2012年2月8日水曜日

「ラタラジューの事例」への反論に対する再反論

ネット検索をしていたところ、「ラタラジューの事例」について下記のような目に余る二つの反論記事がありました。
黙っていると黙認したと見なされますから、証拠をもとに再反論しておきます。
下記点線内は、二人の反論者の記事の核心部分をコピペしたものです。
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反論 その1
第二の事例とされるネパール語を話したとする事例も、残念ながら空耳を羅列しただけとしか思えないバイアスのかかったものであった。
反論 その2
被験者は、自分がネパール人男性で村長であることや被験者の前世の魂であることなど、複雑で奇妙な状況を、日本語でリアルタイムで質疑応答することが出来ますが、ネパール語は名詞らしき言葉中心に単発で時折出て来るだけであり、そもそも最初から習得してないことが明らかです。
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上記2つの批判は、筆者の記述した事実(証拠)をもとにした反論ではないので、とても検討に値するものとは判断できません。
筆者は、事実(証拠)をもとに反論することが礼儀にかなうものと思っていますので、セッションの録音を起こした下記逐語録(『生まれ変わりが科学的に証明された!』PP67-69)に基づいて再反論しておきます。
なお、ネパール語対話録音音声のローマ字表記は、ネパール語を母語とする対話者パウデル・カルパナ氏(朝日大学法学部博士課程)、中部大学客員研究員ネパール人カナル・キソル・チャンドラ博士、中部大学国国際関係学部大門正幸教授らによるものです。
また記号KAは対話者カルパナ氏、CLはクライアント里沙さんの略です。( )内は邦訳です。
KA  Ke ko rog lagyo?
   (何の病気ですか?)
CL  Au ... ha .... pet.
   (あう、は、お腹か)
KA  Pet
   (お腹?)
CL  Pet dukahuncha.
   (お腹が痛い)
KA  Pet dukera?
   (お腹が痛いのですか?)
CL  Ah ... ho ... ah... guhar ... ha ...
   (あー、はい、あー、助けて。はー、はー)
KA  Pet dukera?
   (お腹が痛いのですか?)
CL  Ahu ... ho ... ah ... guhar ruha ... ha ...
   (あふー、はい、助けて。はー、はー)
KA  Ke bhayo dukhyo?
   ( 痛いのですか?)
CL  guhar ... guhar.
   (助けて、助けて)
KA  Kati barsama bitnu bhako?
   (死んだ時は何歳でしたか?)
CL  Ah ... ah ...
(あー、あー)
KA  Kati barsama ...
   (何歳でしたか?)
CL  Umer ... Mero ... umer ...
   (歳は、私の歳は)
KA  Hajur. Bite ko umer.
   (はい。死んだ歳は?)
CL  Ath satori ... ah ...
   (8と70、あー)
KA  Hajur?
   (はい?)
CL  Ath satori.
   (8と70)注78歳のこと
KA  Sattari?
   (70ですか?)
CL  Ath satori.
   (8と70)
上記の対話記録を読めば、反論その1「残念ながら空耳を羅列しただけとしか思えないバイアスのかかったもの」という批判が的を射ているとは到底判断できません。
もし、この対話記録が、「空耳」=音がしないのにしたように感じる、聞き違い、の羅列としか思えないとしたら、「あなたは難聴ではありませんか」とお尋ねしたいと思います。
この反論者1が、拙著の逐語録を読んでいないとしても、アンビリの視聴からだけでも空耳の羅列には聴き取れないはずです。そもそもアンビリ制作ディレクターが「空耳」にしか聞こえないような、いい加減なセッションビデオを放映するはずがないではありませんか。
それとも、アンビリはエンターテイメント番組だから、内容がいかがわしく、信頼性に欠けるということでしょうか。
おそらく、応答型真性異言という唯物論に真っ向から対立する現象などハナからありえない、というバイアスのかかった思い込み、決めつけから生じている偏見・誤解のなせるわざだろうと思われます。
反論その2「ネパール語は名詞らしき言葉中心に単発で時折出て来るだけであり、そもそも最初から習得してないことが明らかです」についても、上記逐語録のどこをどう読むと、このような反論が出てくるのか、まったく理解不能です。この反論者は、拙著を読んだと書いています。
上記ラタラジューの応答のどこが「ネパール語の名詞らしき言葉が単発で時折でてくるだけ」になるのでしょうか。名詞が単発で時折出てくるだけの応答で対話が成り立つはずがありません。
それとも上記逐語録は、対話が成り立っていないと強弁するのでしょうか。
さらに聞き捨てならないのは、「そもそも最初から(ネパール語を)習得していないことが明らかです」というとんでもない主張です。
この主張の裏を返せば、ネパール語を習得していなくても、里沙さん程度の応答的ネパール語対話は誰でもできる、という強弁をしていることになります。
そうであるならば、ネパール語をまったく習得していない人をつかまえて、ネパール人と対話させ、30程度の単語を用いて意味の通じる対話を数分間できる、という証明をしてみせなさい、と反論したいと思います。
ちなみに、里沙さんは対話者カルパナさんの用いていないネパール語単語として、名前を除く29の単語を発話しています。
また、里沙さん(顕現化したラタラジュー人格)は、別の対話個所で
Mero buwa Grokha・・・mero buwa Tamang hunnuhuncha(わたしのお父さんはグルカ、私の父はタマン族です)
というように、ネパール語の「です」に当たる hunnuhuncha という単語を正しく用いています。
「です」に当たるネパール語は一人称ではhu、二人称と尊敬語では hunnuhunchaに変化します。三人称ではhoに変化します。
里沙さん(顕現化したラタラジュー人格)は、お父さんという尊称に対応したhunnuhuncha(です)に正しく変化させて用いています。
これらのことは、拙著『生まれ変わりが科学的に証明された!』PP96-98に記述してあります。
反論その2の反論者は、こうした拙著の記述を読んだうえで、ネパール語を習得していなくても、この程度のネパール語対話なら誰にでも可能である、と主張しています。こんな滅茶苦茶な強弁が通ると考える思考力を疑います。
この反論者も、唯物論以外を認めようとしない人に違いありません。
唯物論科学に真っ向から対立する生まれ変わりを科学的事実として受け入れることは、たしかにとんでもないことです。
唯物論的死生観・世界観の変更を迫られるにとどまらず、その影響力は心理学・医学・政治・社会へと途方もない広がりを持つことになるでしょう。
だからといって、生まれ変わりの最有力証拠を示す応答型真性異言「ラタラジューの事例」を、きちんとした反証を示さず、「そんな非科学的現象が起こるはずがない」と切って捨てることは科学的ではありません。
生まれ変わりの事実を絶対認めたくない人は、生まれ変わりを否定する証拠をもって反論する以外に方法はありません。
同様に、「ラタラジューの事例」を否定したければ、アンビリの映像や拙著の記述内容というきちんとした証拠に基づいて反論するのが科学的態度というものです。
そして、そうした反証を示すことができなければ、いかに唯物論に対立する生まれ変わりを示す現象であろうと、事実の前に唯物論者は謙虚であるべきだと思います。
「ラタラジューの事例」が唯物論科学で説明不可能であれば、現行の唯物論科学では説明できない別の説明体系が存在する可能性を認めるしかありません。
生まれ変わりを裏づける証拠のような重大な問題の場合、完璧なもの以外は証拠として認めないと言うのであれば、この問題が重要であるからこそ、不完全なものであろうと可能性を示す証拠については、科学として検討をするべきだと思います。
細部が不正確・不明であるという欠点よりは、重要な点について確実なことを示す事実にこそ意味があるのだと主張したいと思います。
「ラタラジューの事例」は、こうした重要な点について確実なことを示している、生まれ変わりを示す貴重な証拠であると思っています。

