2012年11月28日水曜日

「タエの事例」全セッション記録その1

『催眠・魂・生まれ変わりの真実』と題したドキュメンタリー映画制作にあたって、「タエの事例」のセッション全記録映像を前半のメインとしました。
タエの台詞を字幕で入れる作業が終わりましたので、その過程で、2005年6月4日のセッション以後、今日までの7年半の間に、新たに分かってきたことを※印のコメントを加えて公開します。
なお、COはカウンセラーの筆者、CLはクライアント里沙さんの略です。
CO:さあ、これであなたは、時間も空間も関係のない次元に入りました。もし、あなたに、今の人生のほかにも人生があったら、そこに自由にどこへでも行くことができ ます。でも、最初にこの前行った江戸時代へ行ってみましょう。何も心配したり怯(おび)え ることはありません。私が付き添ってガイドしますからね。それでは、これから三つ 数えます。そうしたら天明の時代に生きたあなたの楽しい場面にまず行ってみましょうか。いいですか、天明に生きたおタエさんの一番楽しい場面に戻りますよ。一・二 ・三。さあ、あなたはどこで何をしていますか?
※一番楽しい場面に戻る、という暗示をしたのは、前回3ヶ月前のセッションで、タエ溺死の場面に戻りてパニックになったことが分かっているので、それを避けるためである。
CL:・・・桑畑で桑の葉を摘んでいます。
CO:あなたのお名前は?
CL:タエ。
CO:それで、桑畑には他にもあなたの知ってる人がいますね。誰がいますか?
CL:・・・働いてる。
CO:働いてる? あなたの親とか兄弟はいませんか? あなたは一人ですか?
CL:はい。
CO:あなたはみなし子ですか?
CL:はい。
CO:今あなたは何歳ですか?
CL:一三。
CO:一三歳ですか。あなたがみなし子だった事情を誰かから聞いていませんか?
CL:捨てられてた。
CO:気がついたときには、赤ちゃんで捨てられていたのですか?
CL:そう。
CO:それで、あなたを育ててくださった人がいますね。どんな人ですか?
CL:安永九年(一七八○年)、渋川村、上郷(カミノゴウ)、名主クロダキチエモン。
※渋川市教委を通じて、渋川市史編集委員の郷土史家の蔵書の検索によって、当時の渋川村の名主が4名であったことが判明。そのうち一人がホリグチキチエモンであった。クロダキチエモンではなかった。2012年5月29日の再セッション(映画で公開予定)によって、クロダキチエモンは、「クロダのキチエモン」と呼ばれていたことをタエが語った。名主キチエモンの田畑の土が黒かったので村の衆がそう呼んだ。つまり、「クロダのキチエモン」は俗称であり本名ではなかった。本名をタエは知らないと語っている。ホリグチ家は初代以後明治になるまで当主は代々ホリグチキチエモンを襲名していることが判明。村の衆は、当代ホリグチキチエモンを先代、先々代と区別するために「クロダのキチエモン」と俗称で呼んだことは信憑性が高いと思われる。
CO:クロダキチエモンがあなたの義理のお父さん。キチエモンさんの連れ合いであなたの義理のお母さんは?
CL:ハツ。
※ハツの実在を検証するため、渋川市上郷の良珊寺にあるホリグチ家の墓碑を探したが、古い石塔は苔むして文字が判読不可能で特定に至らなかった。残る検証方法は良珊寺に残る過去帳で検索することであるが、差別戒名の問題によって過去帳の公開は禁止となっている。なお、当時の人別帳は焼失して残っていない。
CO:クロダキチエモンさんとハツさんご夫婦に、あなたは育てられたわけですね。あなたが捨てられていたことは、そのお父さん、お母さんが話してくれたわけですね?
CL:(頷く)・・・たくさん。
CO:たくさん拾われた子どもがいるんですね。キチエモンさんは、そういう篤志家(とくしか)ですか。渋川村の名主さんですね。渋川村というのはどの辺りですか?
※渋川村は、現群馬県渋川市となっている。渋川市には上郷(カミゴウ)の地名が残っており、天明年間は(カミノゴウ)と呼ばれていたことが判明。渋川村が現渋川市として存在していることを、私を含めて8名全員が知らなかった。 
CL:上州、上野(こうずけ)の国。
CO:あなたは今一三歳で、年号は何年ですか?
CL:安永九年。(一七八○年)
※安永は九年で終わっていることがセッション後判明。安永という年号があることは、私を含めてその場の見学者7名全員が知らなかった。
CO:はあ、安永九年で一三歳。で、今、桑畑にいる。それがなぜ一番楽しいのでしょう?
CL:桑の実を摘んで食べる。
CO:桑の実を食べるんですか。口の周りどんなふうになってるか分かりますか?
CL:真っ赤。(微笑む)おカイコ様が食べる桑の木に実がなる。
CO:それならどれだけ食べても叱られることないんですか。ふだんはやっぱり遠慮がちなんですか? (CL頷く)拾われてるから。あなたと同じように拾われた兄弟も 一緒に葉を摘んでますか? (CL頷く)楽しそうに。(CL頷く)じゃ、ちょっと 夕飯の場面に行ってみましょうか。三つで夕飯の場面に行きますよ。一・二・三。今、 夕飯の場面ですよ。どこで食べてますか?
CL:馬小屋。みんなも。
CO:下は?
CL:ワラ
CO:どんな物を食べてますか?
CL:ヒエ。
CO:ヒエだけですか。おかずは?
CL:ない。
CO:ヒエだけ食べてるの。白いお米は食べないんですか? (CL頷く)だからあまり夕飯は楽しくない。で、みんなとどこで寝るのですか?
CL:馬小屋。
CO:馬小屋で寝るの。お布団は?
CL:ない。
CO:寒いときは何にくるまるのですか?
CL:ワラ。
CO:ワラにくるまって寝るの。あなたの着てる物を見てごらんなさい。どんな物を着てますか?
