2011年11月30日水曜日

筆者に起きた超常現象その3の3

(その3の2からのつづき)

(3)守護霊の5項目の語りの考察

次に守護霊とおぼしき存在者の①~⑤の語りについて一つずつ検討してみましょう。
まずの語りの内容について検討してみます。
里沙さんのスピリチュアリズムについての知識は、治療霊が存在すること以外にはありません。
したがって、スピリチュアリズムでいう「神の計画」つまり、地上の人間に霊的真理(魂と生まれ変わりの存在、霊界の存在、霊との交信可能など)を啓発し、霊的覚醒を促す計画があることは知識として持っているはずのないものです。
彼女の無意識の役割演技などでは淀みなく発話される内容ではないと思われます。
この計画についての語りは、スピリチュアリズムの高級霊からの霊信内容に一致していると考えることができるでしょう。
の治療霊の存在については、里沙さんの知識としてある程度あるはずです。
彼女の脊柱側湾症による痛み改善のためにヒーリングをした機会に、ヒーリングエネルギーと治療霊について話題にしているからです。
また、彼女は霊感によって、筆者の背後に憑いている複数の治療霊らしき霊の存在を感知できると語っているからです。
しかも、筆者のヒーリング能力についての質問をすることについては、催眠に入る前に彼女に知らせてありました。したがって、治療霊とその治療エネルギーについての回答は、彼女の既有の知識を語った可能性を排除できません。

の、筆者が生を受ける前の「魂」と「神との約束」についての語りは、里沙さんの想像力が駆使され、筆者への願望が投影された彼女の役割演技だと解釈できるかもしれません。
しかし、筆者にヒーリング能力があらわれた理由がそれなりに矛盾なく説明され、瞬時に淀みなく語られた事実を考えると、「守護霊」の憑依可能性を否定できるものではないと思われます。
ちなみに、「筆者の魂が大きく成長した」という語りは、「タエの事例」に出会って以後、世界観・価値観が魂と生まれ変わりの存在を視野に入れたものへと転換し、現世的欲望へのとらわれから自由度を増した精神状態を指している気がしないわけでもありません。
ただし、「善人にのみ効果が現れます」という語りは誤解されやすいかもしれません。
しかし、「悪とはあなたの進む道を邪魔する者です」という語りと照らし合わせると、その病が当人の霊的成長に必要な場合には、ヒーリングが効かないという意味に解するべきであろうと思われます。
なぜなら、治療によって霊的覚醒が阻害されることになり、人を救う道に反することになるでしょうから。したがって、この語り部分も高級霊からの霊信と矛盾するものではないと考えてよいと思われます。

の語りについては、理解に苦しむところです。
ところで、前世療法のセッション中に中間世へ導く過程で、未浄化霊とおぼしきものが寄ってきて憑依しようとしていると訴えるクライアントがこれまでに2例ありました。
筆者に霊視などの霊的能力がなく、そうした霊が見えないために、こうした事態に遭遇しても惑わされることなく冷静に対処できたことを考えると、前世療法セラピストとしては、霊的能力は持たないほうがよいという含意の語りのようにも思われます。
あるいは、筆者に霊的能力がなくそれらに懐疑的な普通の人間の側にいるからこそ、懐疑的な普通の人間への霊的真理の啓発には却って説得力を持ち得るので、啓発者としては適っている、という意味かも知れません。
こう考えてみると「霊能力を与えなかった神に感謝をすることです」という意味深い語りは、里沙さん自身の通常の意識からは到底出てくるはずのないもののように思われます。
まして、その場の咄嗟の思いつきで回答できる類の語りだとは考えられないと思われます。

の語りは、まさにスピリチュアリズムが信奉する霊信内容そのものだと言っていいでしょう。
そして、「守護霊に名前はありません」「魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません」「あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです」などの具体的な語りは、スピリチュアリズムの信奉する高級霊たちの霊信と一致し、正当な守護霊の語りとしてその信憑性が保障されているように思われます。
ここで浮上してくるのが、里沙さんはシルバーバーチの霊言、モーゼスの霊訓などスピリチュアリズムに関する書籍を読んでおり、それを元に語ったのではないかという疑いです。
しかし、これについて彼女はきっぱり否定しています。
また、それを信ずるに足る録音試聴後の感想があります。彼女は感想として次のように語っています。
「私の守護霊は阿弥陀如来だ、と高名な信頼できる霊能者から霊視してもらって、そう信じていました。
だから、私自身が守護霊の役割演技をして語るとしたら、守護霊に名前はありませんとは絶対言わないと思います。
阿弥陀如来です、と言ったはずです。
私の守護霊に、名前がない、と言われてちょっとショックです。
阿弥陀如来以上の守護霊はいないと思っていたから、稲垣先生の守護霊より霊格が上だと思って、密かに優越感があったのに、稲垣先生の守護霊のほうが霊格が高いと言われたのもショックです」
つまり、彼女にスピリチュアリズムの知識があったとすれば、自分の守護霊を阿弥陀如来だなどと信じることはまず考えられません。
高級霊は原則素性を明かさない、というのがスピリチュアリズムの常識ですから、彼女の守護霊についての知識は、仏教の説く「守護仏」と混同している程度の知識でしかなかったと判断できるわけです。
このように検討してみると、⑤の語りの主体は、里沙さん以外の「守護霊」である可能性が高いと判断できるように思われます。
こうして検討を重ねてきますと、憑依したとおぼしき守護霊の回答は、里沙さんの意識が投影された役割演技だと解釈するよりも、彼女が霊媒の役割を果たし守護霊が憑依したものと素直に受け取るほうが妥当性が高いのではないかと思われます。 
ただし、そのように受け取るにしても、ここで告げられている内容が、絶対的に真実であると主張しているわけではありません。
前世療法をはじめとする筆者の活動を、こうした言葉によって権威づけようとする意図も全くありません。
あくまで何らかの霊的存在者の一意見として、どこまでも冷静に受け止めるべきだと考えています。
こうした言葉で自己を権威づけたり絶対化することはあってはならないことで、徹底して厳しく自戒すべきだと思っています。
特に「神の計画」「神との約束」「善と悪」といった事柄を、軽々に云々することは、極めて大きな問題をはらむものです。
こうした表現の取り扱いについては、十分過ぎるほど慎重であるべきだと考えています。
(つづく)

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