2 件のコメント:

ヤングティーン さんのコメント...

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頑固な唯物論者は感情的に、なおかつ科学的ルールを無視してまで魂や生まれ変わりを認めないようですね。
そんなものあるわけないなら、その理論を論理的をあげるのが科学なはずですが・・・
とあるコメントの内容は
「的確なレビュー,ありがとうございます.ただのトンデモ本ですね.どうせそんなことだろうと思っていました.それでも信じたがる人がたくさんいるんですから,キ○○イを相手にした商売は楽ですね.」
とありました。
まるで検証しようとしなく、尚且つ唯物論の反証を検証する者を中傷するのは科学を通り過ぎて、単に権威を振りかざすだけのファシストでしかないです。
おっしゃる通りにラタラジューの事例を反論するなら、唯物論に対しての妄信や感情をなくした検証や論理的な理論の形成をすべきです。
それもしないで、あり得ないという資格はないです。

稲垣勝巳 さんのコメント...

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>ヤングティーンさん
反証可能性に開かれている、という条件が「科学的」と言われる条件の一つだと思うのですが、私は「ラタラジューの事例」をそのように提示しているつもりです。
したがって、反論者は私の提示している証拠にもとづいて反論を展開する立証責任があるはず
なのですが・・・。
唯物論者は依って立つ唯物論の土台にひび割れが生ずるような現象には「認知的不協和音」を感じて、立証抜きの否定をすることに躍起になるか、それができないと無視を決め込みます。
これは、イアン・スティーヴンソンにも浴びせられた非科学的批判です。
うれしいコメントをいただき恐縮です。