CL:着物。
CO:着物の生地は何でできていますか?
CL:分っからない。
CO:粗末なものですか。(CL頷く)手を見てごらんなさい。どんな手になってます か?
CL:きれいな手じゃない。
※キチエモンは捨て子を拾い育てているが、おそらくは農作業の労働力として使役するためであろう。したがって、牛馬同様の過酷な扱いをしていたと考えられる。
CO:じゃ、もう少し先へ行ってみましょう。三年先へ行ってみましょう。悲しいことがきっとあると思いますが、その事情を苦しいかもしれませんが見てください。どうですか? で、三年経つと何年になりますか?
CL:天明三年。(一七八三年)
CO:天明三年にどんなことがありましたか? 何か大きな事件がありましたか?
CL:あ、浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって・・・。
※天明三年五月あたりから浅間山が断続的に大噴火を始めた。七月に入ってますます噴火が激しくなり、遂に七月七日夜にかけて歴史的大噴火を起こした。この夜の大噴火によって、鎌原大火砕流が発生し、このため麓の鎌原村はほぼ全滅、火砕流は吾妻川に流れ込み、一時的に堰き止められた。半日後に火砕流によるダムが決壊し、大泥流洪水となって吾妻川沿いの村々を襲った。この大泥流洪水の被害報告が、『天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳』として残っている。この大泥流に流されてきた噴火による小山のような岩塊が、渋川市の吾妻川沿いの川面から数メートル高い岸辺に流れ着いて、「浅間石」と名付けられて現存している。
吾妻川沿岸55か村におよぶ被害は、流死1624名、流失家屋1511軒であった。ちなみに、渋川村の上流隣村の川島村は、流死76名、流失家屋113軒、流死馬36頭であり全滅状態であった。ただし、渋川村の被害は「田畑少々流水入 人壱人流」となっており、流死はたった一人であった。こうした事実はセッション後の検証で判明した。
CO:火が渋川村から見えますか?
CL:うん。
CO:噴火の火がみえますか?
CL:ふんか?
※天明の頃には「噴火」という語は無く、浅間山の噴火を「浅間焼」と言った。
CO:噴火って分かりませんか? (CL頷く)分からない。火が山から出てるんですか?
CL::熱い!
CO:煙も見えますか?
CL:は、はい。
CO:じゃ、灰みたいな物は降ってますか? そのせいで農作物に何か影響が出てますか?
CL:白い灰が毎日積もります。
※渋川市は浅間山の南東50Kmの風下に位置する。天明3年5月から断続的に噴火を続けた浅間山の火山灰が相当量積もったことは事実である。
CO:どのくらい積もるんでしょう?
CL:軒下。
CO:軒下までというと相当な高さですね。単位でいうとどのくらの高さですか? 村の人はなんて言ってますか?
CL:分からない。
CO:軒下まで積もると農作物は全滅じゃないですか。
CL:む、村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いても、雷神様はおさまらない。
※火山灰に苦しむ村々が、鉄砲を撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いて噴火を鎮めようとしたことは当時の旅日記などに記述されている事実である。当時の村人たちは、噴火にともなう火山雷を、雷神の怒りと見なした。
CO:その結果なにが起きてますか?
CL:龍神様は川を下ります。
※浅間山は龍神信仰の山であった。浅間山に住む龍神が、噴火で住めなくなって、浅間山麓の東を流れる吾妻川を下ると当時の村人は考えたのであろう。
CO:その結果どうなりました?
CL:天明三年七月、七夕様の日、龍神様と雷神様が、あま、あま、あまつ、吾妻(あがつま)川を下るので ・・・水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・わたし がお供えになります。
※2006年10月放映のアンビリバボーでは上記「上の村が水にやられるので」の台詞が消去されてしまっている。この台詞があると、タエが人柱になる理由が渋川村を救うためではなく上流の村々を救うためになり、視聴者には人柱の理由が分かりずらくなる。タエが自分の住む渋川村を救うために人柱になる、としたほうが分かりやすいとアンビリ側が考えたうえで事実の歪曲がおこなわれたものと思われる。ちなみに、「吾妻川」を知っていたのは7名の見学者のうち1名だけであり、私も知らなかった。
CO:自分から志願したの?
CL:・・・そうです。きれいな着物を着て、(微笑む)おいしいごちそう食べて・・・。
CO:それをしたかったのですか? でも、命を失いますよ。それでもいい?
CL:村のために・・・。
CO:誰か勧めた人がいますか?
CL:おとっつあん。
CO:キチエモンさんが、そう言ってあなたに勧めた。
※セッション後のフラッシュバックで、キチエモンは、吾妻川上流の村々から生糸や野菜を買い入れ吾妻川を舟で運んで交易をしていたとタエは語っている。そのための船着場を持っていた。キチエモンは交易相手の上流の村々を救うために、人柱を仕組んだと推測できる。タエは渋川村を救うための人柱ではなかったのである。
CL:恩返し。・・・みんなのために(微笑む)・・・うれしい。
CO:もう一度確認しますよ。あなたのいる村は?
CL:渋川村、上郷。
CO:川の名前が吾妻川?
CL:吾妻川。
その2に続く

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