思います。