2011年10月27日木曜日

「守護霊」の語り内容の検証その3

(その2からのつづき)
④ 名主クロカワキチエモンと妻ハツの実在検証について
この件については、渋川市教育委員会小林良光氏に、天明三年当時の渋川村および隣の川島村の名主の調査を依頼しました。
小林氏はこの件の調査を『渋川市史』の編集にあたられた渋川市文化財調査委員大島史郎氏に依頼し、該当資料の検索をしていただきました。
筆者のように、渋川市外の人間が『渋川市史』にも掲載されていない天明三年当時の渋川村名主の名前を検索するには、渋川市教育委員会経由で大島史郎氏に依頼するルート以外には考えにくいでしょう。
ちなみに、筆者の他に同様の検索依頼をした人間はいないということでした。
大島史郎氏の検索資料「渋川村川原町ほか在郷助郷断り付訴状」によれば、渋川村名主は一場安兵衛・堀口吉右衛門・後藤太兵衛・吉田喜兵衛の4名、川島村名主は飯塚清左衛門・萩原兵右衛門の4名でした。
クロカワキチエモンの名前はありませんでした。
ただし、キチエモンは「堀口吉右衛門(ほりぐちきちえもん)」が存在し、姓は異なるがキチエモンは存在しています。
なお、キチエモンの姓を、タエは「クロダ」、偉大な存在者は「クロカワ」と言っており、食い違いがあります。
この点については、郷土史家入内島一崇氏の調査により次のように回答がありました。
「上毛新聞社の昭和54年発行『上州の苗字と家紋』には、群馬県における旧家の出自と伝承を網羅してあり、名主クラス、小規模地主クラスの庶民階級に至るまで収録されている。この中にクロカワ姓はなく、クロダ姓は万場町に一軒ある。クロダ家と渋川市とは直線にして60キロ以上離れているため、クロダキチエモンと血脈が通じていたかは不明である。また、現在渋川市周辺にはクロダ、クロカワ姓を名乗る旧家は一軒も存在しない」。
以上の調査から、クロカワキチエモン、またはクロダキチエモンの存在は確認できませんでした。
もし、堀口吉右衛門の妻がハツであることが確認できれば、クロダキチエモンと堀口吉右衛門とが同一人物である可能性を考えることができます。
しかし、人別帳が存在しないため、堀口吉右衛門の妻の名は確認できないとの回答でした。
偉大な存在者の「(クロカワキチエモンとハツの記録は)残っています」という言葉を信じるとすれば、両者の検証資料が人別帳以外に、寺の過去帳などに残っているのかもしれません。
しかし、差別戒名という同和問題に抵触するため、寺の過去帳の閲覧が許されることはないということでした。
残る検証手段は、タエの生きた渋川市上郷に存在する良珊寺敷地内の山腹にある墓を一つずつ確認し、200年程度を経た堀口吉右衛門の石塔を見つけ出し、それまたはその周辺で「妻ハツ」の墓碑名を発見することでした。
筆者は2006年夏、この現地調査おこないましたが、3時間近く費やしところで夕暮れになったため調査を断念しました。古いものと識別できる墓は戒名・俗名の判読が困難で、なんともなりませんでした。
その後、2010年春、雑誌『ムウ』が「タエの事例」を特集で取り上げるに当たって、記者2名が渋川市の現地調査に出向くというので、同様の墓碑銘調査を依頼しました。
結果は、筆者と同じく発見はなりませんでした。古い墓碑銘は風化や苔むして判読不能であったという報告でした。
(つづく)

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